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2012年5月30日

早朝の道路が車で溢れかえる。ふと思えば五・十日の月末。ユーロが100円を切っているというなんじゃもんじゃ経済状況の中、何を作れば良いのやら、何を売れば良いのやらと、リアル世界の人達は走り回る。バーチャル世界の方々には、まだまだ先があるわけだが、現物世界の人達には、もう、殆ど未来は無さそうに見える。そんな気持ちが自動車の群れから溢れ出ていて、恐ろしい朝の光景である。なんやかんやで既に5月末。

てんてこ舞いしている間に梅雨間近。寒気が去りつつ有り、漸く、シベリアに積もった雪も減ってきたのかなと感じる。それにしても降れば雷ゴロゴロ、降らなくても曇り空と、教科書で読んだ熱帯雨林気候をイメージしてしまう。勿論、熱帯雨林などは数時間間隔で大雨が振るらしいので、そんな状況とは全く異なるのだろうけれど、気候状況が大きく変化してきているのだろうなとは感じる。自転車通勤も気がきではない。昨夜も帰宅途中にパラパラと降られた。

原発が停止して結構な時間が経過したが、行き着くところは当面は原発発電力を総電力の15%に落とし込もうというところに落ち着くそうな。どうして原発有りきで話が進んでいくのかわからんが、どうもそんな所に落ち着くらしい。商売するには電気が必要ということなんだろうけれど、永遠に続くはずのない経済偏重から脱却できない日本人の愚かさに辟易する。

いろんなものが無くならないと信じられている。それはそうかもしれない。しかし、生み出されるものは何なのか?そろそろそちらに舵を切りたい。自然科学の謎解きだけではない学問があっても良いのではと思う、私であります。


2012年5月14日

景気が良くなってきたのかどうかわからないが、早朝の自転車通勤時での恐怖感が増してきた。跳ねられると痛いので車から逃げようとはするが、相対速度で時速50km以上の差がある化け物からはそう簡単には逃げられない。マージンリッチで走行していると、信号に引っかかること夥しく、交差点で凶器となった暴走自動車達を眺める状態である。赤信号で猛然と突き進む様子を見ていると、景気はきっと悪いんだろうなと、変な納得をする。

新日鉄さんが金ワイヤ線から銅ワイヤ線にボンディングラインを置き換えてから3年。既に地球80周分の売上があったそうな。金の使用量を99%削減したそうで、PC回収業者が悲鳴を上げそうだなとへんてこな事を考える。LSI中に酸化しやすい材料で、しかもSi中にどんどこ入っていく銅をバルク金属として取り込むなど考えられなかったが、パラジウムという反応性が高い材料で、これまた反応性が高い銅を抑えこむという技には、これからの日本の有り様が示されていて素晴らしい。

パラジウムという若干高価な金属を活用するという発想は素晴らしい。トータルで金よりも安くなり、さらに電気抵抗も下げるという技術特性を満たしている点は、LSIでの省エネという価値化に直結でき称賛に値する。たかが電線一本と言うなかれ。電子機器全てに活用される超技術である。金属を知り尽くした企業であるからこそ成し得た偉業だ。50年間、金線が当たり前と、疑われなかった所に活路がまだあるという気付きも凄い。今の世知辛い大学では有り得ないチャレンジャブルな試みを、社内で良くお許しが出たなと、その点にも感心する。懐が深いと言うしかなかろう。

この懐の深さが今後の日本の向かう道を決定付けそうな気がする。日本人、一人一人の信念、価値観が作られるものを決定する社会であればこそ、金銭本位の新社会に突入できる扉を開くと感じる。赤信号で猛然と突っ込むドライバー達には何を言っても無駄なので無視するが、「これから」の人達には期待する。前向きな社会。そうありたい。


2012年4月9日

タケノコを求めに山に出かけた。緑区の里山では「タケノコ搾るな!地主」との看板に出会うことが出来る。地主様が食べきれぬタケノコを後生大事にお育てになるから、里山は竹に浸食され死んでいく。流石、お偉い地主様の行動はそんじょそこいらの民とは違うなと、山上の神社に詣でてため息が出る。放置竹林は国難の一つと言って良かろう。

新幹線で岡山辺りを通過する時、山を観れば竹一色であることに気づく。なんとも哀れな景色である。竹だけを悪者にするつもりは無い。むしろ、竹に罪は無い。竹の特性を無視し、ほったらかししている地主様に罪があるに決まっている。それを悪代官が認めている現状がいかん。勿論、山の管理者としての地主様でしょうから、税金を支払い自分のもんだと威張り散らすことは仕方が無い。国土を荒廃させようとどうしようと知ったこっては無かろう。

竹は無尽蔵に増殖する。そうであればそこからエネルギーなり資源に資するものを取り出そうと、学者各位が努力していらっしゃる。しかし、金満主義の日本においては、儲けにならぬならほったらかしという無愛情主義が先に立ち、世のため人のためなどは偽善扱い。まぁ、そうかもしれぬが、時には偽善も必要であろう。竹林の放置は国悪である。

山で聞いたら、春先にイノシシが出始めた竹の子を食い荒らしてしまい、地元の民も食べられないとのこと。なんとなれば、竹の子を食べて育ったイノシシを狩りジビエ料理として地域興しをしては如何かと思ったが、高齢者殿達のみの集落ではそれもままならぬ。竹すらも繁茂出来ぬ時代が来るのか?我が国、どうなってしまうのか。複雑な心境の里山の風景であった。


2012年4月6日

入学式である。高等学校から大学というステップは、妙な暗記から抜け出し自己責任の権化となれる一里塚である。そんなものは心臓の鼓動のたびに訪れることをしってしまうと感慨もヘチマもないのだが、無意識かつ利他主義の露悪的に生き抜こうとしている現代若者思想的には、より一層の無意識の露悪主義に磨きを掛けられる一歩なのかもしれない。いや、そんなことすら考えないのかもしれない。まぁ、いずれにせよ、桜が満開の今日、入学式となることはめでたい。それは間違いない。

グローバル化という不可思議な単語がある。そもそも自己増殖能力の高さ故にアフリカから広がった人類である。最初からグローバルであるのだ。むしろ現代のほうが、江戸時代よりも鎖国しているように思える。ロボットを支配者と仰ぎ、自ら思考することをやめてしまっている。常に言っていることだが、電気が無き世に自らが生きているとしたら、何を成しているのかを真剣に考えることだ。考え抜いて答えが出たら、そこに電気が加わったらと考えてみるが良い。圧倒的に図抜けた社会的ツールができあがっているかもしれない。

こうありたい、こうしたいと願わない瞬間は小生には無い。勿論、眠っている間は無意識に夢を見ているわけだが、支配機構である脳が起きている間には、常に何かをしたいと思考している。まったくもってお目出度い話だ。何も考えずに、ぼう、と出来ればそれ程に幸せなことは無かろう。しかし、それが出来ないのだから仕方が無い。何かを考えるわけだ。

5年後、10年後の未来を持てる諸君はうらやましい。小生などは既に崩壊しており、10年前の出来事も覚束ないが、少しだけだが遠い未来を生きていることが約束されていることは大変にうらやましい。小生も諸先輩方に同様の思いをさせて今生きている。若者への未来作りを繰り返すと言うことなのだろうが、受け取ろうとしない人達にまで引き継ぐ必要があるのかどうか。桜は美しい。しかし、それは愛でる心が美しく感じるだけであって、そう思わない連中にはただのゴミである。桜がゴミ扱いされる世の中は悲しい。入学式会場に集う若者は如何に?


2012年3月30日

桜が咲きましたな。桜が咲いたら仕事をしない、桜が咲いている間に大きな仕事をすると大変な不幸な事が起きるという小生の歴史に挑戦するかのごとく、ずんどこお仕事が降臨してくる。東海・東南海連動地震で、やってくる津波高さの推定が6.5mという穏やかな値はどこから出てくるのだろうかと、恐怖に対する心構えの無さに呆れ返る。40m高さの津波が来たら名古屋港の堤防を1.5m嵩増ししたとてなんの役にも立つまいて。そもそも生命は地震も含めた自然の中に生かされていることを謙虚に受け止めなければならない。桜が咲いて感動する心を忘れてはならない。これとて、極寒の冬を耐えぬいて強く春に胸を張る桜に感動する仕組みが人間に組み込まれているからだ。

本日は地下鉄桜山駅から、毎年恒例の桜木見物。一部にも満たない開花状態ではあるが、これが良い。これが実に楽しいのだ。研究でもなんでもそうだが、待ちに待った、それが嬉しいのだ。自然災害でこの喜びを感じられなかった人達の分まで、日本人である喜びを感じねばならぬ。感傷は何も産まない。自らが強く生きる。それだけのことだ。感傷などおこがましい。痛みは当人以外、誰も解らない。自然の下、災害は誰にも平等である。冷たいようだが災害に襲われることに感傷は抱かない。前向きに立ち上がる全てのものにエールを送る。櫻花の開花も同様である。

がれき処理をみんなでやろうとということで若干の盛り上がりがある。人的放射能汚染甚だしい物質を日本中に撒き散らすのは如何なものか。線量が限界以下?誰もそんなことは言えない。人工汚染を撒き散らすことには大反対だ。原発地域は極めて多大な税金や、無意識の上乗せ電気料金徴収の恩恵を受けているわけだ。人工汚染が疑われる瓦礫は、原発敷地内にとどめおく。これが真っ当な在り方だろう。敷地内に処理機械を敷設しても宜しい。兎に角、拡散させてはいかん。感傷は必要ない。

消費税が上がるようだ。政治家の数は変わらず、税金の無駄遣いも変わらず、税金だけ上がる。これでは櫻花もつまらない。為政者が痛まない政治はあってはならない。冬があるから春が美しい。常夏にビールがあるような国会でどうするのか?そんな国政に呆れ返る。しかし、桜にはなんの罪もない。だから美しい。有難いことだ。


2012年3月26日

原子力発電所の稼働数が残るところ1機となっている。日本の産業を支えるのは電気なのだという幻想を国民に植え付け、電力企業の拡大をアシストしつつ、廃棄物を最大化させながら産業活性という目くらましを続けてきた。恐らくそれは日本だけではなく、大量生産・大量廃棄まっしぐらの物欲国家は同様の道を歩むのだろう。使いもしない産業構造物を大量に出し続けることによって、生産機械の稼働率を高め、結果、原子力発電所が無ければ国家は成り立たないのだと金の亡者諸氏を、あたかも国民の代表の声のごとくアピールしてきた。もう良いでしょうと言いたい。

常に言っていることだが、エレクトロニクスが誰をどんなふうに幸せにしてきたのか考えて欲しい。勿論、全否定などする偽善者ではないし、「ここは電気が便利だな、電気で有るべきだろう」というところは多々ある。しかし、山と積まれたアルミの空き缶などを見るにつけ、これは無くても良いだろうと感じることが多い。ペットボトルだってどれだけ廃棄されているのか。もしもアルミ缶とペットボトルがどれだけ減ったら原発は無くせるのか?真面目に考えてみたらどうだろう。自動車製造の1ラインを削ったら、それだけで原発1機を無くせるのでは?廃棄物となる自動車をムキになって作りなさるなと言いたい。もう良いだろう。そろそろ働き方を知恵と忍耐に戻したらどうか?

平日、くったくたのぼろぼろになる関係で、日曜日に活字に触れる機会が増えた。ちっとも喜ばしくはないが、頭をまっとうに使っている感じは心地よい。真面目に脱電気社会を考えられる。Googleの予測変換に恐怖する必要もなく、目の前の真実に立ち向かうことができるではないか。自分達の都合で狼を絶滅させ、鹿に作物を荒らされることに苛立つことも減るだろう。やたらと増え続ける人類と、そう簡単に増えない他の生命体とのバランスをとりながら、自らの持続性を保つことはできないだろうし、やってはいけないだろう。最終処分が見えないところに隠すだけの物体など作ってはいかん。当たり前の話だ。

無駄な仕組みを山ほどに残しながら消費税を上げていこうとする議論などあってはならん。その根幹には無駄な生産をし続けないと「金」というものを得られない仕掛けを守り続ける愚かな生命体とその社会がある。学問はそこからの転換をどうするか考えるためにある。その門をたたき門をくぐり、次の社会を新しい方々に作っていって頂きたい貨幣経済を作ったローマ帝国はとっくに滅びているではないか。もういいでしょう。いい加減にしましょうよ。文化も知恵も感じられない社会に夢も希望もない。何だかおかしいぞと思ったことをおかしいと言える社会に暮らしたいものだ。そう願う。


2012年3月22日

明日、卒業式である。年度がまもなく終了するなと実感できるのだが、小生的には31日までお役所での報告もあり、イベントもありで年度最終日まで気が抜けない。今年度もどれだけの数をしゃべったか数えるのが面倒だ。自分が今何処にいるのかすら判断できないような生活を送っているのだが、新年度はさらにそれが加速する。夏目漱石が木曜会を作って、面会日を定めたのも納得できる。こんな状態は極めておかしいと感じる。学者・文学者が精神的に追い立てられまくっていたら、世の中、決して良くならない。だから、小生は暇でなければならない。

今日、愛知県知の拠点にて「お披露目発表会」が開催される。県民への税金使途説明会みたいなものだが、えらく入場許可者数が少ない。会場が狭いから仕方が無いし、高度分析機器を一般民間人が眺めてもまったくもって無意味だ。いや、こんな言い方をしては失礼だが、ホコリや汗を嫌う高度機器類に一般民間人が近寄ってはならない。それこそ故障の根源で税金の無駄遣いに直結する。だからこそ成果は還元しなければならない。故に、無駄な人員スペースよりも成果報告に利用できる会議室を巨大化させるべきであったと思う。国際会議を開催できるような規模までにして欲しかったと思うのだが、近所にモリコロパークもあり、そこにでかいのがあるからそっちでやれということか。知の拠点の名称が泣くような気がしてならない。

今年度は出だしから不景気の嵐吹き荒れ、今も、猛烈な勢いで倒産と首吊が続く。真ん中以上のお会社様達には逃げる場所があるのだろうが、多くの三ちゃん会社や小規模企業は吸盤のないコバンザメだから、あっという間にスマイルカーブから脱落していく。いや、むしろ、振り払われる。東京電力に「電気の値上げは許さない!」と叫んでいるあんたらは「何かの都合で値上げします」と言ったことは無いのか?と問いたい。社員を食わせている団体という観点からは同列にあるのだ。勘違いしてはいけない。動力の地産地消の時代に戻るのだろう。鋳物作りなどの電気炉企業は、電気の安い国に移住しなさいという天の声だ。狭い日本で行い続ける時代は去ったと悟らねばならぬ。再び人類の移動が始まったということだ。

そろそろ気の早い桜が咲き出している。自転車で通うと良く分かる。どんなに寒いと思っていても自然は能弁である。その能弁さを満喫できる文化を持った人づくりが求められているということだ。自然の声を感じられない者は狭い国土にはいらないということだ。東電とそれに群がる政治家や企業を見ているとそう思う。時は平等に流れるのだ。今から先をどうするかの基軸が過去にあるだけで、過去にしがみつくだけの者は、国土の外で嘆くがよろしい。ちょっと早いが卒業生に送る辞とする。以上。


2012年2月27日

民間向け製品の内、国内開発・製造製品は徹底的に人間を自然環境に適合させるためのツールとなっていくだろうと考える。ユニクロの温ったか下着などはその走りであろうと思う。女性のシルエットを際立たせるツールではあるものの、暖房エネルギー低減には明らかに効果がある。家庭内への引き込み電線を断ち切ったとして、どうやって現在の堕落した生活を維持できるか(する必要は無いのだが)、そこに家庭向け新規開発のターゲットがあるように思う。江戸時代以前を教科書に、現代にも通用するものとして選定し、ここ数年来、欲していた薬研を漸く入手したのでご報告。

時代劇にしばしば登場する薬研。ミキサーやミルと違ってひたすら手動。面倒だが熱が出にくい点が大変に宜しい。早速、唐辛子やお茶を粉にしてみたが、手動のミルで低速で粉末にしたものよりも遙かに薫り高く、食材そのもののが粉になっている感じがする。面倒なのは事実で、使用前後の手入れはしっかりしておかないと、何しろ古来の鋳物である。真っ赤に錆びてしまうだろう。鋳物故に重い。そんな点も現代製品とは真逆の代物である。真逆の代物であるが故に、真実がそこにある気がする。現代社会で普通にあるものに疑いの眼差しを向けると、そこに本来あるべき生き物の姿が見える気がする。

ミキサーが無くなったとして、何を取り戻したのだろうと考える。最も重要なのは熱や力学的に破壊されていた食物の栄養素や組織を、体に取り込める形として取り戻したと言えよう。今の生活体系では土日にしか動かす機会は無さそうだが、それでも随分と気分は違う。そして、食べ物を自分で作り出しているという生命維持の根源動作を取り戻したと感じたい。実際に使って驚いたのだが、粉末になっていく時間がえらく短い。大量に粉末化しようと思ったらそれは大変だろうが、機能美の極致がそこにあるのだろうと感じる。これ以上、進化しようが無い形態なのだろうと感じる。

今回入手した代物だが、骨董品では無い。かと言って、現代製品でも無い。新古品で入手した薬研についてきたリーフレットには昭和50年製の文字が。当時にも健康ブームなるものがあったらしく、その流れで、自分で粉にして薬効成分を摂取して、自分の病気は自分で治そうというお医者さんチームが辿り着いたのが薬研だったらしい。電子材料を様々いじっていると、ほんの少しの温度上昇が、思わぬ不具合をもたらすことに出くわす。そうであればミキサーや臼型のミルなどは食味を破壊する、単なる現代人にとって都合の良い代物である。それではどうやってエレクトロニクスを活用して同様の状態を作り出せるのか?こんなところに製品開発のベクトルがあと捉えたいと考える私であります。


2012年1月18日

秋田に出掛けてきました。凍りついた路地を通ってコンビニに行ったら、行方不明者認定されてしまうという珍事が発生した。更にタクシーに乗って県○○へと伝えると「知らない」ときたもんだ。秋田在住の方だったのだが、余程市民に伝わっていない県の施設なのだなと苦笑いである。飛行機に乗りさえすればひとっ飛びだが、凍った飛行場に着陸するときは、少々緊張した。

大曲というところに行く途中、マーケットのイオン大曲店を車上から見た。平日の昼間に駐車場は満車。「こんな時間にこんなところに人が沢山いるのですね」とM社長(S社長では無い)にお話させて頂くと「仕事をしたくても仕事が無い」と一言。一日、イオンで時間を潰して、何処も彼処も真っ白で同じ景色では自殺もしたくなるだろう。自殺数日本一は伊達ではない。

しかしだ、今、東京、大阪、名古屋等の大都市では、ロボットで人間を代替できる企業のもの作り屋さん達がアジア諸国に移住し続けている。大都市においては勤勉で知恵を産みモノづくりをする人達が居なくなっている。今こそ地方都市は踏ん張りどころで、ロボットでは出来ない、丁寧なモノづくりをする努力を深めるべきだ。今あるもので良いから、徹底的に丁寧に作り上げそれなりの金額で受け入れられる努力を続けるべきだ。労働者よりも年金暮らし者のほうが収入が多い現状を丁寧に見直し、若者がモノづくりをする意欲を掻き立てる努力をしなければならない。

大曲の造り酒屋殿で、巨大なタンクで醗酵する生きたお酒を拝見した。感動的な音と香りである。杜氏殿が「良いものを徹底的に良くし続けたい。だから大量生産はしない」と仰った。我が意を得たり。秋田に拍手である。


2012年1月11日

風邪がちっとも治らない。微熱が続き、ぼぉっとしつつ、更に、そこいら中の関節が痛い。俗にインフルエンザっぽい症状ではあるが、高熱が出るわけではなく、ぶったおれる訳でもなく、休みを頂ける身でもなく、まぁ、仕方がないですな。やたらめったらと出張が入ってきて、いよいよ毎年恒例死のロードが開始されたというところでしょう。ユンケルのご厄介になりながら、気合で過ごしていくわけです。

成人式という祝日に出会うたびに思うのが「成人とは?」という精神的な定義。国家国民のために励む意志が生じたら、それが成人なのだろうと思う。親とか自分とか言っている間は、100歳を過ぎても成人ではなかろう。GDPにどれだけ貢献しようともそんなものはどうでもよろしい。成人とはそんなものなんだろうと思う。マスコミなどを見ていると、小生の考えが社会的には全く間違っているらしく、まぁ、苦笑いの祝日なんですな。

驚異の世界という番組が40年くらい前にあって、その時、初めてバンジージャンプを見ましたな。木組みの櫓から木の蔓を足に結びつけ、頭部が砂にめり込むくらいに調整された「成人」候補者達が祈りと誓いを叫び地面に飛び込んでいく姿に恐怖した。成人とはこれ程に重いものかと、自分は成人などにはなりたくないと本気で思った。オーストラリアでバンジージャンプの綱が途中で切れてワニの居る川に落ちたと報道されていたが、数人に一人は確実に死ぬという砂地のバンジージャンプに比べればやはり遊びに過ぎない。研究も同じ事だろう。

今週末は毎年恒例のセンター試験である。不可思議なことではあるが、成人式的な行事っぽいなと感じることがある。教わるだけの世界から学ぶ世界への転換。大学に入っても教わるだけの気持ちでいるならば、それは高校生と同等であり、社会的合成ゼロである。この「ゼロである」と言えなくなっているような気がしてならないが、それは小生が社会情勢と乖離しきっているからかもしれぬ。「ぼうっ」っとして頭が働かぬ。働かぬが譲れない精神の柱がある。そんなところだ。


2012年1月4日

年が変わる前に凄まじいストレスが襲ってきて、悲惨な初夢に苛まれ、お神酒も美味しくなく、憂鬱な正月を過ごしておりました。年々正月があっけなく過ぎ去っていくようになってきましたな。正月が正月らしく感じられていた頃が懐かしい。大きな読書をすることなく、時が経ってしまいました。

それでも正月らしいイベントとして箱根駅伝競争を眺めておりましたな。父親の仕事の関係で蒲田というところに住んでいたことがあり、その当時は国道15号線沿いで旗を振って応援しておりました。ガマの油売り大学も出場したこともあり、同級生が快走してくれていた時は、応援に熱が入りました。プチナショナリズムとでも申しましょうか。母校のタスキが目の前を過ぎていくだけで胸が熱くなりました。

復路のゴール近傍において、真ん中大学の選手が意識朦朧、身体コントロール不可の状態においても、なお、秒を縮め前に進もうとする姿に、実に、感動致しました。これだ、これこそが繋がりの強さ、鍛錬の素晴らしさと、日本人の美しさの原点を見せて頂いた気がして、目頭が熱くなりました。日々、求めていた姿を見せて頂いて、勇気を与えて頂きました。コース記録が破られるのは、栄養学的なトレーニングによる身体改善の結果だったり、ウエアの進化だったりがあるわけだから、当たり前であって、それ程、感激しません。しかし、ストレスの極限状態において出現する自らのみによって自らを活かす姿には、素直に頭が下がります。

個人の素晴らしさと絆の美しさ。駅伝競争に見られる限界の超越は、魂の連鎖や人と人との関わり合いによって成し遂げられるという陳腐な想いではなく、自らにタスキがある、この瞬間瞬間を猛烈に強烈に爆発させて、更に、次の瞬間に新たな爆発を産んでいく、そんな一人タスキリレーが出来る個人を人同士の連関が生み出しているとするならば、社会の在り方、学問の府の在り方も何か見えてくるのかなと感じた次第。そんな教育の場に関わっていきたいものだと思った私であります。


2011年12月08日

昨日、中小企業ものづくり展で店番をさせて頂いていました。例によって場所は高飛車で後出しじゃんけんのウインクあいちの展示場。そこにずらずらっとブースを並べて資金調達希望や販売促進希望などの看板を掲げてプレゼンをするわけです。来場者はお寒く少なくて、先週のSiC会議での人口爆発が嘘のよう。あの会場でやればなんでもあたるというわけではなさそうですな。「仕事が無いんですけど、この刃物を使ったら仕事はありますか?」なんて貧乏神みたいな方までやってくる。「受け身の方には仕事は無いです」としか言いようがない。

多くの方とお話をさせて頂いたわけですが、タイと中国の南部のお話が印象的で、実際的でした。マスコミなどの作られたネタとは全く違って、「あそこが飛んだ」とか「次はどこだ」とか、お寒いお話のオンパレード。ただ、そればかりという訳ではなくて前向きなお話もあるにはあったので、めでたい部分もあるわけです。ただ、それは突き抜けた要素技術を持ったところ同士が連携して初めて達成できるわけで、トヨタ連合の下請け孫請け曾孫請けで、言われたままの受け身専門の方々に何かがあるわけでは決してない。

とは言うものの、中小企業のものづくりのすそ野の広さを感じる事ができたのは事実であって、日本を支えていらっしゃるなと実感できたことは一番明るいネタかもしれません。ただ、加工精度を一桁上げたら何がどうなりますか?と訪ねてお答えを頂けたところは皆無でしたな。このあたりがものづくり日本復権のキーなのかなとも思った次第。

「タイぐらいだね」と日本企業がタイに出かけて行って仕事があるんですかという問いかけにお答え頂いたお返事がこれ。成る程、だからタイかと。それも中国の機械バブルがはじけ始めていて極めて不安定な状態にあるとのこと。そのビッグバンは遠からずやってきて、その時、その場に出かけた日本企業の皆様には行き場所無く、いよいよ本格的転換がやってくるかなと感じている私であります。


2011年12月06日

大変に大勢の方にお出で頂き感謝申し上げます。事務方を大いにサポート頂きましたフジミ社の皆様には心より感謝申し上げます。有り難うございました。

それにしてもこれ程までに加熱している半導体分野の会議は珍しいかもしれません。シリコンなどは完全に超技術の世界に入ってしまって、ミクロな欠陥の研究や低エネルギーイオン注入などの分野においては学究的研究は成されているものの、研究発表などは数件~十数件がとこでありまして、百件以上も論文が集まる国内会議はそうそう無いと思います。それが皆、大変にレベルの高いものになっていまして、凄いことだなと感じるのであります。地下鉄での実証実験も来年度は実施されるそうで、地上の電車にも数年以内には搭載されるかなと、楽しみですな。

基礎研究からリアルな実装の部分まで、一同に集まって研究会を開催できることは、基礎研究の価値化という点で日本のあるべき姿を具現しているようで大変に頼もしく、感動することしきり。さらに真面目に研究を掘り下げようと思うのであります。

この一年、この研究会に相当に時間を吸い取られていたわけで、終わって少しほっとしたというのが本音です。参加人数が700名を越えるようになっては、参加登録の仕方なども変えていかないと、台所具合も火の車と成りかねません。いろいろときついこともありましたが、大勢の皆様に助けられなんとか開催できましたこと、改めまして皆様に御礼申し上げます。有り難うございました。



2011年11月30日

もみじにばかり気を取られていたが、桜も真っ赤に紅葉してほぼ散りきっていたのですね。僅かに残った赤い葉がかえってはっきりと冬空に映えて美しい。水路際故に水路が赤く染まるのも良い。掃除云々などは下世話で艶っぽくない。落ち葉くらい川の栄養くらいに考えないと、海も豊かにならない。もっとも、都会の川では有用なものよりも公害のほうが強くなりそうだが。いずれにせよ、冬の朝はそこそこに楽しい。

今朝は地下鉄を一本遅らせてみた。5分の事なのだが、私立中学に通う児童達が沢山乗っていたりで、景色が随分と変わる。中学生から電車通学とは自分の価値観とは大きく違うが、彼らにはこちらがどのように映っているのか微妙に気になる。小汚い格好でキーボードを叩いているおたくのおやじが教壇の民と判ったらがっかりするか?まぁ、精一杯勉強しておくんなさいと願うのみだ。願うことは受験術ではなく哲学を身につけて欲しい。自らの拠り所となる人生哲学。これ無くして学問など身に付かない。

力持ちのポールという絵本を忘れない。小学校に上がる前に何度も何度も読み、そして今も忘れない。斧一本で街を救ったポールがチェーンソーに負けて去っていくというお話なのだが、実に意味深で、自分の人生に大きな影響を与えたと感じている。一生忘れない物語を小学校に上がる前に体験するべきだ。強烈で猛烈な善は、心に杭の如く突き刺さり折れない。それが哲学なのだと思う。

ぴりっとした寒さがまだやってこない。少し暖かい格好をしてしまうと汗ばんでしまう。有り難いとは思うが風邪を引きそうだ。どうぞ皆様、ご自愛の程を。


2011年12月5日

御器所駅から鶴舞大学までの間に路地がいくつもあって、その中で紅葉のトンネルとなっているところがお気に入りである。この路地は大変に心豊かであって、春は枝垂れの桃、ソメイヨシノ、秋は紅葉と大変に楽しませて頂ける。落ち葉を竹箒で避けているおばあさまも素敵でして、時々、朝の挨拶をさせて頂いている。無理に近代化などする必要もなく、心が通い合う文化を保つだけで宜しい。世界に売れる程の文化レベルに到達することが、これからの先進国の在り方ではないのか?

とは言うものの、多くの人が食べていくという命題がある。創立80年の小生も無縁ではない立派な会社が先日倒産してしまった。良いものであっても伝統的なものであっても、どんどん消えて行くのが世の中である。大学とても同様で、20歳人口が急激に減少する10年後にはいらなくなった大学が急増しよう。駅前の大学にしか行かないような学生君達には来て頂く必要は無く、予備校と親の顔色しか見ないガキンチョはさっさと消滅すれば宜しい・・と、大声で言えるような環境にないと、世界の中で日本人って居たっけ?と言われるようになるだろう。

話を紅葉に戻すが、都会の紅葉の悲哀かもしれないが、完全に真っ赤っかになる前に落葉が進んでしまっている。御器所駅周辺の銀杏も黄緑色の落ち葉が目立つ。例によって炭酸ガス排出うんぬんが新聞に出ていたが、最近、本当に連続的に地球が暑くなり続けるのかなぁと疑問に感じてきた。太陽活動が10年くらい前から活発になっていて、ここ数年、爆発的に活動していて電磁波放出も凄まじく、小生は昨今の活発な地震活動とも関係があるように感じている。

今週は恐怖のSiC会議である。凄まじい赤字覚悟で片道分の燃料のバンザイ突撃ではあるが、大勢の方々に日本を盛り上げて頂けるような元気のある会にさせて頂くべく、研究室一同、気合を入れて準備をさせて頂いています。是非とも大勢の方々に「懇親会」にもお越しいただきたく、よろしくお願いいたします。


2011年12月2日

師走最初の週末。世界情勢が揺れ動きまくって、来年のことなど鬼が臍で茶を沸かしてしまいそうな勢いですな。気分替えに居室の模様替えを試みようとはしてはいるのだが、低空飛行を極めた行動日程で、何をどうすることも出来ない。CDケースをぺちゃんこに出来るMEDIA PASSを購入して、ストックヤードを空っぽにしてみたものの、そこからはみ出した小物達が机上に散乱して、更にその上に、SiC研究会の名札やらなにやらが積層してきてあきらめムード。今は来週のSiC会議に全力を尽くすのみで、軍団として戦っている最中でございます。どうぞ皆様、ご協力をお願いいたしますm(_ _)m。

尊敬するK様からもご心配を頂戴し、恐縮することしきり。明日に何が起こるのか誰も何も解らない。解らないから一所懸命に今に尽くすわけです。いろいろなことで走り回っていると、無限に新しいことにぶつかるわけで、ひっくり返っているわけにはいかないなぁと、人が創りだしたエントロピーの凄まじさを改めて感じる街並みを実感できるようになりました。まだまだ修行が足りないなと思うことしきり。

11月の末にも再び大垣の科学館にお呼び頂いたのですが、ケーブルテレビは来るはミニコミ誌は来るは、なんだか名古屋の人というより大垣の人となりつつあるなぁと。大垣ってなんだかおいしいお菓子のお店がございますね。水が良いと良いことが多いなと、やはり研究の一端を水と空気に置いておくことは正しそうだと、まんじゅうを頂きながら思った次第。ただ、大戦時の瓦礫をお堀に埋めまくっているので、場所によっては水を取れない感じがありますな。戦争などは決してやってはいけないと、やはりまんじゅうを頂きながら思うのであります。

先日、地球温暖化は炭酸ガスかそれとも地球の定期的変動かどちらなのでしょうと、真面目な議論を致しました。数千年後にならないと決着は付かない議論ですが、一つ言えることは、街の街路樹のイチョウの葉っぱに未だに緑が混じっているということ。京都の紅葉も一週間遅れているらしく、まぁ、こちらはとてもでは無いが見に行っている時間が無いので遅れようが進もうがどっちでも良いのですが、桜が3月の頭に咲くようになっては嫌ですな。何億年かかって地中に化石化した燃料を数百年で燃やしまくっているのだから、そりゃぁ地球の環境は劇的に変化するでしょうよと、人間が怠惰さを追求してきた結果が人間を滅ぼしても、それは仕方のないことでしょう。宇宙の流れの中では記録にも残らない一瞬の出来事だ。この一瞬だからこそ気合を入れる大切さがあるのかなと感じる私であります。


2011年10月24日

昨日、縁あって大垣科学館の理科教室にお呼び頂いた。単に作って遊んでお仕舞いという、託児所的理科教室からの脱却を図り、明治から大正期まで学都としての誇り高き大垣を取り戻したいとの呼び掛けにお応えしたものだ。何が出来るかと考える前に、まず一歩からというお気持ちに強くうたれた。小生のほうがなかなか時間を取れずヤキモキさせてしまったが、まぁ、それはそれ。お陰で大垣に教え子が出来た次第。大変に嬉しい出来事でございます。

岐阜を過ぎると新快速は各駅停車になってしまうのですね。いきなりのんびりになったものだから、間に合うのかなと若干焦ったが、何のことはない。岐阜と大垣はそれ程離れてはいない。山並みを眺めていたら到着してしまった。昨日はべらぼうに暑く、上着など着ていられない状況。駅から10分程でのんびり歩いて辿りつける距離で、大変に分り易い。分り易いのはその一角までであって、スイトピアセンターは複合センターであって、目指すこどもサイエンスプラザは初見ではなかなかに分かり難い。案内を頂いてしまったが、分かっていないと難しそうである。

大垣は戦禍にあい、灰燼と帰したが、それらの瓦礫を水路やお城のお堀に投げ込んで埋め立ててしまったそうで、それがなければ美しい水都であったろうにと、大変に残念なことである。戦争の愚かさをこんな所にも感じるものである。大垣には水まんじゅうを食べに何度も出掛けているので良く知った街並みではあるのだが、今回、JRの駅から北側を見たら、えらく再開発が進んでいることに驚かされた。お城側は変わり様も無く密集しているが、繊維関連工場があったように記憶しているのだが、跡地利用として開発したものであろう。どっちかというと、そちらに住宅団地を築いて、お城の周辺を旧態に戻して水都復活を目指したほうが良かったのではと、まぁ、月並みな再開発でじきに廃れるなと、苦笑いしてしまった。

同様の巨大施設が稲沢駅近くにも見受けられた。稲沢全市民を収容でもするのかと、呆れ返るほどのサイズだが、よくもまぁ、あんなでかいものを作ってしまうものだと、空調の電気料金だって大変そうだなと呆れ返った。今まで豊橋方面にお仕事関係で出掛けていたが、これからは教育関係で大垣方面に出掛けることが多くなりそうだ。折角だからぶらぶらと散策して、もうちょっと大垣の街を好きになる努力をしてみようかなと思った私であります。


2011年10月17日

木曽路はみんな山の中。江戸時代は本当にそんな光景であったのだろう。そんな中を今もあるける日本の長閑さである。延々と続くかと思われる山路であるが、いつか目的地に辿り着くのだから面白い。江戸の人達の気分を少しだけ味わうことが出来るのは愉快である。築250年の建物での謎の親父さんのもてなしに暖かさを感じ、温泉に入る有難さ。なんとも贅沢な旅である。

基本は歩行である。確かに自動車は便利なツールであって、こいつのない社会は考えられない様になってしまったが、歩いて行ける時間と体力がある限りは、積極的に歩き続けようと思う。公共交通機関だって、数は少なく不便だが無いよりましで、歩行と組み合わせていけば、かなりの範囲を旅することが出来る。これからもそんな普通の旅を続けようと思う。

今朝、地下鉄の駅に向かう途中、神風自転車に立て続けに追い抜かれた。歩道を歩いていても決して安全ではない。木曽路では「野生動物が東北から移動してきて、熊や猿が大変に増えた」と好々爺殿に教えられた。そんな危険は人間が熊の領域内に入るのだから仕方が無いが、歩道で自転車にふっとばされてはかなわない。新聞などで批判を受けている状況とはこれかと、歩いている自分のスピードに満足した。これで良いのだと。

歩くといろいろ見えてくる。自動車で移動していた時には全く見えなかった街並みに出会える。実に素晴らしいことである。まだまだ見ていない日本文化が沢山。もっともっと脚を使わねばと実感した私であります。


2011年10月13日

判を押したような受け答えしか出来ない入社希望者を前にしてうんざりであると、某巨大企業の方からお話を伺った。大略、この後には「自分達の頃には」と懐古的会話がスタートする。バブルの前であれば工学系でしっかりと勉強さえしていれば、多少の面接時の失敗は甘く採点していただいた。それ故に面接対応練習なんてしたことは無かったし、数十社を巡り巡ってなども無かった。大略、1社、2社のことであって、小生も4年生の時は1社のみのエントリーであった。その分、卒業研究に打ち込めたし、打ち込んだら会社に行かなくなっちゃたのだけれども、まぁ、それはそれ。

勉強する気も無し、研究する気も無し、だけど就職だけはしたいでは、どんな企業も「いらん」とお答えになるでしょう。そりゃぁそうだろう。働く気も無い輩をボランティアで置いておく余裕のある企業など何処にも無い。今、自分自身は何をするべきか、何が出来るのかを真剣に考えて、それに思い切り打ち込むことだ。本気のやる気は十分に伝わるものだ。伝わった相手が、自分自身が打ち込んだ「何が出来るか」とマッチすると目出度く次のステップとなる。生きている限り必ず誰かのお役に立てる。会社はその窓口である。どの窓口に入ることが出来るかは本人の努力次第ということだ。

努力していると、その香りと言うかオーラと言うか、漂う空気を経験者は掴みとるから、定形の会話など必要なくなる。定形の会話を使っているのは、就職予備校が仕組んだものであって、大学受験の頃の「枠組み暗記による安心」が染み付いた学生さん達を見事なまでに洗脳している連中の仕業だ。企業としても面接で聞かされる同じ返事に辟易していらっしゃるだろう。辟易させたら「いらん」と言われる。決まっている。

工学系の就職率が6割未満で推移する今年、既に来季の就職活動がスタートしている。もうむっちゃくちゃ。大学生の皆さん、兎にも角にも必死に勉強して研究しようよ。それだけで十分だ。


2011年10月12日

病院の待合室でキーボードを叩くのは如何なものかと思うのだが、他にやることが無いのだから仕方が無い。病院と言うところは言い訳が沢山あって便利な商売とも感じる。10時に予約だよと言われて、それに合わせていくと13時にを過ぎてもへっちゃらなのである。一般感覚の企業であれば、10日が締め切りと言われて11日に持ち込んだら損害賠償ものである。契約書などは無いとは言え、頭にくることこの上ない。精神的に病になりそうだ。

それにしても繁盛している。今日、客が途切れない商売は医者くらいのものだろう。何しろ人は必ず死ぬようにで来ているし、その前には大略調子が悪くなるように出来ている。悪くなったら諦めるということになれば医者はあっという間に廃業だが、ところがどっこい、人の往生際の悪さが医者を増長させる。こんなに都合の良い商売は他には無い。

とは、言うものの、商売として成立しているのだから否定は出来ない。学費に見合った教育が出来ない教育機関だって詐欺師の集団であり、それに加担している身としては、あまり大きなことは言えない。情けないことである。医者に対しては痛みをとってくれと願う気持ちがあるが、大学には学ぶ気がさらさら無い人種と、趣味だけやっていたい授業料搾取者が群れているのだから始末が悪い。これはやはり医者に軍配が上がりそうだ。

こんな戯言を書いていても、呼ばれる雰囲気は全く無い。職場の居室に居て電話がじゃんじゃか鳴り続ける状況から開放されている点だけは幸せだが、病原菌がウジャウジャ漂って居そうな環境にとどまって居るのは気持ちの良いものでは決して無い。病院を必要とするような不摂生がいけないのだが、外国だろうが時間厳守に行動する癖が染み付いている人種にとっては、この不可思議環境に頭を下げる気にはまったくなれない。健康であるべきだなと改めて実感している。


2011年10月4日

電気無駄遣いの為の祭典CEATECが開催されたそうな。省エネデバイス云々も出展されているそうだが、世の中どうも原発有りき、巨大電力が生み出されなければ職もなく企業は利益を産めないことになっている。以前にも語ったが、売上が9%以上も落ち込んだ薄型TVを例に出すまでもなく、機械が人を幸せの幻影に取り込んだのは遠い昔。今、エレクトロニクス機器で「身近」にあったほうが嬉しいなと思うのは情報端末くらいだ。何処に何があるのか、明日の天気はどうなのか、その程度は手元で知りたい。冷蔵庫などはコンビニや24時かん営業のマーケットにあれば良く、風呂もガスで十分だ。銭湯が近くにあればそれを利用したほうがよっぽどあんき。

糺の森に鴨長明が到達した究極の移動家屋が復元されているが、それを拝見すると、今、一体何をやっているのかなと感じてしまう。医療技術の発達で、IPS細胞なるものまで出てきて、人間が神を超えそうな勢いだが、自然界はそれを恐らくは許さない。何となくエントロピーを減少化させる行為に思えてならない。乱雑さは増加していったほうが自然だし、自然の中で葛藤していくのが知恵の原点とすれば、葛藤が不要になった人類の行く末は考えると恐ろしい。電気活用はその一つと思える。

昭和の後期には既に相当の便利な道具、人が動かなくて良い道具で溢れていた。今は更に、活字も読まない、書かない、人と話さないところまで環境が変化してきている。計算器と情報網の発達がキーだが、地球上を人が動かなくなり、情報だけが移動、変化し続ける。情報の世界には四季も感情も無く、ひたすら淡々と時を刻む。貨幣価値は額の汗の量とは全く関係なく増減を繰り返し、資産が増えた減ったと、これまた見えないもので四苦八苦する様には失笑を禁じ得ない。

省エネ家電を買おうとか、炭酸ガスの排出を減らそうとか言っている割には、多量の電力がないと幸せにならないと叫び続ける産業界や官僚の無能無策ぶりに国民は踊らされ、知恵が生活文化の向上をもたらすことから乖離し続ける我が国の将来は真っ暗だ。一体、いつまでバブル前の残像を追い求めるのか。不思議でならない。


2011年10月3日

10月に入り突然、道路が混雑している。先月末はトヨタ自動車が四連休だそうで、その静かで人間的な世界が頭に残っているので特に混雑を感じたのかもしれないが、実際に多かったように思う。自転車通学は危険が全面に押し出され、エコツールが自動車に駆逐されるような我が国の文化レベルの低さを悲しく思う。勿論、自転車移動者の交通モラルは最低の状態であることは間違いない。小生も人のことは言えないが、サイクル小僧で日本中を旅していた時代と変わり、ファッションの方向に行ってしまって、交通ルールなどどこ吹く風。ヨーロッパの街並みの自転車共存社会の美しさが羨ましい。

高校生だとは思うが、駅のデポジット場に向かって行く途上の並列状態は、完全な暴力集団であり、これじゃぁ新聞で訴えられるのは当然と感じる。前カゴに野菜満載のママチャリおばさまのほうがずっとましだ。ガキンチョのモラルの低下は親の責任であって、教育の義務を放棄している親どももマスコミは追求するべきだろう。矛先が間違っているとはこのことだ。自転車は自分の能力以上のスピードが出てしまい、制御限界を越えるのだと思う。所詮は人間はせいぜい100mを12,3秒で走る生命体であり、それ以上の速度になると咄嗟の対応が出来ないのだと思う。その意味では自動車も狂気であることは間違いない。

その狂気を作って食っている人達の為の工作機器関連展示会でブース係のお勤めをさせて頂いた。刃物ブースなのでいろんな人が見える。前向きに新しい提案をしくる方は皆無で、何とかコストを下げて東南アジアで食っていきたいという状況である。更には「私は何を作ったら良いと思いますか」などと真っ青な真顔で訪ねてくる人もいて、限界線を突破した国家の縮図であった。M精機などは自社製品を出さない展示で、最早日本は相手にしないよ、中国に来てねという強烈なアピールをしていた。某J社などはナノに加工できないナノマシンは恥ずかしくて撤去していて、まぁ、そうだろうなと思った次第。

それにしても元気のない現場である。質問者の基礎的知識のあまりの無さに悲しくなるのだ。一体、日本のものづくりは今後どうなってしまうのか。何故、皆、西を目指すのか。小生は東を目指す。はい、さようならである。


2011年9月28日

自転車で通うのに心地良い季節にいつの間にかなっている。暑さ寒さも彼岸までとは良く言ったもので、大略、この時期になると気候が転換する。地球はきちんと歳差運動をしているのだなと実感する。出立の時刻を後ろに1時間程度シフトしているので、出掛ける頃は十分に明るい。節電騒動も一段落で、世の中のエアコン頼みの生活が如実に伺える。更に、一時、路上にあふれていたご同輩の自転車通勤マンが激減していることに気がつく。時間帯のせいかもしれないが、結局のところ自動車利用は減っていかない。幹線道路に路上駐車してコンビニで買い物をする犯罪者は後を絶たず。持続可能性社会教育の国際会議を名古屋でやることが決まったそうだが、とてもそんな資格は無いね。

増税云々が囁かれ、まぁ増税するんだろうなと思っていたら、その規模や期間が相当に大きく、国民の疲弊、極限に達しそう。要らないお役所や公的事業の削減は何処に行ってしまったのか。中部地方の国立大学の事務機構の横断的協力体制が発表されたが、人件費削減に伴う一人あたりの労働増を効率でカバーしようとする試みである。随分と長いこと検討をしてきたので、ターゲットを絞り込んでシャープなお仕事が展開されるのだと期待したい。事務方が効率化したのであれば次は教員の効率化だろう。

一定期間、教育専念、研究専念などの色分けするとか、5年、10年単位で重点分野を決めて国立大学間で人員再配置をするとか、各大学で競いあうことも大切だが、地域としての特色を活かした戦術が必要である。そこに幼小中工大産業界連携によるものづくり連合教育、指導者教育を含めた形が良かろう。血は大量に流れるだろうが、流す価値はあろう。

学問の秋である。学ばねばならない。創造せねばならない。そう思う。


2011年9月26日

地下鉄の出口で香る秋雨。折りたたみ傘を置いて来た後悔もなく、シャツの袖を染めていく様を楽しめる気候に感謝する。そかし、好ましくない物質が多分に含まれている現状では、雨に濡れて気持の良いものではない。少しだけ歩調を早くして登校する。色淡い秋の花を見つけながら雨中を往く。

昨日まで三日間、愛・地球博記念公園にてモリコロ秋祭りがあり、応用物理学会東海支部として理科工作ブースを張って、そこでものづくり体験をしておりました。大略3歳から小学校4,5年生までが対象になって「仕組み」の教育ということにはならないのですが、手を動かして3次元構造物が出来上がって、それが実際の能力を発揮すると、例え糸電話という古典的な道具でさえ新鮮な驚きの笑顔に出会える。これが中学校まではぎりぎり続くのだろうが、受験一色の高等学校でものづくり機運はぱたりと止む。そこを乗り切る工夫、仕組みを創り上げることは相当に難しい。家庭内での親の関与が相当に必要になる。箱を切り刻んで何かの形を作っても「ゴミ!」と一喝、捨ててしまうような状況ではものづくり好きは育たない。

最早、理科好きとかなんとか言っている場合ではなくて、ものづくり好きを増やすことが肝要だ。今のプラモデルは接着剤を使わない、はめ込みだけの作業だから、複雑形状を自ら組み上げる根気も、「接着剤を使う」という何だか当たり前の接合方法も身につかない。成績優秀者が皆、公務員となっていって、一億総コーディネータとなってしまったら、誰がコーディネートされる物を作るのだ?コーディネータは必要だ。しかし、ものづくりを海外に丸投げして、我が国が成り立つわけがない。(成り立ったりして?)完全なる真円のボルト一本出来ない現代技術に満足することなく、美しき技術、美しきものづくりを楽しめる人間の育成は、大学だけでは絶対に無理で三つ子の魂百までで、幼稚園前から「手を動かすと何かが出来る、出来たら褒められる」体験の絶えざる積み重ねが必要だ。

幼小中工大連携までいかねばいかん。T社さんの工大まで作って我社に導入なんぞ甘っちょろい。そんな次元では西洋人には到底及ばないし、覚睡したアジアの爆発に跳ね飛ばされるだけである。国にはそんな力はなく、むしろ、縦割り行政甚だしい我が国では到底実現できない。企業の皆さん、自社の未来、日本の未来を思うなら、そんな教育に出資して下さいな。とんがった、しかし長期的戦略に投資しましょう!教育は国の礎。今こそ、今こそですぞ!


2011年9月21日

三度目、台風がやってきますな。沖縄地方でくるくる回っていてくれたお陰で飛行機は無事に着陸できたが、その週明けに名古屋を直撃しそうな勢いで大雨、大風を引き連れてやってくる。昨日は、名古屋大水害を思い起こさせる強い雨の降りっぷりに、真っ黒な空を眺めていた。百年に一度の水害と言われた雨だが、数年経ったらまたやってきた。化石燃料消費による温暖化と言ってはいけなくて、電力等、化学反応エネルギーに頼り切っている人間社会の生活パターンが自らの環境を破壊していると認識するべきだ。意志の転換なくして風水害は少なくならない。

一方、自然に出来たものは案外強いものだなと感じているのが「土砂ダム」。溢れたら直ぐに土石流を発生させるぞと人間社会を阿鼻叫喚の世界に落とし込んでいるのだが、豪雨どこ吹く風と静かに水を湛えている。そりゃぁ、いつかは崩壊するんだろうけれど、そもそも今の陸地構造だって一億数千万年の間に様々な自然現象で形作られたわけで、百年単位の人間社会が逆立ちしたってかないっこない。土砂崩れや山津波が問題になるのは、山を削って危険区域を作る人間側の問題であって、自然サイドでは杉ばっかりな山なんて出来ないし、垂直に切り立った土の壁なんて出来ないわけだから、全部、愚かな人間が悪いだけ。災害という人間サイドからの観測眼には吐き気がする。

暴風警報の最中、地下鉄に乗って鶴舞に出てくるのも大馬鹿者だが、ご同輩が沢山地下鉄にのってくるのには驚かされる。小生などは職場の特殊性から出てこないといけないだけのことで、一般民間人の務める企業も、相当に危ないことを平気で社員に押しつける環境にあるのだなと、未来も将来もない日本の暗い影を見るようで悲しくなる。疲れ果てた顔つきで会社に行って何が出来るのかと訪ねてみたくなってしまう。いや、ひょっとすると周りの皆さんは消防署と自衛隊の人達で、これから災害対策に行くのではとふと思ったが、そんなはずはなかろう。フットボールムード一色の日曜日のRTAが懐かしい。不況のどん底でも明るいアメリカ人と粘土色の日本人。勝負は見えている。

雨雲レーダーを見ていると、7時現在では大きな雨雲は名古屋市上空には無いが、後数時間もしたら昨日のような状況に陥りそうだ。活発な雨雲が紀伊半島に掛かっていて、やはり気になる土砂ダム。アメリカの国立公園よろしく、自然災害発生の後はほったらかしにして、数十年、数百年の間に出来る自然林を後世に送っては如何か。コンクリートで固められきった日本の生きる残る道はそこにしか無さそうな気がする。


2011年9月8日

原発が云わば死の灰をまき散らしたわけだが、核拡散防止の概念を国家間ではなく国家内に収めたとすると、死の灰を被った全てのものは福島原発敷地内に戻すか留め置くのがルールだろう。地元が何を言おうが、既にそんな事態も含めて補助金が延々と積み上げられてきたのだから、文句を言う権利も資格もなんにもないのは自明である。菅首相が退任間際にいたちの最後っ屁みたいに言ったと捉えられているが、そんなことは当然のことであって、首長は「そうでござんすね」とだけ言って引き取れば宜しい。後は原発族、電力族の議員さん達がうまいことやるのだろう。県民、国民はそれを見張っているだけで宜しい。

紀伊半島にて甚大な被害を引き起こした台風が去り、突然、秋風がやってきた。近年、バカバカしく暑いなと思っていると、がらっと季節が幕引きをする。その幕引きに大災害がつきものとなってしまってはかなわない。原発云々から太陽電池だ風力だと叫んでいるが、問題なのはCO2を始めとする地球温暖化ガスを減らすことではなかったのか。太陽電池を作るために必要な電力を、太陽電池から吸いだそうとすると30年掛かる。鉱石を彫り出して金属化して、輸入して再生成して・・気が遠くなる。真面目にCO2削減に舵を切らないと、日本にもサイクロン程度の巨大台風がやってきて、今回の紀伊半島どころではない被害がもたらされるであろう。

エネルギー発生と電池が脚光を浴びるが、議論の出発点として、工場から家庭まで電力使用量を減少させない、足りないという前提がマスコミによって作られている。原発族にそそのかされているのかどうかは知らないが、マスコミが電気はもっと供給されるべきだと根拠の無いことを叫べば、それに乗じてエネルギー浪費族が踊りを踊る図となっている。電気があればいきなり雇用が増えると思っているのか?成熟社会は働く場が無いからこそ成立している。労力を抑えたいから電気を根幹として機械化社会を創り上げたんでしょ?それで雇用促進なんて無責任によく言うもんだと呆れ返る。開発余地国に出掛けて行って外貨を稼いで、その金を国内に還流させるしかなかろうて。自分が現役大学生だったら、とっとと海外に行っちゃうね。当たり前だろう。

災害ネタついでと言ってはなんだが、北海道で震度5強の地震があった。北海道の造山運動は東から西に押しこむ形となっていて、日本海を形成する断層との押し合いになっている。日高山脈がそれで隆起しているわけだが、その西側で大きな地震があったということだ。沖縄の大陸からの脱離も活発化してきていて、日本海の拡大が数千年ぶりに加速し始めたのかなと思う。巨大質量を持つプレートがぐわっと動いたわけだから、慣性エネルギーでしばらくは巨大地震の可能性は高かろう。復興は重要だが、日本全体をリセットし直さないといけない時期に来ているのだと思う。日本だけではなく世界中で次の世紀はどれだけ人が笑顔でいられるか、それを為政者は解くべきで、増税しかないんだ!なぁんて間抜けなことは言わないで欲しい。バカバカしくなる。


2011年9月5日

自然力を示した台風であった。記憶に残る台風はいくつかあるのだが、それらと引けを取らない雨パワーを示した台風であった。紀伊半島を真っ赤に染め続ける天気予報は、気候風土を顕在化させたし、そのお陰なのだろうが、薄く水色に染まった名古屋地方は天然自然に恵まれた土地であるのだなと、改めて恵まれた名古屋を実感した。しかし、未だ台風は12号である。大略、9月下旬頃にやってくる20号前後の台風が凶暴さを発揮していることを思うと、まだまだ油断がならない、そんな気持ちでいないといけないだろう。

地震のあるところに住み着いて、台風の通り道に住み着いて、更に、火事の生じやすい木と紙の家に住んでいるのだから、親爺の出番はなくて天変地異に恐怖するお国柄である。九州のとある地方では、台風のことを「オヤジ」と呼ぶらしいから、親爺の権威は保たれているのかなと妙に納得したりもするのだが、そもそも日本は災害立国である。嫌な言い方になってしまうのだが、この地に先祖が住み着いてしまった以上、地震や台風が人に被害を及ぼしても仕方のないことなのだと考える。大事なのはその処し方なのだと思う。

大堤防を築いて護岸を強くしてと、土建屋さんにどんどこ銭を注ぎ込む日本の政治体質なんだけれど、自然の力に人間の力ごときが叶うはずはないではないか。元来、そんなものは役に立つはずがない。コンクリートの壁は、所詮、人間の行く手を阻むだけで、自然の力はそれを乗り越え踏みつぶす。近い将来、埋まりきったダムを、大雨や地震の力が粉砕するのだろうと思っている。堆砂率90%を超えているダムがどれだけあることか。一方、自然の流れを阻害せずに弱め、町を守っている信玄堤がある。堤の安定のためお祭り行列を続ける。これこそ治水であろう。セメント屋を儲けさせれば山が崩れる。山を崩して鉄砲水を作っておいて町に堤防を築いて銭を稼ぐ。こんな悪事がまかり通るのが日本。台風で大被害があるが、天罰覿面。天に唾する国民の末路である。

唯一、救われるのは助けあいの心が残っていることである。濁流に流されたとのニュースを聞けば、どんな条件が揃えば救えただろうかと、あれやこれや自然に考える。しかし、土石流となった自然の狂気に贖えるはずもなく、落ちた不運を呪うしかない自分が情けない。今年はまだまだ自然災害に襲われることだろう。そうなった時、どうするか。どうあるべきか。真剣に考えたい。


2011年9月2日

久し振りに山形に出掛けて参りました。どれくらい久し振りかと言えば、博士過程の学生の頃、仙台大学でお仕事をさせて頂いていた時に、帰路、山寺経由山形、米沢と回って以来のこと。米沢の変化の無いことに驚きました。素敵な酒屋のおばあちゃま曰く「米沢は先の大震災でもなんとも無かった。震災後は山形等々いろんなところから物を買いに来て、米沢もんが買うものが無くなってしまった。米沢は震災にも強い。だから変化も無い」。何と含蓄あるお言葉と、米沢に感動したのであります。

山形はと言えば、新幹線景気なんでしょうけれど、えっらく変わっていましたな。何というか、背伸びをしまくったというか。手持ちの駒を増やしすぎて本当に守るべきものも失ってしまった、そんな印象を受けました。ただ、重要文化財旧済生館本館や旧山形師範学校本館など、文化の香り高き素晴らしい建物、展示物には感動致しました。医も学問も人のためにあると、その想いで出発してきたのだなと、明治維新期の先人の熱意に触れ、まだまだ頑張らねばと思った次第。

ただ、名古屋から山形に出掛けようとすると、これがえらいこっちゃなのですな。東海道新幹線、山形新幹線と乗り継いて行く。放射能灰降り注ぐ福島駅での乗り換えが恐ろしく、東京から乗り換えなしの便で山形入り。鉄道敷設初期の頃の峠あたりでは「止まるんじゃないの?」という速度で新幹線が這って行く。恐ろしいので帰路は新潟に出て日本海沿いを下り、直江津から名古屋に戻るという12時間コースで乗り鉄を致しました。山形や日本海沿いの平地での暮らしと農業に比べ、中央線沿線の斜面での暮らしと農業の違いを連続して拝見しました。平地の豊かさは人のおおらかさに繋がるのではと実感した次第。最後の勝利者は平地で農業を行う民なのだろうなと感じましたな。ただ、これも大津波の危険性との裏腹関係であることは東北大震災で証明されたこと。難しいものですな。

最近は出張でPCを持ち歩くことをしなくなりました。iPhoneでメールのやり取りをさせて頂いて、それで出来ないことは無視しようという方針転換。体調にいろいろありまして、残りの人生、極力自分時間で過ごそうという作戦に転換致します。悪しからず。


2011年8月18日

炎天下の体育など、肉体と精神の限界に挑戦して、ズタボロである。咳とガラガラ声が一月以上続き、抗生物質などをドーピングしてもなぁんの役にも立たない。何も考えずに温泉にでも浸かって水平になり続ければ治りそうなものだが、なかなかどうしてそんなことをさせてはくれない。日本のあくせくぶりには呆れ返る。円高は猛然と進み、本社を海外移転する企業が増えてくるだろう。ひたすらそれに抵抗するのか、それともどうせ地球は小さいのだから何処でも問題無し!と一歩踏み出るのか。後者以外の選択肢は無かろう。

今日は大学院入試である。鶴舞大学は複数専攻から構成されていて合格基準や研究室配属方法などは専攻任せである。MOT専攻は研究室毎の合格定員など当然のごとくに設けず、極端な事を言えば専攻合格者全員が一研究室の学生ということもあり得る。そうであっても教育に全力を尽くす。ところが多くの専攻が3名までとか、頭打ちを設定している。学部の4年生の卒業研究であれば教育の一貫としてそれも良いとは考えるが、研究したい学生が研究したい研究室で研究できないのは(早口言葉みたい・・)保身に走った教員の防衛策で(人気が無くても配属者が出る仕組みで、研究費配布が成される)円高になったから政府は介入して助けよと、大騒ぎする連中のようで見難い。人間の本性のクオリティが低下し続けていることが怖い。それが正直な気持ちである。

京都でセシウム添加の松明を受け入れないとか受け入れるとかが攻撃対象になり、さらに市民の命を預かる市長が危険な状況を生む可能性は排除するべきだと言えば人道的におかしいと、狂気を先導しながら市民感情を煽りたてニュースにしていく。それを低レベル意識の国民が感情移入して政を傾かせる。馬鹿まるだし。大学で学ぶべきは人間性であり、そのクオリティの高さを世界レベルで競い合うべきだろう。感情論は必要だが、足の引っ張り合いの感情論は醜すぎて日本人であることが嫌になる程だ。

アフリカを出て東に進み、日本からベーリング海峡を突破して更に東に進みインディオとなった精神の高みに達した民族、更に南下してマヤ文明を築いた民族。精神の高揚が途中で停ってしまった日本民族だが、その高揚を止めているものを打破していけば、まだまだ美しく輝ける・・気がする。そんなところに進むための大学院進学希望であって欲しいし、その思いを叶える大学で有って欲しい。そう願う。


2011年8月8日

久し振りの戯言である。戯言の対象が無かったわけでは決して無いが、戯言を言っている時間が本当に無かっただけのことだ。「忙しい」と言うと心を亡くすと悟って以来、忙しいとは言わないようにしているが、別のことをしていて他のことに費やす時間が無くなっただけのお話だ。叩き出そうと思っても叩き出せない時もある。大略、7月から10月頃は一年で一番苦しい時期である。どうしようもない。体調を崩しきっても医者に行く時間も無い。こういう年齢で、こういう役回りの人達が、50歳手前で毎年死んでいく鶴舞大学であるが、もう直ぐ自分もその領域に突っ込むのかなと思うと少し気が楽である。ここまでハードな状況が続くとなんもかんも放り出したくなる。放り出せない人はやっぱりあちらに逝ってしまうわけだ。

一時、台風などの影響もあり強烈な暑さからは逃れられていたが、昨日あたりから再び暑くなってきた。文科省教育のゆとり解除によって、今年は少しはぴりっとした授業が小学校でも成されているらしい。FUJIMI社様に多大なご協力を頂戴している応用物理学会リフレッシュ理科教室は、ここ数年で一番、ぴりっとした空気感になっていた気がする。ガキ大将は例によって居るのだが、託児所代わりに理科教室を利用する親は減っているように感じた。抽選となっているテーマもあり、本当にさせたい子に来て欲しいので、こちらも良い傾向である。「成功は成功の元」が小生の信念であるが、難しい工作もあったが、最後には全員が「不思議」を体験できてとても良かった。

国立大学法人の在り方が文科省から強く問われている昨今、高大連携など、高等学校と大学との連携によって教育効果を上げていくなんて呑気なことが言われているわけだが、実際のところ、理科教室などを体験させて頂くと、小中大連携が必要だろうと実感する。特に工学への興味は高等学校では全く遅く、小学校でも遅いと感じるくらいだ。大学では高校生対象の大学プレ体験コースが花ざかりで、鶴舞大学にも多数来て頂いたようだが、多くの大学が高校生にアラカルト料理を見せてつまみ食いさせて、料理を出した側が満足している間抜けな縮図はもう辞めれば良いと思っている。本質は深ければ深いほど宜しい。大学教員は全員が小中学校の理科を担当するくらいの仕組みがないといけない。それくらいやってもものづくり日本の根幹は痩せ細るばかりだろう。

大学にもアラカルト式の演習があって、新入生が研究室を知るチャンスだなどと喜んでいる教員が大多数。否定はしないが倫理観も文化素養も無いガキ共に研究室の何が伝わるか。また、技術の価値化も考えない研究室を巡回させて学生は何を感じるのか?小生なら絶望して他大学を受験し直すのではないか。日経新聞ではないが、進化とは変化である。特に基礎研究が許されている大学は10年、20年先をターゲットにして枝葉を広げるのではなく、新たな幹を育て、それをもって変革を成し社会に希望を提供することが必要だ。今あるアラカルトで喜ぶ新入生などいらん。よって自分が居なくなった後に鶴舞大学を選んで頂ける小中大連携と大学における戦略的人事が必須だ。背中に包丁がいっぱい刺さっている気がするが気にしない。一度死んでくると気にならない。教育は信念の見える化の結果である。どんな信念でも良いので、それを貫いて頂きたい。そう願う今日である。


2011年7月28日

漸く世間は原発事故の恐ろしさを理解してきたらしく、稲わら騒動やら海藻やら水産物やらが食に適さないことが騒がれ始めてきた。これとて序曲に過ぎず、日本人の良さである浪花節根性が裏目に出るのは年明け頃か。自粛ムードが強すぎるとか、風評被害だとか言っているが、情報を制限されて「応援しよう!」という美談で語られてもそれこそ実被害が出てくる。セシウム牛にいたっては100日経ったら残留毒物が半減するとのたまっているが、その糞は未だに堆肥扱いで次は野菜達に入ってく循環経路を作っている。恐ろしい限りだ。

食文化の衰退などと叫ばれていて東北の魚や野菜を食べることが推奨されているが、それこそ逆風評被害だ。農水省は食文化云々言う前に、経産と組んで地下水汚染の停止、絶対生産ラインの明確化を行い、農家等の移住、代替農地の確保を早急に実施しなければならない(もう、遅いけど)。実を伴わない平和人間頼み行政ではにっちもさっちも行かない。ビジョン無く口先だけの永田町こそ国家に養われたテロリストの巣窟だ。ゲリラ豪雨で放射能汚染水がどんどこ海、地下水に流れこんでいく現状をさっさと停止しろと叫びたい。

話は思いっきり変わるが円高基調が止まらずに一進一退はあるものの、円高がじわりじわりと進んでいますな。日本企業の首をじわじわと締め続けているこの円高。一体、何処まで進むのだろうか。輸出産業は既に限界を突破していて海外生産シフトが急速化してきそうだ。日本国内の働き手が居なくなってしまいそうで恐ろしい。モノが出来ない日本になっては、教育機関も含めて存在意義がなくなってしまう。これは風評などでは無く現実問題であって、例えば今年などは大学院の入試にこけると人生こけるみたいなことになりそうだ。就職先などありはしない。

毎日、何を食べるかに迷う。水耕栽培を始めたが、これが大変に面白く、相当に研究の余地があると感じる。全てとは言わないが、自分の食い扶持は自分で作る時代が来たのかもしれない。自分を鍛え続けること。単に学問だけではなく、生きるすべを磨きながら毎日を過ごす。それが風評被害から身を守る唯一の手法だ。そう思う。


2011年07月26日

一転にわかに暗天し雷鳴とともに馬の背を分ける。聞いただけでも恐ろしい雨模様であるが、そんな雨の昨日であった。今日もそんな状況らしい。ちょっとの外出でも傘を忘れないようにしなければ。今日は所用で外出である。バケツの雨はもう懲り懲りである。そんな天候の影響があったのか無かったのかは知らないが、お隣さんの高速鉄道がえらいことになっている。

犬じゃあるまいし、穴を掘って隠蔽しようという、誰が見たって分かりそうなことをやってのけようするところが凄い。近代化云々の前に、人間であるべきである。しかし、その鏡に写して自国を見れば、放射性元素達がどんどん酸性雨に溶けて地下水、海に流れ込んでいながらも「原発の安全性は確実で、安全が確認されたから再起動です、継続です」と叫び続ける大臣、発電企業も同類だし、日本人も御同輩ということだ。何と情けないことか。

新幹線に限って言えば、東北の本震直前の初期微動で停止し始めたため大事湖には繋がらなかったそうで、これは実に胸を張って良い。人間の作るものに安全はあり得ないが、作り手に対する安心感を持つことは出来る。日本の新幹線には、今のところそれはある。時々、コンクリートが剥がれて落ちるということも発生するが、土建屋さんまでは監視は難しかろうから、これはこれで安心感の持てる施工屋さんを育てていくしかあるまい。ここで思ったのが原発に対して安心な施工屋さんを育てる必要があるのか無いのかだ。

技術保全の為に原発を止めるべきでは無いという。海外に売れる技術の一つだから、税収を考えれば国としてはそう言いたいだろう。企業としてもばっかみたいに高額で利益率の高い商品であるから、継続販売したいだろう。器を売っておいて、燃料は勝手にしてねという凄まじい商売だ。必死の隠蔽工作も稲藁から綻びが出るとかね。もっとおっかないこともそろそろ漏れてくるんじゃ無いかな?そう思うと、核のエネルギー利用はそろそろ止めて良いのではと思う。放射線照射による突然変異実験も、もう止めましょうよ。じゃがいもの芽が出たってそれは自然のことでしょ。ガンマ線を浴びたジャガイモはもういいよ。穴の中の高速鉄道は日本国中何処にでもある。それが言いたいだけ。


2011年7月25日

2010年の国勢調査の速報が出た。日本人の総人口は2005年データから比べて3万8千人減となり、信頼できるデータ収集が開始された1975年以降における初めての減少となった。一般的に労働人口と呼ばれる65歳未満人口は5年間で300万人の減少。日経によれば茨城県人口を上回る数字だそうで、一県がまるっと居なくなってしまった勘定だ。何処が減っているかと言えば自ずと知れた15歳未満人口。医療技術の発達で寿命が伸びて出生の絶対数が減ってくれば当然こうなるという状況だ。

社会保障問題云々が叫ばれるわけだが、そんなものはとっくに破綻していて、今更叫ぶことでも無かろうと思う。大事なことは人口減少が現実に発生していて、若年層が減り続けることをリアルに認識し、その人材で国家を成立させていく教育の体制を整えることだ。外国人を導入して企業税収を維持し続けるとか目眩ましは辞めて、近未来に指導者となり得る人材育成を高等教育機関で実施できる体制を整えることだ。教育系大学云々と縄張り争いをしている場合ではない。理科嫌いの人々が先生という公務員職を得続ける体制は遮断するべきだ。勿論、理科なんぞどうでも良いのだが、教育は国の骨格であり土台であることを肝に銘じる人材を育成することだ。

研究で世界をリードする云々は大変に結構なことだが、教育の質を維持する仕組みが崩壊していっては何にもならない。今、大学の1,2年生は例の「本格ゆとり」の皆さんだが、正直、おったまげている。国立大学を法人化してゆとり教育を推進・欲したのは社会の皆様なのだから、その責任を取って頂くべく、現状で卒業させて社会に浸透させてみたい。一票を軽んじた結果を実感すると良い。バブル崩壊だ、リーマンショックだなんぞ微塵の出来事であったと認識するだろう。それも一興と感じるようになってしまった。

最近、歴史学を再勉強している。茶色くなったガマの油売り大学時代の教科書を引っ張り出して学び直している。今読むと「そっか、こんなに重要な教科であったのか」と、何故、単位を頂けたのか解らないが、お恥ずかしい限りである。教うるは学ぶの半ば。学ぶことに負は無かろう。それをどのように教うる方向に持っていくか。努力せねばと実感する私であります。


2011年7月21日

台風は関東の南方を迷走し続け、台風一過の青空とはいかず、水蒸気リッチな空のもと、久し振りに自転車で通ってみました。八事の山下りで感じたのが「車がいない!」ということ。そう言えば木金休みのトヨタ日に当たっている。ナルホド、そう言うことか。如何に日頃、トヨタ関連社員が街中を自動車で溢れ返させているのか良く分かる。節電云々叫ぶ前に車を利用しないで燃料そのものの利用料を減らしなさいと言いたい。車を走らせてCO2出す分を火力発電所から出す分に転換するだけで、CO2排出量を維持・削減しながら電気を生み出せる。自動車事故も激減。駅まで歩くから健康増進にもなって保険料削減で良い事ずくめ。みんな、車から降りましょうよ。

原発が停止するたびに国から電力削減命令が飛ぶ。関東も中部も同様だったわけですが、実は原発なんか無くったってなんとかなっちゃうことにそろそろ国民は気が付きだしたのではないかいな?おっかないことから献金バラマキによる政治家の保身まで原発は様々に活躍しているわけで、多くの政治家や官財癒着の方々にとっては原発無しで電気が足りるってことは言ってはいけないことでありまして、これからもどんどこ電気が無いぞ!って号令が下りてくるでしょうね。実際に電気を使っているのは企業だし国民だし、正確な消費電力量を電力会社が公開する勇気があれば、そして「楽をするためにはお金が掛かる」と国民が少しは賢くなれば原発なんてあっという間に不要になる。そんなもんだ。

新しい銭儲けのためのスマートグリッドなんてものはどうでも良くて、希少金属を地球からほじくり返して喜ぶ連中に踊らされるだけ。リチウムなんぞ大気に出したらぼうぼう燃え出して、気管に入れば気管支炎、肺炎、肺がん一直線だ。そんなものを街中にばらまくのか?お得意の絶対安全・安心戦略で、トレーラーに衝突されてぺちゃんこになって電池の中身をぶちまけたら「想定外」と逃げ出すのか。そもそも巨大エネルギーを蓄えた電池を街中に走らせるなど、テロ以外の何者でもない。

電気を使うなと言うのではない。普通に生きていく為に必要な分だけ利用すれば宜しい。そして作れば宜しい。原発三機分のロスを産む送電などやめて、電気の地産地消を上手に考える政治家は居ないものか?基地にしろ原発にしろ、税金を黙って貰うことだけを考える国民も、そろそろ居なくなってくれないかな?本気でそう思う。


2011年07月20日

通り過ぎていると思ったら、未だに紀伊半島にも到達していない。低速化著しく、愛知県沖合には15時頃に到達予定らしい。幸い、進行方向左側に位置するので、雨などは午前中で止むらしいが、風の影響は出るだろう。暴風警報範囲にもならず、不幸中の幸いである。夕べは風雨の叫び声で何度も目が醒めた。特に3時頃であったろうか、低音のうなり声にも似た中に甲高い叫び声が混じるような、そんな空気感に参った。お陰で極めて眠い。

東海から西の地域に台風が与えたエネルギーは凄まじく、雨の運動エネルギーや位置エネルギーを有効活用出来ないことはもったいない。もったいないのだが、あまりにも激しいエネルギーの供給故に、人間如きが受け取るには実力が伴わない。駅に行く途中にある大きな溜め池の水路を見たのだが、未だかつて無いほどの恐ろしい光景であった。平均して降ってくれれば良いのだが、台風の後は、再び猛暑となるらしい。天に見放されているような気がする。

これまた駅までの経路にホンダ社の販売店があるのだが、その入り口に「定休日」と大きく看板が掛かっていた。台風につき臨時休業ではなく、威風堂々の定休日である。考えてみれば車のディーラーが正月や五月連休以外に休んでいるのを見たことが無かったが、ようやく自動車販売業も定休日を持てるようになったのかと、人間臭さを感じて愉快であった。隣のトヨタ社はお休みなどなく年中無休。人は交代で休んでいるのかもしれないが、電気使用量などを考えると、同系列店舗間で相談して、休みを取ってしまったほうが今流であろうにと感じる。もっとも、車なんてものは最大の無駄遣い物品だから、少々、電気使用量を削減しても環境保全などには何の効果も無いことには変わりない。

台風一過の青空は好きである。真夏の台風であるから、上空に水蒸気が残ってすっきり晴れるということにはならないのだろうが、自動車等が汚しまくった空のゴミを吹き飛ばしてくれる台風は有り難い。空は綺麗になるが、足下には空き缶だの何だのと人の心を反映するゴミが散乱している。がっかりすることこの上ない。道路でたばこを吸う、吸い殻を捨てる、ゴミを捨てる。こんな気持ちが今の日本の世の中を暗く覆っているのだと感じる。そんな国だ。


2011年7月19日

台風がやってきそうだ。この時期にしては大型で、暴風域をきちんと伴っている。学期末故に期末試験などの日程もあり、やや面倒なことになりそうだ。暴風警報が発令された場合、公的教育機関は閉鎖となる。その前に連絡をするとなると広範囲から通ってくる学生さんがいる大学においては休講発令のタイミングが極めて難しい。いきなり台風が停ってしまったりどっかいっちゃったりと、迷走することも考えられ、えらいスタミナを消耗する。事務局はなぁんにもしてくんないので、今日は天気予報をにらめっこしながら過ごすことになりそう。

台風がやってくる前の空の不安さは尋常ではない。眼に見えない地震とは違い、プレッシャーを与えながら迫ってくるその光景は実に恐ろしい。二度と世の中に光が射さないのではないのかと思う程だ。今では衛星画像をリアルタイムに入手でき、その移動状況、勢力状況を目指できるが、それが出来なかった時代、どれほど恐ろしかったであろうか。聖職の碑で有名な遭難も、もしも衛生情報があれば生じなかったであろう。恐怖と情報との関係をここに見出すことが出来る。

眼に見えないということでは毒性元素の拡散と似ているなぁと、傘を飛ばされそうになりながら思った。毒性の情報も正しく伝達されず、拡散の情報も殆ど閉じられたままだ。パニックになるからとのお役所の判断だが、単に核保有推進派(原発推進派では無い)の情報統制によるだけだ。与えられた情報を取捨選択し自ら歩むべき道を進ませることが教育であるならば、この国は人間教育を完全に放棄してきている。

台風は自然現象であり、痛い目に遭わされるのではあるが、いずれその恐怖の大王は去って行く。ひたすら待てば良いことを知っている。しかし人工物はそういうわけにはいかない。何時まで経っても無くならない。電気を使って商売し続けることを否定しない。否定しないが、元を辿ったら人類滅亡にまっしぐらになる道具を使っているのでは、これは大反対である。自己判断能力。磨き続けなければならない。


2011年07月13日

夏らしい暑い日が続く。建て屋には節電のため暗くするとの宣言文が至る所に張られている。事業所単位の節電対策だから乾いた雑巾を絞りあって、ついでに首も絞めちゃったりなんかして。そのうちに一人去れば計算機や蛍光灯の消費電力が下がると言い出しそうな勢いだ。

電気が無いから生産活動に支障をきたすという。それはそうかもしれない。しかし、それだけエネルギーを費やす程のものを作っているのか?単に地球を汚しているだけではないのか?病院などでの医療機器の進化はめざましいが、根本である医師の人を救おうという意識は高まっているのか。高める教育は出来ているのか?エネルギーは本来、そこに費やされるべきだろう。殺人兵器の自動車を作ることではない。

国に多額の借金をさせ、そこから電源地域に多額の遊びがねを放出させ、その甘い汁を吸っているだけの経団連の言うことなんぞ、何も聞く必要はない。国を脅迫して税金を自分達だけに向けさせようとする意思表示は辞めていただきたい。

貧困率が20%に届きそうだという。とある理由で出生数の年度変動を調べているのだが、70年代のベビーブーム以来、約半数の100万人代前後にまで落ち込んでいる。死亡数との兼ね合いで税収は決まってくるが、間違いなくそれは減っていく。エネルギー消費者も減っていく。外貨獲得の為に輸出に頼る理屈は分かるが、少なくなった国民が国を愛するようなものがあるか?最終消費財で本当に欲しいと思える日本製品なんてしばらく見たことがないぞ。逆にそれを作り出さねばならない。それこそがエンジニアの真骨頂だろう。電気が無いから何も出来ないなんて知恵の無いことを言う輩は、心が貧困であって、日本人の心の貧困率の高さが問題だ。まずは節電意識から省エネ意識へと本気で舵を切ることだ。当たり前だ。


2011年7月12日

アポブックが埋まってきてしまった。どうしようもなく逃げられないものが集中してくると、トイレに行きたくても行けない程になってきて、皆様お帰りの22時過ぎには土気色のゾンビ状態。押し売り電話もやってくるし、例によって冥府魔道へ落ち込んだ状態。来年の5月にはなんとか抜け出したいなと思う次第。組織として壊れているんだろうなと実感する。それを打破するのもお仕事だったりするから困ったもんだ。

セシウム牛が日本中を闊歩し始めた。まぁ、情報が漏れ出すのも時間の問題だなとは思っていたが、結構、時間がかかりましたな。生産者のお気持ちは実家が農家故に理解できなくはない。しかしだ。国民の多くのDNAを積極破壊するのはどうだろう。正直テロに近いものがあると感じる。これも政府の無策の為せる技なのは間違いないのだが、これまた例によって国会議員の選択は国民にあったのだから何も言えない。魚類は伊勢湾で目の前で釣れた瞬間に購入させて頂ければ別だが、パックに入った切り身状態ではとても恐ろしくて購入できない。肉類は取り敢えずオーストラリア産などで凌いでいくかと、そんな状況にある。野菜もまた然りで、いよいよ食べ物が無くなってきたなと感じる次第。

食べ物が無くなってきたなと思ったら、今度は東電が電気が余ったから西日本に売ってやるときたもんだ。こんな仕組みは駆除するしかなく、よくもいけしゃぁしゃぁとぬかせたもんだと、首相並みの厚顔無恥さに呆れ返る。だったら15%節電命令など直ちに解除し、ぎりぎりまで施設酷使をさせるがよろしい。誰のお陰で余剰が出来たと思っているのか。東電と聞いただけでも吐き気がする。

無くなったり余ったりと、世の中凸凹が多い。平坦な道程よりは楽しいのかもしれないが、命に関わる凸凹はどうですかね。兎に角、今日を乗り切っていくだけ。そんなモードに突入している私であります。


2011年7月11日

日本中のあちこちで鉄道の異常停止が発生しているそうな。表向きの発表が無いものも多いそうで、国家の危機的状況をそのまま表現している。アフリカから旅立って数万年、東の果てにたどり着いた民族のDNAなのかは分からないが、自決の精神を行動に移してはいけない。そのDNAが発動するような環境を作り出してはいけない。

福島原発収束計画が発表されたが、その内容について退避させられている方々へのインタビューに対する返答に若干驚く。今直ぐにでも帰ることが出来る認識でいらっしゃった。地元でどのようなアナウンスが成されているのか解らないが、あまりにも無責任な指示が出されているのではなかろうか。これらが自決DNAの引き金になっているとしたら許しがたい。

東電管内は今、停止中の火力等々を発動させはじめていて、電力不足何処吹く風。余力がどんどん増えている状況である。特にお年寄りに節電云々はこの熱波の中では死ねというのに等しいわけで、お年寄りには某社からSiC搭載エアコンを国のカネで支給して、節電ならぬ省エネで体を休めて頂きたい。節電ではだめで省エネに切り替えていくことだ。電気を使うことを奨励するのはもう辞めにして頂きたいと願う。

今日も暑そうだ。今週は毎日が猛暑日であろう。人間の肉体は弱い。どんなに精神が強くとも、元来がアスファルトジャングルで生きていける構造になっていない。そこまで進化していない。是非とも皆さん、苦しい気持ちになる前に冷たい水と節電命令など無視してエアコンを使いましょう。無理は禁物です。


2011年7月5日

ちょっと前に言葉だけ流行ったスーパークールビズ。何がスーパー何だか解らないけれど、これまた言葉先行で省エネの切り札みたいに騒いでた。サンダル、短パン、Tシャツでは教壇に流石に立てないが、小生として年がら年中いい加減な格好で教壇に立っているので大した変化が無い。小生などはどうでも良いが、エアコンで涼しい環境のNHKのアナウンサーなどは世の中の流れとは関係なく過ごしている。こんなところがチグハグで地下鉄に暑苦しいお父さん達が群れているのも慣習を変えることの出来ない日本人の表れだろう。いかなる新しい試みも排除していく。昨日と同じ今日が素敵で明日が安心。聞こえは良いけどそうはいかない。分かっているから尚更動かない。誰かが何とかしてくれる。そう考える。実は小生だってそっち組に残りたい。なんせくたびれますからね。

で、東北復興大臣なるポストが出来て、とんでもない無知蒙昧な輩が大臣になっちゃったんですな。大勢の国民が亡くなって更に死にそうな状態で頑張っている人達に国として天災からの復興に力を尽くそうって、分かりやすい大臣ポストだったんですが、その場で利己主義を発揮するところが凄い。国会議員の何たるかが解らない輩を当選させた選挙民の大罪である。それらを明らかにしないといかん。そんな仕組みを作らないといけない。

スーパーなんて言わなくたって、縁台に豆腐屋のハゲ親父が豚の蚊取り線香と一緒に座っていて、その周りで婆様が打ち水をしていた世界が40年前にあった。この日本の各地にあった。おっちゃんは浴衣で団扇をばたばた。豆腐屋には桶を持って行って、その桶を抱えて家に帰った。暑い夏だったと思う。でも、苦しいような暑さでは無かった記憶がある。昨日も書いたが、苦しい夜って1980年代から突然と現れたような気がする。温暖化云々を聞き出したころだ。

こちらの感覚も年々ぼけて来て、また苦しい夏がやってきたくらいにしか思わない。周期的変動かもしれないので大騒ぎする程のことも無いのかもしれない。しかし、未だに国家として原発でいくのだと、補助金が必要だと国に借金をさせておいて、国民が甘い汁を吸い続ける体質がいつまで続くと思ってんだろう。パソコンに48ヶ月、ディスプレーに60ヶ月の資産価値を見出す大学法人にも呆れ返るが、補助金欲しさに国の箱物に手を合わせる風潮は何処まで続くのか。復興大臣じゃないけど、手足をすり減らして頭を使わないんだから貧乏でしょうがないんじゃないの?と言いたい私であります。


2011年7月4日

寝苦しい夜が続く。四畳のアパートでエアコンなく、関東平野の縁で湿りっけたっぷりの畠横には風も吹かず、夜中に起きて窓から全く空気が入って来ない感覚に陥ったことがあり、熱帯夜ではそれを必ず思い出すようになってしまった。突然、空気にのしかかられたようで、しかしそれを振り払えず、そんな夜である。今朝はそんなご同輩が多かったのか、妙に地下鉄乗車率が高かった。考えてみると単身赴任の方が月曜の朝に何処かに行って、金曜の夜に戻ってくるのだなと、引っ張るカバンにそれを感じ、全国民がその方向に向かっているのかと、まぁ、そんなものかなとも思ったりして。新幹線で何処かにお出かけなら、ゆっくりとお休みくださいと祈ったりして。

土日に仕事で木金休みの人が世の中に沢山いらっしゃるわけで、そうなってくるといろんなところで歪というか面倒というか、いろいろと良い点、悪い点が出てくるだろう。気の持ちようなのだが、小生とても毎日講義があって、朝、6時台には出勤して夜の9時までは講義で確実に拘束される日がある。何処かに休みがあるだけで幸せだと思えば、それはそれで仕方が無いような気がする。ただ、自動車産業は裾野が広く、親が土日仕事なら子も同様。しかし子は木金も仕事となれば、子は過労で死んでいくのではないか。それがかなり心配である。

工業化って要するに電気を垂れ流す産業であって、電気を使う為に出来上がっている仕組みで、その向こうには電気を売りたい人が居て、その向こうには燃料を売りたい人が居る。資源だからほじくり倒して使いきって良いと考えるのか、何億年も掛かってそこにあった上に出来上がった生命の進化系が、それを無くしてしまって良いのか?石油の地下層ってなんとなく夏場に頭を冷やすアイスノンのあったかバージョンみたいに思えるのです。地下が冷えにくくなる工夫として地球が石油を作ったとすると、それをばんばんほじくり出して熱を地下から地上に移している。温暖化ってそんなこともあるのではと、最近思うようになってきた。地下にあるものは地下に置いて置くのが良い。そんな気がする。

地熱をほじくり出して単に熱に変えて空気を温める。その結果が寝不足に繋がっているとすると腹がたつ。挙句、節電だなんだと不愉快を押し付ける。一体、世の中どうなっとんだ!と腹を立てようにも、どうにもこうにも暑苦しい。そんなもんだと納得すれば良いのだが、納得など出来ない。出来ないものは出来ない。一度、死んでみるとわかる。無駄に我慢をする気になれない。そんなもんだ。


2011年07月01日

月が替わった。小中学生の頃は二十日になれば忌まわしい学校ともおさらばだと、浮いた気分になったものだが、今は八月になろうが九月になろうが不可思議な行事に見回れ、今年に至ってはお盆休みもない。それが実体であって、先生は暇で楽なぁんて言われていることに、少々かちんとくる。自分の都合で資料をよこせなんて平気で言う。マナー違反、ルール違反。御社の教育はどうなってますかと、MOT的には零点だが、御社的には満点なんですねと、ため息も出ない。段々愚痴っぽくなってしまったが、兎に角世間は7月である。

上げないと総選挙でうたっていた消費税が、震災を出汁に上げるという。上げないと国は破綻するという。税金を上げないから破綻するのでは無くて、正直、無駄が多すぎて破綻する。同じ場所を年に何度も掘り起こし、土建業者だけを生かそうとするなら、日本人は全員が土建屋になれと法律で決めればよろしい。一つのことを多くの省庁に掛け持たせて、官僚と一部の企業のみが潤う仕組みを変えられない政治家を半数にするとよろしい。何も変わらない。国民もいい加減に気付け!

名古屋の減税なんとかの人達のていたらくを笑えない。就職予備校に成り下がった大学と、分かりやすい学科構成にしろと脅迫する企業。結局、ものを言うのは何人何処に就職したか。トヨタに300人就職しましたと威張る東山大学に、うちだって百人だと威張る鶴舞大。そんなに威張る相手か?人を殺せる機械を作っている企業だ。偉くもなんともない。ただ、その関連の仕事で食っている輩は国民の1割を越えるかもしれない。こうなってくると風見鶏はそっちを向くか。

消費税が10%になることを、秘書任せの生活を送る政治家が決める。使途不明金を集めるためにはなんでもする政治家諸氏。10%は諸外国に比べれは確かに安い事は知っている。知ってはいるが、諸外国の真似だけで良いのか。もういい加減に独立したら如何ですか。そう思う。


2011年6月30日

リーマンショック前だっただろうか、ちょっと忘れてしまったが、ガソリンがリッターあたり190円近くなった時があった。大先輩の教授方を載せて長野の奥地に理科教室で出掛け給油の際に「君、凄いことになってるね」とリタイアされたウルトラ大先生方が驚かれたので覚えている。その時、小生の通勤時刻帯ですら街に自転車が目立っていたことを思い出す。車が減って自転車が増えた。分かりやすい構図である。今、電力節約と叫ばれていて、その燃料代も馬鹿にならないと、また、CO2の削減も同時に叫ばれる中、街中の自転車部隊は何処かに消えてしまった。省エネと言うと自転車は増え、節電というと「ガソリンは構わないだろう」ということで自動車が減らないのか?

省エネと節電は全く違う。好意を持って化石燃料の利用を削減し、無意識に地球環境保全に協力することが省エネであり、我慢を伴うのが節電である。何故、電気を節約することに我慢が伴うのかと言えば、電気そのものは人間が怠惰に生活するために導入されたものだからだ。利用しないということは何処かに苦難が伴う。そんな仕組みだ。一度、電気に満ちた生活を送ってしまうと、そこから抜けられないようになっている。恐ろしい話だ。で、真面目なお年寄りは熱中症で死んでしまう。そこまで苦役を伴う仕組みが出来ている。エアコン漬けの肉体は汗腺が衰え体温調節が出来なくなっている。肉体まで怠惰になるべくある意味進化していく。結果、エアコンが無ければ死んでしまう。最早、生命体ではなく、ロボットと化している。電力で活動するタンパク質と言って良い。

この季節、6時を過ぎると日差しがきつい。昨日、今日と自転車通いだが、6時で最早暑い!暑いを通り越して熱い!これが梅雨明け後だとどうなってしまうのかと恐ろしくなる。まだ暑さに体が慣れていない時期である。しばしば山に行って汗腺を鍛えている小生ですらそうなのだから、電力性タンパク質と化してしまった後の高湿高温環境は、最早殺人環境と言っても過言ではなかろう。赤信号の交差点が日差しに照らされていると、思わず木陰で停止してしまう。ほんの数秒でも日射からは逃げたくなる。それくらい暑い。

被災者の避難所などの映像を時々見かけるが、全部が全部そうなのかどうかは正しい情報が無いので分からないが、エアコンの無い施設が避難所になっている場合はかなりあるだろう。赤字国債云々言う前に、産業用冷風発生装置などをどんんどん送り込んで、避難所から何処かに避難しないといけない状況を生み出す前に人命を本気で守る政治であって欲しいと願う。ただ、大切な事は自分の命が自然に晒された時に、自然に命を奪われないように、日頃から気を付けていることではなかろうか。公共交通機関がそこそこ発達しているので、名古屋のような大都市で暮らしていても、気合さえあれば日帰りでそこそこの山あたりに行って帰ってくることが出来る。普通の山歩きなら、確実に汗腺を鍛えることが出来る。大事なのは水があることで、水と鍛えられた汗腺があれば熱中症にはなり難い。オフィスには扇風機若しくは団扇と水と時々ポカリスエット。そんな体制で、早朝出勤とっとと帰宅で節電ではなく省エネ生活を目指しましょう。電力タンパク質なんてまっぴらごめん。そう思う。


2011年6月29日

見事なまでの箱物で、久し振りに呆れたというか感動したというか。愛地球博記念公園跡地に建設されている知の拠点。あれの税金使用説明は相当に困難ではないのか?知の拠点は、まぁ、百歩譲るとしてもサイクロトロンはどうなんでしょうね。確かにミクロ構造は見えてくるのだけれど、ミクロ構造を見ることに一所懸命になる学者が集まって、木を見て森を見ずの結果が山ほど出るのではないか。カレーの中のヒ素構造解析だけみたいな、そんなことにならなければ良いがと心配してしまう。知の拠点、兎に角、立派な建物ですよ。断層もど真ん中に走っているし飲食店も無い。心に余裕の無い建家で誰が何をたたき出せるのか。いい加減に研究イコール精神修養って理屈は辞めたらどうかと思う。国民を成熟させたいならまず国家が範を示さんといかんだろう。

知の拠点に出掛けるには藤が丘からリニモを使う。滅法、交通費が掛かるリニモだが、それしか無いから仕方がない。あれ、自動運転だと思っていたのですが、ドライバーがちゃんと居るんですね。完全にエレクトリックな機構で動く機械に人間が介在する必要があるのか?無理をして雇用を創出する必要は無かろう。これぞ人件費によって運賃の引き上げに繋がっているとしか思えない。朝夕は代混雑しているらしいのですが、平日の昼間に乗ったら、それこそ車両当たり乗車人数が数名という体たらく。突き当たり10万人利用者を増やしたいとのことなんですが・・まぁ、きついなと思った次第。

株主総会が各所で開催されていて、電力各社の様子が報道されていますね。原発反対、賛成が叫ばれているようですが、大元を考えれば、省エネと節電を混同していたりするところから切り分けて考えていかないと、話はまとまらないでしょう。ただ、一つだけ言えそうかなと感じることは、地下に穴を掘って隠すしかない高濃度放射性元素を含む廃棄物を出し続けてはまずいでしょうということ。放射線を出しても出さなくても様々な害を及ぼす元素をどんどん増やしていって、良いことなど何もないでしょう。その当たりからちゃぁんと考えないといかん。経済が不活性になるから?電気だけが経済を支える要素か?ちゃんちゃらおかしい。

知の拠点をはじめ、様々な箱物が未だに造り続けられていく。狭い国土であっても土地利用と箱物行政だけで食っていこうとする日本。LSIなんぞ人を何一つ幸せにしてはいないぞと思い始めている。知恵者がいがみ合ってバカみたいな毎日はもういいでしょう。もうちょっと賢くなれないものかと、自らを省みてそう思う私であります。


2011年06月28日

水流配管の接続確認すら出来ない企業に原子力を任せてはいかんだろう。しかも20トン。20トンと言えばやや大きい風呂桶20杯分で、これを多いというか少ないと言うかは感覚任せだが、有害放射性物質をそれだけ土壌にぶちまけたということでは、多過ぎるに決まっている。慌てていたからと許されることではない。

循環系が出来上がって連続注水が出来るようになったと聞いたとき、恐らく放射性物質蓄積槽で問題が発生するのだろうと思っていた。ところが極めて安直なミスで停止してしまった。これを他山の石として自らの戒めにも使いたいとは思うのだが、あまりにも単純なミスに呆れ返る。マスコミの落ち着いた対応振りにも驚かされる。この関連ではつっこまないようにと政府とやりとりがあるのかと感じる対応に吐き気がする。

いずれにせよ、人知ではどうしようもない原子力を町中に置いておくどうしようもなさを感じねばならない。仕事がないから原発を誘致してそこで働く。そんなことを平気で繰り返してきた日本である。銭金の貧困さより心の貧困さを嘆く。

自動車も人を跳ねる凶器だが、誰も存在を否定しない。便利さが不幸を上回ると、不幸に目を瞑るようになる。堕落の象徴である電気の利用で、その便利さに堕落しきってしまうと、原発も許されるようになる。例え広島、長崎で究極の惨劇があったとしてもだ。電気エネルギーはそれが見えない故に実に便利である。宇宙誕生の直後に生まれた電子の成せる技に感動する。ビッグバンで出来た電子を人が安穏と使っている。凄い世の中だが、原子炉はもう不要物と考えたい。水漏れもチェックできない人類に原子炉は荷が重い。そう思う。


2011年6月27日

遠州灘沿いに走る新幹線から見る浜名湖、あるいは東名高速から垣間見る浜名湖が全てであった。産業戦略工学専攻名物合宿「勝手な恒例」のYEコンビによる車中泊登山が、合宿場所の制約から湖北の山と相成りまして、あじさいがとても綺麗な山道を進み、とても整備された遊歩道を登ったわけです。あまり期待していなかった景色だったのですが、浜名湖を一望に見下ろせ、実に地図の通りの姿を見ることが出来ました。低山であっても山は山。若干の岩場もあり、実に満足。代謝を活発にし続けるためにも山歩きは必要ですな。これからの季節、低山は極めて暑いので2000m程度の標高の場所を選びたいですな。皆さんも日本の大地との対話を楽しんでくださいませ。

若い方々と膝つき合わせて話をさせて頂ける機会を持つのは有り難いことで、ウルトラジェネレーションギャップがある状況では御座いますが、一声掛けて頂けて感激の極み。そんなことも今の世代に出来るんだなと感心した次第。こちらが引っ込み思案になることなく、普通にしていてもまだ大丈夫かなと思ったわけです。都合によりお昼で退散いたしましたが、研究室でも木曽に行くなどしたいなぁと、大学院入試などでなかなか遊びにいけない日程を恨めしくおもったりするわけです。まぁ、梅雨だから焦っても仕方がないですが。

話はまったくふっとんで、スターバックスのお話。なんだそりゃとなるでしょうけれど、スターバックスオタクのY先生のお陰で「ほぉ~」っとなったこと。今頃何言ってんだと笑われそうですが、鶴舞大は東山大とは違ってスターバックスが無いし、某E氏的にはハイローストのあの味は体調が良くないときつい。山に行ってビールのんでワイン飲んで体調絶好調の状態で飲んでみるとそこそこに飲める。で、言いたいことはモアワンカップ。二杯目は100円で飲めるサービスが有るんですね。一人がフルプライス(カップ持ち込みで20円引き)で、そのレシートで次は100円で飲める。某E氏はおこぼれのレシート価格で飲んだわけです。これは産業戦略的に成功事例だろう。

Y先生のお話によれば、ドトールなどではこれらのサービスが無いそうで、一度、このサービスを知ってみるとペアで行くならスタバのほうがいいなぁとなりますわな。いつからこのサービスがあったのか知らなかったですが(行かないもん)類似のサービスを展開する店舗を探してみたいですな。固定顧客を増やす工夫は、単に売上増だけではなく、味の一定化など、飲食店では大切なサービスを維持する上でも有効でしょう。マスプロ製品の品質維持・向上にも繋がるはずで、工業製品生産企業にもあっても良さそうなサービスと思った次第。勿論、2個めからお安いなんてことは出来ませんが、同様の考えでリピーターを獲得する新しい仕組みを考えていくのも面白いなと思った、浜名湖SAのミノムシYEコンビでありました。


2011年6月24日

今週は梅雨の影響もあって5日間連続で地下鉄を利用した。トヨタ系で実施され始めている木・金休日、土日出勤体制が如実に現れているように感じた。金曜日は特に企業内教育による補助金対象もあってか、早朝の地下鉄ががらんがらん。本当に走りだすのか恐ろしい雰囲気であった。このまま地獄に堕ちていって二度と上がってこれないのではないか、そんな恐ろしさすら感じた。生活様式はいろいろあって良いが、電気をシェアして活動時間を分担するというのは、川の水をシェアして反物を水洗いしていた時代に似ている。平穏無事の証かもしれない。

一方で、電気シェアに耐え切れない中小企業の倒壊が進んでいる。名古屋市内のひったくり件数がうなぎのぼりと、高値安定の本物のうなぎとは違って悲しい状況も増えている。ただ、これは自動車一極集中の仕事体系にしがみついてきた結果であって、何もリーマンショックや東北震災の煽りでは無い。出生率が低下し、高齢者人口が増えているのだから、いずれ近い将来、(2015年と言われているが)がたぁんと大学入学希望者が減少し、それが新規労働人口の減少に直結する。政府は安直に留学生を増やそうとしているが、留学生が国に戻って日本と仲良くなってくれるから日本は海外の留学生によって成立し続けるという凄まじい方程式の解を出している。本当にそうか?

中にはそんな解もあるだろうが、実に希望的観測である。日本の中から新しい幸せを生み出す学術技術が生まれ続けそれを用いた実際の価値の高い生産物が生み出され続けていなければ、そっぽを向かれてはいさようならである。羅生門の鬼ではないが、全国総ひったくりの国になろうというのか?

突然、人が居なくなった地下鉄の恐ろしさはそんな未来の前倒しを感じるからかもしれない。地球を削りとって板に加工して自動車とうそぶいている国。石油が無ければ電池があるさと、訳がわからん理屈でLi電池などをバカスカ作って、結局、電気を利用する場所を減らそうとしない人類に智慧は無いのか?まぁ、なんとかなるんでしょうね。その頃には自分自身もどうにかなっちゃっているような気もするので、ほったらかすことにしよう。そんな週末である。


2011年06月23日

今日は京都で瞬間芸。ちなみに名古屋市が流布している七夕にどっかで誰かがしゃべりそうなプログラムでは、どっかの誰かは現れませんので。公がプログラムを作ると講演者に確認もせずにびっくりさせられることがあるので要注意。最近流行の流言にはくれぐれもご注意を。まぁ、どっかの誰かが行かないほうが、内容は濃くなるでしょうからそれは問題ないでしょう。

明日の夜からも移動があり、今週は5日間の移動で、いよいよ名古屋での存在確率が下がってくるかなと、今年も旅の始まりで少々グロッキー。天気不安定な昨今、蒸し暑さもあり、なんとか水分補給を続けながら切り抜けていくしかない。ちなみに七夕も名古屋には居ない。織姫に逢いに行くなら艶っぽいが、そんなものではないので悪しからず。それにしても蒸し暑い。昨夜は熱帯夜。扇風機が止まると起きる、そんな夜であった。

昨日の日本中の消費電力経過を見てみると、世の中、相当の努力が為されているなと実感致しました。企業のワークシフトが最も大きな効果を生みだしているのは間違い無いことでしょうが、エネルギー節約はやれば出きるのだと感じる。勿論、もの作り関連では大量生産拠点を海外に持っていかないといけない等々、国力維持、発展においては、今後、リーダー諸氏の努力・研鑽が強く求められる。今まで以上に世界でのシェア争いに飛び込んでいかないといけない。ある意味、チャンス到来であろう。

無駄を省くという単語をより深い思考に置き換えて、夏でも蛍雪よろしく、碩学によって事を成す。そんな積み重ねを前向きにし続けることであろう。自らの行動が真逆に行っているような気がしないでも無いのだが、可能な限りじっくりと腰を据えて、10年後の世界をイメージしつつ日々先読み先取り先創りに努めていけば、次世代の活力も生まれるのではないか。人と人が出会い続けることである。画面の向こうには日本の未来も人類の将来も無い。断言する。


2011年06月22日

梅雨空で湿っぽい。梅雨の晴れ間ではあるが、水蒸気リッチで夕方には雨が降るらしい。不確定要素が極めて高く、地球シミュレータだなんだ言ったって、天気予報なんざ当たりはしない。当たらなくても複雑な要因があって正解が出ないのだと逃げればすんでしまう数字の世界とは違って、リアルな天気は気まぐれで表情豊かだ。言い訳なんかしないで、原子炉建屋が崩壊していようがどうしようが、じゃんすか雨を降らす。人間の都合なんてしっちゃいない。それを忘れ過ぎていないか。

自然と調和して、自然の力を貸して頂きながらいろんな道具を作ってきた人が、自然と対抗出きるみたいに自惚れて、細胞は作るは原子炉はじゃんすか作るは。人間が自惚れれば自惚れる程、自然のしっぺ返しがデカくなってきているような気がする。日本でも大型の竜巻被害が目立ってきたし。自然エネルギー買い取り法案なんて、自惚れの極みだろう。自然を買い取れとは何事だ。こんな国民に天罰下らない訳がない。

自動車製造は震災から立ち上がって、加速してきているようだ。駅近くのトヨタディーラーには試乗用のHV自動車が6台、昨日の内に姿を現した。もの凄い景気の良さである。どんなに疲弊していても自動車さえ作っていれば、また、それに関わる産業に携わってさえいれば生きていけると錯覚できる国に十分に仕上がっているようだ。新聞紙上で原発は危険だから反対と言う論調があっても、自動車は人を跳ねるから反対という声は全く上がらない。そんなもんだ。

どんなにくたびれきっても組織人である限り、その代わりが現れるまで命を削り続けないといけない。削り切るかそうなる前にバトンを渡せるか。マンモスとの戦いの時代から繰り返されてきた事だろう。当たらない数値計算に血眼になって、人は必ず死ぬという事実に目を背けていると、命の輝きの本質を見失う。車屋が空っぽの世界が美しいのではないか。そんな気がふとした今朝でありました。


2011年06月21日

高速道路の1000円化が取りやめられ、新幹線は超満員。座席に空白が目立ったちょっと前とは大違いで、ぎりぎりに飛び乗ろうと思ったら座席が取れないことを覚悟しないといけない。敏感だなと思った。ぐるぐると大阪市内を動いてみても乗り換えの混雑は一昔前を彷彿とさせる有様。何となくだが健全だなとは思う。

ただ、地方の衰退は顕著化していて、末端の小型バスには乗車は我々2人だけ。これではいつ切られるか解らない盲腸ライン。生命線のバスだけに存続は願うが、激しい赤字状況を見てしまうと、それをお願いするのも辛い雰囲気だ。

関西方面への混雑ぶりとは裏腹に、お江戸方向の移動が少ないようにも感じる。帰りの新幹線のがらがらぶりには驚かされた。行った人はどこに収まったのか?九州は震災特需で売り上げ景気だけは延びているそうな。製造そのものはロボット達がやってくれるので、仕事が増えるわけではないが。

原発や基地で補助金漬けにして国民を麻痺させてきたつけが出てきたかなと思う。実は働くところが殆ど無い日本である。スーパーコンピュータで世界一になろうとも、描かれるものは絵空事である。現実と向き合い冷静にもの作りをしていきたい。改めて思った大阪行きでありました。



2011年06月16日

その昔と言っても10年程度の前の事だと思う。雨が降ると手に傘がある。歩行時、特に階段の上り下り時に後ろを気遣って傘を持つ手を止めて胸の前で持つようにしている紳士を見た。何故気になったかと言えば小生もずっとそうしてきたから。他にもいらっしゃるのだなと不思議に安心したことを覚えている。それが今では絶危惧種で、鞄を人にぶつけるのは当然の行為で、傘などは濡れていようがどうしようが、前後左右なりふり構わずぶつけていくおばさんに対抗しているのか、背広紳士諸氏も同類と化してしまった。歩行禁煙どこ吹く風、地下鉄出口付近の交差点の吸い殻の汚い山。もう世を憂うのは止めよう。

勉強する時間を山程に持っている学生の羨ましいこと。つまらないお役を背負って青息吐息、何とか学問の楽しさを伝えようと四苦八苦するが、結局のところ何も伝わらないことに力尽きる。リセット世代には何も伝わらず、それは学生だけに限らず、その親世代からそうなっていることに最近気付き始めた。最早、化石人種は何を言っても相手には何も通ぜず。同じ思いを諸先輩方も感じていらっしゃったのだろうなと、反省することしきり。でも、もう少しは勉強したのだと思う。三四郎では無いが、どんなに難しそうな、そしてつまらない本であっても大学の図書館の本には書き込みがあった。それにたまげたものだ。

話を傘に戻すが、日除けから魔除けになり、雨除けと進化してきた。進化なのか凡化なのかは疑わしいが、一つの形でも多くの能力を発揮している。色とりどりの傘を持つ人を見ても楽しい。ここに何かヒントがあるような気がする。大企業がタイムシフトで電力消費削減命令を乗り切ろうとすれば、傘下の中小はそれに引きずられていく。国民を挙げての省エネ政策とは言えそうにない状況にあっても、大企業の思惑だけがまかり通る仕組みだ。いっそ学校の類もそうしていけば、カレンダーの枠組みに束縛されてきた生活を見直すきっかけになるかもしれない。日本は日本であると。

一斉に仕事をして一斉に休む。お役所からすれば便利が良いことだが、考えてみればおかしな話だ。自然を相手の農業とて、収入増の為にビニールハウスで重油を焚き、その結果を民間人が甘受しているとすれば、そのサイクルもかなりおかしかろう。四季の流れを自分勝手にねじ曲げてエネルギーを浪費してきた生活の末路が原発転覆だ。放射性物質を吸着して冷却水を循環させたとて、高濃度放射線源が何をしでかすか。廃棄問題だけではなく、制御装置そのものにも影響を与えるだろうし、想像の範囲で作ってきた装置が、だだっこを抑えつけられるとは思えない。雨に濡れた傘を振り回す背広諸氏も勉強しない学生も同様だ。この国にしてこの国民ありだ。自らを律せねばと思う。そんな梅雨空だ。


2011年6月15日

昨日、お江戸に出掛けて参りました。午後からのお仕事でしたので、一旦、鶴舞に出てお仕事をさせて頂いて、そののち、上京するというのぞみ号マジックというか、ひたすら動き続けるというか。福島転覆以来、片っ端からお江戸のお仕事を断り続けてきたわけですが、断りきれない事象も少しは御座いまして、本当にやむを得ず出掛けた次第。出来る限り被爆を避けるため地下にもぐり続けるわけです。ターゲットのビルの間近の地下鉄出口を事前にチェックして、えいやっと飛び出してビルに侵入したわけです。お江戸のお昼の会議ということで油断していたのですが、配られる水は「室温」・・書類仕事なので結露が嫌だということで、なるほどとは思ったのですが、ひたすらまずい。さらに凄いことに、エアコンが入らない・・発狂するぞ、これ・・お陰で眠くならない。ナルホド、さっさと仕事を終えようと気合が入りますな。自分の分担をさっさと終えてとっとと名古屋に戻って参りました。

若干、気になったのが、東京駅等々、お江戸の随所でなんとなくなんですが元気の無さを実感したのです。見下し目線で地方から出てきた人種を瞬時に見分け、体当りして吹き飛ばしていくあの勢いが無いのです。そもそも「人口密度が下がったか?」と感じるのです。新幹線の座席も余っている。乗車している人種もおでかけおばさま達が目立ち、殺気立つビジネスピープルが視界に入らない。こりゃ、いかんぞや。

お江戸の中で動いたのは東京駅から九段のビジネスビルまでで、殆ど地下街、地下鉄車内。福島転覆以前なら、確実に神保町に立ち寄って本を買ってレコード買ってってコースなんですけれど、もう、お江戸の地上を歩く気には全くならないですな。ガイガカウンタでちゃんとチェックしていて、おらが街は大丈夫なぁんて言ってますけどね・・・ムニャムニャ。

お江戸に行ってくると「名古屋は安穏としていてやっぱり田舎だなぁ」(好きなんですよ、東京よりずっと良いです)って感じたんですが、今回は名古屋に戻って今までにない活気を感じましたよ。なんかこのまま首都になっちゃったらって、冗談抜きで感じましたね。名古屋の人って何があっても変わらないっていうか、底力を持っていそうで、頼もしくなりましたな。単にでかい機械を作ってでかい利益を上げるのではなく、小さくても良質なものを作ることに気合を入れて良い仕事をしなければと思う私であります。


2011年06月14日

原発はもう古い技術なんだとイタリア人が叫ぶ。そんな様子をテレビで見た。成る程、そうかもしれない。古い、ある意味、枯れた技術でないと基幹電力として利用できない。最先端ではなく、普通に動くから成立する技術である。問題は人が作ったくせに人にどうすることも出来ない廃材を作り出すことだ。プルトニウムもストロンチウムも飛散しないから分析しないと、飛散していることが解っていながら逃げ口上を打つ姿勢には、相変わらずだなと嫌気がさす。捨てたら土に戻るというものづくりが基本だろう。食べても大丈夫。それが本質だ。便利であればあるほど、本質は人間の手には負えなくなる。その究極が原発かもしれない。

LEDも携帯電話も危ないような気がする。全ての金属と化合できるGaが地上にばらまかれているわけだ。携帯に至っては高濃度の砒素も含んでいるわけで、日本のようにリサイクルが進んでいない諸外国において、焼却処理されてしまう端末が後を絶たないことから、地下水などへの砒素汚染が広がりはしないかと危惧する。Gaがいろんなところにべたべたくっついたらどうなるのか単純では無いが、碍子の絶縁破壊などが発生し出せば電力送電テロとも言える程の被害がでるやもしれない。便利であればあるほど、そのしっぺ返しはでかい。

日本の大地に限って言えば、世界中の雑草が生えるだけの環境を持っているそうで、それを資源に転じない手はなかろうと思う。農民票対策で雑草だけを生やしている田圃や畑をもっと有効活用しないといけない。東北の海辺の田圃が使えないのであれば、山間の遊ばせている田畑の復活など、心ある国民に地面を有効活用して頂く、柔軟な土地政策も必要だろう。どうせ縦割り行政の壁に阻まれて実現しないだろうが、取り敢えず言っておく。災害復興にすら縦割りの壁を振り回す日本のお役所には反吐が出るし、それをどうすることも出来ない政治家連中のやる気の無さにもあきれかえる。今こそ政治家の本領を発揮するときではないか。平時には政治家なんぞいらんのだ。尤も、平時などはありはしないが。

今日は久しぶりにお江戸に出る。地表に出ないといけないビルに行かねばならず、種々の物質を体中に装着して名古屋に持ち帰ることになる。お江戸の下水処理上などは凄まじい濃縮が起こっていると聞くが、公共のメディアは全く報道していない。自らは自らで守る。その意識なくしては箱根の東には入れない。そんな日本だ。


2011年6月13日

三号機がふっとんっだとき「チリに逃げよう」と叫んだことは記憶に新しいのだが、チリはチリで大噴火によって被災状態。その噴煙がオーストラリアに到達し、オーストラリアで航空便が欠航に追い込まれたという。北半球から南半球に逃げれば気流の関係で放射性物質攻撃からは逃れられるかなと思っていたら、南半球は南半球で巨大火山の大爆発問題。逃げるところが無くなってきた地球である。朝、NHKを見ているとテロップが出て東北地方で震度3以上の地震というのが毎日出てくる。一日一回どころか数回出てくる。地球の活動とは凄まじいものだなと感じるのである。溶けた溶岩が海に流れこむような映像を見せつけられると、いつか冷えきってしまうのではとガキの頃は思ったりもしたのだが、小生が生きている間には冷え切ることはなさそうだ。

原子力の有効活用を否定するものではない。ただ、電力というものの使い方、電力との生活の仕方を考える時に来ているのだと感じる。組織的に電力を使い出したのは、日本では福沢桃介さんの試みからでありりまして、せいぜい100年ちょっとのことなのである。その程度の期間しか電気の有難味を甘受していない人類だが、もう既に曲がり角にきたということだ。それだけの期間しか人を喜ばせないものは、元来、使ってはいけないしろものではなかったのかとも思う。原子力の代替として天然ガスが筆頭で次が石油ということになろうか。今の調子で電力を使い続ければそうなる。

石油とは偉いもので、燃焼用の部分を取り去った残りの部分でも、人工樹脂など多くのものが製造できるのだが、燃焼部分も多くの化学製品原料となる。燃やして無くしてしまうと、それらを造り込んでいく分が少なくなっていく。原子力利用の裏側では樹脂製品の低価格化という戦略も成立していたわけで、脱原子力はともすれば化学繊維産業が苦境に立つかもしれないという側面もある。麻とか木綿とかの製品の復活が成されるのかもしれない。どんどこ江戸から明治の文化・文明のリバイバルが成されるのではと思う。そのほうがよっぽど幸せではとも感じる。

ただ、学術技術の世界は一国で後戻りしていることを許さず、常に1番で在り続けなければならないのは必然である。それはそうだが、闇雲にLSIの素子密度を上げるという方向なのか、文化を組み入れた新しい科学技術を創造する方向に進むのかは、それは学者の考え方だ。その価値が一番であれば良くて、研究で使用する電力が一番である必要は全く無い。いよいよ本年度の出張が攻めがスタートする。午前に会議、ちょっと東京大阪、夜は講義みたなことが来年の4月末まで連発し続ける。ますます無愛想になりますが悪しからず。


2011年06月10日

沖縄は梅雨明けらしい。夏に沖縄に出掛けたことはないが、日中に出歩くと別の色になると聞いた。強烈な日射が独特の植物を育て、強烈な泡盛も育つ。基地がこれ程似合わない土地は無いなと現地で思った。尤も、2度の沖縄体験もコンクリートの建物の中で過ごしたのが殆どであったが。沖縄が梅雨明けになると、内地のこちらは雨ざぁざぁの時期に入ったということだ。早ければ今宵、遅くとも明日は雨ざぁざぁとなってくるらしい。明日も委員会でお仕事だからたまったものではない。しかし、天からの季節のものは有り難く頂いておく方がよろしい。傘を差せば良いだけのことである。

とある企業の方とお話をする機会を得た。九州方面ではお仕事が成立しているが、その他の領域では、国内での製造業の過去のような発展は見込めそうに無いとのこと。小生も正直にそう思う。隣国の発展を見れば明らかで、特許戦略など屁にも思わない国の勢いは、恐らく、大戦前の日本の侵攻の鏡写しではなかろうかと思う。ハムラビ法典では無いが、特に悪事の事項は返ってくる。それが目の前で起こっているだけだろう。しかし、裏を返せば隣国ではものづくりの活動の場があるということだ。そう思えばよろしい。

もう一つ、汚泥処理のお話を伺った。当然のことではあるのだが、分散した放射性物質は汚泥処理で濃縮される。お江戸の汚泥はその濃縮物質に満ちているそうな。それが羽田沖に埋め立てられる訳だから、東京湾の魚も食べられなくなるわな。原発でも同様の事をしようとしているが、濃縮しちゃった奴をどうする気なのか。地下水脈の断絶もせずにのほほんと処理を続けているが、汚染は空気だけが経路ではない。目をつぶってはいけない。愛すべき国土の問題である。

梅雨の末期の大雨が放射性物質を国内外に浸透させる。何と恐ろしい世の中であることか。電気を生んで電気関係の産業を生み雇用創出、税金増大。勿論、電気の存在を否定はしないし、有り難く利用させて頂いているのは事実である。狂った様に動き回るロボット、大型計算機がばんばんと電気を食っていく。その源は壊れなければ問題は無いが、永久不滅のものなど世にはありはしない。目をつぶって次に送る。そんな人類の生存の仕方が自分達の未来を閉ざした。それだけの話なのだが、農薬漬けよりも恐ろしい食べ物を食べさせられる時代がくるとはおもわなんだ。今年から梅雨が嫌いになった。みんな暢気だ。凄いと思う。


2011年6月9日

大田区大森から蒲田に掛けて、極めて多くの町工場がある。見たことがない人達は、NHKなどで紹介される「見た目工場」街を想像されるだろうが、その実力は「普通の民家」に見える工場にある。「こうじょう」と呼ぶより「こうば」と呼ぶのが相応しいだろう。そんな街中で育っていると、無いものは作るという当たり前のことが骨の髄に染み渡る。それが三つ子の魂であって、付け焼刃では追いつかない。「無いものは作る」が徐々にスケールアップしていくと、「あるものは作らない」となり、結果、「世界で唯一のもの」ばかりに興味が行くことになる。理屈から入っているわけではないので裏付けが取れない場合があるから、口八丁の大学出に買い叩かれて泣きを見て、日本から出ていくか軒先にぶら下がってあちらの世界に行くことになる。そんなところで育った人間が、どっかで研究だなどと言っているから世の中解らない。

何で急に大田区の話を持ち出したかというと、某ホームページを開いたら、突然、大田区で加工相談を受け付けているよというニュースが飛び出してきたからだ。「加工相談ねぇ・・」と首をかしげた。「こんな刃物が新しく出来ました」と言うと、一番にTOYOTA関連がやってきて「ただでよこせ、使ってやる、それを使えばコストダウンで、どっかの工程がこんだけ安くなる」なんて話になって、お断りすると「てやんでバカヤロウ、仕事を出来なくしてやる」と大々的にアンチキャンペーンをして頂ける。素晴らしい世の中だなと思う。新聞に原子力村のお話が出ていたが、それよりも自動車村のほうが余程広く根深く、そして巨悪である。話を大田区に戻すが、何を言いたかったかと言えば、加工相談ではなくて、加工が出来る人達が頭を捻って新しい製品企画を打ち出す時代だと言うこと。当然「こうば」の皆さんではアイデアも限られるだろうから、一点突破の今まで全く関係ないと思っていた分野の小売店舗に出掛けて話を聞くなどすることだ。恐ろしい程にアイデアが出てくる。日本の底力はそこにあるのだと感じている。

発明家などと呼ばれる不思議な人種がテレビに出てくることがあるが、要は年中、何かを考えている暇があると、何かを思いつくということだ。それなら何か目的を持って毎日行動している町の人がどんな時に笑顔になっているか、徹底的に観察することだ。フライス盤とにらめっこしているだけでは加工方法は思いついても、何を作って人の笑顔を導くかを創造することは難しい。何とかスクールとか、何々相談なんてのがごまんとあるが、それで世の中が明るくなったと聞いたことがない。

マスプロダクトに関わると、数万個作ってなんぼの世界になる。数万個も同じものが世の中に出回っているのかと思うとどきっとするが、人の数、家の数を思えば「まぁ、そんなもんかな」とも思ってしまう。これが麻痺のきっかけで、近い将来、数万個のゴミが出てくるということだ。震災で何万軒もの家屋が粉砕され瓦礫となった。木材は様々に活用される道が見えてきたが、国家が税金を大量投入して作ったコンクリートの瓦礫などは「本当にゴミ」にしかならない。国土に埋立をするのだろうが、どんどん人が住めない土地を増産している。加工相談ではなくて将来にわたってゴミにならないものは「こんなふうにやらないと出来ない!」って加工手法・仕組みを作らないと、結局、ドアの向こうは首吊り死体ばかりなりとなるだろう。明日は、いや、今日は我が身と身を引き締めていくばかりである。


2011年6月8日

就職活動真っ盛り。今の時代、修士の1年生が走り回る時代である。何故に走り回るかと言えば、一つは将来への猛烈な恐怖であろう。昨日まで日本が誇る○○のように讃えられていた技術が、突然、身売りしますと無くなってしまうのだ。入学してから徐々にターゲットを絞って「ここだ!」と思ったその年に、その企業が無くなってしまっていたとしたらそれはたまげる。たまげると同時に焦る。焦りはお手つきを生んで、何も持たぬまま戦場に出ていってしまう。雇用と就職希望者のミスマッチが生まれる主要因に思える。もう一つは、殆ど勉強をしてこなかった、若しくは大学側がきちんとした基礎を身につけさせる教育を成す体制を作ってこなかった故の知識レスが生み出す、爆発的なやる気の無さである。言い換えれば猛烈な待ち受け姿勢。与えられないことのみを批判する姿勢では、研究などつまらないものであろうし、研究がつまらなければ就職活動でもしようかとなろう。

目を世に転じてみると、震災特需、リニア特需と、何かの変革をきっかけに産業を活性化し、お金を回していこうという機運がある。決して悪い考え方ではない。そりゃぁ、どう考えても人の弱みにつけ込んでいるだろうという商売はよろしくない。ただ、ここで問題なのは稚拙な考え方は数年後には役に立たないものづくりとなっていることだ。今、被災地で役に立っている、あるいは役に立とうとしているツールは、いざ鎌倉で日頃の研鑽を怠らなかった企業が生み出しているものであって、ぽっと何かを思いついて人の生き死にの現場に投入できるものでは無いと言うことだ。これと同様に、大学3年間を適当に流して、あるいは大学院1年を就職活動に振り当てたとしても、自らの人間性と能力を売り込むことなど出来る筈が無い。そもそも売り込むものが無い。

文科省は講義をきちんとやれ!と言うが、講義をきちんと受講して学問を身につけよと学生には言わない。支配下にある出先機関に圧力を掛けるのは易く、お金を払ってくれる受講者にあれやこれや言わないのは、これまた易い。勉強なんぞしなくても、自分がやりたいことが出来ると思っているわけだから、そんな器にアラカルトを用意して手ゴマのジグソーパズルを埋めていこうったってうまく行く訳がない。学生数が変わらないのに教員数が30~50名も減っていっている地方大学において、社会責任を果たすことが出来るのかどうか、公共財となる学生の教育が出来るのかどうか、まさに岐路に立っている現状である。どうしたいのか解らない社会に追従して旧態然とするのか、社会をリードする方針を打ち出して、部分的にでも挑戦をし始めるのか。

日本は、なんやかんや言ってもくじけてはいない。いない様に見える。凄いことだと思う。原子炉がメルトスルーの状態になっても、半年後には原発周辺に帰宅できますよと叫び続ける政府や国の機関に対して、マスコミも国民も安心しきってしまうその国民性。地震の巣に居ながらも、公共財と称する箱モノに税金を投入し続けることで糧をばらまかれるのを待っているブロイラー。ここ数ヶ月、くたびれすぎて怒りすら沸いてこなかったが、段々といらいらしてきた。若者自らが自ら研鑽することの大切さを三つ子までに叩き込み、国家の将来は自らにあるのだと、人間性の基礎を整然と体得し、社会に挑戦し続けられる人間教育こそ大学の勤めであろう。国からの補助金漬けで腑抜けになった企業に迎合し続ける学問の場を維持し続けようとする国家などもはや要無し。それを証拠に、壊れた政府であり続けても国はあるではないか。そこに気づかねばならぬ。そんな日だ。


2011年06月07日

初めてしみじみと近所の農協の花壇を眺めた。ナスが植えられている。流石に農協と言ったところだが、他の草花とのバランスなどお構いなしだ。ナスが地元特産だったり、何かのシンボルなのかなと思ってはみたものの、何も思い浮かばない。職員の方の独自判断にてなされたものかもしれない。ただ、まぁ、生き物の成長を眺める楽しさを与えてくれたことには感謝することにしよう。近代的なビルの花壇にナス。このミスマッチが許されるところが地方ということなのだろう。

農協の隣に三菱自動車があって、そのショーウィンドウからアイミーブが見える。EVモデルであって、更に隣の売るモノが無いトヨタのプリウスと路線は違うが走行時の地球温暖化ガスの排出量が少ない車だ。そのような価値宣伝が全く無いのだ。自動車販売社としては、環境に優しいと叫ぶと、他の環境にハードな車の売れ行きに響くのだろうが、エネルギー問題が国際的話題となっている今は、それを言い出しても良いのではないか。隣の農協の花壇をみよ。のんびりナスである。エコではないか。

ドイツが政策として原発廃炉を決定した。エネルギーの総使用量の10%削減と共に実現したいという、極めて高い思想で感激した。見せかけの京都議定書やその次のなんだったか忘れてしまった、直ぐに作っておいた抜け道に逃げ込む日本とは大違いだ。ただ、天然ガスをばんばん燃やすという。一時のことであって欲しいのだが、炭酸ガスの大量排出はやはりまずい。今のままの勢いで氷河や永久凍土の溶出が続いては、温暖化が加速的に進行する。南方の伝染病などに耐性の無い状態のままそうなれば、パンデミックどころの騒ぎでは無かろう。

電気製品、機械製品が売れないと社会が回っていかない。昨日、某企業殿にお伺いしてお話を伺ったが、世界の最先端に関わっていると、その世界の要求が日本の要素技術を上回ってしまっていることに気がつく。しかし多くの国民はそれに気づかず、いや、気づいていても知らぬ振りをしているのかもしれないが、今、作れるものがエネルギー効率が悪い過去の製品であっても、売り続けて食っていこうという、あまり否定は出来ないが先進国の人間がやることでは無い考え方でものづくりを馬車馬の如くに続けている。その姿を多くの大企業に見るとき、日本は終わっているなと実感する。ビジョン無き金モノ主義に振り回され、一カ所を何万回も掘って、それを労働の分配と称し税金を無駄に流し続ける政治は、いい加減に止めないといかん。その怒りが震災であるならば、間もなく東海地方にも凄いのがやってくるだろう。そんな気がする曇天の朝である。



2011年06月03日

地下鉄のホームに降りていくと「むっ」っとする。特に雨漏りで湿気が多いことも要因だが、待機している地下鉄がドアを開け放ちエアコンを動作させ、惜しげもなく廃熱していることが主要因であろう。地下鉄の改札からホームに抜ける数本の階段やエスカレータ程度のチューブでは、湿気を多量に含んだ高温の空気を、上昇気流という形で持ち上げて冷却するよりも、地下鉄一両から発生する熱量のほうが遙かに大きいと言うことだろう。殆ど乗客が居ない早朝の始発ですらそうなのだから、ラッシュ時の栄などのキーステーションにおける地下街での熱量発生は凄まじいものだろう。なんだか発電に使えないかと真剣に考えてしまった。

原発以来ということでは無いのだが、より省エネ、より自然なエネルギーの電気への変換ということを強く意識してきている。電気なんか使わない生活がベストであるが、ゼンマイの蓄音機とて、SPレコードそのものは電気が製造に関わっていることは間違いないので、まるっきり電気を使わないというのは、最近流行?の断捨離が相当に進んだ状況にならないと困難である。従ってそこまでは考えない。ただ、無駄に地球を暖める行為は削減せねばならぬ。大パワーのパソコンを定常的に使うよりも、省エネ型(ノートPCにあらず)の思考速度と同等の反応速度を有する機械を常時使うだけで、どれだけの無意識な無駄が省けることか。そんな無意識の無駄を探していくことも重要だ。それを今朝、地下鉄で感じた。

何故に感じたかと言えば、今日から半袖シャツに切り替えたからだ。日頃は決してスーツなどの鎧を纏うことのない小生だが、袖一枚でこうも感覚が変わるものかと、日常と変化があった時にこそ、いろいろな気づきが与えられるものだなと実感する。意識的に自分の頭の中を切り替えて非日常を作り出せる訓練をするべきだなと思う。そんな訓練が非常時への対応にも有効なのかもしれない。地下鉄一つ取ってみても、走行中に激しい音と振動が体に伝わってくるわけだが、これなども大いなる無駄である。当然、地下鉄のチューブも痛む。その振動が大地に連動し、低音公害を生んでいるやもしれぬ。

無防備の状態になったときに自分がどんな応答を示すか、時々はイメージしてみると良い。その時々の意識の変化が何から生じているか考えてみるのも、気づきの発掘に繋がる。原子炉が冷えたら首相を辞めるなんて輩はもうほったらかして、国民一人一人が独立国家の意識で望まないといけない状況の中、生命力は気づき力と一体に強化していかねばならぬ。なんだかなと嘆くことなかれ。自分は取り敢えず生きている気分から解脱してはいない。何かを成すことが出来る。そう信じて今日も夜中まで講義をこなす私であります。


2011年06月02日

朝から大雨である。梅雨だから仕方がない。揚子江上流では悲劇的干ばつで、水上交通網が麻痺しているという。乾燥して飛散した中国の大地が梅雨と共に日本にやってくる。日本の大地は大陸方面からの飛砂の堆積と雨による自損とのバランスで成り立っているのかもしれない。ミクロに見たらそんなものなのかもしれない。未曾有の危機とは言っているが、東北震災と同様の津波が過去、数回にわたって陸地を舐めているわけで、未曾有でもなんでもなく、普通の自然の営みと思うしかない。そこに近代人間の物質偏重生活が乗っかっていただけだ。

内閣不信任というか、管総理不信任案が国会に提出されたそうな。確かに管総理、危機管理能力はマイナスだし、将来展望も増税一本槍で国民には何の光明も見せてはくれない。しかし、それは全てが自分達国民そのものでは無いのか?首相にばっかりそれを押しつけていいのかとも思う。しかし、リーダーは一般国民と同レベルでは困るという思いもある。選挙公約云々は震災前の事ではあり、増税しないと国の借金がべらぼうに増えていくことも理解できる。しかし、増税目的が無駄遣いをしたいからとか、過去の失策を埋め合わせたい(過去とは自民党政権だったが)からというのは頂けない。やっぱり不信任か?

関東大震災時の内閣の動きが報道されて比較されるのだが、当時は情報統制が出来た時代で、何をやってもどんな裏取引をしても一般国民は知らされなかった時代だから、今の様に何でもかんでもオープン主義で、実際にかなりの情報がダダ漏れしている社会では無かった。いわば政治家は辣腕を振るうことが出来た時代だ。今、インターネット、テレビなどが閉ざされたと仮定しよう。するとじわじわではあるが、鉄道が繋がり、街頭が灯りと瞼の向こうに復興する東北の姿がイメージ出来るかもしれない。しかしインターネット等の報道で国民は見てしまっているから、それを前提で政治家は行動することになる。官僚だって尻に火が着く。

喧嘩をしている場合では無いのは、何も有事に当たっての場合だけではない。良い議論の応酬と速やかな行動。その2点が求められているなかで、それが出来ない首相であれば、速やかな退陣が必要なのは間違いなかろう。もう一つ大切なのは先述のように、見てしまっている国民もマスメディアの妄言に惑わされることなく、自らの意志を持って国政に参加するべきだ。自らの一票を捨てるような輩には、今の危機を語る資格は全く無いし、国民とは言えないのだ。マスメディアの報道はチャンネルを獲得できる様、選択・脚色されていることを認識していなければならない。見方を決めるのは受け手である。自らの感性を様々に磨く良い機会だと考える。そう思いたい。


2011年06月01日

六月である。月が変わる度に同じ事を繰り返すが、もう、六月である。あっと言う間である。いや、「あっ」と言う間もなくやってきてしまった感がある。淡々と毎日をこなすだけなので、何か大事を成し遂げたという充実感もなく、何かに追われるせっぱ詰まった感覚だけがある。生きているという事は平穏無事であることに違いないのだが、年々、日に日にこの感覚は大きくなっていっている。

ここ数年、様々な仕事や行事が土日に開催されることが多くなってきた。学会の活動や高校生向けの大学のイベントだったりするわけだ。長い目で見れば効果があるとは思いたいものの、実際のところどうなんでしょうね。瞬間芸的にスペシャルなイベントに参加をしたとしても、その子供達が接している時間は、小学校であれば親兄弟でしょうし、高校生ともなれば同僚、教師、予備校教師となろう。それらが理科嫌いだったりすれば元の木阿弥。

全国的に大学教員を小学校から高校までに派遣しようなんて試みが始まっているが、そのギャップに年々恐れをなす。流石にπは3ですと言わなくて良くなったが、カラフルな図鑑、教科書に慣れリセットボタンに育てられている人達の、見ることが知ること、失敗は繰り返すことが出来るという環境が作り上げた、一方向視野性は老人には対処しようがない。猛烈に加速してきている。「売れればいいんでしょ?」と、短期的儲け主義の社会に大学が押し流され、下流域まで行き渡った社会だ。毎日流れる「核汚染水が何処に漏れているのか解らない」という報道にも驚かない。その程度のものづくりしか出来ない国家だと言うことだ。

その昔、新幹線の部品を作っている企業の製品開発者がTVで言っていた。突然コストを下げろと言う。総点数を減らす為に強度を下げてもいいから工夫しろと言う。本来、日本が誇るべき機械の製造現場がコストだけが幅を利かせている。「こんなことで良いんですかね?」とため息をついたその方の表情を忘れられない。そんな方々がどんどん減っていくし、人材製造現場の大学では相変わらず「企業に分かりやすい学科構成、高校生が就職に不安を持たない入学のあり方」を優先しようとする。改善の鎹にならないといけない立場が、完全に安易な通路になっている。戦ってはいるが相当に疲れてきた。気がつけば六月である。ため息も出ない。


2011年5月31日

ドイツが2022年までに原発を全面停止するという。全面廃止にならないところが原発のミソで、停めてもすぐに撤去出来るわけではない。また、数千億円も投入して作った施設を無くしてしまうというのには凄まじい抵抗もある。浜岡にしたって「原発を停められてしまったら、国からの補助金も労働も無くなるではないか!」と地元からは猛反発が出る。もしも福島と同様なことが起こったら、それはそれで補償をと叫ぶだろう。銭金が全面に立つと人の生き死によりもそちらに目が行く。

スイスは2034年の脱原発を目指すそうな。これはちょっと先でありまして、20年先のこととなると「どうかなぁ」と眉唾ものの気配がある。元来、石油を燃やして排気ガスを出すよりは原発との論点に立っていると、ちょっとやそっとの根性では原発を撤廃できない。スイスは地熱を利用出来る国でもあるので、観光地と地熱発電所建設の両立を目指してお手本となってもらいたいものだ。多くの不可思議な法律や補償制度のお陰で日本は原発に頼らざるをえない状況だが、日本もかなりの部分で地熱発電所を建設できる。火力・水力に比べれば随分とエコであるし、原発程の恐ろしさもない、動き続けるプレートから供給されるエネルギーのおすそ分けを頂いては如何か。

東北復興を錦の御旗に、原発問題と並行して消費税増税のお話が出てきた。予定調和の中で進む謎の政策である。本来、選挙公約で成された公務員の20%削減など何処吹く風。やらないと言ってた消費税増税は率先して実施する。このあたりが日本人の政治離れを生むのだろう。激しくうんざりである。5月エンドで消えていく企業が多くあると聞くが、企業が消える前に国民そのものが消えてしまうのではなかろうか。そんな勢いである。

原発を停めると国家における総発電量が減少する。停止している火力を動かせば老朽化しているということもあって燃費が悪く燃料費がかさむ。更に炭酸ガスもじゃんじゃか出す。大型の工場が停止して仕事がなくなり従業員が路頭に迷うから原発を停めるべきでは無いという、まぁ、もっともっぽい議論が成される。それでは原発が停って、操業停止を余儀なくされる企業とそれに関わる末端の企業で働く人々、家族の人々はどれだけ居るのか。どのような職種で、どれだけの社会貢献に繋がる事業になっているのか?カーナビなんてものならいらない。自動販売機なんてものもいらない。断捨離では無いが無くても良いものが沢山ある。台風一過でも世間は汚らしい。自転車で走っても清々しくない街。原発なんて今すぐ止めてよろしい。そうした時、何がどうなるかがちっとも議論されず情報が入ってこない。そんな日本もいらない。そんなところだ。


2011年05月30日

徳重駅の近くに溜め池があって、そこから万葉歌人にも詠われた扇川への導水路があるのだが、随分前からそこにトタンの波板が引っかかっていて実に見苦しかった。それが今回の大雨で下流に押し流され、桜の木の下のブリキ廃材の景色が無くなった。無くなって見るとえらくすっきりした景色になる。しかし、それは下流に流れただけで本質的に撤去されたわけではない。また、どこかに引っかかって醜態を晒すのであろう。晒すのはモノが汚した景色ではなく、ゴミを流した人間であり、自然に置いても土に返らない物を作り出した人間である。

情けないなと思うことに、新築なった地下鉄の通路に大量の雨漏りがあったり、今朝、明確に実感したカビ臭があったりと、節電云々言う前に、公共のエリアがどうあるべきかしっかり考えないといけない。安物買いの銭失いという言葉があるが、技術、気持ちが安物になっていないか。東北の災害で日本の製造業が相当のダメージを受けた。自動車製造が半減し、鋼材製造が半減し、それを作る機械、加工する刃物が半減し、必要な人材は半減以上に不要になり、今ですら新築公共物件が雨漏りする程度の技術しか無い日本は今後、どのような末路を辿るのか不安である。

文化と社会ということに尽きるのだと思う。遠く神の声を聞いて生活をしていた江戸までの生活を捨て、西洋文明にひれ伏しそれだけが正しいと真似てきた日本だが、心の通わない大量製品が生活を豊かにするはずがなかろう。テレビが大型になって何が嬉しい。冷蔵庫が大型になって、週末だけ買い物すれば良くて、残りは朝から晩まで働き通せとはどんな理屈だろう。大型消費財を購入して現金を環流させて、そしてそれらを捨ててまた繰り返す。哀れなお話ではないか。

教壇に立って感じるが、多くの者に自ら学ぶという本質的な姿勢が無い。何をしたら良いのか解らなくて当然だ。しかしそれなら与えられるのを待って死んでいくのか?自ら学ぶ意識の無い者が選択肢を目の前にして、そこから何を選び出せるというのか。高度経済成長と絵に描いた餅的な物が溢れた世界を豊かと勘違いしてきた日本人の末路がこれであろう。台風の大雨でも流せない根本の怠惰な精神が増大し続ける限り、眠れる夜などありはしない。あのブリキの波板はどこにひっかかったのか。ちょっと探してみたくなる。自然に戻すことが出来るモノづくりで、生活の質を向上させる文化を広めていきたい。そんな事を考えさせてくれたブリキの波板に感謝しつつ、何かが違うなと感じている私であります。



2011年05月27日

台風が大きく成長して月曜日当たりには東海地域も勢力範囲に入りそうな勢いだ。2号にして既に上陸ムードである。昨年に比べてジェット気流が下がっているということか。地球規模の気流の流れなどは数十年の周期で変動するらしいが、それが極端に早くなってきたということなのかもしれないし、単に特異的状況なのかもしれない。地球にとってみれば人間がどう考えようが勝手にしろと言うところであろう。それくらい泰然自若としていたいものだ。

最近、大変に気になっていることがある。路上の犬の糞の未始末状況が目に余る。自分さえ良ければと言うことなのだろう。こんな泰然自若は御免被りたい。ペットだかなんだか知らぬが、犬だって生理現象を発生させるわけだが、それは飼い主そのものの生理現象と思ってもらわねば困る。その昔は世間体という言葉があったが、今日、誰がどこの人なんてことは全く解らない。台風の雨と風でどっかに流されるのだろうけれど、全くもっておぞましい。

高校生のマナーの悪さも鼻につく。運動部なのだろうが巨大なバッグをどかんと地下鉄の床に投げ出し、自らの高名を高らかに辱める。高名入りのバッグの、なんと悪評看板であることか。人の振り見て我が振りということもあるのだが、事例が飛び抜けすぎていて反面教師にもしようが無い。もっとも、社内で大声で騒いでいるのは大概はおばさん諸氏であり、高校生と東西の横綱というくらいのものかもしれない。いずれにせよ醜い日本の有様である。

土日は大雨のようだ。屋根の無くなった原子炉にも雨水が入り込み、酸性雨が次々と原子炉燃料を溶かし出す。手の施しようのないものを作ってしまった末路である。自らがそうならないように反面教師とさせて頂きたいものだが、存外、人間そのものが原子力発電所よりも危険な状態にきているのかもしれない。台風は何も流し去ってはくれない。自らが撒いた種は自らに戻る。戻ったときに喜べるような種まきをしたいものだ。


2011年05月25日

明日から再び雨らしい。ほっと一息の傘無し日である。駅の途中にディーラーが沢山ある。各社ある。トヨタ系など2カ所にある。その中で愛知トヨタ点には展示車すら無くなって、試乗車のみになった。ぽかんとした空間にテーブルだけが並ぶディーラーの光景はかなり異様だ。その隣のホンダにしろ目の前の日産にしろ、展示車が溢れ返っている。三菱など表に置かれた販売用車両のディスクブレーキが随分前から錆び付いている。この差は一体どこからくるのか。そして、こんなに市場での受けが違うのであれば、日本にこんなにも沢山の車屋なんていらないのではとも思う。そして、部品供給の中小企業の存在意義も無くなっているのではと思ってしまう。

今朝の新聞に来春の大卒者卒業予定者の内定が滞っていること、昨年度卒業の学生の未就職率が過去最大になったことが取り上げられていた。判官?贔屓のマスコミは採用しない企業が悪い!みたいな切り口だが、売り手側の大学人からすれば、勉強させない教員と勉強しない学生が悪いと思うしかない。その通りなのだから仕方がない。事実、きちんと腰を据えて入学時から様々な学びを「謙虚」に行っていた者はすんなり就職させて頂いている。これは駄目だなって感じる者が跳ねられている。当然である。また、国内企業数もどんどん減っているわけだから、増えた学生に対して減った企業との数の関係を考えれば、未就職者が増大していくのは自然の理だ。マスコミが哀れむことではない。哀れむなら採用してやれと言いたい。

小生は4年生の時に○○化学みたいな、半導体露光用感光材を製造している中小企業に第一志望を提出させて頂いた。大学の就職担当の先生は「君の様な考えの者が増えてくれば、日本の未来はあるかもしれない」と、もう二十年以上も昔のことだが、そのお言葉を忘れない。日本の大企業を守るという政府の大方針もそろそろお辞めになっては如何か。巨大電力企業も、配電先を大型工場等に特化して、各個の電力は自分で投資して太陽電池と燃料電池、充電池の組み合わせで凌げ!とすれば良いのだ。中央集権的な巨大電力配電はもうやめる時代だろう。電気は空気と同じに成りすぎた。怠惰の源泉の電力と、生命の根元の空気と同じであって良いはずはない。

自動車が走り回って、それを買い換える為だけに給料を稼ぐ仕組みは断ち切られなければならない。ゴルフ等という芝刈りで巨大な大地を潰し続けてはいけない。巨大構造物を作り出すために山を切り崩し、折角自然が固定した炭酸ガスを放出させてはいけない。江戸時代で十分であろう。国力増強という美名は量から質に転じていくフェーズに日本は入っていると思う。今一度、勤勉の価値を見いだし、真に必要なものを見いだすべきだ。それに取り組む産業を興すべきだ。知恵が災害等で散逸しきってしまう前に国家的に取り組まねばならぬ。そう思う。


2011年05月24日

横殴りの激しい雨である。雨量もかなりのものだ。高い建て屋に居ると遠くがネズミ色に霞んで見える。今日の午後には晴天の方向に向かって明後日から再び下り坂。日曜の向こうには台風か、台風崩れの低気圧がやってきそうだ。記憶に懐かしい梅雨の風景である。ここ数年、空梅雨だとか何時終わったのか判らないような中途半端な梅雨空ばかりだったが、今年は立派な梅雨らしい。アメリカでは竜巻被害が続いている。洋の東西を問わず荒れ模様である。

雨空を傘を差して歩いていると、どうしても俯き加減になるので、日頃見えないアスファルトの亀裂だの、元気な雑草だのが見えてくる。雨に倒れたり倒れなかったりの状況を見ていると、晴れている時は元気が良く、少しのストレスで倒れてしまう日本の経済状況を見るようだ。結局刈り取られてなくなってしまうのが落ちなのかなとも思うが、自ら新しいものを産もうとしない、あるいは新しい価値観を持って社会に貢献する事が出来ない企業は、モノが飽和成熟した社会では消えていくべきであろう。同業他社が活躍してくれるに違いない。

この夏の長期予報が当たるのかどうかは解らないが、暑い夏になるとのこと。病院や福祉施設ではエアコンの利用は必須だ。それらの場所で省エネなど考える必要は無い。一般家庭にしわ寄せが来るようだが、向きになって町中に出る必要のない一人しか乗っていない乗用車を作る必要など無く、工業・商業関連企業が猛烈な節電を試みるべきだ。大学などもそうで、その昔のように夏は教授が団扇を使いながら「あちぃあちぃ」言いながら講義をすれば宜しい。学生も濡らした手拭いを身に纏って受講すれば宜しい。熱気も出さないような元気の無さなのだから、エアコンなど必要ない。教壇の周りだけやけに暑いとアンケートなどに掛かれるから、今年は静かに冷たく語って差し上げようかとも思ったりもする。

いずれにせよ、あっても無くても良いと感じられるものは無くても良いのだ。小生のデスク上には消え去って欲しい書類が散乱していて、最重要なものだけが見える状態でその他は下層に堆積している状態だ。文句も言ってこないから、そんな仕事は最初から無くても良かったのだなと思うことにする。一日一廃棄を決めて、こつこつと捨て始めてはいるものの、小生も無駄な集積が好きだったものだから、次から次へと無駄が現れる様に、これが日本経済の本質だったのだと、何もやってこなかったのだとがっかりする。勿論、これは素晴らしいものだと、大切にこれからも使おうと取っておくものもある。しかし、多くは無駄である。本当に必要とされるモノを作る研究に勤しみたい。そんな人を育てなければと握り拳を作る私であります。


2011年05月23日

梅雨に入ったのか、極めて蒸し暑く、雨勝ちになってきた。台風もどんどんやってきそうな気配で、東海地域の水瓶は心配なさそうな年周りである。真夏になってみないと分からないが、何となくだがそんな気がする。原子力が停止したら、昔ながらのダム頼みになってしまうのかとがっかりしてしまうが、流しながら発電する仕組みを取って、後生にゴミを残さない今の生き方を作っていかねばならない。

災害の財源として国家公務員の給与を下げるという。過去、下がったら上がる方向に向かったことが無いので、なんだかどんどんモチベーションが低下する。頼まれ仕事を極力排除して、無駄な面談等も一切排除。そんな方向に向かわざるを得ない。自分が死んだら人助けも何もあったものではない。学生さん達の成長だけに関わっていくこととする。後はみなさん、頑張ってねと言い切ってしまおう。そんな気になる。

気になるが、居室に入れば謎の書類が山積みで、作らなければならない治具もある。結局、口ばっかりの愚痴になっているわけで、こんなもの、地下鉄の移動中でなければ書けた代物ではない。地下鉄も早朝の始発となると暢気に座って戯言を書ける移動書斎と化す。偉いもんだ。

アイスランドの火山が大噴火だ。今回は風向きの関係でヨーロッパ空輸への影響は小さいとのこと。なんだか凄まじいエネルギーが地球の中に貯まっているような気がする。台風も妙に日本を狙って発生してくるし、自然災害てんこ盛りの年周りになりそうだ。ぼちぼちやってきそうな東海・東南海地震であるが、すわ一大事になったら、バカの一つ覚えと言われようとも机の下に潜り込む等、頭部と逃げるのに必要な足周りをしっかり確保しましょう。これは戯言ではなく本当のこと。週の頭にはそれだけは確認しておきましょう。



2011年05月19日

6時1分発の地下鉄に乗車する。駅に向かう道中、見かける人は数名。途中、お堂があって、掃除する人には地下鉄を利用する日には必ず出会う。小生は地下鉄の時間に縛られているから決まった時刻に移動するが、お堂の方は何に縛られているわけでも無かろう。日の出が遅かった頃にはお見かけしなかった。太陽の動きに合わせて生活をしていく。何とも羨ましい限りである。

太陽があるから地球があって、限りない偶然の上に我々の生活がある。どんなに都合良く考えても、今のバランスは調子が良すぎる。数億年の進化の果てだと言うが、そんなことで片づけて良いのかと、偶然の重なりに恐ろしさを感じる。感じすぎると神様が出てきて宗教掛かってしまうのでこの当たりで考えを止めてしまうのが良い。

電気を極力使わない生活を目指そうとするのだが、お仕事となるとこれがなかなか難しそうだ。ものづくり一つとっても、例えば真空ポンプを手回しでやろうと思ったら、それこそこれはえらいこっちゃ。近くに川があって、安定な流れで水車を利用できて、機械駆動で灯台よろしく錘を持ち上げ、それが降りる力でポンプを回すとかね。ゼンマイ仕掛けの蓄音機はえらいものだと改めて思う。太陽の周期で生活する姿勢を見てとれる。

今、自分がやっていることは、自分がやっていない事を除いた部分である。電気を使わないようにと考えてあれこれ考えるよりも、今、電気を使って何をしているかを考えれば、それ以外は、直接には電気を使っていないことかもしれない。間接的には衣料品だって、食料だって、製造、輸送に電気が使われる。自動車に乗っても製造過程には必ず電気が入る。光、水、空気、電気、何だか似たようなものだ。あって当たり前に思ってしまって、それに感謝していかないと酷い目に遭う。効率、効率と叫び続けて人は何を得たか?今日はそんなことを考えながら過ごしてみたい。


2011年05月18日

原発を国策で推進してきたから、その事故における保証は国がするという。電力販売を前提に企業がツールとして作り上げてきたシステムは国が責任を持つというのもおかしな議論に聞こえる。電気を使う機器を販売して金儲けをするためには、儲ける銭の高に応じて電源が必要となる。電力を作ればそれだけ売れる。電力があるからロボットが売れるのかどうかは分からないが、全ての国民が電力に依存した生活をして、お金を貫流させている。電気を売って儲ける仕組みもある。原発で儲けてきた企業が全面に立って保証するのがまずは筋。東電関係者、その株を持っている人達(支援者ですな)が真っ赤な裸になった後、その後、インフラの代表として国が助け船を出す。その順序であろう。いきなり銀行は東電債権を放棄しろとか、税金で面倒見るからってぇのは筋違いだ。

電気は便利だ。もの凄く便利。機械的動力と違って、電線さえあればエネルギーを運べる。今や非接触で十分な動力源となりえるエネルギーを伝達することすら可能である。電力ならではであって、水車やガソリンエンジンだとこうはいかない。機械的な伝達機構が必要で、その保守も大変だ。便利だから使ってしまう。アルミの鍋なども代表例で、軽くて長持ち。でも、アルツハイマーなど様々な病気を巻き起こす。便利の裏には不便がある。当たり前なのだが、人はそれを無視してしまう。愚かなことだ。

いろんな道具を作ってきているが、そこでも電気の力を多々借りている。だからこんな戯言を書いている小生自らもろくでなしの代表格なのだが、そんなことは心の棚にしまいこんで、今は電気を極力使わない、あるいは、徹底的に無駄を省いた活動を展開する方法を考えたい。電気を動力としていたものを機械式に置き換えていくとか、単に昔に戻るのではなく、インテリジェントに機械化していきたい。停電でも動く透析機械とか、そんなものが出来れば、一大事の時に多くの患者の方々も助かる確率が上がるではないか。

昨夜、久しぶりに月を見た。満月では無かったものの、月だなと思いつつ眺めたのが妙に久しぶりであった。それ程にきゅうきゅうとした毎日を送っている。貧すりゃ鈍する。鈍し続ければ即ち心の荒廃なり。そうならないように心掛けたい。学問とは素晴らしい。そう信じたい。


2011年5月17日

中小企業連携を自治体が後押しをして、なんとか首吊りの紐を断ち切ろうとしている。私的な活動に自治体が関与するのはどうかと思うが、更に、後押ししたとして何を作ったら誰が買うのかまで面倒を見ないから、結局、補助金は無駄になるし、更に強烈な欝になって首吊りの連鎖を生む。所詮、ビルの中でソロバンをはじいている人々は、刃物で指先を切ったことなど無いし、油にまみれたこともない。ものづくりのちょっとした心遣いを知らない連中が偽善者ヅラして助成しますと言ったところで何にも産まない。そもそも、今の日本に必要なモノなどありゃしない。省エネ型メモリ?メモリが必要な機械が無くなったほうが人間らしい生活にならないか?金を使わせるための仕組みづくりにやっきになるよりも、必要最小限の生活で豊かな気持ちになれる世の中づくりが必要だろう。

こんなことを書くと堕落したとかいろいろ言われちゃうんだけど、原発を全廃したとして、石油は繊維等に回すと、残ったのは天然ガスくらいしか残らない。燃焼させることが出来るガスは、幸いに、腐敗した状態からも発生するので、みんながお酒を飲みまくれば風呂ぐらいは沸かせる。それは冗談として、現状維持は相当に難しい。難しいが医療等、成し遂げ続けないといかん部分もあるわけだから、それにチャレンジしようとすることはちっとも堕落ではなくてむしろ無謀と評価されることが正しい。無茶と無謀のキャッチボールで前進しようという、今の気持ちはそんなところだ。エレクトロニクス?ちゃんちゃらおかしい。

福島原発のメルトダウンが次々と明るみに出てきた。とっくの昔に分かっていたことを今まで良くも騙し通した。まるで黒澤明の影武者みたいだなと関心したわけだが、ミッキーマウスマウス似の原子力保安院某は一体どうやって釈明するのだろうと、微妙に楽しみではある。原子力政策の終焉宣言くらいすれば大したもんだが、それでも原子力は安全だって、言うのだろうか。溶けちゃって燃え続けるプルトニウムにじゃぁじゃぁ水を掛けて、それがどんどん蒸気になって大気に飛び、海に入って世界を駆け巡る。夏までに福島に帰れる?帰しちゃいかん。推進してきた中曽根さんをはじめ、古老の政治家の皆さんは反省の上に立ち、今は未来に向かって核は人間の手に負えないと猛勇を奮い若手を鼓舞するべきだ。

ものづくり日本というが、スマートフォンの新製品ばかりが目について、その他には汚す原因を無くすことをしないで発展を続ける空気清浄機とか、そのまま食べれば良いのに粉にして食べるゴパン焼き機とか、もう何が何だかわけがわからん。曲率10nmの刃先が出来たって、はてさて何に使うのか。そもそもそれを活かす機械が無いぞ。無いなら次はそっちを作るかと、なんだか無限ループ気分の私であります。


2011年5月16日

炉心が溶けてましたとか、まぁ、そうだろうなとは思っていたのですが、何が驚いたってそんな重要なことが発生直後にセンシングできなくなっていたこと。日本の技術ってそんなレベルなんなんだなって呆れ返るばかりです。ただ、原子力に関しては、例の放射線被曝下で動くロボットが日本に無いって、ヒステリーを突破して威張り散らしていたおばさんがTVで写っていたが、それに関してはロボット学者の肩を持つ。自民党政権時代、特に原子力発電関連の安全に関わる研究を提案すると「安全だからそんな研究は無用!」と一蹴され続けてきた歴史があった。センサに関してはSiCで放射線センサを作らないかって、某加速器関連同級生からお話を頂いたが、あんにゃもんにゃで立ち消えてしまった。まぁ、炉心溶融なんて大騒ぎがそうそう発生してもらっては困るし、それ専用のセンサを作るってのも実証実験を考えるのすら大変だし、なかなか難しいのだろうけど、でもねぇ、溶融でっせ・・・

溶融してもらっちゃ困るから、取り敢えず停止しようよって停めに掛かった浜岡だったわけですが、冷却系に海水が混じっちゃったとかね。おいおい、ほんとかよって。こんなことを繰り返すから原発やめようということになる。小生としても、こりゃぁ、やっぱり再起動は駄目だなって気になりましたね。原発そのものがウルトラスーパー危険だとは思っちゃいません。いないんだけど、原発を安全に動かせる人間の真面目さが、日本には残っていないような気がする。日本を支える裾野の技術者集団は生真面目でいい人ばっかり。しかし、原発に関わる全体を理解して、一つ一つの部品に必要な事実が公開されない以上、要求される性能を形にすることは生真面目だけでは無理。技術の縦割りの弊害がもろに出ている。

自動車も凄まじい精度で出来ていて、特に軽自動車なんか良く走ってるなぁと感動します。あんなに短いホイルベースでどうしてスピンしちゃわないのって、激走する軽自動車を見ながら感激するわけですな。走行中にばらばらになったりしないしね。何が言いたいかと言えば、アッセンブルの段階で品質を制御している企業がいるわけで、そこでチェック機能が働いているということですな。原発はそんなもん無いもん。東芝、日立にしたって、一人のスーパーエンジニアが全てを把握して部品品質を評価しきれないですからね。そんなものを作っちゃいかんということですよ。

冷却水に突如として海水が混じる。法律に規定していないから報告しない。その体質がある限り、発電所という概念が成り立たないような気が致します。火力発電所が安全だって誰が言い切れますか?なんだか全てが怪しく見えてきて、ゼロから全部やり直したほうがいいんぢゃないのって自転車に乗りながら思った今朝の私であります。


2011年05月13日

格納容器に穴が開いたという。燃料は温度は下がり気味であるとは言え、崩壊状態と言って良い程に形状を留めず、穴の開いた格納容器の底に沈殿しているという。崩壊中の核燃料が水中で崩壊して、その水が外にそのまま出てきているという。何かの作業が出来るとか、そんなレベルのお話ではない。

神話程恐ろしいお話はない。つっついてはいけない領域を人間ごときが作り上げるからこのようなことになる。何を言っても後の祭り。全ての原発を停止して、核によるエネルギー発生を放棄しないと後生に禍根を残す。借金だけで無く、準静的に爆発を続ける原爆を各地に設置しているようなものだ。

浜岡は停止して安全対策の後に再起動すると言っているが、もうそのまま解体してしまったほうが良かろう。使わなくなった燃料のリユースなど考えず、マントルくらいまで穴を掘って地核にお返しするのが良かろう。

調子に乗った自惚れ野郎が痛い目にあったということだ。技術はそれを作り出した人間の鏡。醜さがあるならば、それは人間のエゴの表出。勇気ある撤退。それを為政者に求めたい。


2011年05月12日

大雨である。既に梅雨の末期的な降雨であり、五月末には梅雨明けかなと思ってしまう。突風的に原発を使わない方向に向かっているわけで、CO2をどんどん排出していく傾向にある。昨日の今日ということでは無いが、電気を食い続けていけば成層圏の炭酸ガスが増加し、地球は加速的に暖まる。そんなこと知ったことではないとぼんぼんと石油や天然ガスを燃やし続けるわけだが、恐らく、20年後くらいに北極の氷が無くなったときに人類は気がついた振りをするのだろう。「まだ、南極の氷があるさ」とマスコミは言うのだろう。

北極の氷が溶けたとして何が問題だといわれても、直ぐには答えられない。ベーリング海峡を抜けてきた海流が暖かくなったらどうなるのかと問われても、冬が暖かいかもしれないと、どうでも良いことしか言えない。中電が原発を止めるぞと言った途端に「どうしてくれるんだ」と威張り散らすトヨタの社長殿のようなことは出来ない。底が地球温暖化の問題の根元にあろう。今の症状が10年後に出てくる。時間軸がくせ者だ。

この時期に台風が来ることは異例だが、台風が近傍を通ることすら遠いことと感じる中部エリアである。ここ数年、台風による災害から遠ざかっていた。今回の台風1号とて、中部エリアでは台災害にはならないだろう。大雨が東北エリアで暴れないことを祈るのみである。

電気を使わない社会。無駄な物を作って経済を回さない社会。見成熟の日本人にそれを望むのは無理であり無駄である。CO2の排出同様、無駄は止めたほうが良い。何が無駄ではないのか。全国民がそれだけを考える一日があっても良いように思う。そんな国に私は住みたい。


2011年05月11日

国の借金がいよいよ900兆円を超え、数年後には1000兆円を突破するだろう。備えが無いから憂いがある国の代表だ。国民に銭がある?確かに一大事となれば寄付が凄まじい勢いで集まってくる。その心根の暖かさは銭よりも尊い。しかし、冷静に金額を見てみれば、物資としての寄付は積算が難しいが、現金としての寄付をみれば、こんな表現は宜しくないがせいぜい1兆円のオーダーだ。国民が銭を蓄えているから、国家が数百兆円の無駄遣いを毎年実施して良いことにはならない。景気対策に何兆円もつぎ込めと、先代の与党の人達はわめき散らすがそんなことをやってもらっては困るのだ。所詮、使われない道路が増えるだけの景気対策など論外である。

原発が止まると元気まで止まりそうな勢いの報道が成されているが、むしろ、省エネは人間の行動そのものが肝腎要であって、工業生産云々では無いのだと叱咤するのが良い。先日、健康診断なる恒例行事が実施されていた。成人諸子には「メタボチェック」なるひょうきんな検査がある。「去年と同じなんて信じられない!」と妙な評価を頂いたが、14時間以上の労働を強いる鶴舞大学に勤務していて太るエネルギーなどあるはずが無かろう。要するに省エネは「食べたエネルギーを次の日の朝食まで残さない」ことに尽きる。継続して太っていく方は、人より仕事をすれば良い。電気を使わず歩けば良い。立派な省エネである。電気を使わないと表現するのではなく、活動すると表現すれば良い。

それにしても900兆円を越える借金だ。927兆円というところらしいが、そうなってもへっちゃらで居られる政治家諸子は如何なものか。本当に必要な物だけに身の回りを削っていっては如何か。ペーパーレスなど何処に行ってしまったのか、毎日、毎日、紙の命令書が降臨してくる。最近は封も切らない郵便物が増えている。研究用の物資は削るわけにはいかないので、これが増減するのはやむを得ないのだが、一見して廃棄される書類の配布が止まないのは、無駄遣い組織の末期症状と感じる。確かに300通を越える電子メールから今日が締め切りの重要書類を見つけだすのは至難の業だが、議事録を印刷して配布するなど愚の骨頂だ。そもそも会議はその場での議論が重要であって、後の確認なんぞ、性善説の小生には無用である。

大雨である。地下鉄の駅に向かう途中に何本か川がある。凄まじい水量である。こんなところから電気を取り出す工夫をしていくのだろう。ゴミが絡まるというなら、ゴミが出ない環境と、ゴミを出さない人間教育をするのが良かろう。醜い心根のままの銭持ち社会など意味がない。今日は水曜日である。既に宣言しているとおりサマータイム日であり、7時スタート16時終業である。それ以降はメールも見ないし電話にも出ない。悪しからず。


2011年05月10日

世の中には恐ろしいものがあって、その最たるものが締め切りである。先日某所で某人に「昨今のやろうどもは銭をもらってその後始末に追われるばっかりで、本当にやらなければいけないことを疎かにしやがる!」と、まぁ、一般論を言われたのだが、思い切り胸に刺さる、卒倒する。未だ昨年度末までの報告書が完成しきっていない。本日、横槍が入らなければひょっとすると一段落付くかもしれない。何とていたらくで恐ろしいことか。

浜岡原発の停止が決定されてしまった。中電で発電している電力は火力が中心であって、原子力はそもそも十数パーセントなのでCO2を出しまくればぎりぎり何とかなる数字だ。しかし元来が売れる分だけしか作っていない健全経営体質だから、その十数パーセントをもがれただけで偉いことになる。夏のフル稼働中にタービン等発電・送電機構にトラブルがあったら、余剰は無くあっと言う間に大損害社会だ。機械の点検も出来ない状況に陥る。電気が無くても何とかなる生活体系に今からでも変えねばならぬ。

以前も書いたような気がするが、随分前から雨樋を利用した小型水力発電機構を検討してきた。ただしこれは雨が降らないと何にもしない粗大ゴミと化す点で、全く実用性に乏しい。小川のせせらぎがあるところではそれを活用すれば良いが、せせらぎ用に作っておくと、今度は雨の日に確実にオーバーヒートする。こんなもの一つ取っても自然エネルギーの活用は、口では簡単だが実行はえらく困難を伴う。自然エネルギーを実際に発生させたことが無い学者が新聞紙上を賑わすが、そんな連中の言うことを聴けば、世の中パニック一直線だ。試しに大雨の日に雨樋を断ち切ってその流れを見てみるが良い。そのパワーと、町中が洪水になることが良く理解できる。人の生活は矛盾だらけだ。

電気が無くなってもゼンマイ式の蓄音機から音楽が途絶えることはない。元禄時代や江戸末期の生活様式に日本は戻るのでしょうね。となると、人の数があまりにも多くなっている現実が壁なんですな。今の人口をベースに新しい社会構造を構築する。原発が1960年台にもしも動き出していなかったなら世の中はどうなっていたのか。そのあたりから考え直してみるのも良いかもしれない。締め切り地獄からそろそろ空気が吸える地上への脱出が叶いそうだ。ぼちぼち真面目に学者をしないといかん。そんな今日である。


2011年5月9日

東京名物雷おこし、大阪名物粟おこし、名古屋名物掘り起こし、食えぬは名古屋ばかりなり。ほぼゴーストタウン化している曙通り商店街のアスファルト道路を掘り起こし、永遠に続くかと思われた景気対策が終わり、以前にもまして路側のコンクリートとアスファルトの段差が大きくなり、自転車では危険な状況に仕上がっている。積極的に自転車事故を誘起し、自転車利用者を恐怖のどん底に叩き落とし、道路という公共の土地を自動車一色で塗りつぶそうという、如何にも名古屋らしい戦略に吐き気がする。名古屋・トヨタ戦略に引っかかることなく、アスファルトの上を走行する。ならされた道路は気持ちが良い。阿由知通から入って棺桶屋がある。一区画にずっと続く戦後の長屋を見て進むと新しい時間有料駐車場が出来つつあった。その前に何が建っていたか忘れてしまったが、空間があると同様のものが出来上がる。時代に逆行していること甚だしい。

菅さんの思い付きで経産省を吹き飛ばしていきなり浜岡原発停止依頼が成された。首相の一言であるから従うべきなのだろうとは思う。ただ、安全が確認されたら再起動して宜しいというのは実にしょぼい。必殺の問題先送りに他ならない。資源の無い国だから、石油発電よりもランニングコストが安い原子力と、後の首相の中曽根さん達が原子力の平和利用を旗頭に作ったしくみが原発だ。最初から電源開発目的で民間企業主体で作り上げたところが諸外国とは全く異なる。廃棄物等の問題の責任を国は企業に押し付けることが出来る仕組みのまま今に来て、そしてそれが現実となった。50年も以前から今日の状況を予測は出来なかったのか、目を瞑っていたのか。いずれにせよ、もう、原発は止めても良いのではないかなと思う。

電気電子工学教育類に居ながら電気を作らない方向の主張をして良いのかというお小言には耳を貸さず、今よりも消費電力3割削減の世の中の在り方を考えたい。日本一国で成立できる考え方ではないので、いきなり全ての原発を停止させようという野蛮なことを言うわけではない。実際のところは止めれば良いとは思っている。思ってはいるが、いきなり家庭では冷蔵庫が停止し、地下鉄が停止し、街に車が溢れ出したら光化学スモッグ立国に逆戻りだから、それは考えない。自動車製造ラインでの労働経験を有する小生は、そのロボットの多さ、消費電力の凄まじさを身を持って体験している。それらの製造ラインの生産量を維持して失った電力を民間に押し付けるとすると、東京・大阪エリアではそれこそ冷蔵庫と地下鉄を諦めざるを得ない。名古屋エリアは幸か不幸か、碧南・川越の巨大火力を有するお陰でCO2排出に目を瞑れば、燃料代の分生活費が苦しくなることを除けば何とかなるんだろうと思う。徹底した省エネ生活を実現したい。

曙通り商店街からそれてみると、恐ろしいほどのガタガタ舗装。取り敢えず下水管だか上水管だかを交換して、舗装をぎったんぎたんにしたから土建工事によるる景気対策を実施しますよとの声が聞こえてくる。資源が無い国が文化を育てず蛮国を目指してどうするのかと思う。不便を尊ぶつもりは毛頭無い。毛頭ないが引き出しの中で1年間以上も移動しなかった物体は必要ないのだ。そんなものを作ることも入手することも無駄なのだ。それらを無くしていくところからじわじわと生活を変えていってみたい。その中で、省エネ立国日本として何を作って諸外国にアピール出来るのかを見出していきたい。まずは原発停止。それで良い。その後は原発廃止。それで良いのではと思う。


2011年05月06日

溜まっていて読めていない本にかじり付いている連休です。連休も終わり隙間の金曜日。朝の9時から会議で夜の9時まで講義だ。休んだのだから働けと言うことなのだろうが、社会で労災だなんだと言っているようだが、所詮は過労を要求される世の中だ。知的生命体の労働活動とはとても思えない。

原発の検査停止などに伴って、この夏の生産活動に支障を来すという。生産活動の減退は即ち賃金の低下に直結する。この賃金の低下によって借金苦で首を吊るようになってはならない。ならないのだが、一つ一つの生産物に価値を見いだせる戦術を考えては如何か。火力発電所を活性化させる為に重油の生産を増やすと、精製過程に出てくるガソリンが余剰になるそうな。するとバカの一つ覚えで車がぶんぶんと走り出すのだろうか。原発の停止が思わぬ方向に飛び火していくものだなと感心した。

この連休、FMラジオをよく聞いていた。聴いていたのではなく、BGMで流していただけなのだが、渋滞情報になると耳を傾けた。あっちもこっちも夕方は凄まじい渋滞である。高速道路の配置上の問題もあろうが、車が多過ぎるのだろうなと溜息がでる。しかし、元気な人々がいろいろな形で移動してお金を貫流させる活動を引き出す連休のパワーは凄まじいなと感心した。40kmも数珠繋ぎになって仲間意識もなく道路上でいらいらしていても、お金を使える余裕がその人達にはあるのだと、円高になるわなぁと日本の底力を妙に実感する。

正直、この5月連休はとても有り難い。何処に行かなくても、4月初頭からカタパルト的スタートを切って息が切れてきたところでのほっと一息。どうせなら5月の第一週は何がどうなっても7連休ってことにして頂けないだろうか。頭脳労働からかけ離れロボット補助に徹している日本の産業形態を考え直すきっかけを政府には作っていただきたい。ボランティア活動をしても良いし、旅をするのも良い。小生のような活字にかじりつくのが一番良くない。不健康極まり無い活動である。まぁ、しかし、久し振りに日本語を楽しめた。そんな連休であった。



2011年04月28日

嵐であった。吹き上げる雨、傘をどう持っていようがずぶぬれになる。名古屋はまだましであろう。原発周辺での恐怖を思えば、低濃度の放射性物質が溶け込んだ雨などどうってことない。大学生時代に直径2cmの雹を体験したが、あれは痛かった。それから比べれば放射性物質など将来の癌という形でしか現れないから大したことはない。笑ってごまかそう。

この笑ってごまかす感覚を若い方々には持って欲しくない。駄目なものは駄目と言い切って欲しい。駄目は嫌と違う。イヤなものはイヤと言えるのは漱石のお弟子さんくらいなもので、一般民間人に言える代物ではない。しかし、駄目なものは駄目なのだ。既に原発は安全で、この夏を乗り切るには原発は必須だ!との論調で進んでいる。結局そうなんだなと呆れかえる。明日は来るとは決まっていないのに、議論が明日からスタートする。

明日と言えば昭和の日。昭和天皇陛下の生誕日だ。日本で最後の文武両道の教育をお受けになられた方だ。関東大震災の時には皇太子でいらっしゃったが、理想的な都市の構築をお考えになられた。当時の政治家にくっちゃくちゃにされてそれは実現しなかったが、今回の東北においても、しっちゃかめっちゃかにしたい政治家が群を成していて、美しき日本などかなり遠いところにありそうだなと感じる。

明日から連休である。仕事をしないわけではなく、地下鉄や自転車に乗らないというだけで、溜まった仕事を片づける時間がやってきたという程度のことだ。多くの方がそうであろう。少しは水平になっている時間を増やしたい。しかしそれは許されない。適当なところで止めておこうかなと思うがそうもいかない。後何回、連休を迎えるのか。それを考えて過ごそうと思う。そんな程度の連休である。


2011年04月27日

新学期がスタートしておよそ一月。休みが連続になってもならなくても、5月の祝日の塊は大変に有り難い。肉体的活動量が若干減少し、脳への血液量が少しだけ増え、物事を少しは考えられるようになる。休みが迫ってくると言うだけでそんな気持ちになる。ところが休みに入った途端、休み明けの仕事を思って精神的苦痛が始まる。だから、今日明日の休み前が一番、心休まる。書棚を見て、この本を読もうだのなんだのと、考えることが面白い。

サマータイム云々を書いてみたら、国家的に否定されてしまった。尤も、小生の就業時間を考えると、講義という形で一般民間人の時間ベースに合わせないといけないから、単独でサマータイム導入を図ろうとするとそれこそあちらの世界にまっしぐらになるから、なかなか導入は困難である。困難であるが、唯一、18時以降に講義が入っていない曜日が水曜日となっている。ここに導入することにする。

裁量労働制だから、1日8時間の職場拘束を受ければ良い。すると、7時前に居室に拘束され始めたとすると、昼休みを1時間取ったとして16時に閉門となる。そうすることに今日からする。これは何もサマータイムということではなく、脅迫的な電話から逃れたいということもある。少しは脳味噌を国家の将来のために活用したいというだけだ。

それこそ大きな連休である。連休ではあるが何の計画もない。読めていない本棚の備蓄本を消化するくらいが良いところだ。何も東北災害に起因する訳ではなく、頭の中を整理しようと考えているだけだ。それにしてもサマータイム一つ導入できない国家ってどうなんでしょう。時間シフトのコストが掛かりすぎるということを主要因として政府は挙げているが、今まで、天下り機関の量産、無駄な土木工事の乱発と、コスト掛けまくりの政策を堆積させてきたくせに、省エネになると途端に手を引っ込める。所詮は目先国家。先は無さそうだ。


2011年04月26日

登山なら目の前に目的地がある。だから踏ん張れる。この坂を何処まで登ったら良いのか見当も付かない。そんな山だったら、最初は勢いが良いかもしれないが、恐らくどこかで多くの人が引き返す。それでも「限りがある」と信じて努力し続けた人にだけ頂上が見えてくる。その頂上に立ち喜びを得た人に、神は新たな坂道を与えてくれる。また登る。その繰り返し。神は尊い。そう思うしかない。

解のある問題は、人々の努力によってどんどん消失していっているように見える。見えるだけで、実はそれは解があったから目の前にあるのであって、解の無い問題はそっくりそのまま残っていることに気が付く。スマートシティだのなんだのと、電気が作るバラ色の世界みたいなことを夢描くが、そもそも電気に満ちた生活がバラ色か?最近は青いバラもあるから、薄ら寒くなるだけかもしれない。バラ色と言えば素晴らしい未来のイメージだが、ところがどっこいそうとも限らないのが昨今だ。

昨日、竜巻が茨城に出現した。小生がその地に居たときも、思い起こせば竜巻が忘れた頃にやってきていた。しかしタイミングが悪い。弱り目に祟り目。諺はうまく出来ている。弱っている時に追い打ちが来る。いや、追い打ちと感じてしまう。弱っているからこそ、同じ打撃も強く感じる。そんなもんだろう。世の中そんなもんだと達観していられれば良いのだが、人はそんなに強くない。安定に目がくらみ、流れゆく真の状況を幻と思いたくなる。

頂上の無い山登りなら、どんな気持ちで登っているか、どんな方法で登っているか、何故登ったか、自分がどんな状況の時に登りだしたかを重い描けることが、次の一歩を尊くさせる。実はそこにのみ解がある。人は人でしか無いわけで、原因と結果の中だけの世界の中にのみ命がある。楽をしようとすれば必ず墜ちる。そんな風に世の中は出来ている。図抜けた努力を繰り返すしか無い。その気力が無くなった地点がその人の到達点だ。そこで満足するしかない。後は更に登っていった人を羨むことなく、その地で一人佇むのが良い。誰も登ったことのない坂道を、何故あの人は進んでいけたのだろうかと、自問自答するのが良い。そこにも解はあろう。でも、同じ解なら登っていく側に立ちたい。そう思うか思えないか。それだけのことだ。


2011年4月25日

パソコンの消費電力を3割減らそうというプログラムが作られたらしいが、そんなまどろっこしいことはやめて、PC要らずの仕事体系にしてみては如何か。その昔、英語論文なんて手書きの原稿を機械式タイプライターで打ち込んでいった。出版社が大変だったわけだが、電子出版だと、なんだか粗製濫造みたいで嫌だ。論文の質がどんどん下がっているように感じる。TeXでの文書作成はワープロソフトを使ったものよりも内容に深みを感じるのは、文書の内容に注力できるからだと思っている。ワードの「うわっ、図がどっか行った!」とか、発狂しなくて良い。下書きをどっかに落ちているコピーの裏紙などでやって、その間はPCの電源を落としておけるわけだから、それだけで省エネになるではないか。なんでもかんでも(この戯言も)PC任せになっているから電気を喰う。プログラムなんでバーチャルなものはどうでもよろしい。仕事のあり方を変えれば良いのだ。

仕事のあり方を変えたいということであれば、小生の職場は明らかに取っ散らかっていて、朝の6時代に職場に入るのは個人の問題として、週に二回、21時までの講義での拘束があるのは如何なものか。これとて省エネには真っ向から反していて、サマータイムにして夜明け二時間後には講義がスタートみたいにしてくれていれば、夕方冷えてくるまでに全ての講義を終えて、少なくとも巨大電力を必要とする講義室の夜間照明を落とすことが出来る。考え方によっては、個々で電気を使うようりまとめて使う教室は省エネだと言う人も居るが、半端ではない蛍光灯の列を見ていると、教室の電気食いは凄まじいなと感じる。夜間の講義は極力減少させるべきではなかろうか。

社会人の再教育というのが流行っているが、単に趣味のお勉強みたいなものであれば仕事を休んで日中にやれば良い。「再」ではなく「新」であるべきで、それなら新たなる税金を稼ぎ出してくれる可能性もあるわけだから、公共の組織が税金を使って教育活動を行うことは意味がある。ただ、教育内容を準備する側は日中の仕事もあり、肉体的にも精神的にも確実にオーバーロードとなる。研究ばっかりの私的活動に従事していらっしゃる方々ばかりではなく、会議講義会議講義・・・今日も太陽を見なかったと日々を過している人間が少なからず居て、四六時中同じ顔ばかり見ているとへこたれる。

消費電力3割減でも仕事量は減らないことが求められるだろう。ここに病巣がある。締切りの津波と戦っているわけだが、締切りだけにかまけていられるわけではない。今こそサマータイムとはならないだろうか。今年はいろんなところで試すチャンスに思える。少なくとも研究室では実施してみようかなと密かに思っている私であります。


2011年04月22日

視覚というのは凄いものだなと感じる。コンマ数度、垂直からずれていても感じ取る。ただ、45度から何度ずれているかなんてことは分からない。重力の方向に沿って立っているからかどうかは分からないが、不思議と垂直かそうでないかは体感出来るから有り難い。業者が「垂直ですよ」と言った部位がどうも気持ちが悪く、実際に試してみるとやっぱりずれている。こんな業者からは二度とモノを購入しようとは思わない。後出しジャンケン的に「やっぱり追加でお金下さい」みたいなことを言い出す企業は、コンマ何度を体感出来ないのだろう。ある意味、愉快に思った。

重力に対して水平・垂直であり続けるということが自然なのだと感じる。体を無理に傾斜させているとくたびれることこの上ない。人間は両手両足を地面に付けて生活するところから、よくもまぁ、足だけで重力に立ち向かえるようになったものだと感心する。木の上の実をたたき落とそうと棒でも持ったのかどうかは知らないが、両足で踏ん張り、そして両手を使った。その結果、重力と戦うようになった。最もくたびれる体勢を選んだ人間は道具を作り続けた。

今、感じることは道具を作り続けることが使命のようになってしまって、見せかけの便利だけで寿命のある物品を買い直させられている日々に、極めて疑問を感じる。垂直に立っているからちょっと一服休みましょうという暢気さが必要ではないか。企業においては利益が最優先されるのは当然で、様々な仕事がどこかの個に集中して、その人が自殺したとしても、企業は何も思わない。別の駒を充てるだけだ。代用が利く仕事でありながら、思い付きで誰かに仕事が集中している状況は、重力に身を任せて楽をするグループと、重力の中心にいつの間にか仕立てられてしまって、ひたすら落下物を振り払うグループとの二者に分類されている。その内に重力グループが死滅して、その企業の存置理由が消滅する。日本の多くの企業がそこに陥っていないか。

数度の傾きを気にしない企業のあり方は、案外、長生きの秘訣なのかもしれないと感じた。技術がありますよとふんぞり返り、使い方が悪いと居直れば、3600秒のタイマー設定で動いていた機械が、気がつけば6000秒に増えてしまっていて停止せず。しかし、考えてみれば、次に出向くところまで動き続けるのだと思えば、まぁ、日本の電子技術などこんな程度なんだなと、タイマー使って楽をしようとするから騙されるのだなと諦めも付く。日本企業は丁寧にモノを作って納品するのかと信じていてが、そんなことは無いらしい。どうやら日本は既に滅んでいるのかもしれない。重力に逆らう機械にのたうちながらそう感じた。


2011年4月21日

セントレアの対岸大学が東北でのボランティア活動に参加する学生の単位認定を甘くするという。不可思議な現象である。ボランティア活動は、本来、自らの将来のため、今の負を厭わず将来にプラスにしようとする意気込みの結果として現れるのであって、他が気を使うものではない。ここ数年感じていたことだが、例えば就職先を検討するのにも、ひたすら見学をさせて頂きまくって、あぁでもない、こうでもないと悩む振りをする。将来のビジョンも持たないくせに目先の悩みを周囲にぶちまけしらけさせる。そんな姿を見せられ続けると、もう日本も終わりだなぁと感じる。一方で、自らをじっくりと見据えて音のない爆発的な力を蓄える者も居る。そんな姿を見せて頂くと、おぉ、日本も捨てたもんではないなぁと思える。どちらにせよ、鶴舞大学は単位は学生の修学の結果であるという認識を変えることはない。社会に対する責任はそこにある。

講義をさせて頂く側も進化し続けねばならぬ。日々の憂鬱がここにある。低学年の科目であれば、後段の科目においてどのように役立てることが出来るか、理解を助けるか、更に欲深く、将来、解のない問題に出会った時、一つの事象が多くの事柄に関連していることを体験から蘇らせ、自らの解を作り出せるその土台となるような、そんな授業をしたいと思う。思うのだが、教うるは学ぶの半ば。そんなところに容易に達する訳がなく、毎年毎年精神的苦行を重ねる。講義が終わった途端に教室から脱兎の如く飛び出す連中が居なくなることを目指すのだが、力及ばず、突沸の如くに消滅する。これではいかん。

いかんのだが、温度、熱、エネルギーなどという、日頃当たり前に利用している単語を、ものづくりの現場で活用できる様に伝えていこうとすると、これだけでも90分掛かってしまう。試しに隣の席に座っている新人に、「お前、俺に温度って説明してみぃや」と訪ねてみて欲しい。恐らく「わっかんねぇぞ・・」となるに違いない。そんなもんなんである。それが中途半端以下にものごころついた頃から「体温が上がった、熱がでた」なんて耳から入ってきているものだから「そういうもんだ」と認識している。理解しているわけではない。ここをリセットしないと体型だった学問を活用できるようにはならない。それが出来ない人間が作った道具が、人の役に立つはずがなかろう。

国家的には科目認定はは90分の講義と同じ時間の予習復習を成し、それを15回繰り返すと与えられるとなっている。実践の場としては、一つの科目をその回数で体得したと言えるレベルまで持ち上げる工夫をしなければならない。当然、大学によって得手不得手があるから、本来、高校生はその得手科目を学ぶべく大学を選択しなければならないのだが、「ママがここに行って欲しいと言ったから」とか「予備校の人がここなら合格できると言ったから」などの「たわごと」(戯言では無い!)を真に受けて人生を捨てていく。これこそ国家のやせ細りの現況であることにそろそろ気づけよと言いたい。ボランティアはボランティアでよろしい。人間的に賞賛に値する。値するがそれは学問の単位認定とは全く別のカテゴリである。それによって学問の受け取り方が変わるのは間違いなかろうが、学府での単位認定とは関係ない。刮目して人生と向き合わねばならぬ。それだけのことだ。


2011年4月20日

でっかい機械屋の某森さんが中国にマザー工場を建てますな。日本工業会の雪崩のトリガを何処が引くのかなと思っていたのですが、正解は森さんだったという。マザー工場って凄くて、拝見すると半導体加工機現場を知っている小生でも腰が抜けます。まぁ、どっかの飛行機を作っている現場から見たら、こんなもんかなというところなんですが、それでも兎に角凄いんですよ。働いていらっしゃる方々も、他の現場に怒られちゃうかもしれませんが、オーラが出ているというか、目がいっちゃってるというか・・日本の眼に見えるモノづくりを支えてきた部分が、いよいよ日本から居なくなるんだなぁとしみじみ思っちゃうわけです。

丁度、上海で自動車ショーが行われている真っ最中。日本自動車会のトップ連はこぞってお出掛け。客の居ない裏路地で屋台を開くラーメン屋は居ないのとおんなじで、良い物でも買い叩く日本で商売するよりも、汗に見合う銭を払ってくれる世界で商売するようになるのは当たり前。単に金を持っているとか勢いがあるからなぁんて言っている日本人の多くの方々は、それこそ既に逝っていらっしゃる。必死に考え、それこそ寝ても覚めてもそればっかり考えて、そのそれが思い描く最高のパフォーマンスに達する直前の喜びを「中国でならあんたの提示額より95%引きでやるよ、図面よこせよ」と、平気で言ってのける自動車業界全般から手を引く、良い潮時かもしれないと感じる。

他人ごとで言っているわけではなくて、電気自動車だなんだと言っても、所詮はエネルギー喰いの堕落主義の象徴でしか無い。エコですよ?ふざけるな!!電気エネルギーを喰って何がエコだ?電気自動車に置き換わったら計画停電は無くなるのか?電気自動車は原発にぶら下がることによってCO2排出量を下げる切り札として、その実現が叫ばれたのだ。リチウムイオン電池そのものは、分散化した(メガソーラーはダメ)太陽電池モジュールが、家庭や日曜日で電力使用量が下がる大型の工場で日中に利用されない電気エネルギーを貯蓄するために使われるので、それはそれで開発する必要がある。電気自動車用の高効率モーターは、冷蔵庫やエアコン、洗濯機、はたまた大型の建設機械まで適応可能だから、これも開発する必要がある。しかしそれを組み合わせる電気自動車はいらない。電気エネルギーの馬力換算を考えてみたら容易に分かる。同じ距離を進むなら、原発を使わないとすると、石油を直接燃やしたほうが、ずっと効率が良い。CO2排出を止めないと、高潮が更に強力化して、東北一体水浸しの状況は更に進む。全てにおいてターニングポイント。日本沈没は目前だ。

売れない刃物屋さんになってわかったんですが、モノづくりの現場の猛烈な悲哀、苦しさ。人間として扱われない悲劇、惨劇。トップダウンでのモノづくりでの限界まで達したマザー屋さん。そのマザー屋さんの取るべき道は、恐らく、限界まで達していない世界で商売し直すことだったと思う。それはそれで正解だ。刃物とて同じで、タングステンカーバイドとコバルトの合金である超硬刃物を国内で製造販売するよりも、資源をふんだんに使える中国で日本品質で作って売ったほうが儲かるに決まっている。刃物を使うマザー屋さんも中国に移動するし。しかし、その限界と思っていたところを突破しちゃう連中もどっかから現れるわけで、そのどっかの連中は覆水を絶対に盆に返さない連中で、いつかは戻れる国があるさなんて思っていてもらって臍が茶を沸かす。曲面にCMPされた半導体結晶は限りなく美しい。中国に出て行って、永遠にそれを見ることなく滅び去るが良い。日本にはまだまだ踏ん張る連中が居ることを、学生諸君も認識しなければならない。それを発展させることこそ、税金で勉強した若者の義務である。モノマネ、思いつきでは無く要素技術に裏打ちされたイノベーション思考。そこに活路がある。まだまだ日本の知恵は沈没させない。大丈夫だ。


2011年04月19日

崖っぷちの土地を与えられたとする。道も無い、水もない。里山としての樹木のみが心の拠り所。そこに一人で住めと言う。さて、何処から手を着けるか。当たり前だが、人間に限らず生命体は水がないと生きていけない。また、人間は極めて弱いから仮に水源を発見したとしても、多くの細菌、鉱物などを取り除かないと飲むことは出来ない。しかし、水の確保から走るだろう。それと同時に、水を常時利用できる環境を作ろうとするだろう。まずは岩の窪みにでも溜始めるのかもしれない。何しろ道具も与えられていない。ロビンソンクルーソーが恵まれて見える。

万が一、水を確保できたとする。既に火の有り難みを知ってしまっているとすると、火を作りだそうとやっきになるような気がする。取り敢えず、土地は与えられているとして、それを奪われる心配は、今のところはない。しかし、そこからの脱出は許されない。ならば、そこに火を熾して暖をとろうとするのではないか。倒木と蔓草を引っ張ってきて三角錐型の骨組みを作る。そしてそこに杉の葉で覆いを被せる。なんとか雨の直撃から逃げられそうになったら、その下に石を並べ暖炉を組む。乾いていそうな木を並べ、草を並べ、さぁ、点火となったところで、作業をしながら気に病んでいた火種が無いことに直面する。火打ち石は落ちているかもしれないが、どれがそれかは分からない。知識としての摩擦に全力を投じる。

やったことのある人なら分かるが、弥生式の火熾し機は、凄まじく火の着きやすい繊維状のものと一体になって成立する。闇雲に擦り合わせれば火を得られるというものではない。そうこうしている内に腹が減ってお陀仏になるに違いない。しょせんはこんなところのような気がする。

最初に火を発生させ、仲間に光と熱を与えた者の偉大さは想像に余りある。ただ、山を燃やし出すと戦後の日本の禿げ山状態の様に、それこそ何も無い世界が生み出される。計画的な燃料の生産と使用が求められる。贅沢のために燃料を使っていたのでは、たちどころに不幸が訪れる。今、それに直面しているのではと思う。何が必要で何を切り捨てるべきか。生きる上での最小限から行政は見直すべきだ。今を基準にしてはならぬ。生命誕生以前に起源を求めると、何か見えてくるような気がする。


2011年04月15日

地下鉄が開通して、まだ一ヶ月は経っていない。経っていないのだが、徳重駅から乗る人が殆ど増えていない。地の果て緑区は住民の増加率が大きく、道路渋滞は日常茶飯事だ。それ故に、自動車から公共交通機関へのシフトが生じるのかと思いきや、消してそんなことは無いのですな。確かに車は便利なのだが、節エネルギーの観点から、一人、二人で移動するのなら自動車を捨て公共交通機関に乗り換えては如何か。2kmくらいなら歩いたほうが健康に宜しい。保健医療費の削減にも繋がり、国家財政破綻を緩やかにすることにも貢献できる。地下鉄を空箱で走らせておくのは大変にもったいない。

今、被災した地域の復興計画が多々出てきている。津波より高いところにコンクリートで地盤を作り、そこに人を住まわせようと言う計画まで出てきている。風が抜けるなら、コンクリート地盤の下の空洞に風車を作って、風力発電による分散電源化が出来そうな気がする。原発がベースとなっていたスマートグリッド計画であるが、一番の電源がへたってしまった今、スマートグリッドもへったくれもない。EVに充電するための電力を基幹から取るなどもってのほか。EVに乗るのは自家発電者に限る等、節エネルギー政策をとことん真面目に進めないといかん。

放射能灰が降り続く今、家庭菜園なども安心は出来ないのだが、安全な食品も自分で育てる時代になっているのではと感じる。緑区は田畑多く、家庭菜園というよりも真面目に稼いでいる畑地が目立つが、アパート等向けの開発地も目立つようになってきた。人口減少の今、新規の住宅地開発など止め、少しでも放射能灰を含まない大地で食品製造を進めて欲しいものだ。日本人、皆、滅びてしまう。

ピンポイントに週末に雨が降る。かなり激しい雨になるらしい。雨も必要だが、よりによって週末に降ることは無かろうに。雨だと恐ろしくてとても出かけられない。雨に濡れることの無いよう、特にお若い方々は気を付けて頂きたい。政府発表など信用しないように。自分の身は自分で守りましょう。


2011年04月14日

今、部品屋さんに仕事が来なくなってしまっている。自動車依存度が大きい日本のものづくり体質から、多くの部品屋さんが疲弊している。部品を組み立てる機械製造も当然のことながら不要になって、それらを組み立てる企業も開店休業状態である。これがいつまで続くかと言えば、少なくとも半年は続くのではないか?福島原発さえとんでもないことになっていなければと悔やまれるが、そうなってしまったのだから「あれさえ無ければ」は通用しない。他の原発の一斉点検が行われているが、電気を使う仕組みが無くならない以上、石油も石炭も海外に頼る日本では原発を全て無くすというわけにはいかない。

手回し式発電機などが人気品薄だそうで。ディーゼルエンジン搭載の発電機も在庫が無くなったそうだ。個々での地震への備えがどんどん進んでいることを意味しているのだろうけれど、考えるべきは平時と緊急時とのギャップを埋めていく努力ではなかろうか。最低限の日常を送ることで質は高いが質素な一日というものが実現できないだろうか。小生、地下鉄伸長の恩恵を受けて、あっと言う間に終バスになってしまうことから脱出できて、ほぼ終電生活を送れるようになってきた。これはこれで「良いのか?」と疑問を呈するのだが、それは置いておこう。終電から降り地上に出ると、そこそこ明るい世界が広がっている。必要だろうか?

確かに真っ暗闇は不気味である。常に誰かが背後から迫ってくるような、塀の向こうから飛びかかられそうな気になる。そもそも0時を回った時刻に街中をほっつきあるくのは犯罪者か警官かどっちかと相場は決まっている。そんな時間までうろつかなければ良いのだが、そうも言っていられない事情がある。その事情の存在がいかんのだと、内田百間氏よろしく、日没閉門と決め込みたい。昨年度末から「新規お仕事お断り」を続けているが、次は日没閉門といきたい。少なくとも居室の電気を消すことが出来、省エネ対策にはなる。どうせ人件費削減で、20%減なんてことになるらしいから、日没後までなにやらしないといけなのでは間尺に合わぬ。

とは言うものの、知恵だけが商売道具故に、それを深く広く拡大させ続けなければならぬ。現場の進化にも関わっていかねばならぬ。ならぬならぬが頭にこびりつき、結果、日没閉門だけれども閉門営業中となる。そもそも17時以降に講義が無いのは水曜日だけというのは如何なものか。これまたいかんのではないか?夜中の街灯の消灯による省エネ世界の実現はこんな現状が阻んでいる。地下鉄の駅構内も異様に明るい。照明も普通の蛍光灯だ。生活の質を高める製品とは何かを考える良い機会だ。量の生活は捨てきって、質の生活に挑みたい。質とは何か。今日はそれを思いつつ、溜まりに溜まった書類をやっつけたいと願う私であります。


2011年04月13日

常日頃「おたく」たれと言っている。他に迷惑を掛けることなく、しかし、図抜けて没頭し、そして他の賛同や理解を求めず、ひたすら己の信じる道を行く。それがある一線、即ち、人が呆れかえった時、「おたく」の称号が与えられる。勿論、当人、そんな称号が欲しくてやっている訳では無いのだが。第二次大戦の後に生じた最大の災害で、多くの命が失われた。メディアは「復興」だの「復旧」だの叫ぶわけだが、今、世界中が「今の内に追い付き追い越せ」と活動してるところに、後追い的に復旧などしてどうするのか。見た目は綺麗である。しかし、単に元に戻っただけでは、特に工業のものづくり現場においては生きていくところはないと、現実を直視しなければならない。偽善者など無用である。

人は一人では決して生きていけるものではない。しかし、お互いが手を携えて暗闇に向かって進むことを天は許さない。今こそおたくたれと叫びたい。生きることのおたくになって頂きたい。自らが同じ境遇になったらどうなるか。それは正直に申し上げて解らない。解ると言ったらそれこそ偽善者だ。人生の全てにリセットが掛かるわけだ。立ち上がれと言ったら狂人呼ばわりされるであろう。しかしそれでも、「頭の上にマンモスの足が振り下ろされるところまで来ていますよ」と伝えることは出来る。

無道の広野に落とされたら、誰もが発狂すると陰口を叩かれるが、実際のところ、誰かが道を付けてくれて、明かりで危険を取り除いてくれると信じているのだろうが、そんな世の中、何処にも無い。おたくはそんなもの当てにしていないし、考えもしない。自らが信じる素晴らしいものに没頭するのみだ。救い主など何処からも沸いてこない。自らの中から生み出すしかない。

地下鉄を降りて地上に出ると、電柱の数に驚かされる。津波で押し流された街に、我先にと登場したのは電柱である。非常事態になれば殺人兵器にしかならない醜い電柱を、便利だからと勝手に思いこませ町中の土地を食いつぶしていく。そんなに電線が必要か?そんなに電気が必要か?一人一人が「生きることのおたく」になってみて、「これが無ければ死んでしまう、生きていけない」という道具を見いだしていただきたい。それだけ残せば宜しい。それだけをブラッシュアップすれば宜しい。そこから日本が立ち上がれば諸外国はあっけに取られる。それのみが日本の生きる道だろう。そう感じる。


2011年4月11日

選挙が続いていますな。愛知県では諸事情でちょこっと先行していたわけだが、全国的には今が旬。都知事が連続4期なんて、美濃部都政を抜いちゃったぞなどと、ガキンチョの頃を思い出すわけです。厳しい状況下においてはベテラン知事ということらしいんですけど、新規の解決方法はまず見つからないということにも繋がりそうで、あんまり長いこと誰かに頼り切るという有権者の姿勢は「どうかな」と感じるわけです。そんな事を言っていると、小生なども教職を20年も続けているわけで、もういい加減に引退しろよと後ろ指どころか前から刀で斬りつけられそうですな。

愛知県下というか、小生も当然のことながら昨日は選挙に出掛けたわけです。時々新聞の地方欄で主義主張などを眺めていたとは言え、当日になって「誰に入れるんだっけな?」と、選挙会場の前に鎮座している、空白だらけのベニヤ板を眺めた。そんな程度のことで有権者と言えるのかどうかは怪しいものですが、実際のところ、選挙演説なんて何処でも見たことは無いし、「私がなんとかだぁ」と絶叫して回ってくることもなかった。そりゃぁ、地元で働いていない小生が悪いのだが、お勤め先も教育機関ということだから選挙演説が出来ない区域ということもあって、他地域の演説すら聞いていない。こんなこったから、投票率が上がらないんだなぁと自らを省みて妙に納得するわけです。

全国を見渡してみると、原発を持っていない県の知事が原発反対を叫んでみたり、無責任極まりない輩が当選してしまう現状こそ、原発事故より恐ろしいなと感じるのです。原発特区は電気代が安かったり、種々の公共投資が優先的に成されたりと、原発優遇があるためかそう簡単には原発反対を叫べない現状である。また、日本における電気と産業、雇用のあり方を考えると、そう簡単には太陽電池で原発分を補うんだなんて不可能なことを公約できないはずなんだけど、一見、クリーンな方向に流れていく日本的感情を上手に選挙に取り込んでいくと当選してしまう、なんとも遣る瀬無い結果が生まれる。

原子炉対策もいよいよ高濃度汚染水の移動に掛かるわけだが、都知事が4期連続当選するより難しい作業だろう。作業者の命が守られているとは到底思えず、移送した高濃度水をどうするつもりなのか気が気ではない。桜の下で深呼吸などとんでもなく、一旦暴走し始めた核施設への対応は、これからの日本のあり方そのものであろうと感じている。諸外国からの信用失墜は極限状態を極め、バブルから失われた20年なんてものではなく、甘く見積もってもこれから失う30年というところだろう。そんな世相ばかりの中をほっつき歩くことになり、なんだかなぁと思いつつ、今日も何かを伝えるべくもがき続ける私であります。


2011年04月08日

平時なら震度6強は凄まじい地震だ。それ以上のものがきたら街は壊滅するに違いないと恐れをなす強さだ。実際に震度7を越え余りにも悲劇的な状態に陥った後の震度6強。現地での恐怖は限界を超えたかも知れないが、恐らく、冷静な対処をなさったのだろう。亡くなる方も無く、怪我の程度で済んだことは素晴らしい対応であったのではなかろうか。こうしている今、東海地震が発生したら自分はどのように対応できるのか。

経済活動とて同じ事で、良品廉価を突き付けられ続けた結果、日本を抜け出しアジアに生き残りを掛けた戦いを強いられる現状も、日本に住まう我々にとっても同様のストレスでは無かろうか。ある日突然「もう、あんたとは取り引きしないから。代わりはいくらでもあるからね」と、山積みの加工品を受け取りもせずに、鼻で笑って帰っていく営業マン氏には、四つ輪で大地を壊し続けた自戒の念などありはしない。

先日、半導体加工製造装置の部品製造関連の方がお見えになった。一桁、精度が高くなったら何を作りますかと尋ねると、ウエハを真空吸着させるテーブルを作りますと仰った。それで何がどう代わりますかと問うと、半導体チップが安くなりますと仰る。一体、誰が幸せになるんでしょうねと尋ねると、そこで止まる。電気製品が人を幸せ感覚に導けたのは、大阪万博前後の冷蔵庫と洗濯機くらいなもんだろう。パソコンも携帯電話も何も幸せを運ばない。LED照明で省エネ生活をなんて叫ぶが、暗くなったら月夜で酒呑んで寝てしまった方がよっぽど幸せだ。

震災の後の街の再建を、将来計画に基づいて成すとの法律を作るそうな。初めて政治家らしい発言が出たなとほっとした。そこにいらっしゃった方々の思いでは薄らぐかもしれないが、街を興すのは次世代であると踏ん張って頂かねばならぬ。今日から新年度の講義がスタートする。正に次世代への語り掛けである。次世代人はそれこそ必死で学んで欲しい。瞬間瞬間を猛烈に強烈に生きなければ明日はない。人には今しかないのだ。


2011年4月7日

原発ネタばかりで恐縮だが、毎日毎日連呼される「一年中食べても大丈夫」と言う絵空事。日本を除く国々の人々は誰もそんな風には思っていない。例えば放射性同位元素を1個食べるとする。α、β崩壊の末に安定核へと落ち着いていくわけだ。α崩壊はHeの原子核を放出する過程であり、体細胞、遺伝子と相互作用する確率が高い。β崩壊は電子若しくは陽電子を放出する過程であって、体細胞そのものを吹き飛ばしたりする確率は低いのだが、電子故にその運動時には周囲の電荷と相互作用する。体内はイオン状態であるから、当然、相互作用する。なんとかベクレル以下だから大丈夫ではなくて、1個でもダメなんです。ダメなものはダメなんです。癌、その他もろもろ、全ての生命体に影響するんです。

生命体の進化過程に放射線の遺伝子との相互作用が関わっていることは、γフィールドでの突然変異体生成でも分かり切ったことだし、成層圏でお仕事をするパイロット達の宇宙放射線被爆による癌確立の向上が問われ続けている中で、どうして原発から漏れたヨウ素、セシウム、プルトニウムが自然界の放射線量と同じだから大丈夫とうそぶくのだ。自然界の放射線やレントゲンは瞬間芸且つ透過性が高い。透過性が高いという意味は、体内物質との相互作用する確率が低いということだ。勿論、それらのエネルギーがたんぱく質を透過する際に結合を励起するから、ある確率で癌の核となることは否めないが、それは少ないことになっている。数億年掛けて宇宙放射線と仲良しになっているわけだから、そう簡単には変異は起こらない・・というよりも、変異し続けて出来た結果が今の生命体なのだから、少々の事では次の変異には至らないということだ。ところがα線を出す不安定核を食べたらどうなるか。阻止能という言葉で表されますが、Heの核は大きく細胞等との相互作用の確率はγ線の比では無い。同じ線量であったとしても意味が違うのだ。

ヨウ素は海草に相当量蓄積される。即ち、藻類はヨウ素を吸収する能力を持つ。植物性プランクトンなどもその類で、それらが放射性ヨウ素を吸収したとして、遺伝子に突然変異をもたらして、「酸素を吸って二酸化炭素を出す」種類に変異したとすると、さぁ大変だ。それらが強かったりすると、地球上の酸素があっという間に二酸化炭素になる。まぁ、そんなに簡単には変異は起こらないだろうけれど、植物性プランクトンや海草は食物連鎖の一番の底辺だから、そこからどんどこ上に行けば大型の魚類だって被爆する可能性がある。半減期ったって、無くなるわけでは無いからね。放射性ヨウ素は8日で無くなるみたいな報道ばっかりだけど、全く嘘だからね。

見せかけだけの安心感で国民を小馬鹿にする政府の姿勢に頭に来た。放射性元素が頭の上から降り注いで安心なわけは無いだろう。それが分かっていても自転車で通学してしまうアンポンタンではあるが、放射線よりも桜優先ということだ。普通の人々よりはとっくの昔に「浴びまくっている」小生であるから、もうどっちでも良いという投げやりな態度である。しかし、一般民間人の方々はそうでは無いのだから、マスク、帽子、コート等で身を守り、家や会社に入る時にはそれを脱いで所内に放射性元素が侵入する確率を下げる努力をするべきだ。1個でも危ないんです。観測されるだけでも危ないんです。危機感を煽っているのではありません。危機感を持ってくださいと言っているだけです。


2011年4月6日

本日、鶴舞大学は入学式である。多くの私立大学は親族参加の傾向が強くなってきた結果、先週の土日に実施しているが、公立学校は頑なに6日を堅持している。全ての行事を1日からスタートしてしまえば良いのにと思うのだが、何故か4月に入って一週間程度のシフト期間を持つ。今年度入試の前期日程は東日本震災には巻き込まれなかったのだが、後期日程ではそれに影響を受けた受験生が大勢居る。また、本日どころか学期の始まりを6月以降に繰り延べるところも出てきている。箱根よりこっちは十分に幸せである。例えヨウ素やセシウムが飛んでいたとしても・・

今朝、久し振りに自転車通学であった。山崎川の桜を見たかったというのが本音である。瑞穂陸上競技場辺りの桜は誠に見事。ラジオ体操に向かう人達でいっぱいだ。川縁だけではなく少し路地に入ると、華麗という言葉が似合う老木にはっとする程の美しさを纏った様は、春の饒舌さを雅に隠した風情であり、大和ごころを思い起こしてくれる。ただ、スギ花粉のせいか、空気が埃っぽく、そして放射性元素も舞っていて、呼吸困難に陥りそうで厳しい自転車通学である。地球温暖化対策にはもってこいの道具なのだが、環境が悪化していると、短命に向かっていくようでぞっとする。

中京地域に限らず、トヨタ以外は真っ逆さまの景気状態で、ここ数年は土建屋関係以外は悲惨な状況になるだろう。結局のところ細かいエレクトロニクスなどは人の幸せに直結しているわけではなく、あくまでもアシストでしかないことを思い知らされる。桜が咲いても暗い気持ちを払拭できないようでは、それこそ、生きていても仕方が無い程に憂鬱になってしまう。新入生諸君は、これからの日本を創り上げる気概を持って勉学に励んで欲しい。そして哲学して欲しい。

今朝、少し前まで始発駅であった野並の横を通過した。以前であれば丁度、始発のバスが到着する時刻付近で人々で通過し難かった場所で敬遠していた。ふと思って通過してみると、当たり前だが人っ子ひとり居ない。始発駅が通過駅になると誰も居なくなる。教育も研究も同様であろう。どんどんと掘り下げ常に未開の地を持ち続けなければ日本など消し飛んでしまう。福島発世界汚染を日本は次世代の技術をもって世界貢献の形でお返しするしか無い。新入学生は頑張ってほしい。


2011年04月05日

昨日は鶴舞大学のネットワーク異常にてどうしようもなく。震災地域や計画停電エリアではもっと悲惨な状況であるから、戯言など忘れてうっちゃっておきました。電子機器の弱さが散見されるのです。何度も言ってきましたが、太陽活動の活発化は電磁波だけではなく粒子線も大量に放出しているわけで、半導体との相互作用は大きく、誤動作は避けられず、それ故にいろいろなメディアへのバックアップが求められます。バックアップしたメディアも同時に潰れる可能性も高いわけで、電子機器が自然と調和したものではないことが露呈する訳です。

昨日から中レベル放射性水の海への投棄が始まりました。何時からやるのだろうと思っていたので、そのこと事態は「その時がやってきたのだな」くらいに受け止めました。しかし、その言い訳が周辺の海の魚介類を食べても大丈夫というのがいかん。そうであるならば関係者一党、特にこうまんちきな顔をして高い給料を取っている原子炉保安員の皆さんは、その魚介類を食べ続けるが良い。親戚一党にも食べさせるが良い。それが出来ないのであれば、まやかしを言うのは止めて、確率的に危険な場合もあるのだから、漁業は出来ませんと宣言すればよろしい。そうでないと、国民総放射線障害で絶滅となる。

アルファ線や中性子と他元素との反応によって、様々な不安定核、即ち放射性同位元素が出来る。数秒で壊れるものから数万年の内に突発的に崩壊するものまで様々ある。宇宙は何十億年を掛けて安定な256個の核種を生み出した。そこに住まう者は、それ以外は使ってはいかんのだ。調子に乗って原爆なんぞ作るから、石油要らずの巨大電池をばかすか作るようになる。安全な核など無いのだと、今一度、思い直さないといけない。今のままの生活を続けるのかどうなのか。人類は岐路にある。今のままを選択するならば、原発の放棄は難しい。

中レベル放射性水の廃棄の後、どれくらいの時間で超高レベル放射性水の投棄が始まるのか。国民は覚悟をしているのか?炉心や使用済み燃料の温度を保っているのが限界の水量しか流せていないのだから、いずれその水は貯水槽を溢れ出る。それは人の手によって成されることであり、後戻りできない引き金を引く瞬間である。ドライスプレーなどで凝結させる方法もあるのだろうが、何処から必要な電力を引っ張ってくるのか、そして誰が機械を設置して運転するのか。核の怖さを知り尽くしたつもりになってきた国民は、今一度、広島・長崎を訪れ、核の悲しさを思い出す必要がある。


2011年04月04日

わけあって西に東に移動し続けた土日であった。気がつけば月曜日。相変わらずである。西から東に掛けずり回って感じたのが単一電池の不足。店頭から消えていたりお一人様2個限りとか、そんな掲示が目立った。確かに緊急事態ということであれば大容量の単一電池は有り難いが、あれは案外重い。手回し式の発電機があるから、そちらのほうがずっと良かろうと思うのだが、他人が買うと自分も欲しくなると言う性からか、どうも飛ぶように売れているらしい。製紙工場がやられたと言えばオイルショック時と同様にトイレットペーパーを買い占める人達も出ているようで何ともやるせない。

名古屋もそうだが、西では物資は行き渡っているものの東北地方へのトラックでの大輸送、もしくは貨物駅までの物資搬送の為の小型トラックの不足が目立つとのこと。こちらは頑張って下さいとエールを送るほうになる。生活物資が極端に減ったと感じるものは少なく、ペットボトルの水などは、元来贅沢品であるから、今のところ放射線灰の影響が極微のこれらの地方の人達はペットボトルの水などは我慢して、福島界隈の皆さんに行き渡るようにすればよろしい。

とは、言うものの、東海~南海地震は東北の地震同様に必ず発生する。しかも何時来るのかさっぱり解らない。出来ることなら一生涯、遭遇したくは無いのだが、プレートは確実に動いているのであり、地震から逃げ出すことは出来ない。東北方面へのプレートの沈み込みは年に10cm程度の量である。一方、東海方面へ沈み込むプレートは3cm程度とゆっくりである。これを地震が発生する周期が長いとみるか、じっくりじわじわエネルギーを溜込む事が出来ると考えるのか。何となく後者の方の気がして気持ちが悪いのである。そうであれば、少々の飲み水の備蓄に対しては遠慮することも無かろうと感じる。

この週末は朝夕の冷え込みが強かった山中なら披露遭難を危惧する環境である。避難所も同様ではないかと思うのだ。ローソク1本の有り難みを山中では感じるが、火事の危険性を考えると避難所ではなかなか難しいかもしれない。そうであれば、火事になり難い簡易な折り畳み灯籠など、東海地震が発生する前に開発して、手元に置いておくのは如何だろうか。単一電池の重さも無く、登山用火打ち石(火打ち鉄ですな)と紙と一緒に油紙・ビニールでくるんで一大事用袋に入れておく。これは案外いけるかもしれない。単一電池不足の世の中を見てきて、案外、人間らしさを取り戻すきっかけになるのではと思った、放射線灰浴びまくりの私であります。



2011年03月30日

世の中に無いものを作ろうとすると、これは相当に体力がいる。知力は勿論なのだが、それよりも、理路整然とした積み重ねに耐える精神力と体力が要る。簡単なようでちっとも簡単ではない。馬鹿なことを考えていながら、徳重始発の地下鉄に乗るわけだが、これがちっともお客が居ない。依然、野並から同様の時間に乗っていたのだが、それとほぼ同様にお客が居ない。夜中は終電まで満員だから、それを利用して出掛ける人が居ないわけではない。自分が活動している時間に人間が出歩いていないということだ。

そもそもどうしてこんなに早い時刻に出掛けるのかと、今朝、何故か、しみじみと思った。コンビニの無い、いわば健全な町を駅に向かって歩いていると、自分の他に歩いている人を見ないのである。閉まった自動車販売店は、小生には、それこそゴミ置き場に見える。地面をほじくり返して鉄を得て、凄まじいエネルギーを使って自動車の形にする。それを乗り回して更にエネルギーを使いまくって炭酸ガスをまき散らす。驚くべき愚かな行為だ。それを決して止めないのだ。愚かしいではないか。

お医者さんに聞くと、人間、少なくとも8時間は睡眠を取るように出来ているらしい。その時間を連続して取らない人は、一日の内でどこかで体を休めるか、それとも他の人よりも早く死ぬようになっているらしい。それはそれで結構な事だが、確かに誰も歩いていない早朝に、毎日毎日出掛けていくのは何故なのだろうと、ふと、それを思ったのだ。殆ど客の居ない地下鉄を見渡して、何やってんだと苦笑いしてしまった。

同期の人間が次々と亡くなっていく中、次は自分かなとも思うが、それでもぐうすか眠ろうと思わない。ガキの頃からの習慣とは恐ろしいもので、どうしても寝付けない。ふと、東北の方々の避難所生活が頭によぎる。今の幸せを嘆いてはならぬと思う。しかし眠い。そんな春である。


2011年03月29日

朝夕の冷え込みが若干緩んできたように感じる。杏、桃に続いてソメイヨシノもようやく咲きだした。東北の惨事を思い、どんどんと暖かくなって欲しいと願う。気温の上昇に伴って暖房に利用する電気量が大幅に減少するそうで、今日は計画停電が実施されないとのこと。ここに一つのエレクトロニクスの今後が見える。住宅事情が見える。

少し前、秋田にお邪魔をさせて頂いた際、雪深い宿舎での夕飯、朝食は囲炉裏を囲む姿であった。囲炉裏に向かっている方向はやたらと熱いのはご愛敬だが、それと同時に人が一カ所に向かい合って集まる心の繋がり、暖かさがそこにあった。囲炉裏に向かって酒を呑んだら、あるいは朝の味噌汁を自在鍵に下がる鍋からよそいあったら、そりゃぁ、みんな仲良くなるだろう。電気ストーブ、こたつにはそれはない。ましてやエアコンなんぞなんの有り難みもない。オール電化なんぞとんでもないことだ。

それと同時に、電気自動車をエネルギー蓄積の道具と考えるスマートグリッドなども、徹底した見直し、概念の建て直しが必要であろう。必要な時に必要な電力を割り振るのが重要論点だが、電力事業体を守り続けるだけの概念を、社会的な総エネルギー使用料を削減する方向のツールとしてスマートグリッドを考えるべきだ。電気を使うことから使わずに笑顔になる方向に、人の頭は切り替わるべきだ。

これだけ社会に便利を生み出す電気故に、これを無くすことはあり得ない。ただ、エネルギーを生み出せば、必ずや地球は暖かくなる、温暖化する。地球環境が吸収し切れなければ南極の氷が解けるなどによって、平地の浸水は避けられない。その状態での大津波がどんなものか、想像に難くない。人を絶対に跳ねない車が世の中に出てこないのと同じで、人を絶対に不幸にしない電力利用機器など無いように思う。そこを掘り下げ、人の笑顔を絶対に奪わない産業機器の開発に徹底して取り組むべきであろう。少なくとも大学人はそこに取り組まねばならぬ。単純なことだ。


2011年3月28日

地下鉄が伸長した。名古屋市が計画していた地下鉄の伸長はこれにて終了らしい。開通初日の昨日、適当に出掛けて適当に一駅だけ乗って散歩して宿舎に戻った。本日は午後から外出があり上着を着ているので、自転車通学というわけには行かず、必然、最寄り駅から地下鉄体験である。普通に歩ける範囲に駅が出来たことは確かに有難い。有難いが直線ルートに人跡未踏の丘があって、どうしても遠回りしないといけない。これが若干、気に入らない。いつか踏破しようとは思うのだが、ひょっとして民家の軒先に出たりするかもしれないので、十分の調査の上にやってみたい。

走りだすと、当然のことながら新品のトンネルである。シールド板剥き出しの近代的というか無機質というか、取り敢えず作ってみましたという感覚が、値切って作ってみました的なところがあって、昨今の世情からすると大丈夫かと疑いたくなるが、まぁ、大丈夫なのだろう。まだ軌道が新品で音も静かで心地良い。幾つかの駅を過ぎると、先日まで終着駅だった野並に着く。その直前に開削点から機材搬入をしていたと思われる傾斜ラインが今のところ残っていて感激した。そんなものを見たのは銀座線工事依頼の事で、日本橋三越の金網エレベータもついでに思い出した。そんな時代があったのだ。

11分程の乗車時間の延長なのだが、これが凄まじく長く感じた。新幹線なら三河安城から名古屋まで突っ走る時間である。名古屋も随分と端っこまで生活圏を広げたもんだ。地震が来たらそれだけ被害が大きくなるということなのだろうと、妙に関心しながら利用させて頂いた。いずれ快適である。乗客はと言えば、新駅区間はあまり無く、新しいバスターミナルがある鳴子北から漸く増え始めるくらいであった。乗車時刻が早いこともあるだろうが、徐々に利用客が増えてくることを期待する。

この時代だからこそ公共交通機関が伸張することは素晴らしい。自動車よりも何よりも公共鉄道機関が住民の足となっていることは頼もしい。ガソリン不足で大騒ぎする必要は無く、決まった時間で動いてくれる日本の几帳面さを具現化した道具として頼もしい。最寄り駅が徒歩で35分ほど縮まって、散歩の長さが短くなるが、まぁ、それはそれでやっぱり有難いと感じる私であります。終バスを気にせずに地下鉄に乗れる感覚は、お江戸暮らし以来である。新鮮な驚きである。


2011年3月25日

昨日、某所で会議があり、その建家の入口の桜の木を眺める機会があった。威風堂々の硬い蕾。ここ数年、卒業式の日には確実に咲いていた桜であったが、今年は幼木以外は全く咲いていない。今朝、桜山で降りて、桜の探訪と洒落込んだ。込んだのは良かったが、寒い。駐車場の車が白い。桜どころの騒ぎではない。桜山界隈では、某中学校とその近所の小学校に桜の木が沢山あり、毎年楽しみにさせて頂いている。じっと眺めたが、ピンクの花弁を呈している枝はなんと1本のみで、残りはまだまだ白く、寒さも相俟って春の遠さを実感した。

モクレンが真っ盛りで、例年なら数日で散り始める花びらが、実にしっかりと咲き誇っている。桜に追い立てられることなく、この世の春を謳歌しているかの如くである。春告花の眺めよろしく、桜は少々お預けのようだ。ただ、気になることとして、ソメイヨシノが古木化していることだ。古い街並みには古木がつきものだが、そろそろ一斉に枯死するのではと不安である。幼木がところどころに植えられてはいるが、暗い世相故に、幼木の植替えを加速するべきではと、お祭り人間としては願うのである。

枯木で巨木は見事なのだが、突如として消え行くソメイヨシノ故に、何処かのタイミングで次世代転換が必要である。ただ、それは人の世の常であって、人も桜も世代交代の準備が必要である。東北の事例を考えるまでもなく、何が起こるかわからないのが世の習い。突然、伝染病か何かでソメイヨシノが全滅しないとも限らない。放射能汚染物質が日本中に舞い出した今日、全ての生き物のあり方が変わってしまうかもしれない。恐ろしい限りだ。

とは言うものの、もう3月も終わりである。入学式には咲いていて欲しい桜ではある。焦って花見をする必要のない、案外、ゆっくり気分の年度末。今日も書類に追われて一日を過ごす。そんなもんである。


2011年03月23日

卒業式である。自分の時から何年経ったのか考えるのも億劫になってしまったが、毎年、身の回りでやってくるので、未だに大学生気分が抜けない。1年でリセットが掛かる仕組みも有り難いと言えば有り難い。今年は先日の大地震があり、地震繋がりで神戸震災の歳を思い出す。あの時は若干ではあったが震災復興に汗を流した。今回は微弱な寄付のみで体を動かせていないが、お世話になった東北故、いや、世話にならなくとも、何かをさせて頂きたいなとは思う。卒業生の皆さんは、年齢相応の考え方を持ち、社会で活躍して頂きたいと願う。夢を見るのは簡単だが、体を動かして汗を流すのは大変だ。自らの意志の通りになることなど何もない。

今回の大地震で感じることは、神戸の時に比べて新幹線や高速道路などの大型土木物件の倒壊事故の報告が極めて少なくなっているなということ。確実に事例を活かし次に繋げたことは、土木関係各位の努力の賜だろう。凄いことである。きちんとしたものづくりが国土を支えている。そう感じる。江戸時代、いや、それよりも以前からある鎌倉街道など、現代でも残る石畳や狭道を歩く時、自然の空気の流れを読み、道を通した先人の知恵を感じる。そんな学問構築に関わっていきたいものだ。

自らは何のアイデアを出さず、人に考えさせ上手くいかなければその人の責任にして、自分には力があるのだと涼しい顔をして大学院を卒業したとしても、心の何処かに自らの努力不足を認識し、己には何の力も着いていないと認識できるとすれば、それは卒業に値するのかもしれない。社会はお見通しだし、逃げ出す癖を持った者は、永遠にそれに追いかけ回されることを知ることになる。

どれだけやっても勉強不足、経験不足を痛感する。もっともっと学び、会得し、実践していきたいと思うのだが、得体の知れない流れがそれを阻害する。これもまた社会なのだと実感する。逃げ出すところが無いのだとすれば、前に向かって進むしかないのだ。今、生きているのだとすれば、それはそんな宿命の中に居るということだ。そんなもんだ。


2011年3月22日

会場が火災で消失しなければ中止にしないと本部が断言していた応物学会の春の大会が中止となった。お江戸が火災で消失よりも悲劇的な現状であるのは間違いなく、関東近傍に人口集中を起こさせるのは確かに間違っていることだろう。懸命な判断だと賛同せざるをえない。節目節目の学会であるので、それが中止になってしまうと人的交流等、残念なことも多いが、それは言ってはいられない日本の状況であるから、冷静に事に当たっていきたいと思う。

先週、ガソリンの買い溜めということを書いたが、千葉の日石製油所が活動し始め、供給が増え始めることであろう。東北方面の道路の寸断が問題だが、タンカー輸送も活動し始めるそうであるから、特に東北方面の活動のための燃料の確保の目処が立ったのは嬉しいニュースである。しかし、福島原発の汚染範囲を迂回せねばならず、輸送に時間が掛かるのは残念なことである。陸路にしても相当に迂回していかないと、汚染をばら蒔きかねないので、これまた難儀なことである。北陸方面の鉄路は確保されていくから、鉄路を最大限に活用して盛岡まで燃料を貨物輸送して、盛岡を燃料基地にして北から燃料を各地に届けてはと思うのだが、それが成されない理由が何処かにあるのだろう。何もプルトニウムの灰に汚染された地域を強引に通過しなくてもと思う。

そろそろ春山のシーズンでもあり、また、ご当地にそろそろやってくる海洋+内陸型巨大地震に備えて、山道具を整備しようと思ったらホワイトガソリンの備蓄が心もとないことに気づいた。山屋さんを巡ってみると、ご同輩が沢山いらっしゃるようで、既にすっからかん。ネットでも購入できず、これが買い占めの効果かと苦笑いをさせされた。事務仕事で駆け回っている間に世間から取り残された気分である。応物が開催取りやめになったので、先週の出張で、年度内の遠距離出張は終わった(願望)わけだが、西に行く機会もあったので惜しい事をしたと今更悔やんでも仕方が無い。不足気味の燃料が東北方面の方々のお役に立っていると信じて諦めることにする。これも支援の一つと考える。まぁ、ホワイトガソリンに関しては何も山屋だけが入手ルートではないので・・

先週末、愛・地球博記念公園にて児童対象の理科教室を実施してきた。東北支援のチャリティ会で、応物東海支部のブースだけでも二日間で沢山の募金を頂戴した。暖かい気持ちに感謝いたします。参加してくれたお子様達が将来の日本を背負ってくれればと、背負い甲斐のある日本になるよう貢献していきたいと気持ちを新たにする私であります。


2011年3月15日

皆が節電したらかなりのエリアで計画停電から外れた。勿論これは、大口の工場が停止していること、鉄道網の麻痺の代替であることは言うまでもないのだが、普段、節電と叫びながらまだまだ節電できるところって沢山あったのではと思わせる。1000円の運動靴と格安の自転車達が飛ぶように売れているそうで、日頃の生活を見直すきっかけに「被災地区域以外の人達」がなればよいと思う。小生も今朝は、朝晩に不可思議なアポが入っていないので自転車で鶴舞までやってきたのだが、やはり圧倒的に気持ちが良い。花粉症の方には厳しいかもしれないが、自転車はそこそこの距離を移動するには良い道具だ。

新聞によれば首都圏でガソリンの買い溜めが進んでいるらしい。備蓄タンクを持つことは消防法で禁止されているが、そんなことは無視なのだろう。その昔、オイルショックというのがあって、それに連動してトイレットペーパーが世の中から消えるという風評が立った。べらぼうに高騰したトイレットペーパーに群がるオバサマ達が記憶にある。結局、アチラコチラの倉庫に山積みにされたトイレットペーパーが発見され、商社が儲ける為に仕掛けたトラップであった。助け合い精神も日本的なら、自分さえ良ければという精神も日本的なのかもしれない。首都圏など公共交通がしっかりしている場所で、ガソリンを奪い合うことはなかろう。被災地に送ってあげればよろしい。物資搬送で長距離の大型トラックの移動が盛んになるだろうから、それらには優先・割引で提供すればよろしい。それで良いではないか。

石原知事が我欲を洗い流せと、例によって高圧的な表現で語ったが、天罰という点では反対意見を持つが、我欲を洗い流すという点では賛成だ。しかしすぐその後で、スーパー堤防は必要なのだなんてやっぱり土建屋天国を推奨して国土を破壊しようとする発言をしては価値が下がる。「未曾有」の災害を射程にした政治のあり方はもう辞めようではないか。マイノリティだけを突付く生き方から、マジョリティの幸せを主軸にした環境を構築しては如何か。勘違いされては困るが、小生は共産主義者ではない。単に皆が平等に貧相になるのは御免被る。努力が報われない世界には生きられない。

天災は全ての努力を無にするかと言えば、決してそうでは無い。確かに悲劇である。悲劇ではあるのだが、生きている地球の上に乗っかって生活をさせて頂いているわけであって、地球にしてみればくしゃみをしただけのことだ。地球のくしゃみを絶望と感じるか、仕方が無いと思えるか、日頃、どんだけ頑張っていたかに掛かっていると思う。頭蓋骨出して、意識はあっても指先ひとつ動かない状態になってみると分かる。人を恨まずどうやって生きるかを考えたことがある者には分かる。電気に頼り切った生活が放射能汚染を含め生活環境が大いに不便になったと感じるのであれば、日頃から電気に頼り切らない生活を今後実施していくべきだ。それだけが出来ることかもしれない。そんなもんだ。


2011年3月14日

天災は誰にでも何処にいても平等に訪れる。それ故に天災である。ポンペイの街が一瞬のうちに熱灰に覆われ、地上から失われたように、今後も同様の惨劇が繰り返されるであろう。科学技術の粋を結集した原子力発電所など、地球がほんの少し咳き込めばネガティブな裁きを受ける。フランクリンの凧から理解が変わっていない静電気を動かして手に入れた利便性など、一瞬にしてはぎ取られる。人間に本来備わっている力ではないのだから仕方が無い。

人類の強さに他人同士が助け合えるということがあると思う。あくまでも思うだけなのだが、苦境で助けを求める人に対して、本当に助けたいと思える相手には手をさしのべることが出来ることが、自然と戦ってきた人間が得た知恵では無かろうか。天災で喘ぐ同輩には手をさしのべねばならぬ。しかし、明日は我が身と思って手をさしのべるのであってはならない。

小生、博士論文の研究を青葉山大学でかなりの分を実施していたこともあり、また、ガマの油売り大学も相当のダメージを受けたらしく、他人事では無い。少し前には秋田にもお世話になっていた。心配の種は撒き放題撒いてきたが、今、この瞬間に出来る事は自らが粛々と生きることと、被災地に住む方々に強く生きて頂きたいと願うだけである。

以前より叫んではいるが、電気に頼らない、しかし、利便性の高い生活空間の創成にいよいよ力を尽くすべきと考えるのだが、はてさて、これは相当に難儀である。難儀であるが、着手しなければならない。何故なら私は学者だからだ。粛々と生きる。それだけである。


2011年3月10日

「理論的に考えて、日本国内での最終製品の製造はあり得ない」、TOYOTA社長殿の名言である。全ての日本国民は浪花節時代の終焉を実感するがよろしい。そして自らの意志で自らの道を決めていかねばならぬ。内田百閒氏ではないが「イヤダカライヤダ」と言うべきだ。身を削られ骨を削られ魂すら抜き取られ、精神だけで着いていったら「いらん」と言う。それが現代流の殿様である。信長とも少し違う。しかし、これが世界流ということだ。小生、批判はしないし、そんな時代なのだと理解する。ただ、考え方として「イヤダカライヤダ」と言い返したい。

省エネデバイス材料と期待されて、もう呆れられてきているSiCであるが、そもそも国税を使ってまで実現しようとしているパワーモジュールが使われる果てが、既に成熟した社会では購買数が減ってきている自動車に使おうよというのは如何なものか。それこそ夢も希望もありゃしない。勿論、基幹電力系統など、大電力を低周波で送り届ける場所においては有効な素子なのだが、基幹電力部門への参入は医療現場への参入よりも障壁が高いと言われるほどだから、そこに新参者が投入されることは、小生が生きている間には恐らく無いだろう。百分の一秒の瞬停ですら一千億円レベルの保証を要求される世界への参入には「イヤダカライヤダ」と言われて終わってしまうだろう。

今週、ずっと同じ事を言い続けているような気がするのだが、要は数が出るから儲かるね、数があるから町工場に仕事を回せるねという考えは、最終製品製造をしない国では通用しないと言う事だ。100円均一の商法が生まれた時点で、ものづくりへの尊敬とか良い物を長く使おうという文化は消滅したわけだし、既に「あれっ、いつの間にか日本製品を見かけなくなったぞ」と振り返ってみてももう遅い。ドイツの有名な鉛筆屋さん(カステルですな)から持ち歩きようの鉛筆削りを購入したらMade in Chinaだった。まぁ、そんなもんだ。

物価が安いとか物が溢れているとか言われるが、こちらの心は荒むばかりである。心の温かさなんてどうでも良くて、ひたすらひたすら走り回って、気がつけばやっぱり睡眠時間が無い。昨年末に「講演等依頼はみんなお断り」と宣言して本当に断りまくっているのだが、それでも何故か走り回っている。浪花節はもう辞めて、今度こそ「イヤダカライヤダ」を貫いてみたいと思う。最終製品の製造はあり得ない国で何を作りどんな社会貢献をさせて頂けるのか。良いものづくりをしていきたい気持ちはちっとも変わらないし、更に強くなっている。しかし最近、「眠てぇ~」と感じることがある。そろそろあっち側に行きそうな気がする。50前後の知人がどんどん消滅していく昨今、死神に「イヤダカライヤダ」と言い切れるかなと、何となく草臥れ感覚の私であります。


2011年3月9日

名古屋駅近くに鉄道の博物館みたいなものが出来たらしい。いずれやってくるリニアモーターカーを想定して、その昔、秋葉原にあった鉄道博物館の巨大版のようだ。見に行きたくもあり、どうでも良くもあり。恐らく、なんかの都合で訪れることはあるのかもしれないが、その程度のことであろう。名古屋という路面電車を捨て、排気ガスをまき散らす、機械だけのぬくもりの無い土地に、鉄道という袖触れ合うツールの代表格である鉄道の博物館が出来てくるのは皮肉だ。

鉄道をイメージする時、その昔に見た銀座の路面電車、そしてそれがトロリーバスになり、最後はそれらが撤去され路面の石の塊が「何処に行くのだろう」と思ったことが思い出される。鉄道の敷設には線路が必要だ。鉄の軌道に鉄の車輪。鉄である。地球で4番目に多い元素ではあるが、日本にはそれすら潤沢には存在しない。中国、インドの建設ラッシュで、資源としての鉄はどんどん消費されていく。鉄道は本当にエコかと、しばしば悩む。今日も新幹線に乗るが、鉄路の上にアルミのボディ・・・エコでは無さそうだ。

先人達は鉄や軌道に使う枕木を求めて東南アジアに侵略していった。一つの視点は国を富ませることにあるが、明らかな視点は銭設けである。銀行屋が訪れ、銭で横っ面をはたき、利息を取ってふんぞり返る。その裏には殺戮があろうが無かろうが、そんなことは知っちゃいない。ものの価格が下がり続けている今、技術も労働力も価値を認められず、数年後には壊れて消える自動車や家屋が最大の購入物品になり、それが銀行屋のツールとなる。そんな状況から脱却せねばならぬ。

大学の研究も銭金になるからもてはやされ、文化に関わるという本質は見向きもされない。口では何とでも言えて、実際問題として、無駄なダムは出来ても街に新しい図書館が出来ない如く、民間人が文化に触れ、知恵を得ることを国は徹底的に嫌う。箱物が大好きで血の通い合いは嫌い。地下鉄の入り口で鉄道なんとかのポスターを見たのだが、そんなもん作るのであれば、どっかの福祉施設の周辺に路面電車でもトロリーバスでもなんでも良いから、血の通い合うものを作れよとふと思った。思ったのだが新幹線には乗らねばならぬ。何となくおかしい。そんな気がした今朝である。


2011年3月8日

火山の噴火によって珊瑚礁に火山灰が積もる。そして珊瑚礁が死滅する。そんなもん、地球46億年の歴史から見ればくしゃみにもならない。人間は自分の寿命で物事を計り過ぎ。自分が立っている大地が石灰岩台地で、その昔、遙か昔、赤道上の珊瑚礁であったことを忘れすぎ。長い目で見ればなるようにしかならないのに、目の前のことで騒ぎすぎだ。まぁ、急に会社(大学)が無くなって「明日から来なくて良いよ」と言われたら流石に「参ったなぁ」と思う。きっと思う。思うが、腹が減る。腹が減るから仕事を探す。探しても無いから路頭に迷う。珊瑚礁と一緒に死滅でもするかとはなかなかなれない。そんな行き詰まった雰囲気には、珊瑚礁の死滅の放送を見て感じた。珊瑚礁そのものはどうでも宜しい。自然の摂理である。

高精度金型が中国で出来るようになり、部品製造が国内から韓国、中国にシフトしていくと、上述したような出来事が加速して生じてくる。失業保険も支給できなくなって、いよいよ日本経済は破綻かなと、妙に他人事の如くに構えて見ている。抵抗などの、ウルトラ細かい電子部品などは各国で出来て各国で消費していくから、儲けは殆ど上がらないが仕事は案外ゼロにはならない。それよりももうちょっと大きな部品、例えば自動車1台に10個使われるような部品とか、共通化されてきて金型で吐き出す代物は、次々と国外から入ってくるようになる。必然、それを作っていた企業は他の物を作るか、店を畳むかしか選択肢が無くなる。大学も当然にして同様。

日本国内に使われなくなった精密加工機がごまんとある。かなりの台数がベトナムなど近隣諸国で、これから頑張るぞ!って国々に出て行っているのだが、国内でもなんとかそこから「ご飯に繋がる」製品を生み出せない物かと考える。国民総貧乏時代に突入しつつあるわけだから、一点豪華な製品を売って、利益100倍なんて魔法みたいなお話は無い。一人で旋盤に向かって形にしていくったって、ご飯に繋がる程の大きさの物であったら、一日に100個が限界だろう。月に25日働くとして2500個で一月、食いつなぐわけだ。果たしてどんな材料で何を作るとそれが現実になるのか。税金、光熱費、必要経費をさっ引いてなおかつ食える状況をイメージしなければならぬ。これがやっぱり難しい。

ソフトウエアなどのバーチャルな世界で食っていく人は私にはどうでも良い。大学を出てきゅうきゅうしてものづくりをしている世界はどうも変だ。TVなど作れば作るほど赤字になっていく不可思議な世界だ。それでもそこに関わって行き、ビジョンもへちまもなく、レミングの如く、大海に集団で飛び込んでいく様は、明日の飯の無い世界の象徴に見える。一日に一つの物を捨てていってもちっとも困ってこない。自分の生活が如何におかしな事になってきていたのか。反省しつつ、食えなくなるのはいつのことかと、少々イメージしつつ生きている私であります。


2011年3月7日

今日からナイトライド関連とナノテク関連の国際シンポジウムが鶴舞大学で開催される。小生は現地実行委員として関わってはいるが、会議そのものには参加しない。しないというか、様々な割り込みが入って集中できないから、最初から参加しないことにした。これが大学の現状であり、異常な事態だと感じる。その昔は「大学は学生に色を付けないで欲しい、研究も指導も企業がやります!」と公言し大学を見下しきっていたくせに、市場が暗くなってきた途端、産学連携などと聞こえの良い言葉で大学を活用しはじめる。国も大学を切りたいものだから、企業に丸投げする。もうむちゃくちゃだ。

もっとも、特に工科系大学が日本のものづくりにどれだけ貢献してきたかと言えば、それは殆ど無いと言われても仕方のない教育体制を続けて来たのは反省せねばならぬ。国際会議に出席するだけで自らが世界的権威になったように錯覚し、国民の税金で国の「知」を深め、そして幸福に貢献するという本来の姿から遙か彼方に遠ざかってしまったように感じる。売り上げさえ増えれば良いという企業と、内弁慶姿勢の教員との乖離は激しい。

名古屋市議会議員選挙が実施されるわけだが、減税して欲しくないという方々の内なる所には、自治体なり国なりに身を委ねすぎる甘えを感じる。キリギリス的考えではと感じるところが多々ある。先ずは必死に頑張って、自分の未来は自分で何とかするという姿勢からスタートしなければ、不慮の出来事によって困っている人達を助ける本来の福祉から離れていってしまう。議員など少数精鋭で宜しい。その方々が必死に街を巡り、市井に飛び込み意を汲み上げ、更に高い理想として昇華し議論するには、議員が多すぎる。国は変わらねばならぬ。国民の自らへの甘え体質を払拭せねばならぬ。

どうやら現政権も手詰まりのようだ。剣を持って進んだ者は剣によって倒される。歴史は繰り返される。知を持って進んでより優れた知に席を譲れるなら、そんなに素晴らしいことはない。そんな世の中の繰り返しであるならば優しい世の中だろう。そんな世であって頂きたいものだ。


2011年3月3日

桜の前の寒さのぶり返し。毎年、必ず生じる現象であるが、一旦、暖かさになれてしまうと、たいした寒さでは無いのに、やけに厳しく感じる。慣れとは恐ろしいものだ。例の吉田山事件から大略、一週間だが、かなりの確度で現場犯人は特定されたらしい。未成年だからと言って許されるはずはなく、一時の気の迷い、若気の至りなどと寛容に目こぼしできる代物ではない。

要は逃げの一手なわけだ。苦しくても堪え忍ぶ場面は、生涯、延々と続く。続き続ける。堪え忍べなくて血尿出したり倒れたり、そんなシーンも多々あるわけだ。逃げの一手など許されず、顔で笑って心で泣くどころか、顔で泣き叫ぶシーンだって天よりも高く積み重なる。世の中、そんなもんだ。人は他の生命を奪い生き続ける。罪多き生命なのだ。厳しくて当然だ。いんちきはいかん。

どんな理由があるにせよ、時間という生命にとって平等な時間に乗っている限り、他の努力を踏みにじる行為は許されない。結果が思う様にいかなかったら、それはその努力が足りなかっただけの話。「頑張ったのですけど、なんとかなりませんか?」、「なりませんね、結果が伴わないのだから努力しなかったんでしょ?」この会話で全てが終了する。それだけのことだ。ただ、精一杯、自らの限界に挑み成し遂げたとの満足感が自らに残ったならば、後悔が無かったならば、そこにはそれが結果として残る。次に繋がる。それが大事。

ネットでの安易な問題解決は、図書館に籠もって論文・書物を探り、探っていく中で目的とは異なる優れた文献に出会い、学問の広がり、人の歩みの厚みを知った、小生の如く古代人には理解出来ない。一つの文献のコピーの為に他大学に手土産持って出向き、平身低頭、有り難く押し頂き困難な文献を読解してきた。不夜城と呼ばれた研究室、それが当たり前だった。今、それがとても幸せな環境であったと感謝している。何でも安易にリセットが効き、それを許してきた親の世代が国を滅ぼす。今、その恐ろしさに押しつぶされそうである。受験生は大学にもっとしっかりとした対応を取れと叫ぶが、その前に、安易にインチキを選ぶ子供を育てた親をなじれ!そう言いたい。


2011年3月1日

赤字を加速させる予算案が衆議院を通過した。未明のなんとかなんぞ出来レースで、僅かな人向けのガス抜き以外、何の意味もない。一人頭、大略100億円の借金を抱えていられるのだから豊かな国だ。それを何とも思わない政治家諸氏には呆れかえる。与党も野党も無く、何処まで行けば気が済むのかと、ギリシャやスペインなどよりもずっと借金を抱えて、にっちもさっちも行かない国のくせに、景気対策とはちゃんちゃらおかしい。公務員は税金で喰っていると言われるが、一般企業のほうがずっと税金で喰っている。公務員を削減しろ!と叫ぶなら、多くの企業も消えて無くなれ!と公務員が叫んでも、これは全く、税金の下の公平である。それはどうでも良いが、毎年、赤字を増やし続けてどうなるのだろうか。

景気対策と言うが、バブル時代の金余り状況なんぞ、この島国にはもう二度とやってこないのは明白なのに、そこにずっとしがみつく浅ましさ。結局の所、民間の意識改革が無いままに政治の首のすげ替えをやり続けるもんだから、赤字体質は全く変わらない。名古屋市長の減税政策は絵空事とTVの向こうの多くの有識者と呼ばれる諸氏は語るわけだが、ちゃぁんと議員数減、議員経費減を謳っている。福祉、医療、環境対策以外はなんにもしませんとホンネで語れば、消費税なんぞ今のままで十分だ。ダムなんぞいらん、新規の公共事業など10年はやらないと、当然のことを当たり前に実行すれば、国民の見えない借金は少なくなる方向に向かう。

それを語ると裏の方々や諸外国がぶぅたれるわけだが、そんなもん、もういい加減に無視しては如何か。当然の如く、郵政事業も赤字まっしぐらで、2000年続いた郵便事業すら無くなっちゃうのかと「国じゃぁ無いな」と笑えてくる。折角の大量集票で政権を担ったのに、周囲を見渡す政治をやっちゃぁ自民党時代と全く変わらないではないか。税収分の政治しか出来ないのだから、バブル以前の政治を継続するのは止めて頂きたいものだ。

今朝、幅2mにも満たない裏路地が綺麗に舗装され直しているところに直面した。生活道路なのだが、この道路を一体、何人が利用するのか?ガス管が老朽化、水道管が老朽化と、あっという間に老朽化する部材を利用して、土建屋の方々を税金で喰わせる施策は、もういい加減に止めては如何か。カンニング天国の大学もぼんぼん潰して良いのではないか。馬鹿馬鹿しい予算案を見て「先は無いな」と苦笑いする私であります。


2011年2月28日

一体、どんな手口を使ったのか。会場から情報を外部に届けるのは、ウエブカメラなどを使えば出来るが、それを受け取って答案に反映させるのは相当に難しい様な気がする。試験監督をやってみるとわかるのだが、特に教壇から見渡すと、異常行動というのは立ち所に目に付く。同時に複数、前後からも見渡していながらも、カンニングが成されたというのであれば、それはスパイも真っ青な行動だ。見当が付かない。

事前に問題が漏洩していたとしても、それを実行できるのは問題統括者以上のレベルの教員若しくは事務員であり、数学と英語の両方の科目を漏洩できる立場の人間は相当に絞られる。複数校で生じていることであり、事前漏洩ということであれば、広範囲な組織的犯罪と言う事になろう。ここでもまた、一体、どうなってんのと首をかしげるのだ。

ネットに書き込まれた解答事例を自らの答案用紙に反映させようとすると、どんな手法が考えられるのか。机上に携帯電話などを出していれば即座に退室させられるだろうし、盗み見ようと不審動作を繰り返せば、監督者の目に留まらない筈はない。筆箱すら片付けさせられるわけで、ディスプレーとして可能なのは、ペンの側面か消しゴムくらいなもんだ。身に着ける大きさのカメラで問題を撮影し、それを外部者がネットに書き込むなどする愉快犯で留まるのか、それともやはり外部情報を自らの答案に反映出来るのか。

いずれにせよ、被害を受けた大学が答案を電子的にスキャンして、ネットにアップされている解答事例とのマッチング操作を行うなどしていけば、複数の組み合わせで違反者をはじき出せるのではないか?驚いたのは国公立だから公務執行妨害で立件できるが、私立大学の場合には単なるカンニング行為に留まってしまい、犯罪立件が難しいということだ。これ程までにおつむの硬い国家では、仕事が無くなって借金まみれになるのは当たり前である。今回の吉田山大学入試騒動は徹底的に解明されねばならぬ。そして極刑を持って当たるべし。受験受験と明け暮れるのは大反対なのだが、愚劣な行為がまかり通る国家であってほしくない。ここまでこの国、地に墜ちているのだなと、鶴舞大はどうだったのだろうと、妙に心配になってしまう私であります。


2011年2月22日

財務省と文科省のお約束で、1年の年限を切られて改革が求められている。そんなものいつも求められる前からやっているし、やろうともしている。天下りのポストを設置する仕組みをイエッサーと組み込む姿勢が求められてきたわけだが、もう、それも限界に近い。はてさてどうするか。足下の地域と気持ち新たに22世紀を作ろうという気概が必要だ。それは大学だけではなくて企業にも一般家庭にも言える。草の根喰ってでも一つの命を燃やし尽くそうという気持ちが必要だ。それに尽きる。

行動がいつしか実践に変わる。「うだうだ言ってねぇで、とっとと動けよ!」という上司の方は正しい。その通り。犬だって歩いてればどっかに当たる。少し考えられるようになれば当たる確率が高くなる。その内に狙って当てられる。革命的ジャンプアップは狙って当てられるものでは無いが、それとて、行動して、熟考して、知識を智慧にして、そして実践に至る。屁理屈個ねが得意な新人は、蹴飛ばして動かして3年待つ。それでも駄目なら消えて頂く。結局の所、それで良いのではと思う。小生も消える側の人間故に、延々と戯言を続けている。

自然が作った穴を住処にして、焚き火で暖を取り始めてから十数万年の時を経た。それとて地球の46歳から見たらゴミにもならない。三重に象が居たのは340万年前だから、祖先達は三重象を見ていない勘定になる。十数万年で何をやってきたのかと言えば破壊ということなのだが、漸くそこからエコだの環境だのとの言葉が生まれてきた。しかしそれは同時に物の流れる速度を低下させ、向上というよりも拡散の時代への突入を意味する。その中で智慧だけは拡散して霧散しないよう気を配らねばならない。

国外での仕事の拡大を狙い雇用の大半を外国人とするという。正にグローバル時代と言う言葉は極めて陳腐で、そんなもん、十数万年前に戻っただけだ。ここに食い物が無くなったから余所の土地に行く。そこでも無くなったらまた他へ行く。人の行動は絶滅するまで変わりそうにない。そうであるならば、そこに劇的変革のキーがあるような気がしてならぬ。そこに没頭してみたい気もするのだが、明日から旅に出ます。それではまた来週!


2011年02月17日

でかいお話だと思った。太陽フレアが昨日観測され、それが早ければ今日中に地球に届くのだそうだ。その電磁気嵐は人工衛星などの高度電子機器を狂わせて、GPS以上など様々な影響をもたらすそうだ。単に電磁波というだけではなく、高速で飛び回る微粒子も襲って来るそう何やらいろいろな影響があるとのこと。ただ、これが宇宙誕生時からずっと続いていることを思うと、これは人間の、もの凄いちっぽけな悩みだなと失笑してしまう。

茨城の沿岸には何カ所か、鳴き砂を体験出来る砂浜があるのだが、それがここのところ急速に減っているとのこと。砂浜の減少をくい止めるためのテトラポットの設置により山からの砂が海岸に届かなくなり、人間が排出している汚染物質が海岸に溜まり込んで、結局のところ鳴かなくなったらしい。これなどは、本来、数億年を掛けて変動してきた気候変動に伴う海岸水位の高さ変動を、人間が好き勝手に防ごうとした結果であって、なんともみみっちい、愚かな結果に人間が自ら勝手に苦しんでいるのだなと、宇宙空間を飛んでくるフレア粒子からみると、愚かな物体の悩みだと笑われそうだなと実感するのだ。

どうしようもない大きなお話というのは、地球の中には見られずに、やはり宇宙にあるのだなと実感した次第。しかし、そんなちっぽけな星とはいえ、我々を、その質量が生み出す引力で引きつけてくれていて、やっぱり大したものだなと思うのだ。ここ数日、夜空には月が浮かんでいるが、これなども元はといえば地球の大地だったわけだし、宇宙ほどは大きなものでは無いにせよ、地上でのこせこせしたお話とは違うスケールで面白い。

今日は卒論発表会である。自分のテーマは単結晶Siの格子位置に入った窒素原子の挙動を、その周りの電子と窒素原子の核スピンとの相互作用を使って調べるという、なんとも小さなお話であった。しかしそれが今、地球温暖化防止みたいな、そこそこ大きなお話と結びついている。何かを一所懸命にやっていると何かが出来てくる。しかしそれは2、30年の、人間にとってはそこそこ長い期間を要する。若い方々に申し上げたいのは、この部分。焦るべからずである。


2011年2月16日

抗菌、殺菌、滅菌。どの単語が最も強力に細菌などに作用していることを表現しているのか。抗菌は現状の菌をそれ以上に増やさないこと。殺菌は特定の菌を殺傷し減少させること。滅菌は全ての細菌、ウイルスを抹消すること。要するに滅菌が一番迫力がある抹殺状態であり、ターミネーターなどはこれに属するだろう。ここのところ、空気・水質浄化などの関連でうろつきまわっているが、抗菌という単語が如何にいんちきっぽいのか理解できてきた。殺菌、滅菌は医療用語だが、抗菌などは民生単語である。抗菌靴下を履いたとて(小生は持っていない、念のため)水虫は治らないと言うことだ。直さなくても良いのだ。勉強するといろいろ分かって面白い。言葉の定義は重要だ。

ここのところほぼ毎日、鳥インフルエンザ陽性の記事が並ぶ。この陽性という単語に違和感があって、何となく雰囲気が良さそうな「陽」という漢字が、実は「インフルエンザに掛かってしまっている」という恐ろしい事実の表記であるのだから、最初の漢字設定というところの妙を感じる。まぁ、それにも増して、この鳥インフルエンザウイルスとの戦いが、いずれ、人インフルエンザへの進化となって「人も陽性」と診断されるようになるのだろうなと、恐ろしさを感じるのだ。家畜の魂を奪い続ける人への鉄槌が無い訳が無い。

ポルトガルが財政破綻らしい。日本と同様にずるずると慢性的な赤字を続けていたためとの事だが、破綻規模は今の日本の財政よりマシであることを考えると、極めて近いところで、日本に財政破綻の陽性反応が出るのだろう。栄あたりで殺人事件が起こり続けているらしいが、それなどもこの陽性反応の一つと考えるべきでは無いのか?高速道路での追突事故など、切羽詰まった運転が一瞬の判断ミスを呼んでいるのだろうと、単に運転手のミスだけで済ます事は出来ないのだろうと思うのだ。死んだ人が出るとその無念さのみに焦点が当てられるが、もっと見つめるところがあろう。

大村知事がスタートした。小生などは名古屋市民であると同時に愛知県民であるから、その行方は大変に気になるところである。設楽ダムなどの大型工事はすぐさま中止し、数十年に及ぶ住民への翻弄を、政治の立場から謝罪、転換し、将来への健全財政運営への道筋を示して欲しいものだ。大型投資にぶら下がることを期待するのも、県民は止めねばならぬ。バブル景気を忘れる事の出来ない社会から完全に脱却し、厳しくとも未来がある政治へと舵を向けて欲しい。抗菌ではだめで滅菌感覚にならねばならぬ。臭いものに蓋をするだけの抗菌政治はもう止めて、滅菌政治へと進んで欲しい。その時、初めてゼロになる。ゼロからは気持ちよく出発出来る。早くその日を見てみたい。


2011年02月15日

マナカを使い始めた。特に何が変わったという事は無いのだが、ユリカの場合に比べて大きな金額をチャージ出きるのが有り難い。少なくとも倍以上のチャージ期間を保てる仕組みは便利だ。新聞によれば、ユリカの投入口に差し込んでしまうトラブルが続発しているとのこと。使う側の責任ではあるが、自分とてくたびれ果てて利用するときに、ふと、やってしまわないとも限らない。出きるだけ速やかにユリカの差し込み口を閉じて欲しいものだとは思う。何かが変わる時の産みの苦しみだろう。面白いと思えば宜しい。

駅構内の売店などでも物品を購入できるのは有り難い。小銭をじゃらじゃらと財布をひっかき回して時間を掛けることなくやりとりが出きるのは大変に有り難い。特に買い過ぎることもなく便利だ。ユリカの時と異なり、改札口で残額が表示されるのは、JRに似て良いサービスだ。瞬間的に認識でき、チャージの時期が分かるのは、このようなサービスには必要なものだなと納得する。

ただ、ICカードはJR等で既に多数身近に存在していて、1枚で済ませることは出来ないのかなと、これは極めてやっかいである。1枚にしてしまって、もしもそれを紛失した時の衝撃は大きそうだが、財布を落としてなくすのならば、どっちにしろ全部がいっぺんに無くなってしまうことには変わりない。チャージが大きくなっているので、より気をつけなければと感じるが、マルチの目的に1枚のカードというのが、本来のITのあり方ではないか?お役所が例の番号制カードを配布して、それに好みのサービスを付加出来るようにしては如何か。プライバシー云々言うほどのものは持ち合わせていないし、小生などはそれで良かろうと思う。

ユリカにおいては偽物カードや不正使用などが大変に多かったそうで、そんなこととは無縁のユーザーとしては驚くばかりである。世の中、インチキは永遠に無くならないのだなとため息を付くばかりだが、このマナカにおいてはそれはどうなのだろうと、JRのカードあたりで試してみようかなとも思ってみたりもするのだが、まぁ、面倒を起こしても仕方がない。新しもの好きとしては、愉快な気分である。何か面白いサービスを期待したい。


2011年02月14日

天気が宜しくない。そろそろ春なのかなと感じるが、最高気温が10度を超えない中での雨はかなり厳しい。体調管理には十分に気を配らねばならないが、そんな余裕もなく、例の如くの日々を過ごすことになる。結果的にどうでも良かったと将来考えそうな事項に出来るだけタッチしないようにすることが重要なのだが、予言者ではないのでそれが解らない。無駄も重要と日頃は思うが、この12月から4月の間はそうも言ってはいられない。

特に問題なのが紙の資料。極力減らしていこうと思っているのだが、これがなかなか削減できない。不思議で仕方がない。気が付くと山になっているのだ。書籍などは利用する都度に書棚に戻そうと、何とか努力を続けることが出来るのだが、紙の書類が意識を失っていたのかと思うくらいに、瞬間的にどかんと増えていく。書類や会議の多い組織は滅びると言われているが、まさにその末期症状を感じる。なんとか整理法みたいな、様々な工夫をしてきたが、それも全く追いつかなくなってきている。自らの無能を呪うだけである。

ペーパーレス社会と言われて久しく、更にはiPadのような電子パッドも群れている。会議の一部には電子ペーパーが使われるようになり、その場その場の結審で極めて好ましい。それなのに猛烈な勢いで紙面が増殖するのは如何なものだろう。一つは法律の改正でなんでもかんでも面倒な方向に走っていることにあろう。毎年書式の変わる届けで書など、もう勘弁してくれとなる。完全に諦めモードに入っている。提出ミスで処罰を受けたほうがましと感じる。

電子化を面白がっていた時代は良かったが、電子情報がこちらを管理するように牙を向いてくると、こいつは相当にイヤらしいなと感じる。単純なルーチンワークにはもってこいだが、一回こっきりの作業をご丁寧に、出来損ないのワークシートに落とし込む作業などやっていられない。あまつさえ「先程の送信先は間違えで、こちらに送りなおしてくれ」と電子作業を強要する側は、とても安易に命令してくる。当然、完璧に無視するが精神的ダメージは残る。こう思うことも我が侭で通用することでは無い事も理解はしているが、それでも机上の書類が積層されて行くことには辟易する。新年度に向けて「即読即廃」を鉄則に今日から実行してみようと思いつつ、今日も何やら会議があったなと頭を抱える私であります。



2011年02月10日

三寒四温。寒暖の差がとても激しく感じる今日この頃である。駅に新しく設置された電光掲示板のニュースに、愛知県内のインフルエンザ猛威が踊る。乾燥しきっては死んでしまうウイルスだが、最近の適度な湿り気が猛威を後押ししているらしい。天然自然の事なのだが、土地柄によって蔓延しやすい地域とそうでない地域がありそうだ。

身の回りで発症していないのでぴんとこない。最近では花粉症と相まって、マスクマン、マスクレディが街を闊歩していて、誰が風邪引きで誰が花粉症か見分けがつかない。幸か不幸か、ごほごほとひどく咳をしている人を見かけない。ちょっとの事で休暇を取れる身分の方々が増えているのだろうか。頭蓋骨を割っても休暇を取れない職場とは大違いだ。良い世の中だ。

インフルエンザではないが、関東では消費税値上げにご執心のようだ。とことん無駄遣いをして、甘ったれて思考停止に陥っている国民を公共投資の名で更に甘やかして国家崩壊を促進する政府と野党。凄まじい景色である。これ程までに政治とは信用できないものなのかと呆れ返る。名古屋・愛知はどうなのだろう。議会の解散まで行ったが、この先どうなるのか。

遠山プランの仕上げが近いらしい。23年度に1年だけ猶予を与えられた大学法人の一掃がスタートする。まぁ、それも良かろうと思うのだ。一時、殆どの大学を閉じてしまって世の中がどうなるのか見守るのも良かろう。どこかに段ボールの家でも建てて生き延びるには、冬の寒さは骨身に凍みるなと、なんだか情けない想いの昨今である。


2011年02月09日

この季節、来春卒業者の就職案内を多数頂戴したりご訪問を頂いたりする。大変に有り難いことである。小生は今を謳歌する大企業、中小企業よりも、10年先、20年先を目指して歯を食いしばれる企業を薦めたいのだが、いかんせん、進学も就職も母親が出しゃばってくる昨今、なかなかそうはいかない。聞くところによると、内定式に母親同伴も可と連絡すると、100%の確率で盲腸の如くに母親がくっついてくるそうだ。親離れ子離れ出来ないほ乳類の末路は哀れだ。死滅確定の人種を採用してしまった企業はもっと哀れかもしれない。

円高でも海外生産、海外販売の戦略をとることが出来るトヨタさんの利益率の高さには呆れかえる。これだから入社希望者が尽きないのだなとその強さに圧倒される。客が望む車をビジョン無く作り続けて利益を上げていく。定期的に壊れて消耗品として自社の車に乗り換えを斡旋していく。作戦としては花丸なのだろう。道路造りへの公共投資をさせつつ、そこに自社の車を配置していく。儲かるわけである。

今年はタイヤが高額だそうで、新品のタイヤの利益率が高いそうだ。中国やインドでの自動車販売が堅調で、日本国内にまわされるタイヤが品薄なのだそうだ。コーヒーなども同様で、社会の流れがBRICsに向かっていることで、従来の消耗品戦略の矛先が変わってきている。この辺りを大学生はじっくりと考えるべきだ。就職先は我が国にあっても、職場は我が国には無いのだとの覚悟が必要だ。小生などもとっとと出ていきたいが、年齢制限に引っかかって思うようにはいかない。

名古屋では公約の減税が成されるであろう。公共投資はゼロになっても不思議ではない。そうなったら何がどう変わるのか。国からの補助金も無くなっていくのだろうが、大借金国が地方に分配する金がある方がおかしいのだから、それを平時とわきまえ働かねばならぬ。最早、国内で何を成そうという時代ではない。老齢者も含めて石に刻んで毎日を過ごさざるを得ない。そんな時代だと感じる。


2011年2月8日

大相撲再建のためには春場所中止もやむを得ないという首相のお話だが、元来、藩の代理戦争みたいなものであって、その地位も強さだけではなく力士を抱える藩の強弱で決まっていたくらいだから、まぁ、八百長が本来の体質故に、変わりようがないだろうと思うのだ。民主党も自民党も変わらないが如くに、古く大きな組織は変革出来ない。出来ないから歴史が積み重ねられる。幕府なんてのは正にそうだったではないか。クーデターでも起こらない限り変われない。自民党なんて半ばクーデターめいて第一党を退かされたのに、未だに変わらないではないか。大相撲も同様だ。

電子デバイス屋がスマートフォンが元気なお陰で堅調なそうで。直ぐに日経などが歓喜のエールを送るのだが、無責任もいいところ。例えばワイヤボンダという機械があるが、これは今のところLSIには必須の機械で、アジアの目覚ましい伸びを見せるエレクトロニクス屋さん達には五万と入っている。これがもしもだよ、LSIテクノロジーの進化によって、ボンディングが必要無くなるとしよう。基板加工が高度化していけば、当然の事ながらそっちへ向かう。いや、もう向かってゴール間近だ。すると、ボンディング関連機器屋さんはおろか、ボンディングを前提にしかデバイスを作れない人達、それを前提にスマートフォンを作っていた人達は凄まじい打撃を受けるわけだ。スマートフォンとそのサービスは売れるが、デバイス屋の多くは部隊から降りることになる。エレクトロニクス屋にとって日本は既に墓場の状態だから、その墓場からのドロップは何を意味するか。

TVで沖縄の基地を受け入れないと表明した地域が、国からの補助金を断ち切られたと放送していた。断ち切られた地域は、基地頼みから回頭し、国からの補助金頼みから自ら生み出す施策に転換しつつあるそうだ。勿論、倒産企業も多く出たらしいのだが、それでも基地を回顧するのではなく、基地のない未来に踏み出したそうだ。この勇気は見事であり、正にエールを送りたくなる事実である。最早、日本国内に若者の職は無く、海の向こうで商売をやるしかない。となると、大きく転換するべきは教育のあり方である。何時までも変わらない背中を見せるだけの大学教育ではガラパゴスゾウガメを育てるが如くだ。勿論、必要な事は残すべきだが、工業大学などは大きく転換されるべきであろう。

大相撲の有様を見ていて、日本人の馴れ合いの醜さの極致だなと感じる。馴れ合いが悪いとは言わない。無理に波風立てない風潮は、安穏として猫の如くに暢気に生きられる。しかし、度が過ぎると安穏が不愉快に変わる。政治執行者が歳入を遙かに超えた予算を組んでしまうのも、それを暢気に受け入れてしまう国民も、馴れ合いの度が過ぎている。首相は大相撲再建の為に春場所を中止するというのであれば、国の未来を思い、歳入と歳出をどっこいにしてみては如何か。公共事業中止もやむ無しと、一大決意をしてみては如何か。無責任な一言を積み重ねられるのにはもう飽きた。


2011年02月07日

河村劇場だのなんだのと言うのは簡単。そうそう出来ることではない。住民投票というのも面白かった。政令指定都市の規模では初めてと言うところが何とも嬉しいやら情けないやらで、複雑な思いがある。そもそも民主的に選ばれた集団に対して、直接民主主義を働かせて良いものかというルール的なところもあるし、いやいや、もうどうしようも無いところまで朽ち果てたら我慢は無用、ご維新というところか。いずれにせよ、変わって欲しい、いろいろと。

減税が成されねばならぬ。減税が行われる以上は、何らかの住民サービスは削られねばならない。その痛みの部分を早急に明確にすることだ。手品では無いのだから、減税で公的なサービスが同様であってはならない。むしろ、公的なサービスを激減させるとよろしい。市議会議員の削減は当然のこと、多くのサービスは独占にならないように民間に委譲していく。小さな政府のモデルを名古屋から発信して欲しい。腐りきった日本のカンフル剤を名古屋から発信して欲しい。

中小企業支援なども謳われてはいるが、そもそも演舞場が無くなっているのに部隊芸人を残そうという考えは、世界的潮流を眺めてから実施して頂きたい。演舞場を取り戻そうという大きな痛みが伴ったとしても、将来、必ずやまた大入りになるから芸人を残すのだと、明確な世界戦略が必要である。日本一国では成り立たない、世界目線での戦略は、本来は明治維新で成される筈だったのだが、結局薬局水道局(古い・・)、鎖国徳川時代が今まで続いた。新しいことをしようとすると「規制がありますから」と、政庁が上意であると怒鳴り散らして、利権が生まれるまで延ばし延ばし。結局、新技術は海外で開花することになる。その繰り返しから脱却できるかどうかが、今回の愛知・名古屋のトリプル選挙結果の意味だろう。

丁度、大相撲も崩壊&リセットの入り口に立った。こちらはそもそも興行の意味が強いものだから八百長などどうでもよろしいという風潮があったわけだが、博打問題から延々と続いて国民も「そろそろええかげんにせいや」というところだろう。名古屋市議会も同様で議会を八百長の場にし続けた結果の審判であると悟ると宜しい。しかし、それを続けさせたのは名古屋市民だと反省せねばならない。何はともあれ、随分と風通しの良い名古屋市議会、愛知県議会になりそうだ。是非とも幼稚園、小学校あたりから「議会のおじちゃん、おばちゃんの仕事振りを考えよう!」ということを道徳の時間を新たに作って議論するような風潮を作って欲しい。そんなところから変えていく。それが本当の維新であろう。バブルでの勝利を味わった、あるいはそれを再びと願っている方々にはもう退場頂こう。文化のしみ通った街になって欲しい。そう願うのだ。



2011年02月04日

今日はガマの油地区に出掛ける。H君も行くらしいので久しぶりに話が出来そうで、それだけが楽しみだ。鉄道が開通し、ガマの油人種は絶滅し、もう普通の地方としに成り下がってしまったガマの油地区である。東京駅からではなく秋葉原からというところが今一面倒で、どうせなら上野から常磐線でとの気にもなる。まぁ、今更それも無いガマの油地域である。

昨日出掛けた某所での密会?で「評価」について語り合ったわけだが、組織の第三者評価基準の審査員同士の擦り合わせの難しさをいつも感じる。時代と共に目的・目標の変わる機関を旧基準で評価して良いのか?との声と、後出しジャンケンのように審査が終わってから「この視点も入れましょう」なぁんて声が挙がってくると「やってられるか、そんなもん」という気にもなる。税金の使用説明も同様である。

公益法人云々が叫ばれている大相撲であるが、サーカスと同様の興行と捉えれば、まぁ、そんなものだろうと思うわけだ。しかしながら、税金も関わる公益法人となっては話が変わる。評価軸が変わってしまう。無理に公益法人なんてものに色気を出さなきゃ良いものをと思うのだが、何かのお墨付きが欲しいという事なのか。情けない話である。

私はガマの油人である。なんだかんだ言っても、18歳から30歳までを生き抜いてきた、白骨死体が草の間から普通に出てくるような街の頃からそこに居たのだ。平将門伝説がそのまま残っているような、そんなところだった。神皇正統記が記された小田城跡など、多くの史跡が「残っていた」村だった。今やその面影はない。土地の変化は住まう人も変える。ガマの油人は立ち寄るだけで住まいはしない。懐かしいが古里では無くなった。しかしそんな街を持つ小生は幸せなのではとも思っている。まぁ、そんなところへ今日も出張です。


2011年02月03日

聞く耳持つものと持たぬもの、己と我欲の区別の付かぬもの、年を経る毎に驚くべき差が生じる。狭い了見を定規で空を測ろうとするものは、木陰で出来る限りの狭い空を測る。天空一点のみが空と言う。そんな者を相手にしている場合ではない。我が国にそんな余裕はない。

人の数だけ了見がある。だから人である。しかし、大海の如くの了見をお持ちの方もいらっしゃれば、右往左往するばかりで、自らの了見の見あたらないものにも出会う。昨日、とある企業の方とのお話の中にも、実は我が社にも了見無しが増えていますとの嘆きが出た。我欲にまみれるものは、所詮、自惚れに通じ、真の痛みを感じることなく一生を終える。

頑固な教育委員会というお話も、昨日、某お役人からお話が出た。大相撲協会よろしく、閉じることが出来る組織は閉じれば閉じるほど、我欲に突っ走れる訳だから、そちらに向かっていくのは道理である。十年、二十年を掛けて、じっくりと変えていくしか無い。志を抱いたものが、その年月、じっと耐えることが出来るかどうかである。そこに痛みがある。

正論と思っていることが、広い世界から見たら単なる我欲であったということは良くある。その場合は聞く耳を持つことだ。いや、常に持つことだ。狭い了見で我欲を測れば何も生まれない。何も生まず、変化のないことを、良いものは変わらないという議論にすり替えるものが最も多い。嘆かわしや。


2011年02月02日

空振と聞くと阿蘇の火口を思い出す。焼岳などの水蒸気的噴煙ではなく、大地の鳴動が腹に響き視野が一切遮られるあの雰囲気だ。4km四方に数十キロから百キロの巨石をまき散らす破壊力を持った映像をテレビで見たが、自然の繰り返される営みとは言え、何を荒れ狂っているのだと聞いてみたくなる。

南半球はといえば、巨大なハリケーンがオーストラリアを襲いつつある。地震、雷、火事、おやじの順で行けば、鹿児島地方で大嵐がおやじとのことだから、4番目に位置するわけだが、これも人間が作り出した温暖化がトリガになっているとすれば、人の力も満更ではないなと、半ばやけっぱちな気持ちになる。

エジプトではモーゼの時代以来の住民蜂起に、これまた人の力強さを感じるのだ。一人の独裁者が巻き起こす末路は、実は次の時代へのトリガとなって、良かれ悪しかれ世の中を変えていくなと感じる。

ただ、大勢の死者の上に成り立った明治維新であっても、直ぐに軍事政権だの投げだし政治だのが続いて、何となく無力感に覆われる日本にはがっかりさせられる。何となく何かがくすぶっている空気感を感じるのだ。新燃岳の爆発を見て、日本にもこんなパワーがあったのかと、不謹慎ではあるが何か震えるものを感じる私であります。


2011年01月31日

早くも一月の最終日。何をやったのか解らないまま今日に至るといったところか。気ぜわしく何かに追い立てられ続けて一月が終わってしまった。恐らくは本当に何も出来ていないのではと馬鹿馬鹿しくなってしまう。公園などで見る梅の開花も、今朝の降雪で少しは中断させられそう。寒気は今日までとの事だが、天然自然の事故に、何が起こるか解らない。宮崎ではウイルスの次は火山灰と悲劇のドミノ倒し状態。他県も同様なことにならぬとも限らない。

東海地方には現役の活断層が多数あるのだが、火山性のものとプレート移動性の両方である。特に活性なプレート移動性のものとして、松本近傍と恵那山近傍が知られている。恵那山トンネルなど、飯田側に亀裂が入って応急処置をしていることなどは、大々的にはアナウンスはされていないが、松本の活断層は1996年に「もうすぐ10m規模で動くぞ」と国が警戒宣言をしてから久しい。このような大地の活動の記録を調べていると、自分のアクセク感が愚かしくなってきて、ひたすら、目の前の出来事に一所懸命あたっていこうと思う。

いろんなところで知事選挙、市長選挙が始まっていて、小生が山歩きに出かける豊根村などの村長選挙などもあり、殆どが現役続行という、それで良いの?と問いかけたくなる有様で、日本のあり方をそろそろ再考したらと微妙にがっかりする。次の手が無い日本の現状そのものである。かく言う自分も、次の手がごろごろと出てくるわけではないが、無いわけでもない。いずれにせよ、担い手が現れないとどうしようもない。それが一番の問題である。

先週末に近所の新しい地下鉄工事現場を、好奇心からのぞいてみたが、真新しい地下鉄出口が既に完成しており、なんとなくではあるが、嬉しくなってくる。それをどれだけ活用するのか解らないが、なかなかにして頼もしい。公共の施設であり、出来るだけ多くの方々に活用していただきたいものだ。公共交通機関と都市、人を政治家はもうちょっと議論して頂きたい。人が無ければ国は動かない。お金ではないのだ。



2011年01月28日

日本経済唯一の頼みの綱である国債が格下げされた。それは当然の事とは思っていたが、首相が「疎いもので」と、いきなり今年の流行語になりそうな言葉を吐いたことに驚かされた。最大の失言だ。バカヤロー解散より悲惨な解散になってもおかしくなかろう。そんな輩が首相では、日本の近未来に明るさは無いなと、これまた確信するところである。スペインより下のランクというのが、なんだか凄い事になってしまったと、情けないやら呆れ返るやら。

昨日、ちょっと東の辺りに出かけてきたのだが、街の閉鎖性というか、三河と尾張の違いを明確に感じることが出来て面白い。三河武士の質素倹約ということなのかもしれないが、街に活気無く、将来性も見えない。ここに、日本の原点を見るような気がした。要するに明るいことなど無かったのだ。大政奉還も無く、未だに鎖国状態。そんな街が日本の骨格だとするならば、国債の格下げなど当然の事だ。世界に発信できるものが何もない。炭酸ガスと煤煙をまき散らす自動車というアンチエコ製品だけが発信物だ。

少し前は世界を席巻する日本のアニメーションなんて広告文句を目にしたが、そんなものではなぁと、それこそ絵空事の国家かいなと思ったもんだ。昨日、会話に出た事に、三河の誇る物は赤味噌でしょうと、それは確かに滋養に富み、上手下手がはっきり出て、これ程見事な工業産品は御座いませんよと、そんなところが落としどころであった。しかし、日本の活路、民の活路は案外こういうところにあるのではと、しみじみ思うのだ。体が元気なら何とかなるというのであれば、それを支えるところからしっかりと見直し、健康で居ることが価値となるような社会の仕組みにしていくことが今成すべきではなかろうか。

工業製品などいずれ滅び霧散するであろう。そうであるならば、民の手が入り、活力を生む産業から作り直す、或いは見直すチャンスでは無かろうか。国債なんぞに頼るのではなく、真に民の活力を集結して国を作っていく。まぁ、今の首相には期待できないしなぁと、何だかこれまた情けなくなる一国民の私であります。


2011年01月27日

愛知県にも鳥インフルエンザがやってきた。空からやってくるのだから、人間の靴や自動車を消毒したってなんの役にも立たない。自然界の摂理なのだから従うしかない。スペイン風邪は直接は知らないが、類似の状況になるのではと思う。小生のように予防接種で感染症状が出て高熱が発生する様なタイプの人種は、あっと言う間にあっちに逝ってしまうのだろうなと、「まっ、仕方ないか」という気持ちで達観している。

昨日の夜に校正が済んでいる朝刊には「陰陽付けがたし」のような記事であったが、朝一のTVニュースでは陽性反応であって、15万羽の命を奪う趣旨の審判を下していた。何ともやるせない、しかし、人の都合でこのようなことになっているのは事実であって、養鶏を始め蛋白源の量産で自分達の寿命を延ばしてきたのだが、その一方で他の命を奪い続けることの罪に、そろそろ恐れおののいては如何か。

従兄弟がその昔養鶏をしていたが、どわぁっと並ぶケージの中から赤い鶏冠に見つめられると、ガキの頃だっただけに実に不気味であった。時々、殻の無い卵があったりして、なんだか可哀想だなと感じたことを思い出す。いつの間にかそれも閉じられ、養鶏場に足を踏み入れることは無くなった。人間も同様にケージに入って暮らしているように感じる。大学なども教室に学生を詰め込んで、なんだかインフルエンザで大量死する前の養鶏場のようではないか。

今朝は何故か早朝の地下鉄に高校生を大量に見かける。そろそろ私大の入試シーズンなのかと感じる。小生は豊橋で鳥インフルエンザ騒ぎがあるこんな日に限って、豊橋方面に出張ときたもんだ。100%の確率で菌を持ち帰ることだろう。暴E氏型インフルエンザに変異したら、地球人類滅亡は間違いなかろう。そうならないように気をつけねばと、でもどうしようもなさそうだなと、やはり達観する私であります。


2011年1月26日

ペルー沖合の海水温度が低下するラニーニャ現象が続いているという。エルニーニョと併せて、初めて聞いたのは何十年前だったのか完璧に忘れてしまっているが、ペルーの場所を正確に把握したのがこのときであったことは覚えている。何となく南米だなというところから、太平洋を挟んで面と向かった国だなという意識に変化した。ペルーの沖合というと太平洋プレートが生み出されている海嶺があるところで、そこからえんやとっととマントルが年5cm~7cmの勢いで近づいてくると考えていると、なかなかどうして、近い国だなと、馬鹿な錯覚もしてしまう。兎に角、今、ラニーニャ現象なのだ。

南米の海水温度が下がっていると言われると、イメージすることは南極の氷河が太平洋に流れ出し、それによって冷水が生まれているんだろうなと言う事。今年もどんどこアルゼンチンや南極の氷河が無くなっていっているそうで、暖かい時期のオーストラリアに冷たい空気が流れ込めば大雨になって大洪水になるんだろうなと、自分たちが電気等のエネルギーを派手に使っている結果が地球規模の気候変動を巻き起こす事実に驚かされるばかりである。ちっぽけな人間の活動が自分を引力で引きつけるほどのパワーを持つ地球そのものを変化させてしまうのだ。

以前、サンフランシスコに行った時に海の温度が低いことに驚かされた。南米から北上する海流によって相当に冷やされているのだ。赤道を越えようが冷たいままの状態で冷水がやってくることに驚かされたが、そりゃぁラッコも居るわなと、その冷たい海水と自然との関係に妙に有り難みを感じたことも事実である。しかし、ラニーニャやエルニーニョが人的現象であるとするならば、それは自然の営みを破壊していることであって、過剰な活動はそろそろお辞めにしたらと自らを省みてしまう。

ここ数年、人間がどこから来てどのように広がったのかという興味から、日本列島形成の造山運動まで勉強してきているのだが、その壮大な動きに「今やっていることのちっぽけさ」を知るのである。内燃機関製造業が崩壊しつつあり、その人達の働く場を経産省などは医療機器開発に向けているが、そもそも医療機器など要らない健全な大地を取り戻す意識が必要だろう。単に目先の職があれば良いという考えではなく、長い目で見て生きていける人間となるべく学び、創造し次の世代にバトンタッチすれば良かろうと、南米沖の海水温が下がったことから妙な悟りを得る私であります。


2011年1月25日

ものづくり企業のお話になると暗いお話ばかりになってしまう今日この頃である。いろんなものの作り方があるなと感じたのが電車のシートの支柱。先週、お江戸にばっかり居たのでしみじみ眺める機械があったというか、考えさせられたというか。10年くらい前か、それよりも最近か思い出せないのだが、6人掛けのシートを3分割するように2本の支柱が立っている。要するに詰めて座れよと言う事だ。だぁっと広がって座る馬鹿者や荷物をどかっと置くおばさん対策なのかなんなのかは知らないが、本来は全く要らないものだ。人の心の貧しさが生み出した物体である。なんでそんなものに関心を抱いたかと言えば、桜通線の新型車両にも同様の支柱があるのだ。しかし、7人掛けを3対4に分割するものであって、山手線ほど派手ではない。それでしみじみ思ったのが、桜通線の支柱が増えるのにどれだけの時間が掛かるのかなということだ。

小生が地下鉄に乗車する時間帯は、乗車率10%程度の時だから、シートに寝ようが荷物をどかっと置こうが、だぁれも何にも言わない状況なのだが、それでも無闇に空間を占拠しようとは思わない。周囲に気を遣わない、遣えない人を見ては我が振りを直すのだが、そう思い合えない空間が、支柱だらけの車両空間なんだろうなと、人間として情けなくなってくるのだ。混んでいる時は座らずに立っているが、新幹線で名古屋-新横浜間を立って移動しようとは思わない。新幹線の場合には個別シートになっているから他人のシートを占拠する風景には出会いにくいのだが、先日、とてつもなく嫌な目に合った。

大げさな言い方なのだが、要するにイヤホンの音漏れである。小生、前のシートの人がどんだけ倒してこようが怒らない。何故なら、新幹線のビジネスマンは「疲れている」のがスタンダードだから。小生がどかっとシートを倒すと言う事は無いのだが、ぐぐぐっと前のシートが倒れてくると「お疲れ様、ご同輩」と思わず微笑んでしまう。そんなことはどうでも良いのだ。問題は隣の「おっさん」のイヤホンから流れてくる謎の音楽である。よくよく観察させて頂くと中国文字の書籍。成る程なぁと実感する。近い将来、この状況がスタンダードになるのかと思ったら泣けてきた。遠慮の美学なんて何処にもない。

小生はノイズキャンセリングヘッドホンのインナーイヤータイプを持ち歩いているのだが、たまたまその時に限って忘れてきていたのだ。移動が激しく持ち歩く鞄をその都度換えるものだから、ついうっかりの大失敗であった。この時にも思い出したのが例の支柱である。意識的か無意識か解らないが、他人に不愉快な思いをさせる人の為の、無意識の迷惑不拡散のものづくりというのはどうかとは思うが、迷惑からの防御ツールと、迷惑不拡散ツールというのは、これから案外、売れる物なのかもしれないと思いつつ、そんな道具を考えていると益々暗くなるなぁと、地下鉄の支柱を眺めつつ思った私であります。


2011年01月24日

東京都のピストン運動週間が終わり、なんだか既に12月に入ったかなという程度の高密度状態。世の中、こんなにアクセクしないと生きていけないんですかねと、なんだか空しくなってくる。自分がどんどんすり減って行っているなと実感する今日この頃である。まぁ、倒れるときは簡単にやってくるから、それまでは動き続けていくことにしよう。

動き続けると言うことであれば人間の営みはまさに動き続けている。名古屋市などはこの間市長選挙があったとおもったら、またあるらしい。減税ではどうにもならないぞ~と、独自の教育政策で犬山市の学力を日本のどん尻にまで落とし込んだ方が増税を叫んでも説得力は何処にもない。減税を叫ぶ側にもそれはない。大事なのは公共債務に頼った会社経営から、自己能力で他を幸せにする会社経営に舵を切らせ、歳出のウルトラ大幅削減による小さな政府化とそれに伴う減税である。減税だけではだめに決まっている。国民に公共債務は50%減ですが、3年間耐えてくださいと政治家が言えるかどうかだ。

連動して真っ暗になるのが雇用だろう。大学卒業時のパーマネントポストへの就職は中小企業も含めても3割程度になるだろう。それでもそれを今やらないと、日本という国家は消滅するのではないか?中国に買い取られて第二台湾とか言われたりして。勤勉を失って待ちの姿勢に慣れきった国民の末路は決まっている。

今回の愛知県の選挙は分かりやすい。県民・市民が近い将来に責任を取るという、戦後日本での最初の選挙かもしれない。是非とも、90%越えの投票率となって欲しいものだ。それくらい必死に考えて投票するべきだ。そんな県なら住んでみたい。逆なら出ていきたい。そう思う。



2011年01月21日

先日、某所で会議があった後、いわゆる大型電気関連店舗に入った。ウォークマン型CDプレーヤを見に行った。LPを聞くには大げさだが、机上で簡便に音楽を聴くには便利な機器だ。宿舎で利用していた機器が破損してしまい、新規に購入できるものかどうかを見に行った。結果、古びてカビが生えたようなチープな機械の展示品のみの販売という、まぁ、もう、メーカーは作っていないのだなと如実に分かる現状であった。結果、購入を見合わせることになるわけだ。

CDの売り上げが落ちましたという。売れているのはごく限られた方々のシングルCDのみとのことで、プレーヤの販売台数も必然落ちるだろう。音楽が大衆の心を癒す時代では無くなったという事か?恐らくはそうでもなくて、ネット時代のデジタル音楽配信システムに移行したと考えるべき・・本当か?小生などは未だにLPを求める者で、勿論、SPがあればそちらを購入するが、流石にそれは難しく最悪、CDということで購入している。量子化された空気振動など音楽ではない。

語学の勉強などはそれでも良いのだが、落語などはアナログの極致、デジタル配信ではいかんだろう。となると、これからやってくる地上波ってどうなんでしょうね。完全にデジタル量子化された情報が飛んできてそれを受け入れるようになる。本来、アナログの人間の機関が量子化された信号で満たされるわけだ。なんだか不気味な気持ちになる。

小型であればそれで良いのか?そりゃぁ、大型のフロア型スピーカを持てる人間はそうそうは居ないと思う。しかし、薄っぺらの機器に沢山入るからと、楽しめない音楽を持ち歩いて楽しむ気持ちにはなれない。事実、小生の32Gの容量を持つiPhoneには音楽など殆ど入っておらず、写真だけが増え続ける始末である。便利を取って失ったものが多過ぎないか。うっかりすると人間は人間でなくなって、機械の部品となりはしないか。大騒ぎして作られたCDの寿命もやけに短かったなと、なんだかあっけない幕切れに少々興ざめの私であります。


2011年01月20日

旅に出ていて体調崩してと言うか、昨年末から続いているぼろぼろ状態が継続しているというか、ぐだぐだでお役所での殺伐としたお仕事が終わり、やっとこさっとこ標準の勤務体系。月・水は本来は先週の共通テストでの出勤日の代休ではありましたが、宿舎でごろごろ出来る身分ではなく、本年最初の死のロードと言ったところだったでしょうか。日曜日の雪のせいで月曜日は新幹線が104分遅れという、ぼろぼろのダイヤに巻き込まれつつも、早めの行動で事なきを得ました。天然だろうがなんだろうが、危機を察知して行動できることが、昔も今も重要なのだと感じますな。

冬将軍が居座っているという事で、今日は大寒。大寒だけど昨日までに比べれば随分と暖かい朝である。部屋の温度も3度程高くなっており、エスキモー感覚が若干薄れた気がする。しかし、今週末から来週明けにかけてぐんと冷え込むそうで、今年は冬を実感できているなと感じる。この零下日が続くと言うことは、例えば本来は名古屋で越冬できなかった害虫や病原菌などが越冬出来る可能性が下がると言うことであって、人間の都合で暖かい方が良いということではなく、零下日は本来は歓迎するべきなのである。ただ、逆に、越冬して欲しいと思う益虫も死滅すると言うことだから、良いことばかりではない。しかし、こんなことは地球の歴史から見たらどうってことは無くて、ご都合主義の人間だけが考えることだ。

いよいよ地方選挙の幕開けである。多額の銭を投じると言うことを身に滲みて、まっとうな政治家が民の代表として働いてくれるよう、しっかりと考えて投票せねばならぬ。投票率は本来は90%を越えるべきだ。それくらいの迫力ある選挙というものに立ち会ってみたいと願う。今のように30%だ、40%だなんて選挙で選ばれた議員なんてもんはろくなものではなく、江戸時代の胴元よろしく学校の回収だ、公民館の建て替えだなんて時に銭の配分をやって威張りかえってふんぞり返るだけだ。名古屋議会議員などはまさにその口で、しかし、それは名古屋市民が選択したのだ。それが嫌ならちゃんと選挙に出掛けて一票を投じないといけない。90%の投票率の選挙であれば「あぁ、自分とは考え方が違うことが今の流れなのだ」とも分かるし、「やはり自分の考える軸が主流だな」とも判断できる。人の世は明るくなければならない。そのためには高い投票率の選挙が国中で成されることが必要だ。

共通テストの採点が終わったようですな。大略50万もの受験生が、一人当たり平均で5枚の解答用紙を吐き出して、それを3日間で集計出来てしまう仕組みというのも凄いもんだ。これなども言ってみれば選挙みたいなもんで、我々のような監督官が選挙立会人と考えると、公正で厳格な選挙を行い、得られた結果に文句が付けられないようにするには、それなりの人員の確保が必須であると理解は出来る。金の掛からない選挙なんてものは聖人君子の国のお話で、一般民間人の社会では、まぁ、それなりに掛かってしまうのだろう。だからこそ、出てきた結果を納得出きるような選挙に出会いたいのだ。未だ、国民主権の無いボケ国家からいい加減に脱出したいと願う私であります。



2011年1月14日

共通テストにあわせるように天候が下り坂になる。曜日が固定の共通テストだから特異日ということでは無かろうが、毎年、この時期、天候が悪化するから面白い。監督をしないといけない立場から言うと、これはきつい。回答済みの答案用紙を、会場の部屋から本部に届けるわけだが、雨や雪の中にぶちまけるわけにはいかず、ひたすら気を遣う。試験前なら予備と交換と言う事でどうってことはないのだが受験生と怨念と執念の込められた回答を傷つけるわけにはいかず、必然、真面目な顔になってしまう。全国の大学で行われる凄まじい行事である。事故が発生しないことを、自らひたすら願うところである。


2011年01月13日

しばしば停止するPCを調べていくと、電源容量が350Wであり、接続しているUSBなどの機器やビデオカードなどを足し算していくと、どうもぎりぎりか足りないことが明らかとなった。こんな状態でPCを売るのかと、DELLに対して怒りを覚えるわけだが、同様の構成の機種を他のメーカーから購入しようとすると、電源を追加で購入したとしても遙かに安価であるから仕方がない。結局、DELLから機械を購入することになってしまう。電源は重要で、その昔、PCを自作していた頃は、ケースと電源には銭を投じた。その記憶から「ひょっとすると・・」と思い当たったわけだ。PCの反乱具合を調べてみても、電源の容量の足りなさが原因っぽい。あくまでも「ぽい」というところが電子機器の謎なところだ。

小生だけが購入している機械では無いから、同じように困っている人が居そうなものだが、自動車のリコール騒ぎのようなことが起こらないから不思議だ。人の命が掛かっていないとでも思っているのだろうか。書き掛けの原稿が消えてしまった時の衝撃は、車に跳ねられたときよりも大きい。跳ねられると意識が無くなってしまうから、よりそう思うのかもしれないが、あの呆然感覚ときたら。もうやってらんないと、計算機に八つ当たりしたくなってしまう。相当の文字を打ち込んで、画像を張り付けた途端にマウスカーソルが動かなくなった寂しさたるや。

やはりパワーエレクトロニクスは重要で、全てのデバイスが省エネになることが、現代の社会活動におけるエネルギー削減に繋がるなと、妙に納得した次第である。電源容量など、小さくて良ければそれに越したことは無いのだ。万が一の時の火災発生確率だって下がるだろうし、発生する熱を低減させる事による夏期の冷房エネルギーの削減にも直結する。何しろ世界中でのマスがべらぼうだ。一つの僅かな削減が世界を変えていく代表選手では無かろうか。

太陽電池など、自然エネルギー云々を叫ぶ前に、エネルギーを極力利用しない、地球を傷つけないで文化的社会を継続・発展させていくにはどうしたら良いのかを考えるべきだ。無駄に広い面積を必要とする太陽電池など不要だし、そもそも、太陽を人間の利便に使うなど許される所行では無かろう。止まり続けるPCに腹を立てるより、今、こうなってしまっている現代に、何か違和感を感じ苛立ちを覚える私であります。


2011年1月12日

理系男子の就職先希望のリストを見た。世間では大手人気とばかりを強調するが、受け皿として大きいのだから、希望比率が大きくなるのは当然だろう。大略100倍程度の倍率になってくるから、その求人数に応じて第一志望は増えていくと考えれば良い。求人が「今」多くても突然「この話は無かったことに」なぁんてバブルの頃のソニーさんみたいなこともあり得るのだから油断は出来ない。機能追求型できている白物家電業界においては国内のパイはまだ残っているので、そちら関連も強い電気系企業であれば志望するのも解らないでもないが、半導体関連の「半導体として」の最終製品(LSIですな)を作っている日本企業に就職しようとするならば、勤務地は日本を除く場所になると決めてかかって正解である。ディスクリート素子関連であればまだしばらくは頑張るかもしれないが、それらもいずれ海を渡っていくだろう。それらをじっくりと考えて日本の外に出て行くことを考えないと、数年後には企業消失に伴う自然リストラに遭うだろう。

その点、理系女子の志望先はとても真っ当であり、理系女子の傾向は将来を見据えたものなのだなと改めて感心させられる。腰抜け男子よりも国を任せられる素地がある。性的な「守り」をかなぐり捨てつつある日本女子は、腰抜け男子など相手にせず、女子だけで海の外と戦ってくれるだろう。電気電子工学科などは入学定員の8割を女子推薦枠にしてもよいくらいだと思う。例によって極論だが、しっかりこつこつと物事を進める生命体としての性質は、モノよりも文化に転換していく物質飽和社会においての未来に向かって大切にするべきだ。形作って魂を込められない男子より、買ってからの価値を考える女子が人類の幸せ貢献を成すのだと感じている。

そもそも野生のマンモスが居なくなった時点で、男子の役割は終わっていると言っても過言ではない。ガキに雷を落とせなくなっていたり、荒野に向かって進めと言われてビビって陰口をたたくような野郎ばかりでは話にならない。そんな気持ちで理系男子の就職希望リストを見ていると、なんだかなぁと思うのである。韓国企業の45歳約束定年みたいな企業を志望しろとは言わないが、物流やアッセンブルで喰っていこうという姿勢を二十歳過ぎの、言ってみれば跳ねられても死なない世代の選ぶ道であっては悲しい。そもそもモノ作りを知らない者が物流やってどうやって人に幸せを提供するのだ。三日で壊れる製品を売りまくって儲けるのか。まぁ、そうかもしれない。

昨日、近所のデカイ企業さんからご相談にいらっしゃった。コストコスト、企業はコストなんですよ、良いものよりもコストなんですよ・・・とっとと帰れよと言いたい。コストコストと言うなら、御社の土地をうっぱらって社員にばらまいて解散すれば、その土地をもっと有効に活用してくれる企業なんぞごまんとあるぞ。西の国々に無機能製品をばらまくと、死の灰になって還ってくるぞと言いたいが、何を言っても無駄そうなので言わないことにする。兎に角、こつこつ丁寧にを忘れ、目先だけの形を追い掛ける性質はそろそろ捨てても良かろう。利益を発展途上国に求めるのも方便かもしれないが、この国、間もなく滅びるね。


2011年1月11日

1が5個並んでいる。気持ちの良い日付である。もう一つ1を加えようとすると後100年を生きねばならず、面倒なのでこのくらいで辞めておくことにする。まぁ、西暦で喜こんでも仕方がないが、今のところの万国共通ゲージであるから、逆らう必要も無く受け入れることにしよう。先週来、PCの調子が激しく悪くなり、入力中にがちっと固まる。これはまずいと思ってバックアップのHDDを購入したのだが、バックアップ中にも止まる。どうせなら全ての書類がまっさらになってくれないかなと妙な期待をしてしまう今日この頃である。

毎年、センター入試が行われる頃は妙に寒い。冬なのだから当然なのだが、自転車を漕ぎ始めて直ぐに顔が痛くなるのは頂けない。いろんな防御をするのだが、顔全面を覆って走行するのは趣味に合わないので、痛さに耐えて走行することにしている。年に数週間だけのことだから我慢している。要するに我慢出来るのだ。我慢出来ることは我慢し抜いてしまった方が、下手にゴミが出ないのでそのほうが良い。少々の不便なら我慢してしまった方が早い。このあたりが残りの極めて短い人生のキーワードであるような気がしてならない。要するに、今でも残っている、生命にとっての大きな不便に取り組むべきだということだ。少々の不便など放って置いても誰かが何かをしだす。

何故か今朝は車が極めて多かった。自転車通勤での恐怖は自動車が街にあふれ出してくることだが、それが今朝は6時前から明らかに車が多かった。五十日ということでも月末の金曜日と言うことでも無いのにと思ったのだが、考えてみれば年始の10日の最初の〆日が休日でその翌日ということで、やはりお金の絡んだ混雑なのだなと実感し、やはり景気が良いなどと言うのは絵空事、社会は金策に明け暮れているのだなと実感するのであります。それは寒かろうが暑かろうが関係無くやってくることですな。ここに少々の不便にばかり振り回される悲しさがあるように思う。

計算機がフリーズしてしまうことが少々の不便かどうかは解らないが、組織が伝票の入力まで個々の計算機からの入力ということにしてしまっていることには逆らえず、頑張って計算機に向かうわけだが、突如のフリーズは入力の努力を霧散してくれる。その昔、フロッピーベースで一太郎と戯れていた頃、講師の先生に「これを入力してくれ~」と頼まれ、雷の鳴る真夏に3度、雷で中断され「晴れるまで仕事はしない」とぶぅたれたことを思い出した。人との付き合いならぶぅたれも効くが、計算機での締め切り厳守となるとこれはもうどうしようもない。止まる機械を使っている奴が悪い、良い機械を買えと言われてへこたれるわけだが、これなども本当は少々の不便なのである。今日は少々の不便と戦いながらなんとか凌ぎきろうと思う私であります。


2011年1月7日

70型のTVが「市販」されるという。S社の天理ショールームに行けば既に見られていたものだが、それが市販になって現れてくると言う。単位面積当たりの消費電力は変わらないから、大きくなればなるだけ省エネとは掛け離れていく。それにしても70インチという、高学年の小学生ほどもあるものを家庭内に持ち込める人々が世界中に多くいらっしゃるのだなと思うと「みんなお金に困っていないのかな」と考えてしまう。相当に高額のお給料を受け取っていらっしゃって、もう使い道がないから取り敢えず壁みたいなTVを買って置いておこうと言うのか。何を見るのか知らないが、コンテンツの無いTVによくも銭を払えるものだと感心する。受け身の姿勢、ありありである。

TVを購入して街頭テレビとして供出する方は、今の世の中、いらっしゃらないと考える。するとやっぱりTVは部屋の何処かに設置されることになる。独り身ならいざしらず、例えば10人家族がだまぁってTVに見入って、番組が終わればだまぁって立ち去っていく様は、日本らしいと言えばそれまでだが、西洋ではあり得ないように思う。ここが金銭的豊かさを「豊か」と言ってしまう、いや、言わせてきた日本のあり方であって、家具を修理しながら数百年使い続ける都会の文化を持つ西洋とは大きく異なるところだ。人や物に対する愛着が余りにも違う。

小生の宿舎にはソノラという1914年製の蓄音機があるが、木製の筐体は未だに頑丈で狂い無し。まもなく100歳である。これなどでSPレコードを聴いていると、両面を聴いただけでお腹いっぱいの満足感が得られる。当時はおっそろしく高価な代物だったのだろうが、70インチのTVとソノラとどっちを取ると言われれば、ソノラを取るだろう。レコードというコンテンツがあればという前提条件だ。それでは素晴らしいコンテンツがTV上に展開されたらTVを取るのか?それは決して取らないだろう。何故なら画面の向こうには真実が無いからだ。真実は自らの体験にしかない。公園のベンチで目の前の木々をぼけっと見ることのほうが、ずっと有意義に感じる。

ここまで言ってしまうと、価値観の世界だ。TVを買う買わないは個人の事由だし、どんな時間の使い方をするのかも個人の自由だろう。組織で活動する時間を除けば、それは個人の自由でなければならないのは間違い無い。ただ、人に与えられるだけの世界に閉じこもり続けるのは如何なものか。秋田県の自殺者が13年ぶりに400名/年を切ったそうだが、これなども人と人との繋がりがもたらした幸せ現象だと感じる。全国の自殺者が3万3千人/年を推移していく中、それを減少傾向に向けた秋田の取り組みに、今後の日本のあり方、日本人の生き方のヒントがあるのではと、しかし、それでも約400人/年・県かとため息をつく私であります。


2011年1月6日

「戯言って何を目的でスタートしたんですか」という実に不可解なお尋ねを頂戴した。戯言に対する質問は一切応えないのが流儀だが、内容に関することではないのでもう一度おさらい。17年前に出来た(作った)名古屋携帯PC研究会という「山間への出張の際、自社にFAXを送りたいのだけれどどうしたらよい?」等々の問題を『自分達』で解決するべく、不可思議不便な、しかし理にかなった機械をどうやって使おうかと考えるフィールドにおいて「Linuxだとこうだ、BSDだとこうだ、DOSだとこうだ、Windowsだとこうだ・・結局、MS-Windowsが一番馬鹿だ」という、社会の流れを全く無視した暴言を吐き出したところがスタートです。ネットに泣きつけばなんでも教えてくるなんて、たわけた世界は無かったので、ちゃぁんと自分で考え実践して、それでも駄目だからどう思うという質問だけが許された、とても健全な社会の中で生まれたのが戯言です。ちなみに「たわごと」ですからね。「ざれごと」じゃないよ。

ユニクロの売り上げが落ちまくっているらしい。株価も下がっているから実際のことなのだろう。別にどうでも良いのだが、それに対する新聞の反応が「消費者の安さからの脱皮」と正方向の見方をしているところが面白かった。百貨店の売り上げがそれ程落ちていないということと、ユニクロの売り上げ減とを結びつけた結果らしい。ユニクロの顧客が百貨店に行くのか?ユニクロは小生も少し前までは利用させて頂いていた。新素材をベースにした機能性衣料は価格と見合っているなと思っていたからだ。個人輸入歴30年の小生の場合、世界中の「それらしい機能」の比較をして、価格と相談して(送料は馬鹿にならない)から何処から購入するかを決定する。安くても機能が低ければ購入しない。無駄な七徳ナイフは購入しない。一時前のユニクロ製品は「特化」が明確にあり、それが一歩抜きん出ていたから受け入れられたのではないか。もう一つ、リーマンショック前の、若干のお金が市場にあったからではないか。今は比肩商品が多々あるし、より高機能の製品は探せば国内でも見つかる。国外では遙かに優れた商品がある。機能にお金を投じる人はそっちに行くし、ユニクロと同様の機能の製品だったら、安い他のブランドに流れるのは必然だろう。下着に気合いを入れるのは昔から、武士かLadyか偏屈かに決まっている。多くの人が機能の割に高価と映るようになったユニクロ製品を買えないほどに、現金レスになったということだ。

財界人の方々の、まぁ、あんまり暗いことを言ってはいけないから、年初だから明るい会話をしましょうと、年末には景気が上向くと、去年と同じ事を言っている姿をTVで見た。自殺数が増え続けている現状に対して、去年の念頭に「年末には景気は戻る」と言っていたと同じ方々にお考えを伺いたい。グローバル市場に打って出ないからだとか、なんだとか言い訳するんでしょうけれど、国内市場が飽和しきった現状はユニクロの頭打ちでも明らかなわけだから、いい加減なことを言わずに、企業価値は売り上げではなくて購入して頂いた人の幸せだと、何故、人類的に前に進まないのか。小生などは失われた20年に月給を頂いて生き延びてきたわけで、リッチな時代など知らない世代だから、頑張れば景気が上向きになるなどと感じたことは一度もないのだ。バブル前を体験しているトップの方々のように、生活の中に青空など見たことはないのだ。小生が見る青空は絶壁の上だけであって、それだって、そこから降りてこないと生き延びられないのは明白な環境だ。都会には空など無い。商品に幸せが無いのだから当たり前だ。

と、なれば、工学人は一体どうすれば良いのかと言う事になる。売れている商品を批判するのではなく、「今、実際に売り上げを伸ばしている製品がある」ことを真面目に考えることだ。製品を作っている会社を見るのではなく、製品そのものを見るべきだ。某、やたらと小さい樹脂部品を作る事が出来る企業があるが、その技術は素晴らしいと認めるのではなく、同様の製品を作っている会社の製品ばかりが受け入れられ、そのきっかけとなった企業は、現在、売り上げが猛烈に落ちていることを刮目しなければならない。受け入れられているのは商品であって企業ではない。大学も同様。一つ、二つの研究成果では無い。ここのところ中日新聞紙上に鶴舞大学の記事が出ているが、東山大学の記事と比べてなんと破片的なことかと情けなくなる。対価とは何かを考え抜いた企業が、本年末に笑顔になれるのだろう。絵空事しか映し出さない3Dテレビなど、購入するまでは楽しみかもしれないが、情けないコンテンツが映し出された瞬間に、単なるお金とお金を稼いだ自分の人生の墓標となる。買ってから幸せを感じられる製品が商品であり社会を笑顔にする。いい加減に財界人と呼ばれる人達には気付いて頂きたいものだ。


2011年1月5日

年始からだったと思うのだが、新聞でスローライフだとか家族で限界集落に引っ越して幸せだとかの記事が出ている。それは確かに耳当たり良く、正義の味方みたいでニュースバリューは若干あろう。モノが幸せを産まなくなった今、テレビ電波の届かないような山間に引っ越せば、首を切った企業の情報も入ってこなくて良いかもしれない。目指すのは自給自足と気合いを入れる人に新聞はエールを送っている様に見えるが、山間地ばかりで人が定住することに適した、要するに、山津波の被害に遭わないような、そして獣害が最小限に留まるようなエリアは、日本には殆ど無いことを明示しなければいけない。日本人全員が山の生活を出来るわけではないのだ。人口が100万人くらいに落ちてくれば可能だろうが、今は1億の民が居るのだ。全員が各個で自給自足など物理的に出来ないのだ。

とは言うものの、小生もさっさと隠遁して山間にて自然と闘ってみたい気持ちは人一倍大きい。今日、突然、消えてしまうかもしれない。それくらいの切迫感は持ち合わせている。しかし、面積と自分一人の年間消費食料を天秤に掛けると、とてもとても・・・リストラされたら山間の生活を洗濯するべきだとも聞こえる新聞のエールは、誠にもって無責任な趣味の押しつけに過ぎない。一度でも狭隘な地で土石流や熊と遭遇し、巨大な雹に作物を潰され、イノシシに蹴倒され、昨日まで一緒に遊んでいた友達が猟犬にかみ殺された生活を送った者は、軽い気持ちで山に帰ることなど出来ない。そもそも水の確保や糞尿の始末は大問題である。やれるもんならやってみろと言いたい。冬は室内が氷点下10℃以下にまで下がるのだ(場所に依るが)。洗濯物もかちんこちん。笑って死ぬにはいろり端で一酸化炭素中毒で、寝ながら意識を失うしか無い。

ただ、山間を歩いて感じるのは、生活空間が縦方向に伸びた都会に移り住んだ人々が捨てていった耕作地が沢山あることだ。大きく固まった状態ではないが、工業的に農作物を作る事によって、擬似的な自給自足状態を作り出すことは可能かもしれないということだ。ヨーロッパ諸国と異なり、人の住みかと森との区別を付けていない日本では、信じられないような所に耕作地がある。一体、何処に住んでいる人がここで作物を作っているのだと不思議に思う半面、普通に工作できそうな山里の地でセイタカアワダチソウ畑みたいになっている元耕地が沢山ある。本当に沢山ある。それらの土地を地域おこしとして活用していくことで、都会から人を呼び込めることは「あり」なのかもしれない。しかしそれは単独ではなく集団の力を注力できることが必要だ。

集団の力が必要だと言う事は自らの責任は大きい。これを都会時代と同様に負荷と捉えるともう逃げるところは無いから首を吊るしか無くなる。土壌細菌に免疫の無い都会人が山暮らしをしたら感染症に一発でやられるかもしれない。小生が山歩きをしても平気で生きて帰ってくるのは、がきんちょの頃の山暮らしで風土病に耐性があるからだ。都会で大けがをしたくらいでは死にたくても死ねない(死にたくないけど)体になっているのだ。さっさと隠遁したいと感じるのは、工業的なモノが幸せを産まなくなっている今、水と人間の関わりを真剣に見つめ直したいと感じているからだ。人口を増やすために水が要る。ダムを造る。水が死ぬ。馬鹿みたいだ。そこに転換点があるような気がしてならない。宇宙から来たのか偶然に出来たのかは不明だが、アミノ酸が不可思議な結合によって命と呼ばれる状態を持った。恐らくは水が関わっていよう。そうであるならば、生き物にとって最良の水、空気に取り組む事が重要であろう。名古屋の地で出来る気がしない。それだけのことだ。


2011年1月4日

戯言を言い始めて17年。よくも飽きずに続けて来たものだ。年が変わろうがなんだろうが、そんな節目はどうでもよく、相も変わらず独り言を続けていきたい。小生の正月の行事はおせち料理作りと一升瓶を抱えて大学駅伝を見る事だ。初詣は近所の氏神様で済ませることにしている。土地神様に守って頂いている感謝は、年に一度だけだがさせて頂くようにしている。その氏神様、羽振りがよいのかどうかしらないが、今年の御神酒は蓬莱泉であった。これが景気よくなみなみと注がれるものだから、こいつは春から縁起が良いのである。大雪になるかとの天気予報もどこへやら、初日の下を散歩した。街角の梅の蕾も膨らみ始め、これまた縁起が良い。

関東に在していた頃は、家々の松飾りが当たり前のように見られた。元来、松平家への忠誠を誓うような代物だから、江戸城のお膝元の関東では根付いた行事なのだろう。武田の首をたたき落とす意味の斜め斬りの竹を松で取り囲むという、なんとも不気味な飾り物だが、多くの家では松だけを飾っていた。山梨に行くと流石に竹があったとしても水平に切った竹を取り囲む形になっていて、その謂われを良くご存じというか伝わっているというか、土地柄が出ている飾り物はなんとも艶っぽい。そんな喜びが正月にはある。名古屋に来てみて驚いたのが、殆どの家には松飾りが無いことだ。松平のお膝元では松飾りが無いのかと、元日に松平の里当たりに出掛けてみようと毎年思うのだが、御神酒の縁起担ぎで真っ赤な顔では運転はならず、結局「どうなってんだろう」と思いながら元日を過ごすことになる。

景気が良いということでは、新記録が生まれた大学駅伝の競り合いの美しさである。運動会で徒競走が無くなるとか、競争という言葉を忌み嫌う風潮が芽生え、気合いで踏ん張ることの大切さが教育されていない社会となって久しいが、それがどうだろう、競い合うことで信じられない記録が生まれた。更に、二位になったチームの走者も、最後の最後まで諦めないことの美しさを天下に知らしめた。例年であれば三位のチームの記録は優勝出来ている記録であり、競い合いから外れてしまうことの恐ろしさも示してくれた。それでも最後まで前に行くことの素晴らしさを伝えてくれた。追う者を感じる先頭になるか、前人未踏の世界を目指し、追う者など意識しないで前を行く先頭になるか。新記録は後者の気持ちで生まれるものだろう。進む道には壁など無い。壁に取り囲まれた器の中でしか生きられない者は、所詮、グローバル社会の戦いの中では空しく後塵を拝することになろう。そうならないように、正月は過去と絶縁し、未来を祝する為に大いに御神酒を頂戴する。

大いなる御神酒に囲まれていると、あっという間に三が日が過ぎてしまう。松の内まではお正月とは言うものの、松を見ない土地柄ではそんな言い訳は通用せず、本日より通常の状態になる。円高は変わらず進行しつつあり、真摯で丁寧なものづくりを更に高め、本当に良い物をどのように世界展開していくか。研究も教育も日本国内で競争している時代はとっくに終わっており、追い掛ける者を意識しない高みで生きていく事が出来る者の育成と、ものづくりが今年のキーワードである。もう残り少ない人生を意識しつつ、日々を過ごしていこうと思う私であります。


2010年12月27日

最終週に入った。夕べから寒くてろくに眠れない。やはり冬よりは夏の方が良いなと思う次第。個人的な特性だろうが、そう感じる。どうせ眠れないのなら、冷えて憂鬱になる冬よりは、暑くて読書が出来る真夏がよろしい。そんなことを考える一年の最終週の始まりである。官庁暦と一緒だから29日からお休みとなる。今年は何にもする気が起きない。それだけくたびれた一年であった。

政治の世界はやかましいが、借金を無為に増やすような政府の言うことなどあてにならず、さりとてそれが国民の意思だと言われればそれまでだ。税収よりも国際費のほうが大きい予算など軍国主義の世の中以外ではあり得まい。今、そんな状況なのだと実感するべきだ。国民不在、人間不在。

昨日、都合で刈谷方面に出掛けたのだが、背高泡立ち草(漢字でこう書くのかどうかは知らない、粟立ちかもしれない)畑とも言うべき放置農地が何処までも続き、間違った農政の具体的イメージを見せられたようで吐き気がした。いったん、所有した農地を働けない者が持ち続ける仕組みこそ国家の腐敗の源泉である。大鉈を振るうべきは農家を守ることではなく、農地から生み出される作物である。放置すれば金がもらえる仕組みの何処が政治か?

一年の最終週に至っても、未だに腹立たしいことが止まない。今日も不可思議な会議があり、駆け込みのアポがある。今年は、特に前期は毎日講義があり、木曜などは4駒の講義をこなすという、まるで大学生状態であった。それを乗り切りながら種々の作業を積み重ねた。今、漸く結果がでそうなものもある。こつこつしか出来ないが、そのこつこつが芽吹こうとしている楽しさは本当に美しい。今日もこつこつこなすだけである。それが人の毎日である。



2010年12月24日

クリスマスイブである。小生としては街中が真っ赤に染まろうがどっちでもよくて、平々凡々と今日も会議とアポ対応である。暦的には残すは来週のみと言うことで年の瀬気分にならないといけないのだろうが、来週も会議も納品もあり、だからなんなのでしょうというひたすら馬鹿馬鹿しい学者から乖離した生活を送っている。困ったものだ。

昨日、某巨大企業の秘密基地を拝見してきた。でかいでかい。30mサイズの出荷直前の製品だ。人間が小さく見える。こちらも小さく見える。気持ち悪くなる程に不可思議な光景だ。最先端物品で、材料の特性を考えずに、単に金属の置き換えで作っちゃったもんだから、不具合が出てくる出てくる。形を真似ても物質の性質をきちんと考えないと価値を生まないという代表例だと感じる。

その製品によって、ネクスト自動車と愛知県などは中小企業に夢を見させているが、現場を拝見して断言できそうだ。そんな夢は夢にもならない。そこに関わることの困難さは、どっかの刃物屋が医療用品に手を出そうとしたら「認可に10年以上掛かりますけど」とあっさり言われて断念したよりも派手に厳しい。検査機構も最低でも超音波診断、通常ならX線検査が義務づけ。しかも半端な大きさではない。チタンを丸ごと削り出すとか、中小企業では材料購入すらままならない。

ロケットのボディの削りだしも例によって拝見した。相変わらずでかい。今回は更に新しく入った30mのアルミ削りだし機械も拝見した。30mに対して10μmオーダーの精度で削りだしていくという、まぁ、眉唾のことだが、しかし観てみると100μmオーダーは出ているなと感じる。航空機で産業力底上げだとか、多くの企業を集めて講演会などが行われ続けているわけだが、総機数が2000程度のもので、どんだけの企業が参入できて、どれだけお米を頂ける様になるのか。お役所の嘘八百に気分が悪くなった私であります。


2010年12月22日

最初にプレートテクトニクスの真面目なお話を自分で読んだのは、竹内均先生が所学者向けに書かれた本であった。小学校4,5年生の頃であった。一つの大陸が放散熱を抱えきれず分裂を始め、それが今も継続中という事実に衝撃を受けた。星の見上げ方一つとっても大きな変化があった。それまでは富士山は火山で、火山灰が積もって大きな山になったくらいのものが、ホットスポットが延々とあり、それが動いているのではなく、その上のプレートが動いて、その証しが火山であるという衝撃は、原子一層で喜べる今となってもちっとも変わらない。

父島沖で地震があったとのこと。最近ではGoogle Mapという海底地形までのぞける便利な道具が公開されており、父島近海を眺めてみると、フィリピン海プレートの縁を太平洋プレートが沈み込みながら押し上げていることから父島が形成されており、そのプレート同士の擦れで地震が発生したのだなと、妙に納得出来る様相である。世界中で暑かったり寒かったりと騒いでいるわけだが、暑ければ岩盤は膨張するし、寒ければ収縮する。海水とて同じで、暖かくなれば膨張する。膨張すると密度が小さくなり、昨日の様な満月の時には月の引力も加わって、プレートに掛かる荷重も大きく変わるであろう。さすれば、地震が発生する。これまた至極当たり前の地球の活動に思える。

地震が発生するとTVでは延々とテロップを流し続け、国が滅ぶかもしれない情けない状態などほったらかして、「どこどこでどんな地震がありました」と誇らしげに叫び続ける。地球がくしゃみをしたのだから、それに乗っかっている生き物は風邪を引いているに決まっているのだ。それが微熱か重症かが問題で、希薄な情報を垂れ流すのは覗き小屋(死語)に集まる衆生の性を刺激する為かどうかは知らないが、誠にもって見苦しい。

父島近海の海底構造を眺めていると、その先に名古屋があるなぁと実感する。すると当然、近々連鎖的にフィリピン海プレートも動くのだろうなと思う。フィリピン海プレートが沈み込むユーラシアプレート上にあるロシアやモンゴルでは昨年来の極端な暑さで凍土が溶け出し密度が下がっていると聴く。現在は強力な寒気に見舞われているわけだが、周期的に生じる地球造山運動のトリガを何かが掛けるとすれば、それは人類の我が侭し放題の生活以外にはない。巨大大陸の残骸であるユーラシアプレートもそろそろ分裂をし始める頃では無かろうか。くしゃみどころか地球が尻餅をついたら、果たしてどうなるだろうか。今の幸せに感謝するしかなかろうと、今日は今年最後の出張に出掛ける私であります。


2010年12月20日

気がつけば今年も残すところ二週間を切ってしまった。今日も得体の知れない会議がどぉんと入っており、ストレスリッチの仕事術を実行中である。ストレスフリーの仕事術なるお気楽極楽な本を読んだことがあるが、誰もお客の来ない、先祖の遺産リッチな山奥の温泉旅館の主人の自伝と理解した。そりゃぁ、ストレスフリーに超したことは無いのだが、世の中、そうも言っていられない。皆、ストレスリッチで生きている。変な世の中だ。

今日、宿舎を出る時に、ふと、今年何があったかなと思い起こした。今年は跳ねられなかったから、その次くらいの重大事は何かなと考えたのだ。なぁんにも思い浮かばない。まだ、残りの数日にそれを越えそうな恐ろしげなことが起こりそうな気がするのだ。気がしたら発生する。恐らく、自分の意識がそれを発生させてしまうのだろう。だからまだ、今年は振り返らない。ちなみに公務そのものは28日までだったような気がする。書類が山のように残っているので29日までずれ込むかもしれないが、そんな日程である。仲良しで都合のある方は、お申し出下さい。

ストレスフリーで思い出したが、今年、岐阜のとある分水嶺にテントを担いで登った。麓のキャンプサイトで降る星空を眺めたが、その一日は確かにストレスフリーだったかもしれない。荷物は重く、息は切れるが、それは決してストレスではなかった。道に迷い木の根に掴まり斜面を這い上るようなことになったが、それは全くストレスではなかった。自らが発生させたことということであろう。昨今では、何でもかんでも他人の責任に転嫁することが流行っているが、そのあたりが、「今時の若い奴ら」と野人である小生との違いであろう。消えゆく種族である。

朝鮮半島情勢が賑々しく、中国とアメリカが戦争景気でも起こそうという気になってんのかなと邪推してしまうが、結局の所、地球の経済は国連常任理事国が握っている。日本人はもっとどんどん海外で商売するべきだろうし、その為には諸外国の宗教、文化、歴史をしっかりと学ぶべきだ。忘れてはならないのは日本文化そのものである。自分はどう転んでも日本人だ。私は日本が好きである。どんなにストレスリッチだろうが、国への想いは変わらない。だが、やっぱり予定表は異常である。来年の事を言うと鬼が笑うが、笑われても良いから真っ白なアポブックで暮らしたいものだ。そう思う。


2010年12月17日

収入が41兆円、支出が93兆円。さて赤字はいくらでしょう?日本国内でお金が環流しているからトータルとして破綻していないと政治家もマスコミもみんな言う。街は、毎年恒例の餅撒き工事が進行中で、年末の大混雑に拍車を掛けている。戦後、荒廃した国土を国民総出で修復し、1960年前後まで、ダム、高速道路、長大な用水路、堤防が築かれ、諸外国からの借り入れもあってなんとか餓死者を最小限に留めた。今は、随分と状況が違う。それでも公共事業だけに頼っていく。

小生は母方が熊とイノシシを足したら、地域住民の100倍(千倍?)を越えるところだったから、何というか、都会の工業生産に頼らない生存の姿を体験することが出来ている。養蚕、水田、果樹等々、一家ではどうしようもなく、向こう三軒両隣の力を出し合って四軒分の凌ぎを稼ぎ出した。それが今の共同研究推進の原動力になっているような気がするが、根本にあるのは、例え玄関は空いていて戸が開け放たれていても、ずかずかと入り込むことなく、戸から首だけつっこんで「誰々だけど、誰々さん、居るかい?」との境界線が住民にあるということだ。今、それを感じることは殆ど無い。

幸い、身近に集まってくれている若い諸君には古来の住民マナーを持って居てほっとするのだが、教員、社会人共に悲劇的な場面に多く遭遇する。特にこの数ヶ月、それに精神的にたたかれまくってくたびれ果て、扉を閉めることと相成った。先述の、毎年、収入を超える借金を繰り返し、泣き言を言っていれば国が助けてくれるだろうという国民を、国が何故、助け続けないといけないのか?企業も同様だろう。見せかけの公共投資の多くはピンポイントで短期的であって、向こう三軒で四軒分の頭がない。今一度、スサノオの時代に戻り、チーム力でチーム以上の人が幸せになる智慧を持った人間を核に、膝つき合わせて議論して、100年の計を図るべきだ。

先日、某所で就職セミナーを担当させて頂いたが、口先だけの屁理屈で企業にパーマネントのポストを頂けるほど世の中、甘くはない。甘いとか辛いとか比較級の言葉だが、人として持って居るべきは「優」「仁」「智慧」である。これは「徳」を得た後に得られるものだから、そうそうやすやすと得られるものでは無いが、三つ子の頃から研鑽を始めれば、大学に入学する頃には「優」が見えてくる可能性があるわけだ。就職する頃にはうまくすれば「智慧」までたどり着くかもしれぬ。今年、生まれた人達が「徳」を得る頃にも毎年50兆の借金が許されているわけでは無かろう。何処かで大英断が必要だ。5年の人事凍結、大量解雇、それでも荒廃しない心の強さを世に求めるリーダーが現れない限り、アジアの片隅の島国は単なる島になり、誰も相手にしてくれない生命体になってしまうかもしれない。悩み多き、今日、この頃であります。


2010年12月16日

軽挙妄動では無いかと疑いたくなるが、自社の生き残りを掛ける凄まじい執念と捉えると、リニアモーターカーが南アルプスをぶち抜くことには応援したくはなる。応援したくはなるが、一度、あの頂きに立った者として、あそこに穴を通すなんてホントに出来るのと、やはり疑いたくなる。1500万年前の隆起と風雨に削られた、地球造山運動、日本列島形成の生き証人に穴を空けて良いものかと、やや宗教めいたことまで考えてしまう。

太平洋からの巨大な力は、今も、年に数ミリ単位ではあるが南アルプスを押し上げている。その圧力が伊那谷を軸として周囲に歪みを入れ続ける。恵那山トンネルも当然その環境下に置かれていて、殆どアナウンスはされていないが、飯田側の出口付近ではトンネルを横切る、いや、断層を横切って掘ったために目に見えない大規模な土木工事が施され続けている。そのうちにどっかぁんと潰れるのだろうなと、あのトンネルを車で抜ける時にはひやひやする。

ましてや、太平洋付加帯で出来た破砕しやすい中央構造線に沿ったエリアに穴を空けるというのだから驚いてしまう。止まったことのない断層上に、人間ごときが固定物を構築するなど本当に出来るのだろうか。相当のマージンを取ることになる工事になろうが、自分が生きている間に完成するのかなとも疑ってしまう。ただ、青函トンネルを完成させた執念も日本人にはあるから、本当にやり遂げてしまうのかもしれない。期待していないと言ったら嘘になる。

地上から10cmも浮き上がって走行する弾丸列車。乗ってはみたい。しかし、その完成年度を聞くと、小生は当然、現役人間では無く東京・名古屋を50分で移動する理由が無い存在であろう。車輪の空転の心配が無い空飛ぶ列車。内燃機関からモーターへとシフトしていく自動車道同様の変革である。転がす物が無い移動手段。よくもまぁ実現してしまうものだと、人間の力には驚かされる。南アルプストンネルが出来たら、そこを歩いて通過してみたい。日本列島の歴史図鑑を眺めることが出来るような施設を併設して欲しいものだと、それだけには期待したい私であります。


2010年12月15日

対話力というか、会話力というか。自らを分かって頂くと言うことなのだが、最初から聞く耳を持たないのに目の前に現れる者が居て、くたびれるを通り越して疲れきる。何でもかんでも都合の悪いことは他人の責任に転嫁して、自らは正しいとして行動し続けるからどうしようもない。聞く耳を持たない者は目の前に来ないで欲しい。お互い、時間の無駄である。

地下鉄に限らないのだが、公共交通機関に乗っているとでっかい声で話し続ける方々がいらっしゃる。嫌だが内容が耳に入ってきて、また、それがとんちんかんで身勝手で吐き気がするわけだ。これなどは、当然のことだがこちらを全く意識していなくて会話にはなっていない。なっていないのだが耳に入ってくるという現実は、聞く耳持たない者の訴えを聞くのと同等で情けなくなる。

一方、自らが議長の会議などは、聞く耳を持ち続けないといけなくて、これは相当に疲労する。心地良い疲労なのだが、かなり厳しい。先週、目眩を起こしてぶったおれたわけだが、昨日の会議で世の中がぐるぐると回り始めた時には「おっ」っと喜んだが、残念ながらひっくりかえるところまではいかず、話題のネタにはなれなかった。くたびれているなと感じる。

コミニュケーションと簡単に言うが、まずは相手は同じ人間と感じることだ。短い時間軸の人間が自分の長い時間軸の人間を見下すことが多々あるようだが、とんでもないことだ。一分一秒、とてつもなく重い。年の瀬になると毎年同じように思う。何かをなさねばならぬ。そう感じる。


2010年12月14日

企業税を下げるのなら、種々の公的事業を止めて民間関与の形を増やして行くのか筋だ。税金下げて補助金もという、なんとも陳腐な政策では、税収なんぞなんぼあっても足りる訳が無い。収入を減らすのであればやれる事は減りますと言うのは当然で、ぶぅたれる愚か者などほっとけば宜しい。どうせなら公共投資を10兆円くらい削って、企業税を20%程度にまで引き下げて「後は民間、何かやってね」くらいの政治でも宜しい。橋やトンネルは一企業でやるものでは無かろうが、経産省がばらまいている補助金など、元を正せば企業の税金の平分配であって、本当に頑張った人を助ける民主主義では無い。

相続税などは上がるらしいが、これなどは、国家から金持ちが逃げ出す政策で、相続税の無い国を富ませる政策として、諸外国から歓迎されるだろう。官僚の既得権益拡大は止まる処を知らず、哀れ、若年層は未曾有の借金を背負って一生を過ごすのだ。生まれた時から1000億円の借金を持ってますよと言われれば、何となく豪気ではあるが、はっきり言ってたまったものではない。最早国家ではない。

ご存じの通り、国民総数は凄まじい勢いで減少を続ける。高額所得の高齢者がお金をどんどんはき出す仕組みを作っていかないと、5%の企業税減程度の小手先事では、お金の環流は起こらず、消費無ければ物作り無しの世の中になる。いや、もうなっているのかもしれない。そもそも日本的物作りは、本当に良い物を大切に使ってくれる人のために作るというものであって、高価でもその価値を心の拠り所に出来る人向けのものだ。粗製濫造、夢の島を満杯にするための物作りでは無かった。

今、食べ物の他に「これが無ければ死んでしまう」と思えるほどの物があるかと言われると、そんなものは何も無い。無いに決まっている。人間は食べ物で生きているのだ。と、すると、身の回りの様々な物は「便利」に集約されるものばかりなのだから、これが無ければ絶望的になるなんてものは無いのだ。何故か人はあくせくしたがる。すると仕事が無駄に生まれる。無駄な仕事が膿んだ無駄なものを片付けるために「便利」な道具が登場する。壊れなければ物は売れ続けないから、必然、何処かで壊れる仕組みが組み込まれる。企業は何を成すべきか、何をもって存続し続けることが許されているのか。5%の税金が減ったらそれで何をする?直接的な雇用増ではないことは確かだろう。誤ってはならない。


2010年12月13日

普通ではない就職セミナーに、何故か講師として参加させていただいた。お越しを頂戴した皆様、有り難う御座いました<(_ _)>。どんなものかはそこに居ないと分からない仕組みのものだが、もしもそこに居たら、何かをつかんだ学生さんがいらっしゃるかもしれない。それで十分だと思う。国は税金で動き続けるわけだが、その税金を叩き出すのは企業だし、そしてそこで働く人間である。

家が近いとか、給料が高いとか、まぁ、人間だからそんな希望が最初に立つのかもしれないが、それだけだと働く場所は得られない時代である。小生とてその昔、某企業に内定を頂いたこともある。博士号を取ってしまうと就職先はなかなか見つからないので、懐の広い企業に感謝している。その感謝する心が大切だ。

伝えたかったのはその点だが、与えられて当然と思っている間は、決して伝わらない。最後は人間性となるわけだが、これは生まれてこの方の生活によって作られるわけだから、数年、勉強した程度では変えようがない。一人の人が十四年・・というわけで、そのくらいはかかる。

皆と同じことを言っているのに落とされるんですけどと、それは当人視線であって、見る人が見れば同じでは無い。そんなことを言っている限りは必ず落ちる。人と違うことを言っても、無理して言っていればそれも見抜かれる。一所懸命。それしかない。そのために日々研鑽する。それしかないのだ。



2010年12月9日

関東方面に出掛けてきました。計測出来れば加工が出来ますという、流石世界のトップメーカーの観点だなと感じた。光学的に20pmの分解能で計測出来ますよという、なんだか凄まじい世界。ただ、焦点深度が50nm程度だから、基板屋の皆さん、そこまでちゃんと加工してねという、これまた恐ろしい世界。450mmを45nmのSBIRに納めなさいと、計測・加工会社の方から注文してくると言う、良い物を作っていると発言がスタンダードになるなぁと感心した。

日本ではレンズを素材から作っている所は一社しかないというのにも衝撃を受けた。ドレスデンガラスのツァイスは有名だが、同様に、日本ではここだけよという、ある意味、悲しい時代になったもんだなとため息が出た。上流まで遡れない日本のものづくり。450mmウエハを使った半導体デバイス作りは,日本企業は何処も表明していない。最先端の放棄というよりも、追加で兆を越える投資が出来ないのが現状だ。国の後押しがなければ成り立たないが、某米国企業は60兆円で新規工場を建てるという。液晶ガラスも日本は9世代止まりで、世界は11世代に突入しようとしている。最早、最先端立国では無い。遠い過去だ。その中で、その世界の進歩を支える企業の一つが国内に残っている現状を目の当たりにし、それは、ほんの少しの安心を与えてくれた。

行き帰りはN700だったが、なんだか陳腐に感じてしまった。ちょっと前に乗った時(先週とも言う)は、もうちょっと「おぉ、ハイテク列車、日本の誇り!」と感じたが、ウルトラCに触れてしまうと、なんだかなぁ、桜通線と変わらんなぁと。東北新幹線に来年投入される新型車両に期待することにするが、あれは秋田には行かないので、小生的には乗車の可能性が殆ど無さそうと言う悲しい状況である。日本生まれで世界育ちのデバイスを使うというのは微妙な気分になる。やはり自ら暮らす国家の技術生まれ、技術育ちのデバイスを使いたいものだが、どうも半導体業界においてはそれは相当に厳しそうだ。SiCデバイスには何とか世界に食らいついて、更にリードして欲しいと願うが・・・

お米も不作だそうで、農業も工業もなんだか下り坂。すっごい暗い気分になるのだが、上記のように超技術を作り上げる土壌が無くなっているわけではない。凄まじく困難な道であるが、挑戦するべき道であろう。誰かが与えてくれる世界ではない。日本の中で世界と戦うのであれば、今を遙かに超える所に飛び上がる知力・人間力を涵養せねばならぬ。今、世界は日本を見ていない。それを強く感じた関東での講演でありました。


2010年12月07日

大切なのは何を作るかでもなければ、何が売れるかでもない。人、そのものである。それを認識せずに就職セミナー等々に出掛けていっても、結局は、修士も含めた新卒大学生就職内定率40%台という現実が現れる。約7%の大学卒業生に職が無いと言われている。単に職場を外国に持っていけば良いということではない。大学生は何を思うか、恐らく利己主義的に勝手な想像をするのだろうが、結局は自らの勉強不足、認識不足が、今の社会をそうさせていると気が付いていない。勝手気ままで、今の状況を他の責任に転嫁する者を、どんな企業が採用するものか。平均点70点の試験に対して難しすぎると訴えても、誰も聞く耳は持たぬ。そんなもんだ。

話を戻すが、実際のところ、何を作るかが、今の社会では死活問題となっている。内燃機関を作るのか、EV用モーターを作るのか。勿論、それぞれに難しさはあるが、そこから先にぶら下がっている機関の制御という観点から、動力源そのものが電気信号で制御可能という点では、モーター活用自動車が、ユビキタス時代を生き延びると考えるのが普通であろう。ガソリンの仕事効率は凄いものがあるが、制御という観点からはEVに軍配が上がっても仕方がない。

何を作るかという点でモーターを作ったとして、一体、何人の人が食っていけるか。ロボットで巻けるコイルに鉄芯、電池と制御用計算機等々、内燃機関の自動車で食べていた人の仕事の大半は無くなる。それをチャンスと捉えている人達に、今、仕事がまわっていて、激務の方にお会いすると、遠いところで電気と繋がっていらっしゃる。そんなものだと思う。

世界的な競争環境下にあって、移動手段に電気が組み込まれようとしている。電池だけで長距離を移動しようとすると、現時点では難しいが、キャパシタなどを組み合わせていって、爆発的に走行距離が伸びたなんてEVが突如現れないとも限らない。待ち姿勢の就職希望者では、何時まで経っても前進は出来ない。様々な場面でパーマネントの職が失われていっている。その中で職を見いだすことは容易ではない。まずは、自らが企業を通じて社会に何が出来るかを考えると同時に、その為には自らにどんな力が付いていなければならないかを考えることだ。希望ばかりを振り回していたら、世の中、何も良くならぬ。そんなもんだ。


2010年12月6日

自転車で通っていると、この季節、露出している耳などは寒さで痛くなるのだが、明け方までクリスマス電飾が成されている家々を見かけるのは楽しい。エネルギーの無駄遣いと一瞬感じてしまうのだが、猿から人に変わっていく時(あんまり変わっていないようにも思うが)、火を活用することを覚え、そして恐らく、洞窟などでもそれを用い、暗闇からの解放にどれだけ安らいだであろうか。そして火を恐れる猛獣から身を守れることにどれだけほっとしたであろうか。そう思うと、クリスマスの電飾もありだなと思った次第。

街路樹などに電飾する場合、さしものLEDとは言え熱が出るから、取り付け方を誤ると街路樹が枯れてしまうそうな。仙台の青葉城通りなど、豆球時代から電飾していたが、あれなども相当に考えられていたのだろうと、学生の頃は見上げてもちっとも何も思わなかったが、今になってあれがどんなに大変な事だったのか思い起こしている。電飾時間が限られていたので夕飯時分にこっそりと金研から青葉城まで走って見に行った事を思い出す。電飾は妙に心地よい。

それにしても昨今の電飾は余りにも派手である。名駅のツインタワーの電飾などもその一例だが、商業主義としてやっているのだから、派手にやって銭設けに繋げようという算段は戦略としては正解だろうが、あそこまでいくと、一体、電気代はいくらになってしまうのかと、無駄な心配をしてしまうと同時に、天然ガス電力割合が大きい名古屋地区での電飾がはき出す炭酸ガスは相当のものだと考えてしまうと、商業的巨大電飾には首をかしげてしまう。

寒さで凍えるよりも暖かく明るい方が良い。しかし、暖かく明るい場所で何を成すかが問題だ。暖かく明るい環境で寒さを感じるのか、他人から見たら寒い職場であっても、自らが明るく感じることが出来るのか。常に内なる灯火を持つこと。それが肝腎である。電飾を見てそう思った。


2010年12月03日

昨日、お昼から某所のお会社さんを訪問させて頂いた。極めて特徴的な生産現場で、社長氏の考え方が浸透していて明快なものづくりをしていらっしゃった。いらっしゃったのだがどうも明るくない。大半の機械が停止して、ものを作っているというよりも、生産機械の見本市のようであった。部品を製造するお会社さんだがら、最終的なアウトプットの部品が少なくなれば、必然、生産依頼は低下し、売り上げは落ちる。リーマンショック直前に導入したウルトラ高価な機械は全く動いていなかった。今、実験中とのことであった。

要は自らが最終製品イメージをもち、それを押し出せなければ沈没していくという当たり前の状態なのだ。その分野では世界一だと謳われようが、待ち受け製品製造では、最早、日本の土地を利用して生計を立てることは出来ない時代なのだ。物々交換からスターとした経済が、今、また、そこに戻っていくということだ。トヨタの得意とするTake and Takeの姿勢が作り出した、餌をやるから全てを擲って働けと言う図式は崩壊したということだ。有る意味健全である。

それにしても、そこから生み出される部品は、確かに見事であった。美しく、働きそうな顔つきをしていた。歩留まりを限りなく100%に近づけていった結果生まれたシステムだそうだが、ユーザーの立場に立ったものづくりを久しぶりに見た。徹底したコスト管理によって、まぁ、いろいろと不可思議に思えたところもあったが、それはそれ、品質が維持・向上していれば目をつぶれるところでも有ろう。

どんなに優秀な技術があっても、税金システムなどで日本で企業が生き残れる優位さは何処にもない。中小企業を海外に送り出そうと政府はやっきになっているが、頭脳と技術というDNAを海外に放出して、日本に良いことなど何もない。むしろ、数年後の崩壊を加速させるだけだ。今朝、大雨の中で憂鬱になった。


2010年12月02日

総選挙が近いのなんなのか、民主党のぼろぼろが目立っている。まぁ、他の党もぼろぼろなんだけど、数が多い分、おたんこなすが多くなるわな。国家国民の生活なんかどうでも良くて、単なる代表なんだけど偉そげにふんぞりかえって馬鹿丸だし。もうちょっとなんとかならないかと情けなくなる。正々堂々とか、格好良い四文字熟語が使えなくなった政府の下に居ることに居心地悪い。

宮様にさっさと座れと言ったとか、自衛隊で歩きたくないと言ったとか、そんなことはどうでもよろしい。要するに人品卑しい者を選ぶ民なんだと、自分達の恥を晒すだけである。新聞等々、なにやら叫ぶが、何度も言っているが自分らの代表と言うことは、まさに、国民自ら恥入るべきなのだ。政治家批判は天に唾するようなもので、それが分かってしなければならぬ。会社の上司批判とは違う。

結果を出せず、きゅうきゅうとしている時は、自らの上司に批判的になる。責任転嫁したくなる。最終的に上司がとんちんかんだったということも多いのは事実だが、しかし、下に居る者があからさまに上司批判なぞ出来るものではない。何かの経験が有るのだろうし、何か見えないものが見えている可能性は高い。人一人の視野の狭さを組織でカバーしているとするならば、上司批判など出来るものではない。出来るものでは無いのだが、能力を高める努力の無さが批判に繋がる。国民と政治家も同様の関係であらねばならぬ。

大学によってはこの春の就職内定率が五割を切っていると聞く。そうなってくると単純に大学批判をしたくなるだろうが、考えてみるが良い。悪いのは自分である。勉強しなかった自分である。努力せず、勉強せず、将来を考えず、そんな者をどの会社が採用するか。結局は自らが悪いのである。自ら以外、誰も悪くない。まずは自己批判。そこから始めるべきである。手を胸に当てるが良い。愚かさが身に滲みるであろう。街路樹の落ち葉が綺麗である。そんな足下を見ながら、寒さに古き葉を美しく落とす自然に畏怖を覚える私であります。


2010年12月1日

師走である。死走とも書く。走ってくたばるのか、くたばる程に走るのか知らないが、何故だか12月は精神的重圧が極限まで達する。憂鬱になって動くのも嫌になる。真っ暗な部屋で、一日中ごろごろしていたくなる。毎日、何をして過ごしているのか自分でも解らなくなる。しかし、師走は必ずやってくる。今年もやってきた。まぁ、生きていたと言う事だろう。昨年などは迎えられなかったかもしれない出来事もあったが、無事に迎えられて喜ぶべきなのだろうか。定かでない。

先日、「しなの号」という振り子型特急列車に乗る機会があった。遊びで利用したわけではないので先に言い訳をしておく。究極の憂鬱作業に向かい、そしてそこから帰還した。それはどうでも良くてしなの号のお話だ。某区間は単線操業となり、1時間に1本というのは我慢出来るのだが、その速度には辟易する。新幹線慣れしてしまっていることがいけないのだろうが、憂鬱に向かう時はじわじわ真綿で首を絞められる気になるし、帰還する時はさっさと逃げてくれと叫びたくなる。更に、長時間、振り子で揺られると気分がそんなに良く無いし、おしりも痛くなる。

しかし、明らかに、新幹線では得られない日本の風景との接触はある。特に数年、十数年に一度の乗車であるから景色慣れしていなくて、新鮮な気分になれる。これは楽しい事である。地下鉄並みに新幹線を利用している身としては、新幹線の車窓の風景を最近は見た記憶すら無く、寝ているかキーボードを叩いているかのどちらかになってしまっている。エコノミックアニマル丸出しで、きゅうきゅうとしている自分が恥ずかしくなる。流石に今のタイムスケジュールで青春18切符とはいかないが、在来線特急列車のリズムも捨てたものでは無いなと思った次第。

月が変わってカレンダーをめくるのも面倒だ等と感じることは、人間という生き物の性なのか、生き物失格なのか解らない。自らの性分がそうさせてしまっているのだろう。これでも先月から「お断りします」を連発してきているので、こうして戯言を言うことが出来る。徐々にフェードアウトしていって、「あれっ、誰か居たな、誰だっけ」と言われるようになることが来年の目標である。12月直前に「明日、会いたいのですけれど」というメールを送りつけてくる者が五万といらっしゃるが、全く無視しますので悪しからず。


2010年11月26日

半導体プロセス200の内、日本国が優位に立っている部分がどんどん減ってきている。最先端の一桁ナノ技術の多くは韓国主導であり、近い将来、日本は結晶基板を作るだけの国となろう。そしてそれもいつまでもつことやら。知恵にお金を出さない風潮が、ものづくりが出来ない国を作ってきた。大量消費材と一品ものとが混同され、原価割れまできたら、もうその先は首吊りしかない。コーヒー豆の産地で大国に踏みにじられ原価割れして生産を続けるしかない農家の話は良く聞くが、日本の産業界でも全く同じことが起こっている。いい加減に知恵のある国になったらどうか。

知識と思考能力は異なる。思考して新しい、命に優しいものを生み出す能力が知恵なのだろうが、目先の利益、見えるものだけを優先する軽佻浮薄な知識の入れ替え作業を繰り返して、結局、国家を破綻させる方向に向かっていく。今、身の回りにある製品の価値をどのように捉えるか。それを真剣に思い、その対価を考え、それを支払っていないとするならば、その世は崩壊していくだろう。

物々交換が良いとは思わないが、古墳時代は少なくともそれで皆が生きていたわけだ。不幸な出来事ばかりでは無かったと思う。今、地方都市はそちらに向かいつつあるのではないか?金銭の働き手が流出し、ものが目の前に見えてくる時代。それは人間回帰のチャンスである。

金銭主義は都会に溢れ、ものの真実を捉える能力が無い者だけがそこに集う。気が付けば東京、大阪は消滅していたなんてことになるかもしれない。その頃には案外、今、どん底に喘いでいる地方都市が独立国として活躍を始めているかも知れぬ。そんなところに関わっていきたいと考えている私であります。


2010年11月25日

20%を越える無効票だそうで、名古屋市議会を解散させようと言う住民の声は数にならず、傍若無人軍団が息を吹き返す。とは言え、集まった総数と市議会議員選挙時の投票数よりは多い反対表が改めて集まったのだから、市議会の方々、もう、存在し得ないと市民から通達されたと考えていただかないと困る。月給の高はどうだか知らないが、税金は安くなってよろしい。その分、環流がおこればよろしい。

国家の財政が破綻しているか否かというのも、国民の貯蓄があるか無いかで強引に決定されている。アイルランドの方々は貯蓄をするのではなく美田を残さない生き方であって、政府の失策が財政破綻に直結する恐ろしい状況にある。日本も本来は破綻しきっているのであるが、国民の貯蓄好きによって、国家が救われている状況だ。

その日本も、少子高齢化が進行し、小生の同級生年代が200万人存在しているのに対し、昨年の新生世代は108万人と言われる始末。どう考えても名工大など仕訳大学であり、残ると考える方がおかしい。就職する人間もそれだけ減少することになるのだから、企業は将来展望を明確にっするべきだ。

知事が民意を問いそれにぎりぎりのNoが成された。このぎりぎりというところが大切だが、NoはNoだ。そのNoを受けて議会は何かをするのか。それを今後の名古屋市のあり方ととらえよう。ばかばかしくなれば居なくなる。それだけのことだ。


2010年11月24日

どうしてこの国は年がら年中こんな問題を起こすのかと、世の中、インターネットがあろうが無かろうが、3Dテレビがあろうが無かろうが平和とは全く関係の無いことだなと、ある意味正常さを感じるのだ。生き物である以上、食えるか食えないかが大問題であって、他国の民が幸せかどうかは、その次の問題である。食えない状況に、更にプレッシャーが加われば反発する。それは誰でもそうだろう。

ただ、軍人同士の戦いではなく、非武装人に向けての暴力は許されない。そこには問題が生じる。北朝鮮のバックアップ国である中国、ロシアも同罪であって同列に裁かれるべきだ。死の商人達の反オバマというか、そんな流れの中の仕掛けられた小競り合いだが、民間人の命が一瞬にして奪われることは許されない。

軍人なら良いと言っているわけではない。砲弾が飛び交う中、命がけで戦う兵士が死んで良いわけはない。国民の命の肩代わりをしているわけで、尊い命の一欠片も、失って良いものなどない。

名古屋からだと、知床半島に行くより近いところで実弾が飛び交っているのだ。流れ弾がやってきてもおかしくなかろう。そんな時代なのだ。そう実感しつつ、何を成すべきか考えねばならぬ。その程度の時代と世の中なのだ。悲しくなる。


2010年11月22日

コーヒーをお飲みいただいた170名の皆様、有り難う御座いました。焙煎を直前にして頂いた田代珈琲様にも感謝いたします。頑張って二日間を接客に過ごした研究室メンバーの人達も、大変に良い勉強になったのではないでしょうか。OB連も感謝いたします。Kご夫妻様には大変ご多忙のところ、美味しい差し入れ、大感謝です。H君が最初に食べちゃいました・・来年もやらなきゃなぁと、そんな気になっております。まずは無事に終わってほっとしています。

人数の読めないことと言ったら無いですね。今回は大学の改築、修繕もあって、メインゲートが閉まっているとか、側溝工事とか、営業妨害としか思えないような有様。その中を押して来ていただいた皆様には本当に感謝。時々は味見をしていましたが、どわぁっとお見えの際にはそれすらままならず、自分の腕と豆を信じるだけという状況でした。

学園祭だから笑って許して頂けるところもあったやもしれませんが、実際に店を構えたら、お客さんが見えない時は絶望するでしょうし、混雑して待たせているなって感じたらそれもまた冷や汗ものでしょう。珈琲セットは1セットしか無い状況で、群を成すお客さんの恐ろしいこと。来年は20名分を一気に淹れる道具を仕立てないといかんのかなと、捕らぬ狸のなんとやら。

いずれにせよ、珈琲を淹れたい症候群はしばらくは収まりそう。綱渡り営業は心臓に悪く、趣味で商売ということの恐ろしさを改めて学びました。今年は両手両足が健常で、二日間、厨房に立ち続けてもなんとかなりました。来年も開店予定です。よろしくお願いいたします。


2010年11月19日

今日、明日と鶴舞大学は学園祭である。昨今、学園祭に参加する学生さんは少なくなってきたのではないか?小生が訪れた16年前はもうちっと盛り上がっていたような気がする。今朝などは東門が板張りゲートで脇戸のみが開けられており、なんだか成田闘争復活か!(誰も知らんわな)と感じる陰気な雰囲気。こりゃ、誰も入ってこんぞと思いながら一人でゲートを通過する。墓場だってもっと賑やかだぞ・・

当研究室として、例によって(2回目だが)喫茶店を開催させて頂く。お客さんがどかぁんと来てしまうと珈琲が無くなってしまうと言う恐ろしい準備状況ではあるが、今年は無傷で頑張るので、楽しみにお出で頂きたい。ビデオ上映などもするので「真剣に暇」な方は是非お越し下さい。

溜まっている仕事は沈積して岩石の如く固まってしまっているが、そんなこと言ったってどうしようもない。どうしようもないから、ひとまずこの二日間は珈琲屋さんに専念させて頂く。明日の天気予報は大雨であったが、幸いにして好天となるらしい。52号館という学内の飛び地ではあるが、イオンに出掛ける序でに立ち寄るには絶好のポジションだ。イオンに用はないという方には絶対に行きたく無い場所であるのも事実だが・・

何はともあれ、鶴舞大学祭であるから、職員も参加してお祭りをして賑々しく行こうという、純粋なお楽しみイベントである。是非是非、お越し下さい。今年は珈琲屋さんの田代珈琲さんのご厚意で焙煎したての豆からの抽出である。研究室メンバーの渾身のお茶菓子と共にお楽しみ頂きたい。よろしくお願いいたします。


2010年11月16日

右前方から来た車がウインカーも出さずこちらに迫る。生き返って1年と2日目にして、再度、地獄に落とされるのかと冷や汗。こんな殺人兵器を生み出す産業だけで喰ってきた人々。運転席を見れば女性が一人だけ。たった一人で大型のセダンかよ~!と、どんだけ無駄にエネルギーを使ってんだと怒りがこみ上げてくる。こちとら筋肉エンジンだけだぞ!と無防備満載の状況を顧みて生き物らしさを感じつつ、ジャングルだったらあっというまに猛獣の車にやられちゃうんだろうなと、やっぱり、車社会は変だぞと思うのです。

白鳳が負けてしまいましたな。ナショナリズムで気に入らないと言っていた人が大勢居たようだが、その人達は大リーグでのイチローの活躍も否定したか?アメリカ人の立場に立てば、黄色い猿がやってきて自分達の文化を踏みにじりやがってと思っていたに違いないのだ。しかし、それを受け入れる人達も居る。同様の事だ。たまたま負けてしまったが、裸一貫、他国にやってきて一所懸命に戦った人を讃えずして、人として恥ずかしくないのか?勿論、国技としては寂しい気もするのだが、当麻蹴速と相撲を取って勝った、相撲の始祖と言われる野見宿禰は韓国系出雲人であったろうし、いずれ大陸から入ってきた勝負事である。目に見えない精神的な部分に国技を抱けば良く、裸一貫で戦い合うところを国民としては受けれれば良かろう。自動車が自転車に襲いかかるような卑怯なことはしていないのだ。

同様の戦いが環太平洋パートナーシップ協定(TPP)にあるように感じる。自分の国の食い物は自分で作るという考え方は絶対に正しい。それが国家であるし、拠り所とする所以である。登山時に感じるのだが、ザックに入っている水と食料のなんと有り難い事か。燃料も背負って宛ら独立国家状態で歩行するのだ。それが経済となると話は微妙に厄介で、貿易が自由化したら農家は崩壊することに世論はしたいらしい。そもそも、何でもかんでも100円で売っていなければならないと思い込んでいる国民である。額の汗に価値を見いだせないからいかん。本来、ブツブツ交換であったのだ。価値と価値を等価に見る文化があったのだ。そこに銭の蓄えといういやらしさを持ち込むから、自国での食料生産すら否定してしまうことになる。

とは言うものの、確かに、一票100円の米と7000円の米を目の前にして、どっちを買う?と言われたら100円の方を買ってしまうだろう。残りの6900円で何が出来るかと考えない者が居たとすると、それは相当の金満家(死語?)か偽善者だ。と、なると、そのお米を生産している農家は確かに崩壊してしまう。自分がお米を食べて365日生きて働ける。その稼ぎの内、どれだけお米に支払って良いのかと考えて、自分は税金をこれだけたたき出せているから、お米はその内20%の価値がある、だからこれだけ支払うと理詰めに迫られれば、「あぁ、そうだな」と思って小生は支払う。それが出来る教育が出来ているかどうかだ。今朝、宵の明星を見て気持ちよく出立した途端、地獄行きの片道切符を押しつけられそうになり、米の値段まで走りながら考えたことを纏めてみた。朝っぱらから脳みそはよく働くものだと、一年前に粉砕しなくて、まぁ、良かったねと頭を叩いた私であります。


2010年11月15日

川に架かる歩道橋の路面が結露している。川霧が立つ程ではないが、今宵から相当に冷えてくるらしい。なんだかんだ良いながら日中、二十度近くなっている今シーズン、突然、ゼロ度近くまで冷えるとなると体調管理などもはや不可能っぽく、そうであれば常に肉体を鍛え続けるしかないと思う今日この頃。健全な精神を支えるのは根性ではなく基礎体力であると体感してきた。たかが自転車通勤であるが、今後も出来る限り継続していこうと思うのである。

昨日、ホームセンターなる所に出掛けて山登り道具を片付けるトランクボックスを買ったのだが、何より目立つのがレスキュー製品というか、「地震に備えましょう!」コーナー。震度7でも大丈夫とか、凄いキャッチコピーが目を引く。目を引くが小生の他に誰も立ち止まろうとしない。オオカミが出るぞ!と連呼され続けられた結果、県民は「地震なんぞ来ないだろう、来たって大したこと無いや」と思い込んでしまっている。勿論、地震なんぞ来ない方がずっと幸せ。しかし、リーマンショック後の為体をどう思うか。悲劇的な震災に備えて何が悪いと言う事で、じわじわとセットアップは続けている。とは言うものの、職場に居る時に災害にあったらどうしようもないなと不安は尽きない。

瑞穂陸上競技場の周辺で、山崎川沿いの桜並木が有名だが、春のみならず、この季節は紅葉が美しい。朝の散歩の皆さんも桜の時と同様に立ち止まって眺めている。日本人はこれで良いのだと思う。ただ、気になるのが桜の葉っぱの落ちっぷり。何本かのもみじもあるのだが、こちらは赤い葉を誇るかの如く、綺麗に紅葉し、そしてなかなか落ちない。人間が手を加えて創造したソメイヨシノは、花同様に葉がざざっと見事に散る。しかしこれは路面が濡れ落ち葉状態になって、自転車走行だと危険この上ないし、ばらばらと巨大な葉っぱが落下するのは微妙に美しくない。人間の成せる技の限界を感じるのだ。

季節の変わり目はいろいろ見えてくる物がある。人間も同様である。生き返ってから1年と1日目。何をこれから成せるのか解らないが、流されず自らを持って歩んで行きたい。過ぎていく季節を振り返ることなく、前を向いて生きていきたいと思う私であります。


2010年11月12日

例によって気ぜわしい。何でもはいはいと言ってきたつけが回っている。Noと言い出した今月、後味は悪いがどうしようもない。気分良く全力で出来ないのなら引き受けない方がよい。そう思う。そう思っているのは小生だけかもしれないが。特に管理法人だの国の金を預かり査察を受ける県の役人は形に拘るから、やたらと人を引っ張りだし、議事録に命を懸ける節が強い。引っ張り回されるのはもうおしまい。

民間からのお仕事、面談もお断り路線に入っている。一兆円企業に「業績が悪化して、事業転換を図りたいんです」と見下し目線で言われても、相手になる気はさらさら沸いてこない。国際展示場にて隠密裏にその応対ぶりを拝見させて頂いたが、相手にして欲しかったら億の金を持ってこいの勢い。立派なものだ。これが日本の真実なのだろう。吐き気がする。

ものづくり産業が占める日本のGDPの割合は20%足らずだ。高度経済成長期と呼ばれた頃には50%もあったものが、この30年でそこまで減少した。有る意味正しい方向のような気がするが、サービス、物流が日本人の生活を支えているとすると、何処と無く空しい。安かろう早かろうの結果がこれならば、働く意欲も減退するだろう。その悪循環を見るようだ。

超技術はあるにはある。しかし、その超技術も人の幸せに関わらないのであれば、手品に過ぎない。3Dテレビなど、週末にちょこっと山に出かけて味わえる風景から比べればゴミ以下だし、動物園で猿を眺める方がずっとましである。私事だが、明後日、自動車事故から丁度1年である。まもなく満一歳。激変した人生観と戦ってきた一年だが、悩んだことは大きな財産であった。経験は価値があるが、もう二度と、あんな目には遭いたくない。皆様も年末に向かって、自動車事故にはくれぐれもご注意を。人を跳ねる車とその関連産業が闊歩する世界はやっぱりおかしいと感じる私であります。


2010年11月11日

地下鉄の駅の階段に落ち葉が目立つようになってきた。街路樹の落ち葉が吹き込んでいて、都会にも冬がやってきたかなと感じる光景である。風情がある。その落ち葉の領域を過ぎるとゴミが目立つようになる。落ち葉は人間の活動を覆い隠してはくれるが、心の醜さまでは隠しきれない。小生が活用している南限の駅は終着駅であり、いってみればそのエリアのセントラルステーションだ。ワシントンにも同様の駅があるが、こんなに汚い光景は見たことがない。何故に日本中、ゴミに溢れているのか。

かく言う小生の研究居室も、机上は謎の書類に溢れ、背後は倉庫状態。崩れ落ちた書類を拾う気力すらない。先日、ようやく研究室の掃除機を更新したところで、利用したらあっという間にゴミが溜まりましたという、何とも情けない状況にある。改善したいと思いゴミと戦おうとするのだが、一千を越えたエントロピーは、勝手には減少しない。駅のゴミと部屋のゴミ、心の荒んだ状態がここにあるのだなと感じる。

先日、お仕事で久しぶりにガマの油エリアに行ったわけだが、朝の散歩がてら、大学教授用戸建て公務員宿舎街を散策した。伝説の領域で、ご近所の公務員宿舎も含めて自殺だの発狂だのが多々出現したエリアだ。今は空き室が目立っていたが、それでもエリア内のペデストリアンにはゴミ一つ無い。これを規律と見るか、抑圧と感じるか。自殺のない地下鉄の駅は汚れてはいるが平和なのかもしれない。

ボストンも目抜き通りは綺麗だが、裏路地は小汚い場所が多かった。所詮、人間の有り様はこんな程度で良いのだと思う。蛇だって自分の抜け殻を通り道に置いていくではないか。もっとも、それらは自然に帰るのが。昨今、山に行ってもゴミでがっかりさせられることが多い。折れたステッキが刺さっていたなんてことも有った。自分達の住む世界以外まで汚染させる生き物は人間だけだろう。地球が怒って駆逐しようとするかもしれない。案外、そんな時代は近いのかもしれないと、地下鉄構内のゴミ溜まりを見て感じた私であります。


2010年11月10日

真面目なお話で恐縮だが、今現在、機械加工でcmオーダーの物体を、平均誤差1μm居以内で加工することは出来ない。ナノ加工だなんだ言っているが、所詮、数ミクロンからサブミクロンのエリアにおいて数ナノの加工が出来ているだけで、cmエリアでナノメートル加工などお笑いぐさだ。ナノメートル加工機など0.3mmを1分掛けて削るとか、現実世界の物体整形なんぞ、何年掛かるんだと言う世界。そもそも刃が摩耗して0.3mmを一気に加工することすら出来ない。世の中、そんなレベルのもので構築されているだけだ。

半導体の平面加工は平均的加工であって、小さな刃物を硬い材料に接触させて化学反応をドブロイ波の範囲で発生させ、その領域をマクスゥエル分布に従った除去方法で取り去って行く。歪みもドブロイ波の範囲で入るのだが、シリコンの場合には薬品で溶融させて除去してしまっているから、その当たりのことは現場の人も何も考えていない。工業製品だから何も考えなくて良いのかと、それは疑問に感じるが、そんな事を言っても誰にも相手にされないから言わない。加工とは所詮、そんなもんだ。

目に見える加工物を0.1μm精度で加工出来たところで、その精度の雄雌を人間がはめ合わせる事は出来ないし、ロボットにおいては更に無理だ。するとそのロボットを0.1μm精度を越える領域で作り上げ、人工知能の目で加工制御させて、その価値が生きてくるだろう。金属材料を十ナノメートルオーダーの歪み範囲で削りだし、その価値が生きてくる世界、意識してものづくりをする人間が無い以上、サブミクロン加工を実現する刃物は必要無いのかもしれない。特に暴力的な速度だけを語る日本においては価値はない。

ナノミクロンオーダー刃先のサンプル出荷は顔見知りに限定するのだろうが、サブミクロンオーダー刃先の刃物を世に出し始める日が近くなってきた。小生がイメージ出来る範囲の加工提案は受け取らないが、その先を作り上げていく方々のご提案をお待ち申し上げる。切られる材料の立場に立った加工、加工物が利用されることを真剣に考えている加工、そんなものが出てくる時代である。ヒューマンファクターを取り入れる人と入れない人。時代の転換期である。大量消費の無い世界で経済活動が成り立つのかどうか。人類の転換期である。面白い。


2010年11月9日

自動車がこければ飛行機との期待が世の中にあるが、そんなに単純なものではない。そもそも航空機には殆ど鋳物が無い。今の自動車にも殆ど無くなってきているのだが、航空機には更に無い。「こんなに靱性の高い金属を削り出すのか?」と驚いてしまうが、どんなに刃物を使おうが何しようが、接合部分の無い加工物の組み合わせが航空機である。翼の部分は未だにリベット打ちだが、それもFSWという仕掛けで接合していって、リベット数をどんどん減らしていく。物が減ればそれを作る人が居なくなるわけで、自動車とは桁違いに少ない働き手で成立する産業が航空機産業であって、名古屋市が踊り騒いでも失業率は減少しない。

産業用ロボットを見たって、まさに人減らしの方策であり、働き手の安全の為にロボットを導入しましたと言っても、誰もそんなことは信じない。大型船のスクリューを一体削りだしなんて機械がざらにある。大物だから人が沢山必要なんて時代は遠い過去だ。やけに暗い話をわざと続けているが、何が言いたいかと言えば、就職氷河期だから内定がもらえないんだなんて甘えている大学生や院生の諸君に「力が無いから企業殿から内定が頂けないだけで、グローバル社会では当然の現状なのだよ」と言いたい。

企業を沢山回って自分の好みに合った所に就職したいなどと甘ったれたことを放言している奴に、誰が給料を払ってくれるものか!また、俺は働いて給料貰って生活しているんだから、親のすねかじりとは違うんだなどと大馬鹿は、明日になったらその席は無くなると思えば正解だ。人を見下す輩は、その企業を崩壊に向かわせる。小生がマネージャなら即刻解雇だ。謙虚に、そして真剣に自らが打ち込める道を見出す時間が大学にはあって、その間に将来をイメージ出来ないのであれば、その先にも何も無い。

大学教員も、ただ単に自分の興味を学生に押しつけて、人間教育が出来ないのであれば、直ちに辞めて頂きたい。そんな連中が社会を漆黒の闇に包み、崩壊に向かわせているのだ。(自分のことは完全に棚に上げているが・・)人間指導のプロが求められるところにきているのだろう。高額消耗材で喰ってきた社会の終焉に向かっている。君は何を作って社会貢献するのだ?それを思え。


2010年11月08日

今年のプロ野球も全て終了。小生がガキの頃は、それこそ楽しみと言えばプロ野球と釜本のシュート、ジャイアント馬場くらいなもので、TVと言えばプロ野球。昨夜もちょろっとは見たが、名古屋ドームは満員では無かったし、プロスポーツの人気も無くなったなと寂しくなった。日本人スター選手の海外移籍は凄いことだとは思うのだが、国内においてはダシガラ感が否めず、なんだか情けない。

先週の土曜日に、高校生を相手に大学が門戸を開いて、月に1、2度の体験実習を受けて10回ほどの講義を受けてプレゼンするという、その一駒に付き合った。普段、時間が無いので、若手のみなさんにおまかせっきりで、何とか顔だけはのつもりで出席をさせて頂いた。その時に思ったのが協調性の無さというか、利己的というか、元気の無さというか。リセットボタン世代に取り囲まれ、不気味さを覚えた。地方の小学生の方がずっとはつらつとしている。それを実感した。

結果が無い世界にリセットボタンは無く、研究の世界で生きていけそうにない人種を眺めていると、ここは一体何処なのだと不安になってしまう。これらが大学に入ってきていると思うと、今の大学一年生の無気力さ、体裁だけの報告文の低水準さが理解できた。それだけが収穫の土曜日であった。なんと悲しいことか。

リーグ3位のロッテがリセットによってリーグ代表を勝ち取りそして日本一になってしまう。そんなプロ野球を誰が心底楽しめるのか。この15年、野球場には行っていない。どんどんつまらなくなる。客引きに走った結末である。どんな世界も媚びてはならない。そのためには自らの精進しかない。一体、いつまで精進し続けることが出来るか。そろそろ限界である。そう感じる今日この頃である。


2010年11月05日

地下鉄桜通り線は伸長工事を続けている。名古屋駅から名古屋市の縁まで延びる地下鉄で、これ以上進むと豊明市という、かなり臨界点まで延ばしていく。全国でも屈指の人口増殖地で、土地単価上昇率日本一まで記録した。空き地が多く残っていたお陰で、地下鉄駅構築と共に周辺地域の開発(再開発ではない)が適度に出来た好例では無かろうか。

駅のすぐ南に、信長時代の古地図にも見られるため池がある。そんなため池の隣に地下鉄の駅なんぞ作って大丈夫なのかなと心配してしまう。特に終点駅のその周辺は、例によって談合事件が発生し、工事業者が変更になり工期が延びてしまった曰く付きな領域であり、実際に地下鉄運用が始まったら不具合が見いだされるのではと、将来の利用客候補としては若干、心配している。

文化の日に終点駅上に出来た、市役所出張所と併設されたマーケットがプレオープンと言うことでぶらぶらと歩いて出かけた。「普通」に歩いて行けるところに鉄道の駅があると言うことの素晴らしさ。現在は野並まで5.5kmあり、一般民間人には普通に歩いて行ける距離ではない。特殊民間人としては雨だろうがなんだろうが、バスすら無くなってしまう時刻に戻るには行軍しか道はない。それが1kmにまで駅のほうから接近してきてくれたわけだから有り難い。

小生が学生時代、筑波(つくばでは無い)の町中に電車が来ると確約されていた。筑波万博に間に合うようにということだったのだが、それが出来たのは、小生が入学してから数えて28年の年月が必要であった。筑波はつくばとなり、もはやジャングルの面影はない。極端に振れてしまった悪例であると小生は感じる。もはやあの街からは魔神は生まれない(生まれなくて良いが)。名古屋市の最果ての寒村は、それらしい姿で残って欲しいと願う。人の住むところは銭の成るところではない。町の人々の知恵が問われる実験場で何がどうなっていくのか。ちょこっと愉快な気分になっている私であります。


2010年11月4日

気がついてみれば今年もあと2ヶ月足らず。例によって「今年も何もやらないうちに通り過ぎてしまったなぁ」と思い始めている。いろいろやってきた筈なのだが、日々の重圧に記憶が吹っ飛んで、何もしてないんじゃないのと考え込んでしまう。その程度のことしかやってこなかったと言う事だ。残りの二ヶ月、何かやったぞと思えるようなことをしたいものだ。

ここ2,3週間、ニュースを見るとホタテ貝が死んでいるというニュースを目にする。テレビを見る度に出てきているような気がする。滅多にスイッチを付けない小生の目の前に年中現れていると言う事は、それこそ年がら年中このニュースなのではと思ってしまう。夏場の海水温が上がったために壊滅状態なのだそうだ。海流全体が温まっているのか、地上が温まった結果、河川水温が上昇したため、その下流域からどんどん水温が上がったのか。そのどちらかは解らないが、40年ホタテを育てていてこんなことは初めてだと漁師の方々がTVで力なく語っているところを拝見すると、どうやら海流そのものが異常だと考えるのが妥当だろう。東京近郊にも熱帯魚が上がってきているとのことだから。

北回帰線の北上によって北半球の海水温が上昇するのは当然だが、それが勢い込んで発生している点は見逃せない。海洋民俗国家である日本人であるから、海の変化にもっと騒がないといけない筈である。そうであるのだが、政治も経済界も仕事が無いと騒ぐだけ。国家が仕事を斡旋するのではなくて、国民が知恵を出して働こうとするところを援助する程度で良かろう。高校の授業料までただになってしまった国家であるから、仕事の面倒までは見ないで宜しかろう。どうせ土木工事しか思いつかない国家だから。

なんだかんだ言って、明け方は冷え込んでくるようになった。朝起きると、南の空にはオリオン座が煌めいている。明らかに冬の空である。煌めく星を眺めると山に行きたくなるが、今週末もお仕事だ。死んだら堆肥にもなれない肉体しか無いのに、生きている間に四苦八苦して何か財を成そうとする愚かな人間。喜びに充ちた仕事人生を歩めないものか。自らの愚かさに辟易する私であります。


2010年11月02日

なんだかんだ言って不思議と土日が無くなる。少なくとも日曜日は安息日では無かったのか。自発的に土日を無くすのは構わないが、どうしてこんなことの為に人の時間を奪うのだと、そんな出来事に強制されると腹も立つ。無益なつき合いの強要は拷問だ。独り、読書に勤しみたいと願う。他人の時間を奪って何がうれしいのだ?

と、八つ当たりをしても仕方がない。とかくこの世は住みにくいと漱石も言っている。住み難さが高じれば出ていくしかない。この地に居るのが長すぎたのだろう。所詮転石の小生である。再び転がり落ち始めれば良かろう。

国際会議等に出かけると、人間多様性にほっとする。これで良いのだと実感できる。単色文化に浸っていてはいけない。学者は特にそうだ。単色を感じたら多様性に走るが良かろう。多様性の中の一色は美しいが、べた一色の世界は味気ない。

共に苦労し血を流しあった仲間は美しい。多様な視点を持ちあっているからお互いを高めあい進んでいける。血を流さず自己利益だけを狙う輩の汚さ醜さ。それを感じるようになったら、そこから出ていくだけだ。辟易する。


2010年10月29日

凄まじい一週間であった。まだ終わったわけではないが、生きて週末を迎えることが出来たなと、自分自身を誉め讃えたい。勿論、全ての仕事が満足に終わったわけではない。溜まった仕事も沢山ある。沢山あるが、取り敢えず生きて戯言を書いている。それが重要だ。明日はお江戸に出張だが台風に追いかけられての移動になるし、お江戸はどうやら大雨なので憂鬱だが、嫌なことは嫌と言える出張は有り難い。

企業訪問をさせて頂くと「ほうれんそう」という、共同生活の基本が壁に掲げられているのを見ることが多い。大学などではこの基本が失われ、一体、何がどうなっているのか判らないことが多い。その問題点の根幹に、自ら考えない、思考しなくても生きてこられた家庭生活があるのだろうと感じている。協調性が表面に現れるのがほうれんそうなら、ほうれんそうが出来ない物は協調性欠如となり、それは即ち、社会生活を営めないとなる。就職に直結する卒業などはさせてはならないと思う。

しかし、自らを振り返ってそれが出来ているかと言えば、そうでもないこともある。大人の社会に足を突っ込みすぎて「王様の耳はロバの耳」と叫べない事が多く、そうなってくると、今日は青空みたいなことまで言えなくなってくる。階層毎にほうれんそうの中身も意味合いも変わるのだと心に棚を作ってしまってしまう。

月曜日を振り返ると、2、3年前の出来事と感じる。一体、今日は何年何月で、小生は何万年生きたのかと錯覚してしまう。学生は学生であることに感謝して、命がけで学ばねばならぬ。楽をしようとするならば、直ちに大学などから退出し、別の道を探さねばならぬ。学問は苦行の道である。そうであるから次の瞬間が美しい。その美しさは苦行の果てにしかない。自らの手足を動かして明日に到達する意識がないのであれば、君、直ちに退出せよ。自らの愚かさを刮目して解せよ。それだけのことだ。


2010年10月28日

台風が来た。11月の声が聞こえるというのに、しかも相当に勢力の強い状態で北上を続けている。先日、大雨の被害にあった奄美の人達の心配いかばかりか。小生も週末に東京に出張だが、帰りの新幹線が止まるのではないかと微妙に心配している。建物に入ってしまえば、まぁ大丈夫だろうが、新幹線走行中というのは気持ちが悪い。こればっかりは時の運。台風に向かって勝てる奴は居ない。自然の猛威にただただ頭を下げるばかりである。

自然力と言えば山の紅葉であるが、鈴鹿はかなり見頃らしい。見頃らしいが出かけている時間もなく、気持ちばかりが山登りで、実際にはコンクリートに釘付け状態。人生、つまらないったらありゃしない。生物多様性などとわめいているが、人間のあり方そのものが一様につまらないものになっているのだから、他の生き物にかまっていられるかというのが本音である。一所懸命に生きていたら、たまたま他の生き物と共生していたとなれば御の字だろう。

鶴舞大学では嫌らしい人切りが横行していて、数年契約で加わって頂いた方の数ヶ月での解雇なんてことが平気で成されている。社会的にみてこんな組織はあってはならない部類に入る。こんな組織は絶滅して良く、危惧されなくてよろしい。自然に逆らった人間の愚かさの展示場であり、展示場ごと消滅したら良かろうと思う。天網恢々疎にして漏らさず。天罰下ること必定である。

いずれにせよ台風がやってくる。中心は大平洋側に逸れるような気がするが、昨今の異常気象。何が生じるか判ったものではない。今日は一日、しとしとと降りそうな、寒い一日となるらしい。居室に籠もって書類に向かっているから世間で何がどうなっているのか判らない。こんな生物も絶滅すればよろしく、いよいよもって太陽を拝むことが無くなってきたと、台風一過の秋晴れを快晴の山の中で眺めてみたいものだと、そんな一日が欲しいなと泣き言を言い続ける私であります。


2010年10月27日

与野党なれ合いで出来上がった補正予算だが、結局の所、自公民を応援する、支配下のお金を持ち続けたい官僚軍団が押し切った形で、官僚の既得と勘違いした領域に銭を撒く体制となり、国民は決して潤うことなく死んでいく道筋が出来ただけだ。官僚支配の銭の配分は、恐らく、昭和30年代から40年代に掛けてのダム、新幹線、高速道路の建設で、まずは国民に仕事を作ろうという流れの中では、それしか無かった選択であったろう。戦後の米国支配から独立後の建国までは国家主導の国民誘導は致し方のないところだし批判はしない。

国際競争の中にどっぷりと浸からざるを得ない日本となって、未だに米国支配下に自らを置き安心しきっているその姿は醜く、心ある国民には国家の将来は暗黒と映るであろう。小生にもそのように見える。米国支配下の官僚が銭を動かすわけだから、国民生活が平穏になることは決して無く、それは即ち、これから数年、消滅していく企業が増え続けると言う事だ。それが官僚主導の配分型予算の本質だ。税金は高く、その税金は国民に還元されることなく、一部の土建屋に流れていく仕組みは自公民政権時代からちっとも変わらない。

円高も一時、小休止があったが、これから再び加速することであろう。世界中が苦しいのだから、米国や中国の言いなりになる馬鹿国家に、取り敢えず銭を預けておいて、インド、中国がロケットスタートし始めたら一気に日本国際をうっぱらってインフレになるまで、円高はずんどこ進んでいく。今、輸出に頼り切っている企業は(頼らない企業は無いが・・)取り敢えず、円は60円台後半のイメージで業務展開をして体力を付けておかないと確実に消滅する。少なくとも明確な10年後ビジョンを掲げ、凛とした目を持ったリーダーの元力を結集していかないと、まぁ、中国にも買ってもらえない企業となって悲惨な状況になる。

小生の生産物は学生でしかない。それ故に叫ぶことは「学問せよ」だけだ。それが社会基盤の根幹であると信じている。それは何時の世も変わらない。一つの生物として世界と戦っていくことが出来るのは、自身の中に拠り所となる信念があるからだし、それを形作るのは他人(親も所詮は他人だ)の愛情と本人の努力だ。国民や企業が自らの方針を打ち出せる気になる減税が成される気配は名古屋市にも国家にもない。企業献金は禁止などと、国会議員定員削減の本質から国民の目を逸らそうとする国会議員の言う事など信じられるわけもなく、それを選ばざるを得ない低品質の国家において、自らが出来る事は、明治維新の頃と同様、世界に目を向けて自らを鍛える事だけだ。藤原頼通が逃げたかった末法の世とは今のことかと感じている私であります。


2010年10月26日

赤道上の火山が噴火しそうだったり、スマトラ島沖でマグニチュード7.5の地震が起こったり、10月の末なのに台風が迫ってきたりと、数億年ぶりの地球造山運動の周期的活発化に当たったかなと、乱世のE氏と呼ばれる小生としては中央構造線沿いに引っ越そうかなと、大陸運動と戦おうとか、無謀なことを考えてみたりもする。数十万年後、日本海は無くなり、日本列島は大陸に押しつけられ今の形状は無くなってしまう。それが解っていれば何をじたばたしても仕方がない、今を一所懸命に生きようと思える。それで良いのだと思う。

そもそも、2,3千年前、まだ、弥生時代であって、竪穴式住居に暮らしていた日本人が、この百年足らずでバベルの塔みたいなのを作るようになったのだ。そこまで急速に生き物が発展するものなのかと、地学関連の書物などを紐解いて感じる。もっとも、電気工学などはフランクリンの静電気とファラデーの法則以外何も無いような気がして、未だに自然現象をどう活用するかという所に留まっている点は、案外、穏やかで良いのかもしれない。核物理みたいに宇宙誕生の歴史をぶっ壊すような乱暴な世界ではなく、地味で未だに解っていないけれど、取り敢えず使えるから使ってみましたというような静電気活用など、実に愉快である。人間はそんな程度で良いのだ。

自転車通勤をしていて感じるのが、猛烈で強烈な運動量を有する鋼鉄の塊と、犬の散歩連れとの不協和音。更に、車道にあふれ出して傍若無人なご老人軍団など、もう、世の中には何のルールも無いのではということである。自分勝手を通した者が勝つというご時世は如何なものかと感じるのだ。皆で共同生活をしていた縦穴時代が懐かしい。遺伝子的にそんなものを感じる。工事現場で穴が掘られていると、妙に嬉しくなってくるのはそんな歴史が遺伝子に刻み込まれているからかもしれない。

一体、自分は何年生きてきたのかさっぱり解らない時がある。それは皆同様であるに違いない。突如、行ったことの無い筈の岩と砂と灼熱の太陽が見えたりとか、そんな中で生き抜いてきたと感じるとか、そんな天然自然的、体内から湧き出る力を大切にしていけば、近くに迫った造山運動に伴う東南海地震をも生き抜けるのではないか。備えあっても憂いはある。形あるものはいつか壊れる。しかし、体内の遺伝子は壊れようがない。自力本願の本質は遺伝子記憶にあるのだろうと、妙に懐古的になり、昔もきっと走っていたんだろうなと、自転車に乗りながら息を切らして汗だくになりながら、ぜいぜい言っている私であります。


2010年10月25日

今日、何日かもイメージできない程にせっぱ詰まっているというか、後が無いというか、そんな生活で良い仕事が出来るはずはない。はずはなくともしなくてはならない。現実逃避志望の毎日である。。しかし、逃避しようにも逃げるところはなく、結局のところ、毎日、袋小路である。突き破るのか引き返すのか籠もるのか。三者択一の人生は、二者択一よりは贅沢であると納得するべきか。

忙しいというのと暇がないというのは随分と違うなと感じる。事実、違うのだと思う。農業経験があれば分かるが、忙しいというのは本当に忙しい。生き物が相手故に、こちらの都合など関係なく、どんどん熟してほっとけば売れなくなる。主役が相手にあればそりゃぁ忙しい。こちらが主役であれば時間の制御はこちらで出来るわけだから、これは単に暇がないだけで忙しいのではない。忙しいのと暇がないのと両方が襲ってくるから油断出来ない。結局、首が回らずその場凌ぎに陥ってしまう。皆、不本意である。

昨日、休日出勤というか、休日登校というか、駅からの道、開いている教会を覗いた。何かを信じる人達で溢れている。見事なものだ。自らの為に歩を進め、そして学んで去っていく。葬式仏教とはえらい違いだなと、その信じる行動が羨ましくもある。信じられるものが絶対的なものである人は幸せだ。心に揺らぎ無く、忙しさは無い。自ら信じるものを造り続ける立場に置かれると、これはなかなかに重圧である。

高い山で一人テントを張って、満点の星空を眺める。そんな時間を欲しいとは思うが、世間がそれを許さない。こんなはずでは無かったと、後悔しても始まらない。いきつくところまでいくのだろうが、それは何処なのか。さっぱり判らなくなってきた私であります。


2010年10月19日

名古屋駅からの新幹線始発時刻は比較的遅い。6時20分発が始発であって、これは何とひかり号である。大阪万博の想い出に浸っているのか、最初ののぞみが名古屋飛ばしをしたことに恨みを抱いているのか知らないが、朝っぱらの東京の会議ぎりぎりに間に合うように設定されているようだ。木曜日に軽井沢南入口に出掛けるのだが、ここまでガマ電車に乗り継いで行こうとすると9時半頃になる。会議は9時半からだから悟りきった遅刻となる。激務の積分状態だから仕方があるまい。

のぞみに慣れてしまっていると、隣駅は横浜あるいは京都である。京都と横浜が同じ距離に感じてしまって、横浜まで45分だ、などと考えていると痛い目にあう。リニアが出来ればそんな感覚で品川までふっとんでいくのであろうが、そんな頃には灰も残っていないであろう小生であるから、のぞみにぶっとんで頂かないとこまるのである。電気自動車などどうでも良いから、機械摩擦の限界までのぞみには頑張って頂いて、時速350kmくらいの営業運転をして欲しい。出来れば1,2年の内に・・

愛知県の不況は猛烈に進んでいて、中小金型屋さんの倒産は未だに収斂する様子もない。光って頑張っている企業がクローズアップされるわけだが、光るポジションがそうそうあるわけもなく、光らない部分の積層構造が圧縮し合って崩壊していっている。ものを大量に作って、大量に消費していく時代の負の遺産が消えるのだと、安直に語る輩がマスコミに多いが、良いものが安く入手できる国家の土台は、今、霧散していっている金型屋さんが築き上げたのだ。それが無くなると言う事は確実に日本でのもののあり方が変わったと言う事だ。

車に乗らない若者。大いに結構。しかし、バーチャルのみに走って何でもリセットかを掛けられると思っているが、それは大間違い。良い物が売れなければ本当に良い物を少しでも良いから作り上げ、精神の向上に繋がるものづくりで、国家を養わなければならない。ただ、おハイソな方が新たに持ちたいと思うモノが見あたらない。何かを作らなければとは思うが、果たしてそれは何か?時速350kmののぞみに繋がるような新技術を作ってみたいものだと門外漢ながら妄想する私であります。


2010年10月18日

気が着けば0度の寒気が北海道地方に入ってきた。いよいよ冬を意識しないといけない。しかし、名古屋ではそれは明け方だけで、昼間は25度程度に上がりそうだから、衣服による体温調節が極めて難しい事になりそうだ。

風邪では無いが胃腸がべらぼうに調子悪く、今年、最悪の状態だ。限界の一線を越えた様で、一日、ぐだぐだと寝ているという状況だ。寝ているとうなされる。ろくなもんではない。起きても寝てもうなされるなら、起きていた方がましなのだが、起きていると痛い。その分、寝ていた方が良い。

鬼の霍乱というものなのだろうか。日頃、病とは全く関係が無いように思われているのだが、無理の積分が内蔵を破壊するようだ。ここはしばらくは「お断り」路線でいかせて頂こうと思う。やってられません。

季節の変わり目、体調も同様の様ですな。ということで、みなさま、御自愛の程を。



2010年10月14日

それはずっとずっと大昔、今から23年前、初めて名古屋を訪れた。そこにはガマの世界にはない自動改札装置があった。横向き、裏向きと面白がって茶色い切符と戯れた。今は当たり前だが、当時は最新鋭の人員削減装置であった。音速で動く銀色のカッターマンが消えたのは2,3年後だ。カッターマンのお話ではなく自動改札装置のお話。今朝、なる程なと思った次第。

朝、6時前に地下鉄の改札口を抜ける奴は、世捨て人か朝帰りかのどちらかだ。世捨て人は捨てたくて世を捨てたわけではなく、世が彼を捨てたと言うことなのだが、それは「坑夫」を読めば解る。安さんの気持ちが分かる。解る奴は世捨て人だ。世に捨てられた者だ。いや、世捨て人の話のお話ではなく自動改札装置のお話だ。そちらにいかねばならぬ。

無機質な樹脂で出来たカードを入れたら「係が来るまで待っていろ」と無機質で一方的な命令が下された。急いでいるわけではない。わけではないが、早起きをしている。早起きをしている者は一分一秒が欲しいのだ。例えホームで停車している車両の中に滞在していたとしても、その先に生じる出来事をイメージするのだ。足止めは犯罪だ。そう感じた。23年前には動いていたではないか。走馬燈の様に記憶が蘇った。はっきり言って馬の走る絵が描かれた走馬燈は見たことがないが、記憶は蘇ったのだ。

待っていたら係が来た。来たがちっとも直らない、何も語らない。すみませんの一言も無い。こいつは機械に操られているだけの部品だと感じた。何を言っても無駄だ。地下のホームから車両が動き出す音が聞こえた。10分に1本しかない電車が行ってしまった。この部品は貴重な10分を強奪したのだと、冷静さを失った。失ったがどうなることもない。機械というものは所詮、こんなものなのだと思った。機械を信じている人間が悪いのだ。怠惰な世界が悪いのだと感じた。待てど暮らせど無機質なカードは出てこない。カードを引きずり出した彼曰く「ちょっと待って」。びっくりした。すみませんの一言も無い。どんな教育だ。人の早起きを無にして謝罪も無いのか。いや、そんな事を期待してはいけない。彼は部品なのだと哀れに思った。残金が打刻されたカードが渡された。機械的な世界だ。そう感じた。とても生きていけそうにない。そんな世界だ。


2010年10月13日

日々の日程が予定に化けてきて、後から重いブッキングが入り形勢逆転が見られる、毎年の風物詩がやってきた。それも10月いっぱいでやっつけようと決心している。今まで何でもOKでやってきたのだが、内臓は痛いわどうたらこうたらで(内緒)、とてもではないが生きて行けそうにない。この世に未練があるわけではないが、ここで消滅して借金苦で死んだんだと後ろ指指されるのも気に入らないので、ここは迫り来る人々に「ごめんなさい」で逃げ出すことにする。

同列に語るのは余りにも余りで、おこがましいという単語すら余りにもおこがましいが、漱石が木曜会を作ったのも同様の理由だった。下駄を鳴らしてくる書生の皆さんのお相手をしていたら、小説を書く時間が無くなってしまった。数人の門人を除いて木曜日だけの公開にした。それ程でも無いのだが、べた一色に埋まったアポブックを見ると、途端に胃が重くなる。胃の次は肋骨の中が痛くなる。息が出来なくなる。嫌になる。

これはいけないと自転車で運動がてら通勤しようとしたら、サドルピラーに着けていたトランクバックの市中を支えるボルトが折れた。宿舎から大略1kmのところであり、上り坂途中だったからまだ良かった。これが八事の坂を下っている最中であればひょっとしたらヘルメットを被っていても、そんなものは粉砕されてザクロ頭になっていたところだ。忌まわしいあの事故一周年まで後1ヶ月。あの悪夢がよぎったのであった。運動による気晴らしも楽では無い。ここで重要なのは鉄のボルトが簡単に折れたこと。

折れた箇所はねじ山の部分。顕微鏡で見るとねじの谷の部分は極めて粗く、その下部の領域に転位が入っているだろうことが予想される。SiCツールでねじ山を仕上げれば、恐らく、金属疲労強度なりの寿命が得られ、安心感100倍といったところになるだろうが、そんなねじにお金を出してくれる人は皆無だろうし、なかなか思うようにはいかない。ボルトが一本折れたくらいで、刃物屋さんがくじけるわけには行かないので、今日は会議とアポをぬって、治具作りで気分を発散しようかなともくろんでいる。跳ねられた後遺症がえらいところで出てきたなぁと、笑うに笑えず、取り敢えず黒船をやっつけつつ毎日を過ごそうと思う私であります。どうしようもなくなれば教壇を去る。これも天命だ。


2010年10月12日

COP10が始まり、少しTVで賑やかに紹介されるようになっている。安価に栽培できる植物から高価な医薬品を作り出し、それでぼろもうけをする企業に対して、栽培国からもっと上がりをよこせとか・・まぁ、基本的にそこに行ってしまうのだなと、TVネタとしてもそんな所だけがクローズアップされるのだろうと、少々、お寒くなってしまった。生き物の生存に対して人間が考えるのは結局は銭金なんだなと、こんな時くらい綺麗事の一つもあっても良さそうなのにと、かなりがっかりするのである。

馬車があって石油・石炭・木炭を利用する燃焼系の自動車に変化した。石油の燃焼エネルギーは爆発的で、リチウムイオン電池がどうのこうの叫んでみても、ガソリンのパワーには及ぶべくも無い。移動の主役が自動車である限り、ハイブリッド若しくはハイブリッド+ガソリン発電機型の自動車へのシフトがぎりぎりのところで、電池自動車が主役になるのは遠い先かなとも思ってしまう。今の社会形態がある限りは。

バス停で街行く車を眺めていると、単独ドライバーの多いこと。トラックなどは積み荷が主役みたいなものだからちょっと脇に置いておいて、通勤利用で単独ドライバーがどのくらいの割合でいるのか。8割は単独ではなかろうか。もの凄い燃料の無駄遣いである。燃料だけではなく空間の無駄遣いは甚だしい。貴重な都会のスペースを食いつぶす害悪だ。こんなものが結局は生物の多様性を壊しているのだろうと人間の馬鹿さ加減に呆れかえる。

生命の根幹に関わるものづくりとなると、やたらと銭が掛かり、そして売られるものも高価になってしまう。このことこそ不可思議だ。本来学問は、人の生きること、生命のあることを追求する哲学から派生したものであって、生命を破壊するためのものではない。生命の多様性はどうなるか解らないが、中国、インドという世界人口の大半を占める国家が、一気に工業化に向かえば破壊的な状況になることは明白だ。人間50年。もう残り少ないが、その方向の研究に舵を切っていく。遅いことはあるまい。


2010年10月8日

6時~6時半頃に路地を歩くと、様々な電子音やベル音がして「あぁ、皆さん、そろそろ起き出す頃だな」と人の営みを感じる。今の季節、5時半には既に明るいので、6時頃はもう青空、心地よい朝であり、起き心地であろう。花を付ける草木も多く、秋から冬と考えると不思議な気持ちにも成るのだが、冬から春の気温とそう変わらないと考えると、花が咲いていても少しも不思議ではないとは感じる。冬ごもりの虫達も居るだろうし、渡り鳥のために実を付ける木もあろう。ご大層に考えなくとも、生物の多様性は至る所にある。

追加経済対策5兆円越えだそうで、そうなると仕分けや現状からの大幅削減事業が多く出てくる。何しろ元々のパイが小さいのだから、大きなパイを独り占めする輩が出てくれば無く者が多く出てくる。国立大学法人人件費などもご多分に漏れず仕分け対象である。私学と同じ環境になれということなのだが、授業料決定の自由度も与えられず、お金儲けも認められない手足縛りが付けられている状況を考えれば、同列とするのはおかしいだろう。同列にするのであれば、全てが同条件で無ければならぬ。しかしそれをやると、一気に10校くらいに減ってしまうのは間違い無かろうが。

その一つのしわ寄せが講義担当者の減少である。見かけの教養分野の解体によって専門教員が全学共通科目を担当していることになっている。しかしお偉い先生の中には「嫌だ」と言い切る者も居て、すると適当な若い教員にお鉢が回る。学生に取ってはどっちが良いのか微妙だが、その時期に研究に打ち込ませてあげたい若者が授業にかり出され、将来の学問の貯金が無くなっていく。仕方がないから「自分がやりましょう」となり、結局、例によって誰かさんの持ち駒が増えていく。突然降って湧いたので仕方がないから来週は準備期間にさせて頂き、再来週から講義駒が増える。何と言うことでしょう。

このままの経済状況が続けば、後、5年くらいで鶴舞大学は消滅するだろう。鶴舞だけでは無いとは思うが、本当にそれで良いものだろうか。先鋭的な研究が無くなってしまっているというのであればやむを得ないが、そんなこともない。何とかせねばとは思うが、皆、沈み出した船からは逃げ出すことになっているし、マストに体を括り付けて共に沈もうという奇特な輩は居るわけもなく、憂鬱な状況が深まっていく秋である。


2010年10月07日

パラジウム触媒合成は小生が生まれる前の技術であり、ノーベル賞に認定されるには相当に時間が掛かるものだなと、両先生ご存命中に認定が出たのは喜ばしいことだなと感じた。マスコミはこぞって若手の励みになるなどと書き立てる。暢気で無責任な発言だ。それなら自分自身にも励みになっているのかと問いたい。生きていく上での励みなど、そうそう出会えるものではない。純粋に学問に打ち込みそこに面白味を感じられる程に研鑽されたからこそ見いだせたことだ。ノーベル賞など目指して頂ける代物ではない。

資源の無い国家だからこそ、知育が必要なのだが、今、国家は教育をちぎっては捨てちぎっては捨てを繰り返している。凄まじい知識を積み上げ、それこそ液晶合成にもノーベル賞技術が使われているわけだが、二束三文、海外に売っても円高状況では銭にならない。ならなければ、そんな世界で働こうとは思わないし、若者の励みになどなるものか。励みでは食えない。それは事実である。

大学では新規人事凍結が生じ、血の入れ替え、新規採用が極めて困難な状況にある。世間では外来生物が入ってきて地域多様性が一気に崩壊していることが問題となっているが、逆に、人間活動が塀の中になりつつあることは知恵の多様性が阻害されることであり、ゆゆしき事態であると感じる。

人材育成機関として目指すところは国家繁栄であることは間違いない。身を捨てて浮かぶ瀬を作り上げることが目的だから、自分自身は消えねばならぬ。ならぬのだが、自らが瀬に立って平穏無事な顔をしている輩に満ちている。研究だけでは人は育たぬ。研究に没頭できる程の教育が成されねばならぬ。血が滞った機関は病んでいる状態にある。病は癒えるのか、このまま死にゆくのか。分水嶺にある。それが現実であり、ノーベル賞は大学の生き残りの道具にしか成っていないのが日本の現状である。そんなもんだ。


2010年10月05日

ぼちぼちと秋も深まる朝の寒さであるが、日中はそこそこ暑い。朝と昼間の気温差が大きくなるので、体が寒い方にあっている状況では、日中、えらく蒸し暑く、いや、暑苦しく感じる。こんな時に風邪をひきやすい。気をつけなければと思う。知人の御尊父殿がお亡くなりになり、季節の変わり目にはいろいろとあるなと、人の儚さを感じるのである。

努力した結果を認めてくれる人がいようとも、社会情勢で「予算が無い」状況になれば公的機関では一気に解雇である。誰がどう見ても能力が無い者が残って、新しい伸び盛りの者から切られていく。こんな姿を見ていると、あぁ、もう、この機関も潰れるのだなと溜め息も出ない。小生も残りがどれだけあるのか判らないが、来年くらいまでは残っていそうな雰囲気だ。国からの仕訳は厳しく、大学に依存した傾斜配分となってきているから、それは正しいのだが、小さく配分される側になる単科大学に未来は無い。

未来は無いのだが悪あがきは出来る。むしろそうだからこそ思い切って手を打つことが出来る。座して死ぬなら立って死ぬ。そんな気になる。先日乗ったリニモだが、日曜日に理科列車みたいなのを走らせて、藤が丘で教材を渡して万博跡地で仕上げみたいな催しをしたら面白かろうなんてお話が、学会の身内から出た。何もしないで赤字赤字と騒ぐなら、教育だけが人生だみたいなボランティアを募って何かすると良かろう。乗車率5%では話にならぬ。

研究室で社会人学生を募ってみても、どうやら社会にはそんな余裕も元気も無いらしい。御尊父を亡くされた知人にはお悔やみを申し上げるが、親よりも長生き出来た事を親孝行と思うしか無い。他界に立ち会えたなら尚更だ。小生の如く穀潰しは死に目にも立ち会えず、未だ定職に就け無い有様だ。今日をどう生きるか。それだけに腐心する私であります。


2010年10月04日

愛・地球博の会場に多目的ホールなどが出来上がり落成式を兼ねたイベントがあった。小生は都合で3日のみの参加となったが、博覧会期間中に実施させて頂いた、応用物理学会東海支部企画、万博記念理科教室の思い出理科教室を開催した。当時の工作をリバイバルし、更に、新しい工作を実施し、多くの方々にご参加頂いた。露店などがそこそこ立ち並び、当時を思い出してなんだか嬉しくなってしまった。通常の理科教室とは異なり、三歳のお子さんを無理やりブースに座らせて、託児所代わりにする親が多かったが、真面目に取り組んでくれるお子様もいらっしゃって、やって良かったなと実感するのである。

それにしても挨拶をしない親子が多いことには辟易する。有難うの一言くらいは言っても罰は当たるまいにと思うのである。お礼を言われたくて実施させて頂いているのではない。だまって立ち去っても文句は言わないが、手取り足取り一緒になって工作をして、出来上がったら、はい、さようならと消えていく親子のなんと多いことか。有難うは十組に一組の割合だ。世も末である。

イベントとしてセグウェイに300円で体験乗車できるものがあり、小生も昼休みに体験した。これがなかなかにして面白く、関係者が崖から落ちて死んでしまうくらい楽しいということを体験した。大略、100万円くらいなのだそうだが、自動車が入ってこないと限られたエリアなら実に愉快な乗り物である。結構、スピードも出るし、応答も良い。慣れれば相当に便利だろう。実に良くできている。実に良いイベントである。

あの会場に公共交通機関で行こうとすると、リニモが登場する。この走るパビリオンは相変わらず高値安定であり、あれがもう少し安ければととても残念に感じる。藤が丘から記念公園まで350円、往復700円である。駐車場が一日五百円ならそっちを使うだろう。それはそうである。公園の整備も進みつつあり、会場に早く入って散歩したのだが、丘陵地帯の遊歩道もそこそこ調子良く整備されていた。まだ、養生の為に進入禁止エリアが散見されたが、それも数年の内には整備されることだろう。その為には利用者を増やす必要があり、リニモの思い切った運用を期待するものである。ちょこっと気の利いた都市部の公園、そんな出来具合であり、多くの市民の利用があれば良いのにと思うところである。


2010年10月01日

地下鉄の吊り広告をぼんやり眺めた。検察が云々の文字が踊る。検察がねつ造したとかなんだとか。そもそも国民が公務員が逮捕されるところを見たかっただけだろうと、そう思う。公務員は悪で会社員が善である。公務員は税金で食っているから悪で、企業人は善であると言いたい風潮は確かにあって、ある意味当たっているとは思う。しかし、公僕になろうと努力するのは大変なもので、それを一度もやったことが無い人々が、努力した人に罵声を浴びせるのは筋違いだろうと広告を見ながら思った。

高校を卒業して直ぐに就職出きる人が減っていると、マスコミが「高卒者を採用せよ!」と企業に訴えかける。正義面甚だしい。真っ当な教育をする大学であれば、大学4年間で「お前達には何も出来ない、出来ないから自ら考えて行動せよ!」と教育出来るから、社会に受け入れて頂いた後の努力も活きる。しかし、高卒では、申し訳無いが、それが出来ない。せっぱ詰まった今現在、どちらの人材を採用するのか?綺麗事では無いのだ。

マスコミは逮捕され、釈放された公務員に「良かったですね」と言うが、無罪で追求された小沢氏をたたく事はやめない。叩くことが善だと思っているのだろうし、国民も誰かを悪者にすることで、自らの無努力から視線を逸らしたいのだろう。低レベルな国家の象徴である。

他人が痛がっているのを喜んで、自らの痛みをごまかす。中国を批判する資格は日本人には無い。悪は悪で良い。しかし、正義が、自身の悪のすり替えを肩代わりして成り立っている社会そのものであると、無意識に成立させられているような国家には明日は無いのだ。携帯電話に注視している地下鉄乗客の皆さん。あんたら本当に国民ですか?疑いたくなる。


2010年09月30日

江戸の昔、道路を歩くときは、必ず端を歩き、後ろから来る人に気を配った。作法としても確立していて、寺子屋での教育課程の一つであった。傘を差すときは道路の端に少し傾け、すれ違う人に雨水が掛からないようにしたという。今の日本人には微塵も見られない思いやりの様式である。小生は太古から生きてきているからそのようにするのだが、避ければむしろ寄ってきて、鞄をぶつけられたりする。数人で横に広がって歩くのは当たり前。恥の文化を失った国家は醜く汚らしい。

電車から降りて階段があると、傘を持った手を思い切り振るものだから、後ろの人間はたまったものではない。つい最近、思い切り刺された。前のおばさんは「何すんの!」とこちらを睨んだ。これが実状である。仕事で疲れはてておばさんに刺されて、こんな国家のために働いて何の得があるのかと情けなくなる。雨の日は恐ろしい。

意識した無意識は美しい。何の気無しの所作から香り立つ思いやりこそ薫陶である。閉まるドアの隙間から飛び込んできて「どかぁん」とシートに座る様な浅ましさではなく(丁度、今、隣に座ったおばさん、あんたのことだ)、さりげない美しさ、思いやりこそ三つ子の時代から教育するべき事である。それさえ親が子に刷り込んでいて頂ければ、学校での教育は如何様にもなる。今は、全く通用しない。だから学問など身に付かない。

昨日、お役所絡みの会合でお茶会に関して意見を求められた。余りのお粗末さに激怒し、意見を求められたが正論を吐いたものだから、一同、しゅんとなってしまった。その後、若手からいつも思っていたことを言って頂いて云々と、筋論を語られた。捨てたものでは無いなと、流石に大都市、真っ当な者も居るのだと感じた反面、金にだけ頭を下げ、人の思いやりを感じない冷酷人種が多すぎて、心底冷えきる私であります。


2010年09月29日

世界の自動車販売台数がリーマンショック前を越えているという。地球温暖化問題など何処吹く風。地球規模での気候変動は収まりそうもない。ちょっと前の地球シミュレータの気温変動予測を上回るスピードの温暖化が、日本を逸れ続ける台風や、メキシコの大豪雨などを引き起こしているとすると、人間の活動が星一つを動かしてしまうのだなと、改めて数十億の経済活動の大きさを知るのである。

結局の処、お金が儲かる、お金が動くものづくりは自動車しか無いということなのだろう。電気自動車云々のお話では無い。エレクトロニクスで思いつくのは液晶テレビだったりパソコンだったりするのだが、これは機械だけではどうしようもなくて、広義のソフトウエアをそれらを介して利用しているだけだ。自動車はそれと燃料があれば個人の意志で活用できる。ものづくりのポイントはそこにあるのだろう。そして大きな経済活動を支える原動力が、好き勝手な個人主義にあることを見せてくれる。

その根幹を成すのが教育であるはずだ。初等教育であって大学レベルのお話ではない。しかし、人間の幼稚化が進んでいる今、挨拶レベルの教育まで大学に押しつけられている。世界的に見て日本の大学なんぞ何の知識も得られない遊技場になっている。そこに気づいた文科省の採る策は解体と集約である。いよいよ本格的に動き出すようで、この戯言も其れ程長くは続かないかもしれない。そんな状況にある。

しかしそれで良いと思っている。大学教員の資格を問われれば俯いてしまいたくなる。情けない現状であるがそう感じる。小生だけでは無かろう。借りた装置を破壊しておいて何の挨拶も出来ない教員が跋扈しているご時世である。数県に一校の割合、道州制を前提とした大学改変が起こらなければならない時期にある。言いたいことは山ほどあるが、有りすぎてまとまらない。いずれにせよやれることをやるだけである。そんなところだ。


2010年09月28日

夏の分を取り戻すかの如くの雨である。農家は好天過ぎて米が2等に分類され直接的収入が減るのだと言う。国家はそこに補填をするという。米という主食のこと、事は難しいが、リーマンショックで自殺に追い込まれた、真面目にものづくりをし続けてきた中小企業の社長さんは、リーマンショックだからと銀行に駆け込んでもけんもほろろ、逝ってしまった。米農家は助けるが、工業部品企業は助けない。農政もおかしかろう。

一方、限界集落に若者が二人移住し、必死になって荒れ果てた田畑を耕し、おばあさんを励ましながら食い扶持作っている姿には人間の根幹を感じた。これ以上の幸せはなかろうと思う。自力あっての他力。まず自力。いきなり他力本願の今の日本には未来も将来も無かろう。

どうなるのかなと見守っていた名古屋市議会リコール署名だが、どうやらリコールに必要な数が集まったらしい。議会も市長も市民の代表であることには間違いなく、その両者が喧嘩をしているところがややこしい。しかし元をただせば、議員報酬は高め設定、既得権益万歳の議会に、減税で街を元気にとの仁徳天皇方式が挑戦するという、議会のやりたい放題に市民の嫌気がぶつかった様相だ。市長が勝たねばなるまい、今回だけは。

思いやりは、自らが幸せで無ければ出来るものではない。しかしそれは物質的な幸せの果てに為せるものではさらにない。精神が平穏で満ち足りなければ慈愛は生まれない。その慈愛の根元が教育であると確信し日々精進したいと願う私であります。


2010年09月27日

こんなにも足下が危うい国家だとは思わなかった。主権のない国家だとは思わなかった。

このまま、沖縄、九州くらいを中国が略奪し、佐渡あたりは朝鮮が、北海道はロシアが略奪しても何も言えないのではないか。本島はとっくにアメリカのものだから、もう、日本という絵空事国家のために何をしようかなどという気は失せてしまった。

それにしても中国とは厚顔無恥な国家である。国連に加盟していながら、国連が認める領土・領海を認めない状況は、既に戦争状態と言っても良かろう。

民主党の腰抜け振りには反吐が出るが、釈放に対する自民党代表のコメントもふるっていた。「さっさと釈放すれば良かったのだ」。こりゃ、党が崩壊するわけだと、滅びゆく国家には腐りきった政治家がはびこっているのだなと、いや、それを選択する国民が国を滅ぼすのだなと、溜め息も出ない私であります。


2010年09月24日

このごろ都で流行るもの・・なぁんて平安末期の二条河原落書だが、今も変わらぬ悍ましき低俗・低レベル集団の心地良き世の中だ。鞘に入った使える道具とすり寄ってくる錆びついた道具の区別など着けることを考えず、心の通わぬ似非チームで、お互いの最低レベルに基準を設けてそれより抜け出る奴は追放する。それが鶴舞大学に存在する流れであり、いや、鶴舞大学だけではあるまいて。日本という国、枯れ尾花も咲かぬ、三途の川を渡ることを拒まれる汚い心根の生きた魍魎が跋扈するところと成り果てた。

国民は税金使用責任をもっともっと追及せねばならぬ。給料天引きに慣れすぎていて、どれだけの汗が無駄に使われているか、追求せねばならぬ。大学などというところ、天下り天国のなぁなぁ主義者天国である。それに反旗を翻すと、謎の連合軍がやってきて歯の食いしばりと血の滲みは踏みにじられる。お互い、低次元で仲良くやろうよなんて、そんな言葉に耳を貸さないと、存在すら消されてしまう恐ろしい組織が沢山ある。そこには大量の税金が投入され、何も成さずに消えていく。中国よりも居丈高である。

懸命に額に汗する者も居る。それはそうだ。どんな組織にも二割の法則は成立している。しかし、負の二割の影響は実は凄まじくでかい。その昔の二割の法則は、二割対八割であったが、今は、二割対六割対二割。仕事をする、しない、妨害の三種類となった。しないならまだまし。妨害種族の強いこと。六割が下から切り崩され、仕事を成す二割の脱出とともに、組織は崩壊していくだろう。その崩壊のための燃料が税金なのだから、国民の暢気さにも辟易する。

努力というものは、人を圧倒する迫力があるものだと思っていた。実際にそうやってきた。ところがどうもそれは通用しないらしい。道理の無い世の中なら、自らの存在意義など何処にも無い。老兵はただ去るのみである。


2010年9月21日

先週は、久しぶりにフルスペックで学会に参加した。4日間続く応物会場に毎日足を運び、何やらお仕事をさせて頂いてきた。場所が長崎だけに誘惑は大きかったのだが、細切れに入り込んでいるお仕事から逃れることが出来ず、至極真面目に勉強させて頂いてきた。

長崎を訪れたのは25年ぶりという、もう二昔半前だから、世界ががらっと変わってしまっていてびっくりした。長崎駅の駅ビルが改装されていたのは当然として、路面電車軌道に沿った建物も劇的に変化していた。変化しない方がおかしいのだが、浦島効果とはこの事かと、坂本龍馬一色の風景は別として、想い出を紐解く一端もなかった。

一番驚いたのは「出島」復元計画である。それこそ当時、川に沿った場所に出島跡があったなぁと思ったくらいで、何も無かった。ところが復元計画が立ち上がり、平成18年だかに第一期復元が終了し、既に第二期工事が進んでいた。10億円を超える資金投下をして、出島を通じた日本開国を後世に伝えるという至極ご尤もな計画で大変、好感を持った。亀山社中から降りてきて路面電車から見かけたオランダ屋敷群に目が止まり、出島駅で飛び降りて、入場料を支払い、客の居ない納屋で「ふぅ~ん」と眺めていたところで義兄のN氏からお電話を頂き、なんだかタイムスリップというかなんというか、とても楽しい空気感を頂戴した。いろいろ情報を頂き、後日、数時間空いた瞬間を突いてグラバー邸の隠し部屋を見たり、日本初のオランダ語辞典を見たりと勉強できた。

全日から長崎に入り、また、幸いに朝一の飛行機しか取れなかったから、学会前日に歩き回ることが出来た。幸福と平和の違いを体感できるのは長崎と広島のみであり、ある一定の知識を持った年齢になって、数日を長崎で過ごす事が出来たのはとても意味深いものであった。とは言うものの、5日間、まるっと頭をひねり続けて、歩き続けて、飛行機だ、名鉄だとの帰路の嫌になってしまうこと。やっぱり長崎は遠い。間違いなく遠い。まぁ、もうお仕事で出掛けることは無いであろうが、ザビエル来訪から始まった長崎県の生い立ちをじっくりと巡ってみたいとは思った私であります。


2010年09月10日

昨日、吉備真備のお話が出たので(出したのは私だが)今日は菅原道真公のお話。お二人とも学者でありながら右大臣という、まぁ、総理大臣とまでは行かないが、学者として政の中枢で活躍されたお二方と言うことが出来よう。吉備真備は道鏡のやりたい放題に釘を刺さなかったのか刺せなかったのかどちらかは判らないが、藤原氏の独裁に道理で迫った菅公ほどには一般民間人に親しまれていない。一方の管公は御神託は降りるは修験者によって神様にはなるわで、偉い違いである。いずれにせよ、タイムマシンに乗って誰と話がしたいかと言われれば聖徳太子とこの御両名であるのは間違いない。

伝説によればお二方共に小さい頃から神童と呼ばれ、文武両道。道理を尊び筋論で貴族政治に一石を投じられた点で共通している。今で言えば金権政治と戦って国の金を民意に向けたという事なのだろうが、考えてみると税金制度はしっかりしていて、国民が税金を支払える仕組みを考えたという事だ。圧政も当然あったろうが、それだけでは民は着いていかない。今の国家の様に借金しかなくて、政治家になって大望を成し遂げようとしても何も出来ない世の中とはどえらい違いだ。それでも総理になろうとしている、民主党党首選挙に出ている二人には、そのあたりの心情を聞いてみたいものだ。

本来、政治家とは自らの金銭の高などは気にせず、民主的に選ばれた代表として、何とか国を盛り立てようとがんばる者なのだろうが、どうも今はそうではなさそうだ。管公の理想はまさにそこにあって、それ故にお金大好きの藤原氏によって中央から放逐された。太宰府という処は単に左遷の地というだけではなくて、政府認定の暗殺の地だったから、太宰府への左遷イコール死という凄まじい時代だ。それでもなお、彼の地で帝を想い、政を想った管公のあり方を国民は見直すべきだ。民意で建った天満宮を想うべきだ。

さりとて、大昔の事を今に転写しようとて土台は無理だ。無理ではあるが、無理を通して道理をひっこめるよりは、胸が痛まないのではないか。胸が痛まないような生き方をしたいものだが、はてさて、今日はどんな日になるのやら、想像もつかない。そんな毎日を送る私であります。


2010年09月09日

聖徳太子の時代から孝謙天皇の御代まで、藤原氏も含めた地方豪族が年がら年中小競り合いをしていた。大仏開眼前、天然痘が流行り藤原仲麿呂を除く藤原氏が総崩れし、その仲麿呂も吉備真備に西近江にての戦で敗れ平穏な時代となった。理詰めで人心を想う真備の政で世は平穏になった。その理詰めが今は必要なのだと感じる。

何が理詰めかが重要である。人心を想う一致団結した政府。即ち、人心を中心とした政こそが、世の核とならねばならぬ。誰かの利益誘導ではなく、政治家と検察がぐるになって正義面する世の中ではない。真実を丁寧に求め、感情に走らず、暖かい世の中にする。天の神の世界のことは何を願っても無駄だが、世の中の事で有れば、皆が助け合おうと手を下せば何とかなる。そんな気持ちを起こさせる政を行うことだ。

世の中の調和の基準となる憲法すら、変える変えないの議論が続く中、民主党も自民党も無く、思いやりを失った国民の発散する我に振り回されて、醜悪な政と無責任な国民の罪の擦り付け合いが、今の国家の有り様だ。もはや国家とは言えぬ。

藤原不比等が唱えた暴力ではない律令の政治も、その子から既に暴力を権力に置き換えた政となってしまった。吉備真備の登場で、知恵の規範を学問に置いた理解できる政となった訳だが、真備無き後、直ぐに藤原氏の復権となり、金権政治が復活した。為政者の心の有り様が世の中の美しさを決める。為政者のあるべき心、何処にあるやら。


2010年9月8日

雷鳴が轟く。朝、自転車で飛び出し、間一髪、鶴舞の丘に駆け上がった。居室に入ると「どどん」という鈍い声。「もう降って良いか?」と雷神に尋ねられたようだった。何となく嬉しく、激しく恐ろしく。太平洋高気圧のお陰で助かった。暑いばかりでも無いなと、気圧のせめぎ合いという自然の摂理に感動、感謝である。

台風らしく、今宵、既に止んでしまうらしいが、それはそれで有り難い。梅雨空のように延々と降り続かれたのではたまったものではない。気象庁のホームページを見ると、名古屋上空だけ雨雲はないのだが、(今、6時40分である)雲動画を見ると間もなく降ってくるらしい。暑くなり切った台地も、漸く冷却の機会を得たというところか。

降らなければ全く降らず、降るとなると台地に染みこむ間もなくやたらと降る。日本の国民性そのものという感じがしないでもない。政治家もその通りで、マニフェストという、守れないまでもそれを目指そうよと言う旗頭を立てたにも関わらず、それに反対する首相が立ち上がったと思ったら、やっぱりそれに進んでいこうという対立者が出てくる。国民不在とは言わない。選んだのは国民だからだ。しらけるとか言う国民こそ、しらけの現況である。その罪は免れない。

オバマ大統領すら雇用の確保が出来ずふらふらの状態だ。そもそも第一次産業国にそんなに都合良く雇用があるはずは無いのにだ。我が国も同様、もの真似ばっかりやってきて、突き抜けたもの作りではなく、企業なんだから売れる物、儲かる物といい加減で適当なもので、世間を騙してきたから、世界に通用しなくなった今があるのだ。乾ききっていた時こそ歯を食いしばるべきだったのに、どうせ雨が降ってくるから適当でいいやとみんながみんなごまかしあって、いざとなったら政治が悪いと責任転嫁する。風神、雷神は今、空で何を見ているのか。聴かせて頂けるものならきいてみたい。そんな気持ちである。


2010年9月7日

夏草が伸びきっている。明日、台風のお陰で久しぶりに雨天になるらしい。前に降ったのは何時だったのか、もう思い出せない。からからのコンクリートジャングルは、皆、殺気立って恐ろしい。昨夜、宿舎に戻る途中に数度、跳ねられ掛けた。相当に気を遣っていて、常に、逃げの体勢にあるから避けられたと思う。さっさと雨に降って貰って、無意識の暗殺者の頭を冷やして欲しい。それにしても自動車運転者のマナーの低さには呆れかえる。

ふと思ったのだが、大陸がまだ一つだった時、二酸化炭素の大気で雨が降り、偶発的に藻が発生し炭酸ガスを酸素と炭素に分解した。その逆の過程を辿っているとすれば、樹木が巨大化する速度よりも早く炭酸ガスを出しまくったら、やっぱり温暖化の方向に進むのだろうなぁと。その時に発生したのがギアナを基軸とした大陸の分断である。表が熱ければ中も当然熱くなる。するとマントル対流は活発化し、大地震が頻発する、所謂巨大地震の時代が再度やっくると言うことか。1,2年のことでは無かろうが、このままいけば台地が猛威をふるうのは容易に想像が付く。

名古屋地域は震度6強と言われているわけだが、そんなもん、温暖化による加速があればあっというまに震度8くらいに跳ね上がるだろう。約30倍のパワーアップとなれば焦土となるは必定。まぁ、地球温暖化の主原因である自動車を作りまくって地球を暖かくしたのだから、そのしっぺがえしを受けても仕方はあるまい。因果応報である。

学会シーズンに台風。徳島での学会を思い出す。今回は長崎である。もっと激しく直撃されそうだ。願わくは移動中にはやってきて欲しくはないが、まぁ、是ばっかりは仕方がない。自然の猛威には頭を下げつつ、人間の愚かな行為には腹を立てていこうと思う私であります。


2010年09月03日

最近、バカと阿呆の絡み合いばかりで、たわごと言っていることも馬鹿馬鹿しくなっていた。それでもなお、怒れるというか、溜息尽きたくなると言うか、そんなこともあり、久しぶりのたわごとである。

希少元素戦略の、日本のあり方のお粗末さには、全国民が呆れているところだが、それを逆手にとった売国奴のお話はどうだろう?今、機械加工用刃物の原料であるタングステンにしろコバルトにしろ、ほぼみな中国からの産出である。それを我が国は輸入し、刃物に加工して世界に出していた。特に昨今は中国に移っていった日本加工業の方々が使っていた。それが最近、原料から最終製品まで中国で一貫生産し、安価で「粗悪」な刃物が世界に撒かれ始めた。

刃物の選択は重要で、更に、刃物と加工機械の関係も極めて重要で、粗悪な刃物を粗悪な機械で使うと、物を作り上げる過程で多くのトラブルが発生し、余計にコストが掛かる。A社は関係の中小・零細企業を集め、社内展示会を行い「最近の自動車関係部品なんぞ、この程度の刃物と機械で十分だから、これを買ってものづくりをして、そして良品安価で我が社に納めなさい」と号令をかけた。その機械と刃物を輸入している商社はT商社である。

途中のトラブル費用などを製品に上乗せすることなど許されず、一社の都合だけで傍若無人に振る舞う自動車業界には吐き気がする。内燃機関に慣れきった多くの中小・零細にとってEVへの展開はハードルが高い。粗悪品を安く作り、寿命の短い製品を市場に出して、購買循環を早めようと言うT連合の考え方は売国奴と呼ぶほか無い。今、日本企業がやることは、過去、考えられなかった、圧倒的な高品質を世に出すことだ。それをもって国際的に競争することだ。そしてそれが将来の日本の柱になると教育することだ。あぁ、立腹!


2010年08月26日

地下鉄野並の出口に、夏前までマクドナルドがあった。バスが極めて少ないエリアに生息する小生は、あぁ、バスが行ってしまったなぁとなると、歩くか、だるいときには、まぁ、まずいコーヒーでも飲んで時間を潰すかと、活用していたのだが、この夏にいきなり取り壊されてしまった。何が出来るのかと道路の反対側のバス停から眺めていたら、寿司屋?みたいなものに化けてしまった。駅の出口には呑み屋とコンビニと、呑み屋もどきの寿司屋になった。異様に享楽的で退廃的である。汚らしいこと甚だしい。

そもそも豪雨になれば水没する地域で、こう言っては身も蓋も無いが、微香性の文化の香り漂う地域であり、元来、好きな処では無かった。それが更に加速された雰囲気がある。地下鉄出口の葬祭屋利用者を目当てにした呑み屋類の増殖なのだろうが、他に考え方は無いのかと、日本人の向かっていく方向に不安を覚える。円高株安の二番底に到達しそうな今、街中が退廃の方向に舵を切った感がある。

世界中の人々が日本人と同様の生活をするとすると、その為の食料などを生産するために地球がもう一つ必要になる勘定なのだそうだ。それはそうだろうなと思う。自分の生活を振り返っても反省するところは極めて多く、会議の議事録を延々と作りながら深夜を迎えるなんてことはせずに、さっさと書斎に戻って文学にでも浸れば良いのだ。電灯は利用せず石油ランプにすれば、もったいないから寝てしまうだろう。健康と省エネの両方を手に入れることが出来る。しかしそれをやると、職務怠慢であっと言う間に食い扶持が無くなるのだろう。みんなそんな状態だ。江戸時代の戸籍だって出てきておかしくない。

乾いた砂浜を全力で走り続けている感がある。前にも後にも何も無い。そんな感覚が何時まで続くのか、続けられるのか。作るべきものは何か。それを考えるために、今日あたりからさぼり始めてみるかと密かに考えている私であります。


2010年08月25日

夜中に宿舎に戻ってTVを見ると円高で株安、政府の無策を呪う外人株屋が叫んでいた。物を作らず銭だけ転がして人生を謳歌出来る人種のコメントなんぞマスコミは何故流すのか。そもそも人を幸せにする物という概念ではなく、余剰に持って偉ぶりたいみたいな世の中で、銭の価値がなんだと言うのだ。水と空気があるところで、木陰で一日誰かと「これから何をしようか」と語り合うことの方が、蛇口をひねったら銭が出たという事よりも幸せであろう。明け方になったら83円台に入っていた。もう何でもござれである。

その昔、70円台まで飛び込んだことがあったか、その時、海外からレコードを買いまくった。まぁ、そんなこともあるから、個人的には自国の貨幣の対外価値が高くなることは「為替的貯金」をしていなければ有り難いことが多いような気がする。何かの目的を持って細々とした備蓄をしてきているのであれば、より安い価格で購入できるのであれば選択肢が広がるということだ。死んだ時には財布が空になっていることを目指す小生としては、実は円高が嬉しいのだ。輸出企業というわけでもないし、ツールは海外には出さないから、円高歓迎である。

世界的に経済活動がとんちんかんなのは、経済云々を語ってきた学者や政治家がとんちんかんであったということだから、まずは日本中の経済系の学部学科大学を解体整理することと、政治家、官僚を総ざらえすることだ。引き出しの隅の壊れた何かの部品を捨てられない日本人にそんなことが出来るとは思わないが、それでもそこまで踏み込まないと世の中変わらない。勿論、企業利益の為だけに活動する学者研究者にも消えて頂く。日本はかなりすっきりする。

目や耳から入ってくる情報の質が低すぎる。お互いがそうだから議論に深みがない。人間力の低下がもたらした窮状からの脱却は極めて難しい。人が生きていく上で必要な物資はほぼ全てが揃っている。その中で何を作るのか、何が人を喜ばせるのか。素直に「こんなものを作りたい」という気持ちに共感してくれる人達で当たらし何かを動かし出す、そんな芽生えが随所に発生してこないかぎり、明日は決してやってはこない。そんなことなのだと思う私であります。


2010年08月24日

風は何処に行ってしまったのか。熱帯夜は何時まで続くのか。訳の分からない空気間にうんざりである。うんざりと言えばペーパーレス時代に入って加速して増え続ける紙の書類の山。処分したと油断すると、直ぐにまた山が出来る。小生の居室程度でそうなのだから、企業などは一体どうなってんだろうと、恐らくは相当に気を使って紙の削減に取り組んでいらっしゃるのだろうなと、羨ましく感じる。中途半端が一番いけない。それが今の大学の有様だ。

大学の企業の私物化に歯止めが掛からない。大学の建て屋の家賃は高騰を続け、小生といえども出て行かざるを得ない状況に陥り掛けている。企業からの共同研究のあり方の見直しが、知材と労力の無償解放に加えて、企業研究者向け格安研究室賃貸まで突っ込んだ施策だ。南の工業大学などが先鞭を付けたのだが、何と、教員は研究室を維持できず、建物一棟が空っぽになってしまったそうだ。そこに企業を誘致するという新しい工業団地構想だ。国の金で入れた高価な測定機を大学教員を労働者に使って結果を出し、私利私欲に貢献することを求められる学者の居所など無い。教育熱の低下は極限に達した。

しかしこれは組織としての長期的戦略、即ち、やる気満々の教育者を集める人事をやってこなかったツケが回ったということだろう。企業との付き合い方も悲劇的なものであったということだ。その昔、講座費が年額500万程度あった時代は、それこそ教授の大先生はやりたい放題。50万円程度の企業からの寄付金を加えて助教授以下の生き血を吸って悠々自適。それが35万になってくると、50万円の企業からの寄付金が宝くじ当選に思え、軒を貸して母屋を取られるの例えの通り、何も残らなくなってしまった。

踏ん張りどころなのか、もうやってられないと逃げ出すのか。はたまたこれを有効活用して、来て頂いた企業の力を借りてOJTを充実させるか。なんだか変なことになってきた。本当にそう感じる鶴舞大学である。


2010年08月23日

天の事には手を出せないが、人の世の事なら手を出せる。ものの理とはそんなところにあるのだろう。難しいことばかりの世の中だが、出来ないと思うか、どうやったら出来るのかと考えるのかで、人生、とてつもない違いが出てくる。出来ることばかりに手を出し続けるよりも、出来そうもない事に挑戦させ続けさせて頂けることに感謝するべきなのだろう。破壊的にくたびれるが、物事を成し遂げる事が出来た時の喜びはいよいよ大きい。

ベールが掛かったような空模様で、梅雨空そのもの。既に残暑と呼ぶべきシーズンなのだが、餓鬼の頃を思い起こすと、夏休み終盤ではもう海に行けば肌寒く、少しは読書も出来る気温になっていたと思う。そもそも各戸にクーラーなんぞ無かった。テレビは真空管でモノクロ。そんな時代と、今のエネルギー大量消費時代との差を作り出しているのは、天というより人だろう。だとすれば何とかなるというのが道理である。

余りの暑さに夜中に目を覚ます。床に手を触れてみると、これがなかなかに温かい。これでは眠れる訳もなく、のこのこ起き出して読書などしてしまう。少し眠くなって横になりうとうとしていると朝になる。こんなことが毎日繰り返されるのだから、日中の生産量が低下する。エネルギーの浪費は極限に達する。はてさて、どうしてくれようか。省エネ社会の実現などほど遠い。

当たり前の事なのだが、日本だけでどうのこうのしていたって、何がどうなるものではない。資源の無い日本だから、物を海外に販売し外貨を獲得する以外に、国際的に生きていく術はない。すると当然、エネルギー浪費活動に向かう。技能オリンピックでも、日本人の指導で海外勢が優勝する時代になった。国内空洞化が加速している。何が出来るのか悩む前に、何をどうしたら良いのかに取り組み出すべきだ。まず各人が人であることを意識して、何故生きているのかを考えるべきだ。ひょっとすると元気に明るく毎日を過ごせるようになるかもしれない。そう思った朝である。


2010年08月20日

明け方、雨音に目を覚ました。少しするとコオロギが鳴き出した。自然は良くしたもので、確実に秋を運んでくる。偉いものだ。

中心を持って回っていると、我慢していればいつかは元に戻るのだと頑張れる。しかし、何処に行くのか解らないような毎日だと、頑張りどころに限界がある。延々と続く出口のない不毛な毎日とはオサラバしたいところだ。

同居しているはずの高齢者が行方不明だったり亡くなっていたりと、親族が年金泥棒だったという、そこまで荒んでいるのかと、日本人であることが恥ずかしくなる事件が多い。振り込め詐欺も収まらない。騙される人が明るく見える。悲しいことだ。

今年ももうすぐ9月になる。何をやったか解らないうちにここまできてしまった。今一度、気合いを入れ直していきたいと思う、明日も出張の私であります。


2010年8月17日

お盆が空けたら再び酷暑がやってきた。これから夏休み気分になれて小生は嬉しいのだが、一般国民にとっては熱中症に気をつけなければならない残暑である。昨日などは日中、熱風が吹き荒れ、特にビル風の吹く鶴舞大学では、オーブンの中に居るのではと錯覚するほどの激暑であった。もっともオーブンの中に入って焼かれた経験は今のところ無いが。こまめに水分をとテレビでは叫ぶが、雑役人間にはそんな暇もなく、一滴の水分も摂取出来ずに昼を迎え夜を迎えるのが通例である。こんな国からは早々に脱出するに限る。

鶴舞大学ではまもなく大学院入試である。今年も昨年同様、もう既に就職させて頂ける起業様はいらっしゃらないので、受験に失敗したらさぁ大変である。崖っぷち体勢で受験生は臨んで欲しい。受験倍率は大略2倍弱だから、受験生の半数は落っこちるという、普通の入試だ。安穏と合格できる時代は去り、真っ当な世になってきた。

楽しいと思えることに没頭できない大学など、既に存在意義が無くなっている。廃校が望ましい。また、学問とは何か真剣に考えない社会も崩壊している。退廃の都塵は払われなければならない。

さて、熱風の中、今日も働くとしよう。頑張らねば。


2010年08月16日

夏休みの無い年となった。月曜休みが多くなり講義が進行せず、学生の定常的夏休みとなる八月第一週まで試験週間がずれ込み、例の体育週間がお盆週間と重なったためだ。幸か不幸か台風の影響で殺人的暑さは無かった。しかし毎日の体育講師は厳しいのは間違いなく、事故以来の最大の運動量となり、自らにとっては強烈なリハビリとなった。懸案の右肩も大分動くようになり、辛いことばかりではない。健全な精神は強靱な肉体にこそ宿る。健康運動科学の講義が来年も実施されることを祈る。

夏休みの無いお盆週間は久しぶりで、TVに映し出される凄まじい車列は他人事。先祖不幸の代表選手みたいなものだ。こうやって伝統文化が消えていくのかと、自らを省みて苦笑いである。気持ちだけでもと思うのだが、なんとなく気持ちが悪い。でもそれで良いのだ。それすら無くなってはもう人間ではあるまいなと思う。

日本人のサマーバケーションの短さは特筆するべきものがある。休めないから仕事が出来ず、その積み重ねが今の自信のない日本社会を作り上げてきたのではなかろうか。馬鹿馬鹿しい暑さは今週も続きそうで、台風の冷気の貯金も尽きた感じだ。こんな時に仕事に出てもエアコン漬けになって体調を崩して、負の行動に繋がるだけだと思う。ねちねちこつこつが国民性だとは思うのだが、ちょっと異様な気がする。

なんだかんだ駄々をコネても職場的には営業開始。メリハリの無い人生を送っている。突然、ぷいっと消えてしまったりするかもしれない。その際にはきっぱりとお忘れ下さい。


2010年07月27日

人は何処から生まれ、何処に行くのか。それは場所だけではなく精神的な疑問でもある。最近、小生の頭の中はその考えでいっぱいだ。ノアの箱舟ではないが、一つのつがいから無限に増えていくとして、それではその最初のつがいはどっからきた?それは何故増えようとしたのか。そして滅びない種は何故滅びていないのか。恐らく、これから滅びるのであろうが、それは何故であろうか。こんな戯言を書いているくらいだから、存在していなくて良いことは明白であるのだが、何故、車にふっとばされてもあっちの世界に受け入れてもらえなかったのか?思えばすっとそっちの方が楽な気がするのだが、ややこしい世界で生きながらえてしまう。何と面倒であることか。

その面倒な世界には理科だのなんだのと不可思議な分類があって、それぞれに学ぶ理由までご大層に付けられている。そんなもん、理由もへったくれもなくて、生きるために必要なものと、一括りにすれば良いのだ。その接頭詞には「人と」と付くことさえ解っていれば良いのだ。祈るだけではおっつかず、何か手当が必要だから道具が出てくる。その出し方に技術が生まれ、更に道具に技術が導入される。所詮、そんなところであろう。しかし、それは純粋であり、銭儲けなどみじんもなく、株主なんて概念は無い。

知識や知恵が生きていくためのものであるならば、熱中症などが発生するのは何故であろう。熱中症などと言う言葉が目立ってきたのはここ十年程度のことではないか。水も取らずに炎天下を歩けばおかしくなるに決まっている。喉が渇くなどという状況は既に危機的状況であり、それを体の悲鳴と捉えることが出来ない人々の何と多いことか。生きるために必要な知識の伝承が成されていないのではないか。金銭を獲得することが生きる目的となってしまっていて、命を豊かに働かせるという本来持つべき意志はどこかに行ってしまった。

生きることと科学技術。科学技術という単なる道具に振り回されて、金儲けが技術の目的となってしまったいま、心は汲々として気持ちは晴れない。空ばっかり晴れる今日、この頃である。


2010年07月26日

自転車で通っていると、必然、発生するのがパンクである。最近の自転車のタイヤは本当に良く出来ていて、パンクまでの寿命がとても長い。その昔、サイクリングで荒野を走り回っていた頃は、日焼けでタイヤの側面が割れてしまって、バーストするなんてことがよく起こった。それはかなりの走行距離を伴っていたためだが、今回、タイヤの履き替えを機会に状況を調べてみたのだが、細かい裂け目などはあるものの、日焼けの硬化とそれに伴う、断層的割れ目が無かった。最初に入っていたタイヤがそれなりだったのかもしれないが、大略3年間、普通の人よりは起伏のある長距離を、小生も含めて軽くはない荷物を搭載して使われ続けたにしては状態が良かった。安心して八事の坂を下れるというものだ。

パンクのきっかけだが、圧力を掛けてみてようやく見つかった。2mm角程の、小さなガラスの欠片が接地面に突き刺さっていた。タイヤが薄くなってきてて交換時であったのは間違いない。それ程に小さな破片であり、ブロックタイヤがフレッシュなら、はじき飛ばせていたかもしれないレベルであった。しかし、路面が危険物で汚染されているのは間違いなく、それに対する防衛策として、定期的なタイヤ交換は必要であると、当たり前だが実感するのである。サイクル小僧なので自分でやるのだが、炎天下で交換するのはしんどかった。

緑区には、地下鉄新駅の構築を狙ってか、新しい自転車屋さんが雨後の竹の子の如くに出来ている。こんなに出来ると、数ヶ月以内には相当数が倒産するだろうなと心配になってしまう程だ。まぁ、普通の人はパンク修理やタイヤ交換はしないだろうし、電動自転車ブームであれば、電池交換という、過去の自転車屋さんには無かった収入源が生まれるわけで、ちょっとした自転車バブルなのかなと、社会の流れを感じるのだ。生活直結型の新規物品販売に敏感な商人にはかなわない。

交換したタイヤは、かなり柔らかくなっていて、さっさと交換しておけば良かったなと感じた。勿論、それは解っていて、交換しようとは思っていたのだが、たかが自転車のタイヤ交換だが、実際にやってみると面倒なのである。レバー一発で外れるリムであれば容易だが、ナットを外して、ブレーキワイヤを外して・・なんてやっているとイヤになってしまう。しかし、それでも自分で交換してみると、とっても親近感が沸いて「愛馬」の感触が心地良いのだ。これで暫くは、往復27kmの通学を支えてくれるだろう。ほんの小さなガラスの破片が生んだ、一夏の思い出であった。


2010年7月23日

暑い、兎に角暴力的に暑い。昨年ははっきりしない夏だったので、今年の厳格な夏はこたえる。記憶によれば5月下旬の中期予報では、あまり暑くならない夏になるでしょうと言っていた。これで「暑くなっていない」としたら、暑い夏とはどんなものなのだ!とぞっとする。雑草が頭を垂れ、蝉も泣けないキャンパスとなっている。南に大きく開いたガラス窓越しに襲ってくる日差しは、エアコンからの寂しいほどの冷気をたちどころに熱波に変えて、教室に高気圧を張り出させる。

昨日、鶴舞大学の少し東で火事があった。丁度、試験に出かけるときで、上空にヘリコプターが舞っていた。夜までくすぶっていて、曙通りは閉鎖されてしまっていた。これなどもここ数日の灼熱の環境で乾燥しきった建物のせいだろう。ちなみに角の家具屋さんで、明け方、前を通ったが、涙無くして通り抜けできない状況であった。長い梅雨であったが、ここ数日の焼き出しで、全てがからっからに乾いてしまった。それ程までに強い日差しである。体温を越したら、もう、暴力である。外出禁止命令くらい出てきても良いのではないか?

暑い7月、8月初頭まで講義や試験があると、巨大な教室を冷やすために猛烈なエネルギーが必要となる。電気代を節約しようと思ったら、夏の講義は全て辞めてしまうのが良い。この時期、教室のエアコンがフル活動すると、当然、働きの悪い私などのぼんくらの部屋は、エアコン向け電力を中央制御で止めてしまう。これがきつい。南向きの窓のある部屋は、あっと言う間にぐんぐんと気温が上昇し、35度くらいになる。こうなるともうやっていられなくて、得体の知れない事務仕事などをやることになる。なんという効率の悪さだと、それこそ税金の無駄遣いだなと思うのだ。

政治もそうだが、八方美人な政策など叶うはずはない。それを願ってしまう国民は明らかに未成熟である。一点豪華主義で、それを貫く度胸が必要だ。30年後の日本を考え、そこに到達する仕組みを作り、福祉の後退も堪え、ひたすら財政再建に挑まなければ、早晩、日本は沈没する。教育から始めなければならない。暑い暑い言ってはいられないところに日本人はある。酷暑に打ち勝つ根性が必要だ。それが全く見受けられない。悲しい限りだ。


2010年7月21日

共創と簡単に書けるが、これを実際に行なうとなると、双方、相当に度胸がいる。度胸と言うか、根性と言うか。自分の利益を超越する第三者の喜びこそが共創の目的であり、共創しあっている双方の状態が想定出来ないくらい素晴らしい関係になってこそ共創なのである。成熟していない日本人社会では実現不可能な様にも思える。しかしそうは言ってはいられない。何故ならば小生は教育者のポジションにて生きているからだ。

仲の良かった少し先輩の教授が亡くなった。五十を超えたばかりの、教育熱心な先生であった。真面目に何にでも取り組まれる方で、そんな方に限って、限界を突破してあちらの世界に旅立ってしまうのが、鶴舞大学の恐怖である。見せ掛けの好景気で、若干、お金が動いているようではあるが、国外にのみ物が売れ、国外からの人材に頼る日本では、まもなく、かの先生の如く、「人間五十年」が当たり前になるやもしれない。磨り減って命の焔を燃やし尽くして消えて行く。

右大臣実朝は明るい所に出た途端に滅びの姿を見た。人も家も暗い内はまだ滅亡しないと。ここで明るさとは何であったのか。単に個人的に明るい所に立っただけではあるまい。人としての今の時代で到達出来る最大値に達した時に、その空間を埋め尽くす人々の辛さ、苦しさ、そして醜さに息が詰まり絶望するのではなかろうか。必死に上り詰めたその場所に、自らを映す鏡のみが置かれていたら、その先、生きていける自信など無い。

酷暑、猛暑、どんな表現も生ぬるい、ここ数日の太陽の元気さである。強烈な紫外線は生命の均衡を保つ為には必要で、水たまりの中の様な日本の国土における農生産には重要な時期である。人間の都合で暑いだのなんだの言うと罰が当たる。罰は当たるが、それでも暑い。精神的過労には過酷な日照である。水分補給をまめにしたい。皆様、ご注意を。


2010年07月20日

中国でも海洋油田のパイプラインが悲惨なことになって、激しい海洋汚染を引き起こしているらしい。腰抜け政府は何も言わない。腐敗しきった自民党とそこから派生したゴミどもも、勿論何も言わない。国民は何も知らされず、油臭い魚を食べさせられる。その他、もっと恐ろしいことも起こっていることだろう。大陸問題を引きずる大相撲という見せかけの国技への大量雇用と、モンゴル国にとっての外貨の流入の手助けも、大戦処理として、もうそろそろ打ち切っても良いのではないか?そんな税金は何処にも無いぞ。

大西洋と太平洋で原油が海に放出されはじめた。大地震で地球が勝手に放出したのとは訳が違う。地震であれば、それは地球が望んでしたことで、人類はそれにあわせて生きて行けばよい。しかし、人は余りにも弱く、自然に身を任せようとしても、自らの恐怖心で、包容力のある自然から逸脱し始める。そしてその後、自然の無言の教えを勝手に解釈して、自然を破壊する道を選ぶ。

昨日は久しぶりに名古屋っぽい気温であった。少し表に出たのだが、光の圧力を感じる猛暑である。35度と言えば体温より少し低い程度で、百葉箱の中での35度であるから、実際の日差しの下では37、8度にはなっているだろう。体温と同様の気温である。原油の流出よりはずっとましであるが、お年寄りの方々に限らず、積極的な水分補給が肝要だ。地球の周期活動とは本当に正直なものだと感心する。その周期活動を学び、それにあった生き方を、生き物はするべきだろう。人間の自惚れた姿にはあきれかえる。

学期はようやく終盤である。試験週間に入ってくる。猛暑、酷暑の中での試験は体力的、精神的に極めて堪える。名古屋の気候の中で勉強していけば、大概の東南アジア諸国で仕事が出来るだろう。そんな名古屋の売り込み方もあるなと、原油流出の話から、ぽっと思い浮かんだ私であります。


2010年07月16日

岐阜で記録的な単位時間雨量を観測したそうだ。一夜明けた映像をテレビを通じて見た。その昔、笛吹川の遙か上流にある母親の実家の近くの谷間が、土石流によって巨石が当たり前の如くに流れていく様を思いだした。あの自然の猛威の前に人間は何をしようがない。知恵の違いとすれば、谷間の人々は山崩れが起こらないような場所を探して住まいを作り、谷間に雨水が流れ込み、被害は谷間に集中させる工夫をしていたことだ。千年を越える自然との共生である。自分達の都合だけで川をコンクリートで固め、山を切り開き崖を作り、その下に密集して居を構える現代人の無能さには呆れかえる。砂防ダムだの水瓶ダムだので防災などとはちゃんちゃらおかしい。

人間の命など、せいぜい80年。自然のくしゃみは数百年単位だ。たまたま自分が生きている時に自然がくしゃみをしただけのことである。更に、地球の植物が吸収できないほどに、地球が作ってきた化石燃料をどかどか燃焼させる物を作り、地球を傷つけ金型だの自動車だの飛行機だの船だのを作り続け、自然のしっぺ返しを恐れなかった自惚れが、ここ数年の自然災害に繋がっているのだとすれば、それは諦めて受け止めるしかない。

例えば中央構造線に沿った部分では1300年程度ごとに巨大な横滑りが発生しているらしいが、それは数百年前に発生していて、現代人はそのくしゃみによる巨大地震を心配する必要は無いが、今回のような雨による災害関してはもう少し短い間隔で発生するのではないか?2万年前から隆起が始まり、平たく盛り上がった3千メートルの大地を雨が削って今の日本アルプス構造ができあがった。そこにあった土砂は川に流され海に入った。雨による土砂の除去がどれだけテンポで発生したかは知りようがないが、事実として、そこにあった大量の土砂、裏山が崩れた程度の騒ぎではない土砂が除去され続けてきた日本で生活しているということだ。砂防ダムなどちゃんちゃらおかしい。

大切なことは今を一所懸命に生きることだけだ。災害による死は地球上の誰にも平等に訪れる。だが、その確率を高めているのは自らにあることを自覚しなければならない。梅雨明けしたみたいだが、突然の夕立の確率が上がっただけのこと。東南海地震もそろそろやってきそうだし、今年の夏は妙に暑くなりそうだと感じる私であります。


2010年07月14日

ダムが進むとか遅れるとか、治水がどうのこうのと、土建屋と自民党を応援するマスコミが騒ぎ立てる。信玄堤を見よ。戦国の世から一度たりとも大氾濫を起こしていない。決壊もしない。住民が踏み歩くことによって固められる本体と、水の性質を利用した水圧の分散を当時の技術によって実現し、住民に平穏な生活をもたらした。勿論、何度かの水が堤を乗り越えるような災害もあったようだが、それは地域に川砂の堆積をもたらし、名物の「芋」を作り出す土壌となっている。住民は万が一、堤を水が乗り越えても水没しないような町づくりに協力し今に至っている。ダムを作って土建屋と国土交通相の天下り役人だけが潤い、国民が溺れる政策を自民党が実行し(当然、そこから脱したつもりのみんなの党などの輩も同罪である)マスコミが援護射撃をするという図式は永遠に続くらしい。そのうち、国土を全て100mのコンクリート壁で覆って地球温暖化の水没から守るなんて政策が出て実行されるから見ているとおもしろいかもしれない。現代のオランダだなんて威張ることだろう。

ダムなんぞいらないに決まっている。電気を発生させるというと綺麗事に聞こえるわけだが、いつも言うが、電気が人にどんな幸せをもたらしたというのか。自分の親が末期症状で電線まみれ、装置まみれになったのを見て、なんと愚かなことかと実感した。自分がやってきた精密エレクトロニクスの末路がこれかと。生きようとする力のアシストを越えて、エゴによって筋肉活動を持続させるだけ。そんな状態は生きているとは言わない。ならば電気なんぞいらん。せいぜい、急流に上手に水車でも作って、それで作れる程度のことをしていれば良い。

治水などと言うが、地球造山運動を止められるか?やれるものならやって見よ。川沿いに巨大堤防を築き、土建屋が区画整理をし、そこに土建屋が家を建て儲ける。そのためのダムであって、国民の将来を思った行動ではないのは明らかだ。山の民もダムと一緒に巨大道路の建設を求めるのを止めるが良い。道路だけを求めたら良い。その時、何故巨大道路を必要としているのか、その巨大道路が10年、20年後に何をもたらすのか真剣に考えよ。何も見つかるまい。今、生きていることに感謝するが良い。

ダムの議論など茶番に過ぎぬ。いい加減に土建屋体質を脱し、智恵による住民自治を目指さないと、国民という概念すら無くなる。いや、既に亡き国民性なのかもしれぬ。ダムはいかん。絶対にいかん。それは正しい。


2010年07月13日

ぼうと言う音に驚いた。地下鉄構内ではない。久しぶりの大雨である。迫力のある自然の猛威である。名古屋水害を思い出してしまうが、梅雨の末期の光景であろうか。天気予報によれば週末から晴れ間が続きそうだ。ようやく梅雨明けなのだろうか。

自然は正直である。人間がどれだけ地球をたたき壊しても、太陽までは壊していないから、地軸と太陽との関係で生じる四季の循環にまでは、人間の力は及ばないと言うことなのだろう。もちろん、南極の氷が融け続けていることには変わりなく、海面上昇による加速的海表面膨張と水蒸気の増大で、日本地域の雨量は増えるのだろう。その程度は我慢するべきか。

台風以外の水害は、名古屋地域では彼の災害以来出会っていないが、この金曜日あたりまでの梅雨末期の豪雨でどうなることか。各地で100mm級の豪雨が記録されているから、名古屋地域でも避けられないだろう。田畑の災害が心配で、秋の生産物の収穫に頼る農家の収入も気になるところだ。

駅近くの都市河川の増水を見るにつけ、昨日まであった川底のゴミが海にまで達してしまうのだろうなと、都会人の一人として悔しく、悲しく思う。地球環境の悪化は、自然の力では破壊できない人為的物品を、自然に投下することでも起こる。自動車に乗るだけが悪では無い。自然の力を感じる梅雨時などでは、自分がこの環境の中でいったい、どんな役割をさせて頂いているのか考える時でもあろう。そんなことを考えてみたい、私であります。


2010年7月12日

ここまで熱しやすくて冷めやすい、堪え性が無くて自分勝手な国民相手では政治などやってられないだろう。投票率も低くてとても国家の大計を議論できる場には、国会そのものがなっていない。諸外国の思いのままに日本という国が動いていくのだろう。こんな国家に未練を抱く気持ちすら失せた。石の上にも三年という言葉があろう。煮え湯を飲まされているときこそ我慢のしどころ。似たようなことは新規事業開発にも言えるが、ダーウィンの海の向こうには死の谷が延々と続く。それでも一つ一つ越えていくしかないのである。先陣が築き上げた数百兆円の国家の借金を、いい加減に返し始めないといかんのだ。西欧はその流れに入ったではないか。まぁ、自民党が勝利したと言うことは、国民は消費税増税を選択したわけで、その点では、ばらまきだけでは駄目で、ちゃんと払うものは払うということを選択したことはちょっとは進歩したか。愉快な国民性である。

ヤミ金融と呼ばれるのは、法律で規制された利率以上の利息でお金を貸し出すからである。国債などは正にその良い事例である。高い利率で金を貸し、その借金は次の借金で賄う。本来は作り出せる資金の範囲内で運営するべきものが、あれも欲しい、これも欲しいと馬鹿な国民の言いなりになる占拠目当ての政治家とそれに巣くうダニの国民が、結局国家を破綻させる。ギリシャが好例で、日本はそれに続いて破綻して、それよりも悲惨な死に方をするだろう。働き者の国などは既に幻影であり、働けど働けど加速する給与の減額にどれだけの人が耐え続けることができるのか、もはや我慢比べを突破して、拷問する側もされる側も麻痺しきった状態だ。

モンスターペアレントという言葉を聞くようになって久しい。昨日、たまたま耳にしたNHKから「保育所に行く前にオムツを替えて行って、会社に遅刻したら、保育所はその責任を取って損害賠償金を払ってくれるのだろうな」と詰め寄られたという、正に国家破綻の現状が伝えられてきた。氷山の一角であろう。自分だけが生存する穴の底の住人には、人としての温かさなど無い。ノンポリという言葉が1970年前後に流行ったのだが、それは学生紛争後の一時的な流れであり、変な言い方をすれば少数精鋭のノンポリであったから目立ったのだ。今、モンスターペアレントもチルドレンもマジョリティであるからこそ、目立たなくなっているような気がする。それを積み重ねてきたのは、戦後、延々と続いた選挙第一主義の政治であり、それに取り憑いた企業と国民である。マイノリティーの真っ当な国民は、今、どんどん首を吊り電車に飛び込む。電車の人身事故はニュースにもならない。

大学という場で教育を受けた結果は、小生の時代の人間には社会に還元できる余地がまだあったと思う。技術的には飽和していないナノ以上の世界での頭の使いようとものの作りようがあった。ナノの世界は原子の思うがままに配列する世界であり、何かを為したとしても発明ではなく発見になってしまう。それが極微の世界であり、人の関与を創造から発掘に替えてしまった。人は創造を喜ぶ生き物であり、発掘のみでは窒息することになっている。知性の創造の時代に入ったとするならば、道路をほじくり返すばっかりの国家は、いったい、何処に向かっていくのか。忍耐という漢字を耐えて見つめることが出来る国民がどれだけいるのか。瞬間的な結果だけを追い求める企業の指導者には居ないだろうし、大学人とて同じだろう。丁寧にじっくりなどというポリシーなど、この国には不要のようだ。はてさて、何処に逃避するか。真剣に思う私であります。


2010年07月09日

戯言に書いたからでは無かろうが、今宵は名古屋でも大雨らしい。金曜の夜も21時まで講義があるから、必然、豪雨に巻き込まれることになりそうだ。その昔、台風が来ていたのだが暴風警報が発令されるまでは講義を中止してはならないという国立大学の規則に則り講義を続けていたら、中央線はもちろんのこと、風雨が流れ込んだ地下鉄までが停止し、変電所が壊れ、始発電車が動き出すまで教室で講義をし続けたことがある。今思えば若かったが、もう十数年も前のことだが、当時の学生の迫力は心地良かった。今は、うるさいから出ろと言うと喜び勇んで出ていく。何をしに大学に来ているのか。国立法人でこれでは、税金使用説明ができなかろう。解散しては如何かと思う。

名古屋の埠頭で難加工展というものをやっている。何をもってして難加工と断定するかは難しいが、目指す精度で製品を作り出すことが難しいという状況が難加工らしい。我らの代表が講演を行ったが、完全に火が消えた東海地区の、同じ藁にすがってみんなで沈もうという勢いよろしく、相当数の聴衆が集まった。加工のブレークスルーと言ったって、何をどんなふうに作ったら国民がお金を出すのかと考えると、恐らく、それは無いだろう。半導体関連分野の方々は、今の精度が一桁あがれば云々と騒ぐが、資本金一兆円の企業が10兆円稼ぐために作るような機械を中小が関わると、血の一滴まで吸い取られることを良く知っているから、絶対に関わりたくない。まっぴらごめんである。

材料の内部エネルギーとか何だとかの講義をさせて頂いているが、実際のところ、凄まじく難しいと感じる。テキストの数行に含まれる物理学の歴史を感じ取るには、自らの凄まじいまでの研鑽が必要だ。教師の戯言に付き合ったくらいで体得出きるはずはない。ならば、何の為に講義などというものがあるのだろう。自らの存置理由が全く見いだせなくなってきている。学生の頃、量子力学を理解したと言う教師も学生も信用できないと仰った、それこそ量子力学の大家がいらっしゃった。蝦蟇の油売り大学は朝永先生の血統もあり、量子力学研究は盛んであったのだが、その現場においてもその状態であった。ならば、鶴舞大学においては如何あろうか。研磨砥粒と材料との表面反応を量子力学を用いずにどうせよと言うのか。自ら学ぶことを拒絶する若者相手に何をせよと言うのか。

これは段々と困難を極める科学技術の要素が増えれば、それに向かう気持ちが急速にしぼんでいく現れであろう。将来、何が出きるのか、不安に思って当然である。現場でもあっぷあっぷである。先日、ある巨大企業の研究関連部署の「お偉い」さんとお会いしたが、何も進まず壁を破れない。だから新製品に革命が無いと仰っていた。学問の場だけではなく、先端ものづくりの現場においても後身の指導が成り立たないのだ。この日本の新しい原点は何か。生むべきゼロはなんなのか。今日も悩み続ける。過労である。くたびれた。


2010年07月08日

少し前なら異常気象だが、今となっては普通に見られる豪雨だ。ゲリラ豪雨も年がら年中になってきたら、日本は既に熱帯性気候となっており、それに備えた街づくりと住み方を考えねばならぬ。すり鉢の底に住んでおきながら、洪水を政治のせいにだけしたがるのは明らかにエゴである。街に散乱した土砂を、さっさと市役所は除去するべきだとテレビカメラに向かって叫んでいた人が居たが、あなたはそれほどに税金を産んでいるのですかと質問したい。健康そうな男性であった。市の職員に協力しては如何か。厳しい気候と戦う為には一人の人間の力などは全くの無力で、弥生時代以来の力を合わせる気持ちが必要だ。日本の生き残る道でもあろう。

自然災害は全ての人類に対して公平に発生する。もしも今、本当に人為的な地球温暖化が発生しているとするならば、それを成した側と、それには関わっていそうにない人々に平等に自然が猛威を振るっているとするならば、それは少々不公平だ。先進国だけに大災害が発生すれば良いとは思うが、ぶきっちょな神様は地球全体に災害を発生させてしまう。情報が伝わってくるエリアだけのことしか知りようが無いが、見えていない領域においてもとんでも無いことが起こっているような気がする。

ここ数年、太平洋高気圧の元気が無く、ぐわぁっと来る真夏の日差しに出会えない。その反面、中途半端な湿り気を梅雨前線に流し込んでくるから、大量の雨が降り注ぐ状態になった。雨後に都市河川をのぞき込んでみると、それこそ濁流である。よく言われることだが、透水性が無い物質で覆われた都市では、田圃も無いし当たり前のように激流となる。都市の汚れたゴミは、ゴミの土石流となって海に出ていく。都会人のやることは国土破壊そのものである。

自動車がばんばん走って煤煙をまき散らす。そのまき散らした煤煙が川に入り海に蓄積される。それが濃縮されてまた都市に降る。先進国が自動車にばかり頼ってきたツケが、今、出てきているということだろう。酸性かつ煤煙入りの大雨。恐ろしい限りである。農作物への悪影響もあるだろう。手塚治虫さんのマンガではないが、地上には住めなくなって、地下のみに生きるひょろひょろの人類の滅亡の姿が見えるような、昨今の豪雨でありました。


2010年7月7日

七夕である。本来、旧暦のお盆の七日に先祖を迎える供養の日だが、どこでどうひっころんだのか、笹に願い事を書いて星に祈るというとんちんかんな行事になってしまった。文化伝統もここまで堕落してくると立派なもので、十年後には何処かのサイトにお願いすると、バーチャル七夕なんてことになって、短冊が画面上で飾られるなどと、収集のつかない愚かさを具現することだろう。星を眺める余裕もない。もっとも、雨ばっかりで星などは見えないが。

福島のあたりで局地豪雨の被害が出た。一時前の名古屋豪雨を思い出すのだが、温暖化で水蒸気が太平洋上に豊富にあり、まだまだ序の口の災害ではないのか。中部地方では三六災害と呼ばれた1961年の巨大水害と土砂崩れ被害が有名だ。一夜にして多くの村が消滅した南アルプス地域を尋ねると、未だにその爪痕が残っている。痛ましい限りである。情報に満ちた現代は、油断に満ちた社会でもある。自然は好き勝手なことをやり続ける人類を、一掃しようと虎視眈々と狙っている。自然に背中を向けたら最後、生きては戻れない。それが自然の美しさであるようにも思う。

NHKが大相撲の生中継を取りやめた。これはなかなかの決断であり、納得できる。50年以上もずるずるだらだらとした関係にあって、そのなぁなぁさを一時の見せかけであったとしても断ち切ったことは、自分の身の回りのことを考えてもなかなか出来る事ではない。一方、大相撲側は「土俵は綺麗なのだから放送しろ」と迫ったという。これこそ恐喝であり、相撲協会はJAL同様に解散再出発の道しか残されていないと、表明したに等しい。さっさと解散しろと言いたい。普通の企業であれば倒産している状況にあるのだと、認識するべきだ。

気がつけば七月も一週間が過ぎてしまったと言うことだ。安易に携帯に電話をしてくるお方が増えているが、講義・会議・教育で基本的に出られません。居室に戻って置いていった携帯に着信ランプが点いていてもそれを確認する時間もありません。悪しからず。


2010年07月06日

鶴舞大学には古墳がある。日本中の国立法人で古墳を有する大学は少ない。少ないと思っているだけで、実際には大学そのものが古墳であったりするから油断がならない。古墳というと何となくだが古代人の生きざまを感じて、何の役に立っていなくとも、なんだか有り難い気がするから不思議だ。鶴舞大学ではその昔、狭いキャンパスを広げようと、古墳を撤去する案が出たそうだが、当時の学長が思いとどまり、今に伝わる。良い判断である。

作っても何の役にも立たず、むしろ環境を破壊して、それに関わる連中の給料になっている長良川河口堰。15年で大略60億円の無駄使いだそうだ。これに関わった愛知・岐阜・三重三県の知事はとっくに居なくなって、その責任の所在はうやむやだ。60億円は相当の税金であり、それを稼ぎ出すにはどれだけ大変か。知らない、関知しないのは政治家と役人だけである。不可思議な国である。

ダムにしろ堰にしろ、維持費は相当に掛かる。山奥のダムは発電や治水という美辞麗句の為に作られるが、いつも言うことだが、電気なんぞ人間が怠惰に生活するために存在するものだし、はっきり言ってダムなど不要である。そんなものは無くて良いのだ。砂防ダムとて、土砂流出は海にとって必要なものだし、そもそも土石流が発生するところに住まなければ良いのだ。人口減少で砂防ダムを撤去していけば、海も川も山も、自然を取り戻し、国土が元気になるやもしれぬ。

人間が自然に手を入れるなどおこがましい。感謝して使わせて頂く気持ちを失い、自然を活用しているなどと自惚れていると、例えば大雨で河口堰周辺が決壊して悲惨なことになるなど、単に自然破壊で魚が居なくなるだけではなく、えらいしっぺ返しが来るだろう。今年はどうやら梅雨前線が活発だ。日本の自然の象徴みたいなものだが、大雨による災害はこれからが本番だ。無駄な60億円などと新聞は書き立てる前に、河口堰の本質はなんだったのか。美辞麗句の前にある政治家、役人の本質を明確にして、国民が不利益を被らないように、マスコミは活動せねばならぬ。橋や道路はまだしも、水をせき止め山を崩し海を埋める行為はもう止めたら如何か。心底、そう思う。


2010年7月5日

井上靖氏の母校の教壇に立たせて頂いた事は、教師としての誉れである。そう滅多に叶えられるものではない。世界で最も美しい場所と井上氏が残した言葉を子供達が全身で受け止め、そして次の世代を作っていこうとする様は、自らの後ろめたさを吹き飛ばすが、いや、都会の後ろ向きさが全身にのし掛かり、歩みが停まる思いがする。蛍が乱舞するその学舎はしろばんばそのもの。「こう思います、何故ならばこうだと思うからです」と、都会の全てが忘れてしまった自己意識が育てられたその姿は、日本はまだやれるかと思わせてくれる。その子達が「わぁ」と輝く瞳を更に深く遠くまで照らし出す明かりにする様は勝利者だ。君達は勝利者だ。もっともっと美しくなれる。それを感じさせて頂ける我が身のなんと幸せなことか。

理科教室と伯母の葬式が重なり、3日間に1400kmを旅する強行軍であった。流石にくたびれた。いや、くたびれを感じる程に老人だということだ。教壇に立つ資格無し。そう実感する。疲れを思うようでは既に教師ではない。只の老木であり、朽ち木である。倒れるのを待つのみである。そうであれば自ら倒れ、虫に食われる前に薪となって次世代を暖めよう、照らそう。そんな旅でもあった。小学校2年生を担当させて頂いて、その教室で給食を「ちゃんとお金を支払って」食べた。こうちゃんと書いておかないと、どこからとも無く恐ろしいメールと市役所への訴え通知がやってきて、悲惨な面倒に巻き込まれる世の中である。急に興醒めた。これが都会の嫌らしさである。何が成せるはずもない。

小生は弱視である。視力は0.01未満であり、眼鏡を外すとねずみ色の世界が広がって、ここまでくると安心してしまう。諦めの境地と言おうか。伊豆の宿舎で同僚の先生と大浴場に入っていたとき、目の前に白い陰があった。何の気為しにぷわぁっと除けて湯船で浮き沈みしていたら、数メートル先の同僚が「Eさん、蛾、蛾、何やってんすかぁ!」と叫び声。まぁ鱗粉で綺麗になるんじゃない?とあぁ、見えなくて幸せを実感。都会では見たくないものを強制されるが、木造の湯殿では何にも感じない。こんなことも自分には出来るのだと、少しは安心もした。

伊豆のびっくり?話をもう一つ。最近はETCカードを挿したまま有料道路に浸入する。伊豆には16年ぶりに出掛けたのだが、何やら有料道路が出来ている。その昔、大渋滞道路であったところも二車線となり、随分と渋滞が緩和された。そこで面白がって有料道路に突撃したのだが、ゲートが開かない。そこには燦然と「現金」と書かれている。「うわっ」・・そもそも財布なんて鞄の中だ。げっ・・万札のみ・・小銭入れには・・・おぉ、燦然と輝く500円玉!早速投げ込みゲート通過。その間2分。永遠の長さに感じましたよ。いやぁ、油断大敵。未だにあるんですね、こんな仕組みが。そんな姿も嬉しかった、伊豆での教育キャラバンでありました。


2010年06月30日

青少年の理科教育というと、どう言う訳か「でんじろう」ですかと言われる。彼を否定はしないが、もの真似ではなく、取り敢えず、どうでも良いけれど博士号を持った連中ばっかりが、カタツムリの如くはさみ一本、糊一個まで持って過疎の小中学校に「強制理科三昧」を展開するという、ある意味、あり得ない、ある意味、そりゃぁそうだろうという活動が今年も行われる。ご協力を賜っているフジミインコーポレーテッド様にはこの場を借りて御礼申し上げます。有り難う御座います。今年は伊豆の背骨の部分と申しましょうか、名古屋からは結構な距離の所にお出かけ致します。今日の朝から実施されている訳ですが、小生的には午後に講義があるのでそれを済ませてからの来訪になります。伊豆の皆様、待ちくたびれていて下さいね!

都会と言うと東京しか無いけれど、都市部と言うことでは名古屋市も入る。名古屋市には科学館があり、理科好きもどきがどんどんやってくる。「もどき」と書いたのは観察しているとどうも「託児所」代わりに利用して居て、がきんちょを理科教室に押しつけて、その間にデパート巡りをしている親が沢山。理科教室ならぬ託児教室になってしまうわけだが、突撃理科教室の場合はそうはいかない。理科嫌いの先生をふんずかまえて「こらっ、理科しなさい!」と責め立てるという、理科と空気が一体化してしまうという、恐ろしい世界を形成する。静岡で一巡するので、来年は再び三重県に突撃するのだろう。和歌山県境の皆様、来年は宜しくお願い申し上げます。

理科と言っても身の回りに沢山。そもそもこれをご覧の皆様はPC等のエレクトロニクス端末を扱っていらっしゃる訳で、もうその時点で理科三昧である。ご飯を炊くという時点でも立派な理科である。ガスに火が付いて鍋の水が沸騰する。ウルトラ理科である。誰かを捕まえて「ほら、見ろ!理科だ、理科!」と叫ばなければならない程の理科が身の回りに溢れている。半導体研磨なんてウルトラスーパー理科である。Hくん、ちゃぁんとお子様に説明するように!

はてさて、そんな面白い理科なのだが「私は文系だから」等々、不可思議な言い訳で顔を背けてしまう。電車に乗る時は裏が黒い切符を堂々と使っているくせに、「身の回りに理科が無いから」という、これまた超不可思議発言を平然とやってのける素晴らしさだ。梅雨空を見て「雨だ」とため息をつく暇があったら「何故空から水が落ちてくるのか」、その不思議さに気がつくべきだ。全てを溶かし込む水の威力に感動するべきだ。自らの感動の後に周りの感動がやってくる。まず単純に感動するべきだ。感動できなければ感動できる自らを作り上げるべきだ。まぁ、理科とはそんなもんだ。感動三昧。素晴らしいではないか。


2010年6月28日

大相撲問題という訳ではないが、どうしてこれ程に社会的な問題を起こしておいて、その組織の存続が許されて、社会に受け入れられてしまうのか?公営ギャンブル以外の賭博をして、しかもその筋の人達と繋がっていたとなれば、通常の企業であれば一気に崩壊。勿論、法人大学であっても御用納め、年貢の納め時、はい、さようならとなるのが普通。高校野球だって、野球部以外の不祥事がれば、甲子園出場辞退などもある。それが大相撲では許されるのか。何をやっても許される昨今の風潮が、ここまで来ているとは呆れかえる。日本人横綱など出てくるはずはないと、諦めた。

今年度になってという訳ではないが、一体、エンジニアが作るべき物は何か、自動車の次に10億人が喰っていける産業は何かをずっと考えている。10億人問題はここ数年ずっと考え続けているのだが、ちっとも思い浮かばない。思い浮かぶどころか、昨今の補助金頼みに呆れかえるというか、そんな状態では国家が無くなるぞと、泣けてくるのである。SiC基板の6インチを目標とした国プロだって、もうすぐ中国から「ほら、そんなに欲しければ6インチやるぞ」と持ってくる間際まで来ているのに、なんという暢気な事か。7月末に討論会をさせて頂くが、「真面目に丁寧に」が答えになってしまうような気がする。今ある技術の延長を考えてはならぬ。それを飛び越えないと何も生まれない。その覚悟が必要だ。

過去を積んできて今がある。今が国家を沈没させるとすると、今の技術では次はないということだ。資源がない国の悲しさだが、世界から見て「置き換えのある技術」群など、国家を立ち直らせる術にはならないのだ。理科離れなどと叫ばれているが、国民そのものがバーチャル信望に走り、過去に頼り、未来との引換券だと、過去の技術にしがみつく。職業柄、小・中・高の教科書に触れる機会があるのだが、嗚呼、なんということかと悲しくなる。苦しさのかけらのない教育期間に、人間力など得られようがない。その頂点が大相撲問題であろう。負けたら死。それが大相撲の本質であった。稽古するなら賭け事と、堕落しきった連中の突っつき合いなど誰が見たいものか。

怒る気力すら生まれない。馬鹿馬鹿しいにも程がある。何が有識者による提言だ。そんなものがないと決断出来ない組織など、直ちに無くなるのが良い。犯罪を犯しても許してもらえる社会であると、日本国民に植え付け、更に、世界に表明するのか。国際競争力のあるものづくりなど出来るはずもなく、もう、何を教育することも出来そうにない。日本人に生まれてこれ程悲しいと感じたことはない。


2010年06月25日

必死にやっていると何か良いことがあるとは、小生の恩師が、小生が名古屋に移る際、おっしゃったお言葉である。この必死かどうかは、良いことが起こった時に初めて、ああ、必死だったのだなと判るような、そんな関係だ。サッカーの日本代表が決勝トーナメントに進出したが、これもまた、代表選手達が必死だったということだろう。賞賛したい。

先日、ある方とお会いして、先生という職業なんですねと仰って頂いたが、最大のほめ言葉を頂戴したと感激した。研究云々をお世辞で飾りたてて、責め立てる人ばかりだが、先生が職業と言われるのは初めてかもしれない。実際のところ、職業は「人間であること」なのだが、先生というのは人間であることからそれ程遠くなく、妙に有り難い。

大相撲力士の賭博事件などは、この必死さからは程遠く、国技という名称は剥奪するのが正しくて、税金で動いているNHKなどは決して放送するべきではなく、また、相撲協会なども直ちに解散するべしと、横綱審議委員会は裁定を下すべきだ。ひょっとすると勝つかなと思っていたサッカーで、本当に勝ってしまった姿を見て、大相撲界の醜さが際だって見えた。

一所懸命とか、必死とか、言葉では簡単だ。だが、何か図抜ける結果を出すことは極めて困難である。どんな形であれ、人に喜んで戴けることで図抜けたら、それは一所懸命に、そして必死にやり遂げたということだ。それが自信となって、更にその必死さの質が向上していく。アフリカを出た人間が生き延びたのは、まさにその歴史なのだろう。極東まで辿り着いた人間の末裔の日本人。自信を持って頑張り続けても良いのではないか。ペナルティキックではなく、戦術で入れた駄目押し点を見てそう感じた。


2010年06月24日

第22回参議院選挙だそうだ。一ドル90円台まで来るという今の国力を考えれば異様な相場が続き、マスコミが景気は上向きと叫べば叫ぶほど民意誘導が見え見えの苦笑いの毎日である。7月のボーナスが見えてはきているが、そんなものは無きに等しく、とても景気向上に貢献できそうにない。そもそもお金を出して何が欲しいかと言われても、明日のお米を得るのにひぃひぃ言っているわけだから、まぁ何にもならない。移動性高気圧が梅雨の晴れ間を作ってもどうせ明日は大雨みたいな気分の連続であり、霧の中に頭を突っ込んだまま、右往左往するが如くである。そんな中の選挙だと、ことなかれ主義が横行して、益々国家が乱れる方向に行く。それが更に不安を増す。妙に情報が氾濫している国家のくせに、国家の先行きだけは落ちていない。

先行き不透明は国家にあるのではなく、それを構成する国民、自然環境全ての積分がそれを作り出していることに気が付かねばならない。変わらない街が無い日本。どんなに山奥でも、嫌、山奥であればある程、幾たびに景色が変わる。変わらなくても良いと都会の人間は考えるが、自然の驚異に曝される山間地では、新しい橋も道路も必要かもしれない。その昔、三宅島の噴火の際、東京都に保全の訴えをした島民に、石原都知事が「好きで住んでいるんだから税金に甘えるな」と一喝したことを思い出す。ごもっとも。助け合いを甘え合い、馴れ合いに置き換えてしまっている国民の自立心の無さが国家を崩壊させていることに気が付かねばならぬ。

その自立心の無さは何処から来るかと言えば、それは当然、教育である。ゆとり教育と言えば甘えの教育と置き換えてしまう情けなさ。給食費を払わずに海外旅行に行く家庭がどれだけあることか。自立とは何か、一人では生きていけない社会の中で、それを定義付けるのは難しい。人の数だけ自立の定義があるのだろうが、他人に迷惑を掛けないくらいの骨格があれば良いのだと思っている。その骨格の部分が揺らいでいると、無責任、利己主義に置き換わる。

選挙の看板に無機質な写真が張り出された。ばらまきだのなんだのの、新鮮味の無い文字が踊る。現在の批判は聞きあきた。特に自民党候補者にそんな単語を使う権利は全く無いのだが、それを使ってしまう厚顔無恥と、それを許してしまう国民の体たらくに吐き気がする。10年後をこうしたいと明確に述べたら如何か。特に参議院なんだから短期的マニフェストなど何の意味もなさない。ただ、投票放棄は国民としての義務を果たさないことにイコールだからそれはあり得ない。投票には行くが、果てさてどうしたものか。じっとポスターを眺めることにしよう。


2010年6月23日

雨が降り続いている。名古屋地方は爆発的というわけではないが、そこそこの雨量である。湿り気具合は強く、街路樹などは至って元気である。九州南部では記録的な豪雨と言うことで、中国の大洪水をもたらした湿気を大量に含んだ大陸からの空気と太平洋からの湿り気がぶつかって、大陸の縁らしい気候となっていると感じる。少々の土砂降りでは異常気象と考えることもなくなり、こんなものだったなと、梅雨らしさの感覚が年々変わっていることに慣れてしまった。今年は未だ、ゲリラ的豪雨が名古屋地方にはやってきていないが、梅雨本番となった今からが本番なのかもしれない。

南極大陸のある部分からから崩れ落ちる氷は、表面からは見えない海嶺に引っかかって太平洋に出て行かなかったそうだが、どういうわけか海嶺が削り込まれていて、巨大な棚氷がどんどん海に流れ落ちていっているらしい。南極の氷が全部溶けてしまうと、世界中の海が86m、海面を上昇させるらしく、もう、そうなってはどうしようもないなと半ば諦めてしまう。ノアの洪水もびっくりの世界になるのだろうが、世の中の清浄化という点においてはそれは地球の選択肢なのかもしれない。無駄な文明が発展すると地球生命体が自らの浄化作用によって、海辺の文明を滅ぼしてしまうとか、そんな作用が案外、働いてくるのかもしれぬ。巨大隕石などが落下してこなくても、人類にとっては強烈な作用であろう。自然の営みにはただただ頭を垂れるのみである。

消費税が上がろうとしているわけだが、それに反対、賛成の両方の意見があるのは当然だ。しかも一度上がると二度と下がらない税金が上がるというのだから、これは結構、慎重にやって頂かないと困る。過去、10年を振り返って何が無駄であったのか定量的に考察し、思い切った経費削減と消費税の凍結路線を行くのか、海外からの圧力で国家事業を増やし、見せかけの受注増と無駄遣いで消費税無限増の路線を選択するのか。公共投資をしてくれと叫ぶ輩にとっては後者を選択せざるを得ないのかもしれないが、小生は前者が有り難いと感じる。道路、鉄道という人の流動に関わる部分は、これは国家の事業だろうし、これからも継続されなければならない。しかし、無駄なダム建設や大型の高速道路は、もういいだろう。そのほかの公共事業などは一切、止めてみるのが良い。SiCの国プロなんかもさっさと止めて、民間企業の本気度を測れば宜しい。案外、いろいろ見えてくるに違いない。

名古屋地方の天気予報を見てみると午前中の降水確率が最大となっている。もう、遠い昔になってしまったが、名古屋大洪水を思い出す。あの洪水のお陰で河川整備が進んだわけで、その効果とやらを見てみたい気もするので、再び、あのゲリラ豪雨に来て貰いたいものだが、関係各位でえらい目に遭わされた方々の手前、不謹慎なことは言ってはいられない。国の借金がいったい、何を買ったから生じたのか、そんな議論もろくすっぽ無いままに仕分けだ、支援だと馬鹿馬鹿しく思えてくる。ストレスリッチな日本社会をどうやって生き延びようかと、手帳を見ながらため息をつく私であります。


2010年06月22日

最近、鶴舞大学から半径2km以内で、放火やひったくりが続出している。1、2週間前には宿舎に戻る途中で消防車やパトカーに自転車を追跡されて、もの凄く嫌な思いをしたが、連続放火魔が未だに捕まらず、事件が継続しているのだから、当局も無差別に疑いをかけること仕方があるまい。昨夜は地下鉄の駅で「ひったくりが出ましたから気をつけてください」と、半ば他人事みたいなアナウンスがなされていた。御器所管内の治安が最低のレベルにあると感じる。恐ろしい話だ。

その昔から木の芽時なんていう言葉があるくらいだから、季節の変わり目にはおかしな輩が出没することになっているのだ。まぁ、一般民間人からすれば小生なども相当におかしな輩の部類なのだろうが、放火もひったくりもしないという事では、まぁ、無難な輩の類だと自分では認識している。最近、暑くなったり寒くなったりを繰り返し、そして今は猛烈に蒸し暑くなり、季節が劇的に変動しているから、それこそおかしな輩にとっては言い訳が出来るくらいの季節変動ど言えよう。自然ももう少し穏やかに変化してくれると有り難いと思う。

何となく情けなくなったのが大相撲である。賭麻雀で目くじらを立てる人はそうそう居ない世の中だと思う。水清ければ魚住まずであって、聖人君子なんぞそうそう居ない。それで良いのだ。しかし、野球賭博はいかん。その昔、プロ野球では賭博と選手そのものが関わって追放事件まであった。大相撲賭博というのがどこかにあって、それに力士と呼ばれる人が関わって居なかったと誰が言える。しかも明確な犯罪行為であって、それが国技というレベルの人々の中で蔓延していたことは万死に値する。直ちに大相撲協会は解散し、新しい興行団体として復活するべきだろう。

日本人力士が勝てない大相撲。勝てないから賭事というのではまったくお話にならない。目の黒いうちに日本人横綱誕生というのを見たいなとは思っていたが、もうそれも馬鹿馬鹿しくなった。日本有史上最強と言われた力士の「たいまのけはや」を倒した「のみのすくね」から延々と神への奉納の形で行われてきた相撲であるが、もう神様も見放したであろうから、打ち切りで良いのではないか。それこそ禊ぎをして地方行脚を掛け、国民から支持を得てから、再び国技の看板を掲げたら良かろう。ちなみに「のみのすくね」は学問の神様「菅原道真」公のご先祖様である。文武両道の家名に泥を塗られ、菅公再び雷神となりて国技館上に雷鳴を轟かすやもしれない。大地を鎮める四股がなくなり、大ナマズ暴れて、天地鳴動、いよいよ大地震でも起こるかなと、日本人であることが情けなくなってきた私であります。


2010年6月21日

たまたま車検で代車を出してもらい、減税対象でTVなどで年中見ている車に乗ることになった。自動車ってこんなにチープだったっけなと実感できるもので、最近の若者の車離れって、ライフスタイル云々だけではなく、自動車そのものに魅力が無くなったことが原因なのだと体感した。車なんて所詮は贅沢品であり、浪費物なんだから、エコエコと馬鹿の一つ覚えで塗り立てるものではない。最初からリサイクル&買い換えを前提に作られた高額物品なんて誰が買うか?トヨタ自動車のずうずうしさがにじみ出ている。ない方が良いものが、そこにあるのだったら、そこそこ高価で健康に悪いことをしているんだと運転手が思っても悪くない。そのかわり税金をやたらと払えばよい。それくらい割り切った代物なのに、遠慮がちなところが段ボールの家みたいで、ハンドルを握っているだけで心がみすぼらしくなった。絶対に買わないと思った次第。

ちょっと前に、山人間の間で謎のエコブームが起こった。登山家の野口さんがエベレストで、それまでゴミを捨てまくってきた悪業に耐えきれず、償いのゴミ拾いを始めたところあたりだったと思うのだが、山に水筒代わりにペットボトルを持って行くのは○か×か、コンロはゴミが出るガスボンベを持って行くのは○か×か、山の麓まで車で行くのは○か×かみたいな論争だ。あまりにも馬鹿馬鹿しい論争だったし、そもそも論争と言ってもお宅の戯言だから、まぁ、どっちでも宜しいみたいなところで落ち着いた。水筒は、ペットボトルを持って下りるのであればそのまま再度使えるし、今は空になったらぺちゃんこになる樹脂水筒もあるから、そっちにすれば良かろうとなった。サーモスなどの魔法瓶は便利だが、空になったときの邪魔さが問題。重いので冬季の登山以外は不要となった。

コンロは今でも議論の対象である。ハイパワーで簡単にお湯を沸かせる点ではガスストーブは魅力で、小生も何度、その誘惑に負けそうになったことか。しかし、小生は今でもガソリンなのである。あの馬鹿馬鹿しい火力の強さは魅力だし、何となく、それこそ何となくなのだが、空のボトルを捨てなくて良いとう点でエコな気がするのだ。使い勝手はガスが圧倒的によい。完全に負け惜しみであるのは間違いないのだ。それでもやっぱりガソリンを使い続ける。これはもうエコと言うよりスタイルである。自動車選びもこんなところではなかろうか?

山の麓まで自動車で行く、行かないは相当に難しい選択肢だ。3000m越えの南アルプスの峰など、公共交通機関で接近しようとすると、日程的に相当に厳しくなる。どうしても1日多く職場を休む羽目になる。後ろめたいことこの上ない。しかし、煤煙をまき散らせて自然界に飛び込むよりはましかもしれない。そんなこんなを考えていると、山の麓への自動車による接近に対する是非は、まだ、心中葛藤の域にある。いずれにせよ出掛ける暇が全く無いので悩む必要は無いのだが。新型車に乗ることが出来たが、ドライブ意欲が全く湧かず、補助金の為に車を買う人達に哀れみの情を抱いてしまった私であります。


2010年06月18日

はっきりしない天気が続く梅雨。天気図を見てみると、梅雨前線が太平洋上を東西に延び、正に梅雨だと認識できる気候状態となっている。なんだかはっきりしなかった昨年と比べ明確な梅雨の状態となっており、今年は立派な梅雨だなと、ちょっとほっとするところもある。梅雨の果たす役割は大きく、梅雨に雨が続くことはその後の灼熱の状況を水不足から救う唯一の天恵であり、拒むものではない。昨年から聞かれるようになったゲリラ豪雨の被害は戴けないが、これは人間のエゴがもたらしたものだから、天罰として受けねばならぬ。天の底が抜けたかと思うばかりの雨は、ノアの洪水よろしく、汚れた「もの」全てを流してしまえと思う。

仕事が無い時期だから下請けは親からの仕事は安請け合いしないといけないという、脅迫的ルールが生きる東海地域。技術の安売りを求める親企業が、日本そのものを蝕んでいく。弱り目に祟り目で、口蹄疫などが東海地域に上陸してこないとも限らない。偏西風のみならず、宮崎上空でたっぷりと水気を含んだ低気圧が、東の県に口蹄疫雨を降らさないとは限らない。狭い日本である。苦役の共有はあっと言う間だ。足の引っ張り合いが得意な日本人の事、梅雨明け頃には中小企業が無くなりましたみたいな事になるのかもしれん。県単位で言えば愛知、大阪などはそれでもマシなほうなのだと思う。地方からのこれらの県への企業誘致の勢いは日に日に増している。某社にも福井の山奥への誘致がきている。小生などはそっちに引き籠もりたいとも思う。もう都会は沢山だ。

サッカー朝のニュースで見ることが多くなった。ワールドカップなる競技が行われているようで、世界中、お盛んなことで結構なことだ。ニュースではハイライトシーンのみが流されるので、とても人間業とは思えないシーンばかりを見せられる。日本人チームも出ているらしく、その運動ブリを見せられたわけだが、別の競技に見えてしまうほどにお粗末極まり無い。がむしゃらになっていないその姿勢は、がむしゃらになりたくてもなれない中小企業の技術者より、遙かに恵まれ、そして人間的に乾いて見える。他国のプレーヤーとは大違いだ。こんなところにも今の日本国民の心の持ちようが見える。大相撲の賭博事件なぞ、氷山の一角、見えない巨悪が国を蝕む。

明日も出勤である。これまたボランティア出勤であって、日当なんぞ全く無い。ボランティアで自分の勤務先を支えるところなんぞ、全くの中小企業の有様で、日本の苦役を分担しているようで少しは気が楽になる。大雨の中、うつむいて登校することにしよう。そんな気分にさせる梅雨空の朝であります。


2010年06月16日

明け方、大雨であった。梅雨本番だなと思ってNHKを見ると愛知県下各地に洪水警報が発令されている。極端な雨の振り方は今年も続くのかと、日本の熱帯化が不気味に感じられる。土壌の表層が流出し、作物が育たなくなるだけではなく、人工的に栄養に富んだ土壌が河川に流出、川の生物の生態系を変化させ、海に流れ込めば海洋生物への影響が多々出てくるだろう。生物多様性云々が言われているが、しょせんは人間のエゴが生み出したもの。ネタを作って漫才をするような生活を、もう、人間は止めては如何か。

例によって5時40分に宿舎を出たが、もう既に街は明るくなっている。爆発的な豪雨によって道がえらく綺麗になっている。大きな水たまりの中、バスが白波をけたてて進むが、程々の雨は街の掃除をしてくれる点では歓迎だ。しかし、やはり下水を通って煤塵は河川に入り海に行く。魚に吸収され人体に戻る。なんと馬鹿馬鹿しい循環であることか。

大相撲力士の野球賭博の問題が騒がれているが、そんなものは今に始まったことでは無かろう。何をムキになっているのかと呆れる。勿論、やってはいかんことはいかんのだが、政治ネタで飽きてくると、他のネタをマスコミはほじくり出すものだなと嫌な気分になる。馬鹿馬鹿しくなったり、嫌になったり、妙に忙しい朝だ。日本の現状はこんなものだ。国技に携わる者が食い物にされる。文化を捨てきった国家の末路は哀れである。

こんなにいい加減な国家なのに、やたらと仕事だけはある。外国企業を誘致して200万人の雇用に繋げるという。外資系企業従事者としては120万人の純増雇用者数なのだそうだが、国家に力が無くなったら、それを育てずに買ってくる。教育を捨て雇用を捨てる不思議の国。いい加減に独立しては如何かと思う、今日この頃であります。


2010年06月14日

ものや考え方の性質だけを考えて、得失を論じ無ければ皆が明るくなる。皆が生きている世界だから、『これだけはやってはいけない』という事が在るのは当然だ。必要なのはやってはいけない事だけを定量的に、明確に伝達し続けること。何かをしなければならないというのは、その時代とその人の都合だけで決定されていることであって、特に時代背景に合わせて大きく変化していくのが普通だろう。しかし、殺人、誘拐、泥棒をやってはいけないくらいのもんで、絶対にやってはいけないことは何か、そしてそれは何故かを明確にしておけば、後はルールなんてものは無いほうが良い。何でもかんでもマニュアル化して作業者の脳みそを働かせないやりかたは、機械の経時変化すら見落とす愚かな決め事だ。

戦闘機の操縦などはしたことはないが、そんなものなのだそうだ。上下左右もない空間で、やってはいけない3つのことがあって、それだけを教わった人は必死に考えて生き延びて帰ってくる。しかし、手取り足取りでこうしろと幾つもの手法を教わった者は、型にはまって臨機応変が効かず、結局、戻ってこないことが多いそうだ。成績優秀者と言われる後者の型にはまった人間を育てる教育の日本では、要するに社会に出たら生きて帰ってこない人間を小学校から育て続けているということだ。どちらかと言うと完全に前者の教育しか出来ない小生としては、まぁ、そんなものだろうなと思うのだが、一体、どうやって「楽だから後者型」を選択する教師と学生を前者型に意識を向けさせようかと悩んでしまう。教育システムが出来た聖武天皇の時代からずっと後者型の日本に前者型は根付かないのかもしれない。

決まったことだけをやって、異常が発生してもマニュアル通りにやっていたと言い張って逃げられる仕組みは便利だし、なかよしこよしのなぁなぁの人生を送るにはぴったりだろう。しかし、今回、執念の帰還を実現したイトカワの成功は、正に臨機応変の成功であり、小生、甚く感激しているのだ。素晴らしい、実に素晴らしい。大金を掛けて宇宙から砂を持ち帰るという、日本らしくない豪快な仕事っぷりも素晴らしいが、宇宙空間を隔てた彼方の装置を、事前準備と当意即妙にて機械と魂の糸電話で会話しながら連れ戻したその手腕は、国民栄誉賞に値する素晴らしい智慧の具現化である。

梅雨である。この梅雨に備えて大型の傘を買ってみた。以前にも買ったのだが、傘立てからあっという間に消え去って戻ってこなかった。悲しい出来事からしばらく大型の傘を買うのを止めていたが、傘を差してもびしょ濡れになる現実には逆らえず、性懲りもなく買ってしまった。傘を持って行かれない工夫を考えているのだが、なかなか思いつかない。やってはいけないことを徹底して教育していない日本では、防衛など無意味だろう。なかなかにして憂鬱な梅雨入りの今日であります。


2010年06月11日

大学というところで本来身につけるべき力とは一体なんであろうかと考え込んでしまうことがある。自らを省みてしまうからいけないのだが、当時のノートをひっくり返してみると、懇切丁寧からはほど遠く、また、一体、何を学ぶべきかなどさっぱり解らずに講義に出ていたことに苦笑いするのだ。様々な種類の講義を山ほど抱え、いろいろと伝えていっていると、面白いことに、自らがとある方向に興味というか、ベクトルが向いていることに気が付くのだ。それが正しいことなのかどうなのかは、数十年、数百年後にならないと答えが出てこないだろうところが大学の教育なのだと信じているが、昨今の直ぐに結果が出ることが正しいという物事の流れからは大きく反する。直ぐに結果が出るような研究なり学問なりなら、何も大学なんてものは要らない。駅前留学でもなんでもいいから、半導体予備校とか、超精密加工予備校とか作って、そこで既に解っていることを教えればよろしい。そんなものには何の価値も無いことに気が付いて、ひょっとすると日本の価値観が変わるかもしれない。

講義をしていて強く感じることが、今直ぐ役に立つことや学生自らが理解できることだけが価値だし、さらにそれをやってくれる塾講師やe-learningだけを受け入れる学生気質にはもう着いてはいけないし、着いていこうとも思えない。と、なると、失職首吊りとなるわけで、まぁ、それも良いのかなと思うのだ。歴史から取り残される者は常に居て、それらの末路は決まって悲惨。その昔の方々が私塾を作って思想を広げるなんてことをされた訳だが、とてもそんなパワーは自らに無い。というか、疲れ果ててしまった。企業の方々に多く訪れて頂いているのだが、その方々の視野の狭さ、気づきの無さも悲しい事だし、日本企業が大学の好き勝手な教育の毒牙に掛かって、知恵を失っている様を見るのは心地よくない。もっとも、それはバブル前から大学は学生に色を付けるような教育をするなと、大学に向かって愚かにも手を挙げたからだ。天に唾を吐けば必ず自らに落ちる。当たり前のことに気が付かなかったところに、既に2、30年後の没落が見える。

景気が上向いて、夏のボーナスでは旅行や高額物品の購入を希望する輩が増えていると報道されている。誠にもって信じ難いことであって、この国の何処にそんな知恵が落ちているのかと、それこそ古墳の発掘ばりに、竹へらで地面をほじくり返してみたくなる。大学生への求人は減り続ける一方だし、早朝の地下鉄・バスの乗客の年齢層は上がるばかり。何処まで上がっているかと言えば、恐らくはリタイア後の女性ハイキング組と朝帰りの男女、そして、貧乏暇無しの斜陽教員レベルまで上がっている。早朝からのお仕事で活力有る方々に出会わない。まぁ、朝っぱらから会社に行く方がおかしいと言えばそれまでだが、夕刻、宿舎に戻る際にも戦闘員の乗客が減っているから、とてもではないが、景気回復基調にあるとは思えない。選挙対策の戯言であろう。

愛知の私立大学が少子化と卒業後の就職難から統廃合を始めた。鶴舞大学もご多分に漏れず、とっくの昔に尻に火が着いている。「教師の背中を見せておけば、学生は勝手に着いてくる。講義なんぞ真面目にやる必要は無い!」と豪語していた学長は退任された。現場を知ることのないリーダーに楯突いて筋の通った講義体系構築に努力してみたものの、今度はゆとり世代の身勝手さと組織よりも自分という教師側の不協和音で、小生、疲弊しきってしまった。今一度、大学を出た者の持っているべき力とは何か、人間力とは何か、そして、将来の社会開拓精神とはどうあるべきかじっくりと考えてみたいとは思うが、結果だけが欲しく、哲学が無い社会はそんなことは求めていない。老兵は死なず、ただ去るのみとはこのような心境か。そんな梅雨入り前の週末である。


2010年06月09日

財政健全化を目指すと、一体、何人の政治家が口にしただろう。菅首相も同様にそれを口にする。一方、補助金といういわばタナボタ税金を当てにしている企業は多く、あるいは、道路工事など公共工事だけで生きている日本人は凄まじく多く、寄生虫いっぱいの日本で財政健全化を目指すというのは、相当多くの首を落とすことに繋がってしまう。不幸を減らすと言うのは相当に難しい。下手をすると全員が不幸になる国家となる。出口は必ず存在することを前提に、国民が一丸となれるのか、教育の質が落ちきった国家では難しかろう。嘆かわしいことだが、恐らくそうだ。スペインなどヨーロッパ金融不安の後の緊縮財政に対して、国を挙げてのストライキ状態となっていることからも、恐らく同様なことになるだろう。金は人を縛るのだ。

景気が悪化すれば金が動かなくなる。自動車のように道路と一体となって価値を生む粗大ゴミに寄りかかってきた日本人。ゴミを作ってそれを売って・・延々と繰り返してきた見せかけの豊かさに、これまた延々と寄り掛かる。金が無ければお米を買えない。それは事実である。春先の田植えを経験した者なら解るのだが、一条植えるだけで嫌になる。夏の草取りも、ぎらつく太陽に霞む田圃の反対側を見ると絶望的になる。そんな経験をしたことがない人は、お米にお金を支払う理由が解らないのではないか?労働はゴミを作ることではない。人にとって価値を生み出すことである。

それなりに立派な経歴の持ち主が、倫理観を持って事に当たろうというのだから、根拠は無いけれど世の中、必死の努力が報われる方向に行ってくれるのではないかと期待してしまう。アメリカの傘の下、軍事産業に荷担し続け属国で有り続ける日本という「州」が独立して財政を健全化させることなどできっこない事は解っていながらも、いずれは色あせない価値を持ったものづくりが出来て、その対価を貰って暮らせるような「国家」になって欲しいと願うし、自分なりの努力をしていくつもりではある。

今朝、停止線で一時停止しない車、破裂した水道管から吹き出す水、無理な急加速をして我が物顔で運転する者等々を見た。それを見て腹立たしく思う自分を省みて、四苦八苦は自らにあると悟る。何かを成したいと思えば四苦八苦、思わなくても四苦八苦。成る程、世の中、お釈迦様が感じた通りだが、悟れる菩提樹など何処にもないと、はやり四苦八苦を続ける私であります。


2010年6月7日

嵐のように締め切りがやってくる。例年ならもう少し一息着ける時期ではあるが、本年度はどうしようもない。世の中の経済予測が何故かプラス予測となっているのと同様、締め切りがプラス予測で息も絶え絶えである。企業業績向上で個人消費も上向き予測なのだそうだが、ほんまかいなと世間を見渡してしまう。そんなに景気が上向いているのかなと、先日、ちらっと覗いた吹き上げの電気屋の砂漠と見間違うばかりの閑散振りを思い出す。まぁ、電気屋が閑散としていたからといって消費が上向いていないとは言えない。はてさて、首相がころころと換わる日本はどうなってしまうのか。今週、新内閣誕生である。

久しぶりの土日であったのだが、締め切りに追われている間に終わってしまった。自転車操業の間に新聞を見たのだが、出欠を取るようになった講義では学生の出席率は86%もあるらしいのだが、教師の共通意見として、携帯電話で遊んでいる者、寝ている者が大半であり、やる気の無さで充ちているということだ。何処も同じ秋の夕暮れ。小生のように「寝ている奴は来るな!」と叫ぶ教員は少ないのだろう。叫んだら本当に居なくなってしまったから教室的にはやる気のある学生だけが残っているとは言うものの、余りにも閑散としたその砂漠振りには情けなくなる。若者が学問に打ち込まなくて、一体、この日本はどうなってしまうのか?

今朝のNHKによれば、旅行先すらゲームのポイントが溜まるからという理由で選択するらしい。携帯電話でのどんなゲームか知らないが、出歩くとポイントが溜まっていく仕組みらしくて、それと現実とを結びつけて、遠距離であればあるほどポイントが溜まるから、日本レットの半分くらいの距離を飛んでしまう。また、お店もそれに便乗して、収益向上に繋げているという。文化などへったくれもなく、伝承される哲人の言葉も当然無い。旅行代理店にしてみれば、感動など必要なく、単に収益向上があれば良いのだから、ゲーム神様仏様というところなのだろうが、出席だけして携帯ゲームにうつつをぬかす学生連中より行動しているだけましかなと、なんだかお寒くなるばかり。

自分自身、反省する点が多いのだが、「勉強しない、丁寧に話す、それにつけ込んで怠惰になる、更に丁寧(低レベル)になる・・」の究極の循環にはまり込んで、本来の大学のあるべき姿を放棄している。「解らない奴が悪い」という単純な図式が今は通用しない。文科省すら大学の講義時間数まで目くじらを立ててくる時代だ。「寒いから休講」なんて穏やかな時代は遠い昔だ。先生の不可思議なお話を聴くことこそ講義だと思っていた。今、それをやろうものなら、教科書以外のことばかりでわけがわからんとネット上で晒し首だ。小生などは気にしないが、多くの教師が四苦八苦している。そんな大学から新入社員を採用するのだから、企業の行く末も見えている。日本の行く末も暗澹たるものだ。何処までつっぱっていられるか。限界は近い。


2010/06/04

公共交通利用促進等マネジメント協議会なる天下り団体が国交省にあって、自転車通勤などを促進・啓蒙し実践していると「エコ通勤優良事業所」として認証して頂ける制度があるらしい。国土をアスファルトとコンクリートで固め自動車社会を推進し、巨大工事の利権を吸い上げ続ける国交省が国民からの突き上げを躱す一方策であることは明々白々なのだ。自転車優先ラインもなく、歩道が自転車と歩行者の相互乗り入れとなっているなど、安全地帯の設定と危険回避が優先されるべきで、そのような整備もなく目先のCO2削減や健康運動促進などの見せかけであってはならない。まぁ、単純な国民はころっと騙されるのだろうが。

自転車利用は慣れてみると大変な事では無いのだが、いかんせん、自動車との戦いは危険きわまりなく、一般民間人にお勧めできる状態に日本はない。特に大都市圏ではそうだろう。名古屋の朝、幹線道路沿いを走ってみると解るが、狂ったような猛スピードで駆け抜ける自動車達がこれ見よがしに幅寄せしてくる。露出の少ない着衣とヘルメットは必須で、何時、ガードレールに挟まれてもおかしくないことを覚悟の上での自転車通勤だ。汗をかくのは気持ちが良いが、精神的に良いことは一つもない。

小生のように宿舎からバスに乗り、地下鉄に乗り換え、地下鉄からそこそこ距離のある事業所に勤務していると、自転車で一直線に事業所に向かったほうが早い場合、もしも安全な経路であるならば自転車通勤は気楽である。終電・終バスに囚われずに仕事が出来るのは気楽だ。しかし何度も言うが、危険と隣り合わせである。更に、通勤時に汗だくになるので、事業所で汗を拭けるなどの環境がないと、とてもではないが一日、仕事にならないだろう。かなりの環境整備が必要となる。企業ぐるみでアシストしないと「エコ通勤優良事業所」認定は受けられないだろうし、社員を自動車事故で失う度胸も加わらないといけないとなると、如何に国交省が平民感覚 から遠いところにいるか解ろうというものだ。

国立大学法人で、JRや地下鉄など、主要交通機関から徒歩10分圏内にあるような事業所は、一切の自動車通勤を認めないなどの措置を執れば宜しい。公務員宿舎などは大概、公共交通機関の駅まで歩いて行けるところにあるのだから、それで十分なはずだ。構内で学生をはね飛ばす危険も大幅に減少する。それで宜しい。ほめる仕組みを作るより、ほめられる仕組みの構築が先だ。そして何よりもほめようとする気持ちが大切だ。自転車通勤は口で言うほど楽では無い。やってみると解る。しかし、遠いからだとか不便だからとかの言い訳で自動車通勤をするような輩は仕事も出来ないから、さっさと解雇が宜しい。そんな所から国家立て直しが始まるような気がしてならない。そんなものだろう。


2010年06月03日

人から何かを付託されたとはどのような状態を言うのであろうか。人事、外交、予算を、少なくとも身内からは全幅の信頼を得て活動できる状態を言うだろう。官僚との衝突の後軋轢を生み、身内にも壁があり、そしてなにより安定よりも国民の陰口を喜ぶマスコミと低俗な国民が不安定な政治を生んでいることに気が付かないバカだらけの国家にリーダーが存在することなどあり得ない。混乱ぶりだけは室町幕府末期の状態に似ていると思う。有力大名が存在していた当時はまだましで、財政破綻、米国の属国化している日本にリーダーなど育つわけは無い。英語教育は大事かもしれないが、他国語の前に日本語であろうと感じる文化放棄教育に見られるように、今こそ「米国との関係の見直し」、「米軍の存置理由」、「専守防衛」という国家のあり方の国民への浸透、「日本文化」を軸にした海外戦略。そんな当たり前のところから、真面目に国会で議論して頂きたいものだ。

普通に息を吸い、国土を歩く。この当たり前のことが、GHQ占領下には許されていなかった。ついこの前のことだ。密約があっただのなんだのと大騒ぎするが、当たり前のことだろう。当時は冷戦下であり(今もだが)敗戦国が無条件に独立出来るなどあり得ないではないか。ずるがしこい鬼畜米英が黄色い猿の島を、黄色い猿だけの楽園にしてほうっておくと考える者は本当に猿だ。猿の意味は人間に進化していない文化のない野生の知性という意味だ。いや、猿すら最近の研究では文化を持っていると解ってきたから、それ以前の状態といえよう。ダムから始まった国土の再建が、職と食べ物の為であったことをもう一度振り返るべきだ。余裕、余暇を生むための仕事などあり得なかったのだ。

経済再建の五本柱なるものが発表されたわけだが、民間に任せておけば良さそうなアニメの海外輸出なんてものまで国家プロジェクト化されていくことに不可解・不愉快感を抱く。バーチャルシステムは医療等で重要なポジションにあるのは疑いはない。しかし、所詮はバーチャルである。「嘘」なのである。医療ロボットとて人間同士が助け合うという本来の姿から見れば虚構なのである。銭儲けは出来るかもしれない。老練が若輩を育てることは、若輩が無意識に老練に感謝することと同意でなければならない。そんな自然の感謝無くして、目先の経済だけを追いかけて現状のウルトラスーパー赤字国家に成り下がったことに、未だに気が付かない馬鹿国家は沈没して消滅してしまったほうが世界のためには良いかもしれない。

いずれにせよ、総理大臣が替わってしまう。教壇に立って感じるのだが、恐ろしく難しい内容をゆとり教育で「困難に立ち向かうこととそれを乗り越えることの素晴らしさ」を体感してきていない若輩達がどうやって栄養にしていくのかと言うことだ。何かの事例を出せば「もう世の中にはやることがない」と言う。初めて聴いたことには「初めてのことを理解できるはずはない」とそれこそ最初からスキルアップを放棄している。老兵は去るのみだが、去る場所もないことに溜息も出ない私であります。


2010年06月02日

日本らしい、いや、日本人らしいと思う。東の果て、島国で危機感無く、全てが人任せ。努力し、抜きんでようとする者は足を引っ張り、風評で潰していく。一度、「任せた」と言っても直ぐに前言撤回の朝令暮改。5本柱の国家戦略などが経済産業省主体で提示されたが、その5本柱を支える人材がどれだけ居て、本当にその柱に付き従って大丈夫かと、最初から不安に思ってしまう。その他の産業は一体どうなるのかと、捨てられた精密産業屋さんなどは、ついこの間まで主力と言われていたのにと寂しい想いすらする。世の中、進化していくのだから何が起こっても仕方がないが、この国で流れていく時間、流していく国民に、なんだか、同じ国民であるはずなのだが、信頼感も信用感も持てない自分が微妙に悲しい。

総理大臣はころころ変わる。言ったことを守らないという国民だって、任した連中に任せきらない。外国の物を買うしかない円高が延々と続く。もっとも魅力有る製品が国内から出てこないのだから仕方がないが。その魅力ある製品を作ろうとする若者も居なければ、作らせようとするベテランも皆無と感じる。皆、我田引水。勿論、小生もそうだが。公共交通機関に乗ると良く見えてくるのだが、周囲への気遣いの無さ、傍若無人、馬耳東風。椅子に荷物を置いて老人を立たせておくなんてへっちゃら。でかい声でべちゃくちゃと騒ぎ、でかいリュックで背後の人を蹴散らす。こんな連中に人に使って喜ばれる製品など思いつくはずがない。

昨日、生協の売店を歩いてみたら、USBポートに接続して使う、4インチサイズの扇風機を売っていた。手をかざしてみると結構な風量である。これだけの空気を動かすには相当の電力だろうなと、古いノートPCの無事を祈ってしまったが、エアコンを着けてぼんぼんと部屋を冷却するよりはずっとよろしい。空気が動いているだけで、汗ばんだ体は冷えを感じる。セルフ打ち水効果だ。こんな小さなものでも流れが出来れば省エネになり、その心があれば小さなことに気付くようになる。室内が30℃を越えるようだと厳しいが、それ以下であれば小さな気遣いで事足りるのではないか。

事足りていないと感じるからいかん。どんなに物が溢れても事足りる気持ちを持てなければ優しくなれないし、本当の満足は得られない。山のてっぺんに到達出来た時の不思議な満足感は得られない。自分に満足をもてない者は他人に信頼を置けない。そんな者同士が作る世の中は寂しく荒んでいる。悪いことは他人のせい、自分がやったことには他人は感謝すべきと言う考え方をいい加減に捨てないと、ギリシャ張りに国家破産の域に達するんだろうなと、これまた戯言の作者らしく、他人を決め込む私であります。


2010/05/31

i-Padを見た。持った。それだけであるが、極めて微妙な感触であった。結構、面白そうだなと思っていた端末ではあったが、う~ん、どうなんだろうという思いも巡った。カラーで軽くてでかいNewtonと自分には見えた。Newtonを知らない人のほうが多いから、この例えではなんのこっちゃと思われるかもしれないが、世界初のアシスト機能を備えたOSを搭載する「電子秘書」であった。i-Padはそこまで気が利いて無さそうだしネットデバイスとしては若干の制約が有りそうだし・・アーリーアダプターには成れそうにないなと、当面、模様眺めを決め込むことにする。そもそも何とかしてエレクトロニクス離れを実現したいと願っている小生として、ますます電脳社会にどっぷりと浸りそうなデバイスは危険な香りがする。

アシスト機能と言えば、先日、恒例の産業戦略工学専攻合宿が行われた。例によってY教授と先行・車中泊・登山・温泉・ビール・・午後からの講義前にここまでこなす。社会人学生の持ち込みテーマプレゼンが開始されるのだが、2枚のシート経過後、聴講の価値無しと判断出来、直ぐさま船を漕ぐ。終わると不思議と目が覚め、質問中は起きていられる。そして次の演者も、そのまた次の演者も、結局全員が船漕ぎをアシストしてくれた・・という落ちではない。よくもまぁ、これで社会人でございと威張っていられるものだと悲しくなってしまう。大学をお出になっていらっしゃる方々だから、むしろ大学人の責任大で、船を漕いでいる場合ではないのだが、あまりにもあまりなので、船出をしてしまったわけだ。

本当に言いたいことはここからで、カーナビやレーダー探知機のアシスト機能の素晴らしさである。頼みもしないのに良くしゃべる。速度を落とせ、右だ、左だと、前もって教えてくれる。カーナビの言いなりで運転の楽しさって有るのかなと、助手席で見ていて呆れかえるほどである。小生はカーナビなどと言う近代兵器を持って居ないので驚かされるのだが、電話番号を入力するだけでその店まで連れて行ってくれる機能など、I-Padにも欲しい機能だと感じた。ひょっとすると有るのかもしれないが、席の予約なども勝手にしてくれると助かるなと思うのだ。小生がカーナビを持たない理由は基本的に複雑な場所へ行く暇がないこと、呼ばれた場所に公共交通機関で出掛けて事故の可能性を減少させるということに尽きるのだが、持ち歩く電脳があれば、やはりアシスト機能は欲しくなる。

専門分野を登録しておけば、朝出掛ける前にネットからアクセス数が多いページを勝手にダウンロードしておいてくれて、要約文まで作ってくれる機能などは実現出来ても良いであろう。書類を閲覧するというのはさらに仕事を増やしてくれるだけで嫌だが、電車に連続して30分以上乗車しているようなシチュエーションなら必要な機能だ。勿論、お節介だが「これを何時までに読め」と言って欲しい。いずれにせよ、何となく思っていたより小さく、厚い端末で、ぐっと来たかと言えばそうではない。今はそれどころではない。余裕など無い。心の底からほっとしたい気分を味わいたいと、1秒でもいいからそんな時が欲しいと願うようになってしまった、「へたれ」の私であります。


2010年05月25日

ラッシャー木村さんが亡くなった。腎不全からくる肺炎という、なんだか素人では理解し難い症状で亡くなるところが、馬場さんに通じて木村さんらしい。ご冥福をお祈りする。自分「だけ」の生きざまを形の上で貫いたその姿は、自らの馬鹿馬鹿しい程の叩き突けるような猛然と爆発的な、生まれてきたことへの猛省と言うか、存在価値を形にしか出来なかった想いを、どかんと共感出来る者への挑戦状として、叩きつけるその姿は美しかった。和製レスラーなどのカテゴリはどうでも良くて、美しく激しいプロレスの最後の生き証人が消えてしまったことに衝撃を受けている。馬場さんで終わったプロレスを地味に楽しく後生に繋いだ木村さんの功績は大である。

学生時代によく行った「正ちゃん食堂」の強烈なおばちゃんが、金曜日になると20時早々に暖簾を入れてしまって、テレビの前から動かなくなった。プロレス中継に夢中になって、一応、客の我々などほっぽらかして、「だぁ、とぉ~、むぉ~お、ばかぁ~・・」と叫びまくっていた。「すみませんねぇ」と知り合いの親爺さんに「いっすよぉ」とセルフサービス状態で一緒になって楽しんでいた。ブラウン管の向こうには、馬場さんが居て、猪木が居て、ラッシャーが居てハンセンが居て・・それはそれは愉快でいい加減で、それでいて熱くなった。

最近、全くプロレスを見なくなった。ボクシングの試合を時々見るくらいだ。柔道や相撲であれば、間違いなく勝負事であり、正々堂々と戦って勝ち負けが決まればそれでよし。娯楽性は必要ない。小生が知っているプロレスは娯楽であって戦では無いのだ。K1などという殴って蹴って、喧嘩の延長みたいな、無益な殺生を繰り返して大喜びしている闘士と観客をテレビでちらと見たことがあるのだが、つまらないことこの上ない。格闘ゲームの実写版で、醜悪である。

現代のリセット世代には数分で殴る蹴る、そしてお仕舞い、そして次の選手・・という流れが良いのであろう。61分一本勝負という、徳俵みたいな制限時間で、必殺技で最後を締めくくることを約束事として、いくつかの山場を見せて行く、ドラマ仕立てのショーであった。戦後の元気のない人達に夢と力を与えてくれた力道山からの流れを脈々と築いてきたそのプロレスが、ラッシャー木村さんの死で終焉を迎えた。そんな気がする。正ちゃん食堂のおばちゃんは、今、どうしているのだろうと、ちょっと懐かしく思った私であります。


2010年05月24日

ひたすら雨が降る。極地に近いところでの大噴火とは関係は無かろうが、天変地異は突如としてやってくる。梅雨前線が日本上空を行き来するシーズンになったなと暢気に構えていることも出来なかろう。今日は東海地域では2、3時頃に大雨になると言うことだ。東南海大地震などがその時刻に発生しないことを祈ろう。悪いことは必ず重なるというが、天変地異の連鎖だけはごめん被りたい。

天変地異というわけではないが、電気製品に組み込まれているコンデンサには寿命があって、その劣化によって小生のオーディオシステムのメインアンプから微弱な雑音が発生するようになった。これまたプリアンプがおかしくなったなと感じて代打に置き換え主役の修理を行おうと、数年前から時間が無く引っ張っていたところにメインのダウン。同時期に立ち上げたシステムだから、同様の寿命で消耗品交換となるのは理解できるが、30年前と動規格の部品を探すのが面倒だなと思っている次第。

仕方がないので、マッキン派の小生ではあるが、マランツも人のお宅で聴かせて頂いた記憶があり、メインの代打にマランツのアンプを投入してみた。それ程のものとは感じはしないが、604Bをそこそこ鳴らしてくれるようだ。高能率スピーカ故に5Wもあれば十分で、アンプの直線性は問題なさそうだ。古いアンプの代打にほんの少し若いだけのアンプを投入するところに馬鹿馬鹿しさを感じるのだが、そこは「おたく」の楽しみであり、オーディオとはそういうものだと思っているから、これで良いのである。

オーディオユニットの交換は天変地異同様、重いラックを移動させ、ケーブルを張り替え、電源ラインの配置変更など、音に影響する部分をことごとく変更せねばならず、極めて厄介且つ憂鬱な作業なのである。梅雨を鬱陶しいと感じる如くに、一度決まった約束ごとを変更するには強い意志が必要だ。まもなくやってくる東南海大地震を思うと、アンプがどうのこうの言っている場合では無いのであるが、とりあえず、メイン機器のオーバーホールは可能になった。しばらくはおたくの楽しみで、この際、多くの部品を交換しておこうと思う。貧乏書生時代に手作りしたアンプであり、プアで我慢した部分も多々ある。残りの人生がどれほどあるか解らないが、気持ちよく使えるよう、リフレッシュさせたい。機械と人間とはかくあるべきだ。


2010年05月20日

授業が変われば大学が変わるという幻想、妄想に満ちた書籍をみた。どんな屁理屈が書かれているかと思えば、納得できる項目を見つけることすら出来ないほどの、絵空事に満ちてはいたが、しかし、一般社会の方々がどのように大学を見つめているのかを、そしてしらけているのかが分かっておもしろかった。大学不要論の最右翼と言っても良かろう。実際のところ、小生もそう思う。大学で学びを得た者が社会をどれだけ明るくしているかという指標で評価すれば、日本の大学は全て失格だ。虚業のみが正義であって、実業など無駄な活動であるという社会評価を見れば分かることで、特に工業大学など、日本においては存在意義はゼロだ。

物質的に満たされた社会に対して、夢や希望を抱けというほうが難しいかもしれない。恐らくそうだ。閉ざされた社会では、開かれた視野は現在の否定に繋がるため、極力視野を狭くする教育が幼少から成される。今の否定などもってのほか。盲目であることを良しとした教育で育てられた者達が、何かを創造するのだ!などと思うはずがない。思うはずが無い者を、思わせることなど無理だ、面倒だと思っている者が相手をするのだ。世の中が明るくなるはずはないではないか。授業が変われば云々などという絵空事を振り回す前に挑戦することは沢山ある。

これ以上は東に行けないところにある日本。冬に海が閉ざされない限界の極北東。古くから伝わる文化らしい文化が無形文化財として守られなければ消滅する奇異の国。明治政府の自爆行為と、大戦による根本破壊、そしてやりたい放題のおもいやりレス国家。祭りがあっても金儲け目当てが殆ど。そんな「教育文化」を持つ日本で、授業が変わって何が変わるものか。おおあくびの女性が町中を闊歩しているような国なのだ。愚かで汚らしい外面が、堕落し腐敗しきった精神を纏っているのだ。山村で理科教育をしてくると、よもや今の都会人の姿に将来はなるまいと思うのだが、純真精神を抱いて将来を背負ってくれる若者が霧散してしまうのだ。

電気系大企業の黒字経常が決まったようだが、何故にそうなっているのかさっぱり分からない。いろいろなからくりがあるのだろう。国家の赤字が増大し続けている中で、企業は黒字を出し続ける。何故、国家の赤字は黒字方向に向かわないのか?大企業が黒字になったのなら、企業支援策など直ちに止めてしまえば良いし、国立大学法人への支援もストップすればよい。途端に中小企業は壊滅し、大学も10校くらいに減るだろう。国民に明日をイメージさせない国家は既に滅亡しているし、その国家に頼りきっている企業、大学も何も生まない。まず教育は腐敗国家から独立し、自らの意志で教育方針を決めねばならぬ。しかしそこには血が流れるだろう。お互いの傷を舐めあってきた人事の積算分だけ血が流れるだろう。今この瞬間にその血が流れなければ、決して教育による国家改革はあり得ない。そこまできている。


2010年05月19日

以前、鶴舞大学において会議向けに電子ペーパーを企業とともにM先生が開発されたとここに書いた。速度的な問題等々、そして事務方のアシストが殆ど望めないような状況下で採用は時期尚早ではないかと書いたが、実際に使ってみて認識が変わった。贅沢を言ったらきりは無いが、十分に使えるものだ。そして会議の有り様(これは情けないものだが)を良く知っている人が企業と相談をしながら作り上げたシステムになっているだけに、使い勝手が良いのだと思う。小生は新しい端末おたくということもあって、会議当初、進行役がなんか言っているなぁと馬耳東風、ボタンを押しまくって納得しまくっていた。

会議の度に殺人的に増えていく二度と見ない文書には辟易するし、何処のページを開いたら良いのかさっぱり分からない議事進行にうんざりしていたので、会議はこれで十分と納得した。更に言うなら、議事メモを取るために配布される1枚の紙も無くして欲しい。会議に参加するのだからメモ帳くらいは持ち歩いているのだから、ペーパレスを目指すのならば、とことん、そちらに踏み込むべきだ。

電子ペーパ端末はキンドルくらいしか見たことがなかったが、日本語のPDFが会議資料を見るのにさほどストレスを感じないレベルでぱらぱらとめくれていく様は気持ちが良い。議題にショートカットボタンが振り付けられているところなど、会議中のストレスを軽減する方策として納得できるソフト構成に、作る人が作ればここまで快適になるものだなぁと、「今日の会議は何だったっけ?」と端末いじりに「さる」になってしまった。これならキンドルは売れるだろうし、iPadもバカ売れするのも納得できた。

会議専用端末を触った後だったらiPadの初期申し込みに飛びついてしまったろうが、危ないところで踏みとどまれた。キーボーダーの小生であるが、電子ペーパーによる会議の無駄の除去は好ましいし、次は端末よりも会議に打ち込めるだろうから、多くの機関が採用していって機械が進化してくれることを願うものである。ノートPCと違って内職も出来ないし、発言しない無能者の浮き彫りにも最適だ。上手な使い方をすれば人間のアシスト機能に充分になり得ると感じた電子ペーパー実務初体験でありました。


2010/05/18

長良川河口堰構築に伴って、国が漁業関係社にあれやこれやで支払った金額が約十年で約56億円になるのだそうだ。稚魚やら魚道の整備やらにお金を掛けたらしいのだが、全く利用価値の無い河口堰を作って、魚が無くなった、戻ったと騒いではお金のやりとりをする。漁協側が魚が減ったと言えば、国側は、いいやそんなことはないと言い張る。そもそも論で言えば、魚を捕るために人が集まり集落が出来た。その命綱に蓋をして、工業的に水を利用しようというところから考え方がおかしい。土木工事関係者にお金が行くような仕組みになっていて、人間の自然の営みは全く無視される。極めて日本らしいではないか。

同様にと言ってはいけないのかもしれないが、口蹄疫などが勃発すると、直ちに支援が成される。零細企業がつぶれそうになっても決して助けてはくれないが、農家となれば一大事。直ちに支援の手がさしのべられる。これは一体どういう価値観なのだろう。ものづくりも牛飼いも、食を得るための方便としては同じではないか。突然の不況も伝染病も、予測不能性という点では同じではないか。戦争に負けて勝った側が負けた側に居座って基地を作りまくるのとは分けが違う。仕分けも良いが、日本はどうあるべきか、日本人とはこんな生活をしている民族だと、明確になって良い。国旗はためく元に有り難みを感じない国家は国家ではない。

河口堰による自然変化は当然、人災だ。口蹄疫は、元々、牛・豚類に発生する病気だ。免疫の無い環境で育てていることが根本問題であるならば、これまた人災だ。今、中国南部で降りまくっている豪雨で一千万人以上が被災しているが、これも温暖化でヒマラヤの類から上がってくる水蒸気や、揚子江を堰き止めて出来上がった巨大湖(もう、地中海と言って良いだろう)からの水蒸気が雨となって降り注ぐとすれば、これまた人災である。地球にちょっかいをだすと、必ずリアクションがある。自然とは他を受け入れない力強さである。人間ごときが何ができるものか。

松坂大学が自校ブランド商品を作って販売を始めた。元を取っているほどの売り上げだそうだから、半端な物では無かろう。法人だからどんどん儲ければ良いとは思うが、それは「あり」なのだろうか?形振り構わず儲けに走って、自校名を売りまくる戦略が大学の経営を支えるようになっては、もう、教育機関とは言えないだろう。こうやって一校、一校、本流から脱落していくのだろう。鶴舞大学で売るとすればなんだろう?ふと考えてしまった私であります。


2010/05/17

我が国の歴史を紐解いてみると、現代日本の独立が1952年だ。土木工事による日本復興を掲げた佐久間ダムが1953年着工だ。そんな我が国がこれからどうなってしまうのかと考えるタイミングとして、独立還暦の2012年というのは妙ではないか。再来年である。日米安保を徹底的に見直して、本格独立しては如何か?独立国家だから国防は独自意志だから、米国軍のお守りをする銭を自衛隊に振り当て、真面目に専守防衛、そして意志強固に独立路線に向かっては如何か。勿論、教育による文化深化(テストの点ではない)、人間力向上が抱き合わされないと、あっという間に消え去ってしまうだろうが。いずれにせよ、自動車や電気機器は現地生産に移っていて、外貨獲得方法が変わってきているのだから、日米安保にしがみついて、米国からお情けを受けるのは、独立還暦で返上するべきだ。

自分の親父等の世代は凄いなぁと、歴史を振り返ると実感するのだ。零戦の操縦桿をペンに持ち替えて日本復興に命をかけてそして消えていった。その意志を思うと、今の自らの生ぬるさが情けないのだ。また、国家の仕組みが情けないのだ。学問のみならず、民族としての歴史、文化を伝えるべき最高学府に振り分ける予算を持たず、国家の借金は増えるばかり。今後益々、大学に対する税金の投入は減って来るであろうから、そろそろ潮時かなと思うわけだ。向上心のない大学院生や学生に満ちたキャンパスは、砂漠よりも乾いている。まぁ、他人におんぶにだっこの社会人も似たようなもんだが。

隙間時間が無くて、よくもまぁ、こんな戯言を書いているもんだなと苦笑しつつ、それでも何かをしなくてはと思い続けているのだ。二束三文マスプロダクト路線はもう止めて、乾坤一擲、最後の勝負に打って出たいものだと思うのだ。来る日も来る日も、戯けた政治家が足を引っ張り合い、本質議論から逃げまくり、我が国企業は万博景気の中国販路だけで生き延びて黒字路線回復だと、国民を欺き、そしてマスコミもそれを助長する姿を見せられて、誰が国家のために働こうと思うか。

と、まぁ、こんなわけで、後、数年頑張れれば御の字なんだろうなと、真面目に考えている、今日この頃である。


2010年05月12日

今朝、本当に気温が下がって驚いた。街で蝶を殆ど見かけないのだ。ミツバチ等の蜂に関してはなんとか言うダニなどが寄生して多くが死んでいるらしいが、蝶などは春先の騙すような暖かさに羽化し、その直後の真冬の寒さで死に絶えたのではないかと思う。自然の厳しさの繰り返しと言うことになろうが、人の世も同様ではないか。トヨタ自動車が奇跡的な黒字を計上したらしいが、その要因が徹底したコスト削減にあるという新聞の下りに辟易する。親会社のコスト削減はそこに寄生した中小の餓死を意味するわけで、蜂のようにダニを撲滅できなくて倒れる宿り主とは異なり、流石に強いなと、半ば、呆れ返る。

突然の寒さに対応し生き抜く生物もあれば、一気に死に絶える例もあろう。これを我が身に置き換えれば、毎年繰り返される予想外の仕事の増加で四苦八苦しているようでは、死に絶える側にいたのだなと、準備不足を恥じ居るだけである。昨日、夕方に名駅で会議があったのだが、その後に鶴舞に戻る際、帰宅者の雪崩に目眩がした。この人達には定時に帰宅できる余裕があるのだなと。

一方、某R社がSiCショットキーダイオードの量産を開始したとのニュースを見た。昨年のS社の発表に続くものだが、実際に製品の量産を発表していただいたことは心強い。スイッチング損が同等のSiダイオードの三分の一程度に抑えることが出来ているという事で、当初の目的の省エネ化が達成できたことは喜ばしい。高価なのは想像付くが、どんな企業がどんな製品にそのダイオードを利用していくのか、そちらのチャレンジに期待したいところだ。省エネという言ってみればあまり目立たない製品の置き換えに挑戦できる日本企業がどれだけあるのか。概観してみたい。

寒気は突然入ってくる。自分ではどうにもならない黒船にどのように対処できるかは日頃の準備だけに掛かっている。黒船を黒船と感じてしまう気持ちに、既に油断があるのだろう。達観し進むしかない。それが出来ねば沈むだけなのだろう。やむを得ない。


2010年05月11日

再び気温が下がるらしい。農作物への影響など悪い方向に行くことが多い五月連休明けの寒気である。山形の柑橘類ではないが、人間以外にも寒さ対策が必要となろう。ワールドカップ出場に微妙に浮かれる日本ではあるが、折角出場するのであるから、なんとか一勝くらいはして欲しいものだ。数回前から感じていることは「必死さ」が全く感じられないこと。身体能力に劣る日本チームが勝つ可能性があるとするならば、必死さにこそあるように思うのだ。これは何もサッカーだけではなく、研究だろうが遊びだろうが、「これを失ったら死んでも良い」という思い入れと気合いが必要だ。艱難辛苦汝を玉にすという奴だ。負けて元々と甘えている限りは絶対に勝てない。勝のだという強い思い込みこそが勝利の切り札である。一勝はして欲しいと願う。

北極振動によって寒気が日本近海に流れ込んでくるらしい。ここ数年、やたらと暖かかった春であったので、今年の寒さには体がついていかない。数日の酷暑を挟んでの寒気だから、体長維持をするのがとても大変。地下鉄車内を見渡してもマスクをしている人、ゴホゴホと咳をしている人が目立つ。真冬のコートをまとっている人も居る。季節がすぱっと切り替わると思っている方が悪いのだが、暦は視覚的に思い込みの体感温度を決定してしまうところがあり、梅雨入り前のじめじめ感覚に気分が入り込んでいるが故に、少し寒くなっただけでびっくり仰天。どうも体調が思わしくない。喉の激痛がようやく収まったが、薄ら寒さが続いている。たるんでいる。

プロ野球にしてもそうだが、やたらとチームが多く、だらだら感が否めない。日本人が減少し続けているわけだが、30代前後が一番多い今は良いが、もうしばらくすると数百万人単位で激減するのだから、選手層も必然薄くなろう。相撲の如く日本人が勝てなくなる姿同様、野球もサッカーも日本人不在となる前に、チーム編成など抜本的改革が必要ではなかろうか。それと同様に、良く言われていることではあるが、政治家の数をどんと減らすことも必要だ。昨日まで柔道をやっていた人が突然、国会に登壇して世の中をリードできるかと言われればかなり難しいように感じる。当人には申し訳ないがそうだろう。そんないい加減な状況もお寒い昨今ネタらしくはあるが。

梅雨入りを思わせる朝の雨。お寒いことが続いている我が国ではあるが、そんな暢気な事を言ってはいられない。いられないからとて時は短い。玉にならなくても良いから、艱難辛苦よ立ち去ってくれと願う我が身の浅ましさである。情けない。


2010/05/10

山形県が生産物の幅を広げるため、地球温暖化を逆手にとってゆずやすだちなどの温暖地域を好む産品の試験栽培を始めたというニュースを見た。どうせ止まらない温暖化なら寒冷地で温暖地域の作物を育ててしまえと言うことだ。ただ、山形は雪が深く、夏は暖かくなるかもしれないが、冬に雪に埋まってしまって、樹木が越冬できるかどうかがポイントらしい。小生もレモンの栽培を種から行ってはいるが、苗の時代に雪や霜に当ててしまうと一巻の終わりになってしまった経験がある。現在、二度目の挑戦中であり、昨年からの雪や霜の殆ど無い冬のお陰で、今年は越冬してくれて、数本の苗が育ってはいる。これは趣味の範疇であり、山形の場合はリンゴやサクランボだけにしがみついていては農業収入がどうなるか解らないからと言う、瀬戸際の挑戦だ。

サクランボなどはごく希に口にすることはあるが、小生、好んで食べたいという代物ではない。リンゴも実は好きではない。贅沢だと言われるがそうではない。ちまちました、種だらけのものは嫌いだし、リンゴは農薬漬けみたいな生産方法を知って以来、買ってまで食べなくなったと言うだけのことだ。日本の農業生産物の殆どは農薬まみれで、遺伝子破壊一直線の状況である。ゲーム脳などと、切れる人達の脳の疾患を話題にするが、小生はそれだけではなく、食べ物も極めて大きな要因となっているのではと思う。

話がそれてしまったが、温暖化によって生産物を変化させるというのは歴史上繰り返されてきたことでもある。スサノオノミコトが出雲から温暖な日向まで遠征したのは、寒冷の季節に食物を得るためだし、更に寒冷の朝鮮半島から強い苗を日本に持ち込み栽培したという実績を二千年も前に実現している。北海道での米作だって大変な努力によって成し遂げられたもので、先人の努力の賜である。山形の試みは容易な事では無かろうが、頑張って続けていると雪に耐性を持った品種に変異するかもしれないし、ビタミンを得る手段としての柑橘類は有り難いものなので、是非とも成し遂げて頂きたいと思う。

15歳未満人口が激減の一途を辿っており、総人口の13.3%だけが15歳未満と言うことらしい。絶対数で言うと今の中学生の3年間人口が最も多く356万人居るらしい。単純に3等分すると1学年当たり115万人だ。国立大学の全入学定員が約10万人だから、国立大学を削減する理由は見あたらないようにも感じる。私立大学は4大が約550校、短大が400校、定員は47万人であり、国立大学と併せると57万人分の枠があり、一学年の半数は大学進学が可能という数字だ。勿論、受験生の希望が平準化されているわけではないし、進学しても就職先が無い学科も多数有るから、受験倍率が2倍ということにはならない。山形のゆずやすだちへの挑戦では無いが、更に減少を続ける学生数に対応した質の高い教育組織作りに取り組み続けていかないと、立ち枯れという状況になるのは目に見えている。今の維持より先取りする挑戦は困難を伴うが、世界を見渡して、日本の教育組織のあり方を血を伴って行っていかないと、役に立たない基地を押しつけられるだけの国に成り下がってしまう。ある意味、勇気を頂いた山形の農産品種目増加挑戦の記事であった。


2010/05/06

風力発電の丘を見学した。前学長曰く、あのような醜い電力発生機構は許し難い!、とまでは言わないが、低周波による脳波異常などを引き起こすという持論を確かめに出掛けた。思い込みでは批判が出来ませんからね。それでどうだったかと言えば「もう二度と行かない」と断言しよう。あれはいかん。あれはグロテスクなだけではなく、「もしもあなたが方向感覚が鋭くて、身勝手な人間では無い」とするならば、気が変になること請け合いだ。あれがあるところで暮らしたいとは思わない。太陽電池も嫌いだが、風力発電はもっといかん。あれはいかん。地球が回るエネルギーまで、電気という娯楽エネルギーに換えようという人間の浅ましさを感じる。

連休中、ずっと机にかじりついていたわけだが、それだけ追い詰められた生活を何故にしなければならないのか?その追い詰められっぷりから逃げ出してみようと、巨大発電機を見学に行ったわけだ。十数機が立ち並ぶ風の丘は、確かに凄まじい風が吹き荒れ、稜線の樹木は風に倒され、年中、強烈な風が抜けていき風力発電にはもってこいの場所であることは理解できる。地域にしてみれば税収に繋がる機器設置であるから、強く促進しているのであろう。渥美半島などでは低周波障害があるのかないのか議論が始まったばかりの風力発電だが、実際に行ってみれば解る。気が変になる。

渥美半島の風車には数年前に行ったのだが、その時は回転速度がそれ程速くなく、おっかないとは感じたが、恐怖は感じなかった。今回見学させて頂いた場所では背筋が凍るというか、不気味を通り越して犯罪を感じた。どうしてそれ程までに電気が欲しいのか?化石燃料がどうのこうの、地球温暖化がどうだのという議論の前に、どうして人は電気を必要とする生活をしないといられなくなってしまったのか、それを見直すべきだ。

ひたすら活字を追い、文書を作る仕事をしていると、何だか馬鹿馬鹿しくなってくる。もう、いいのではないかと思いたくなる。馬鹿馬鹿しくなって少し気になっていた風車を見たら、ますます馬鹿馬鹿しくなってきた。生きている限り馬鹿馬鹿しいのであるならば、馬鹿馬鹿しくない道を探すことも良いであろう。そんな気分になった風車群であった。


2010/04/30

世間では連休となるらしい。小生はと言えば、大勢の方に奪い去られている時間を取り戻すべく、書斎にお籠もりだ。連休くらいまでは前年度のアポが詰まりきっていたので仕方が無かったが、連休明けからは新規飛び込みはお断りにさせて頂きます。税金活用は学生の教育が主目的であるから、それに関係のないお申し出はお受けしない。組織としてワンストップ窓口があるわけだから、それをご利用下さい。組織としてお受けしたお話であればトラブルも無いし、当然、ご対応致します。勿論、OBの方々は常時OKだから、お気軽に。

新聞によれば、東名高速は大混雑らしい。混雑するなら前の料金体系でも良いと言う人が出てくる。日本国民とはそう言う連中なのだ。安くせよと合唱したと思えば、いざ、そうなってみんなが安く利用できるようになってみると、小銭を持っている連中は、貧乏人は出て行けと言う。何と嫌らしくさもしい連中であることか。TVで紹介された庭を持つ過程に、勝手に土足で入り込み対応せよと迫るんだそうだ。このあたりもプライバシーを完全に無視する国民性が出ていて気分が悪い。

ルネサスなど、フラッシュメモリ等半導体デバイス製造企業の個体売り上げ数が伸びているらしい。ハードディスクの置き換え需要ということなのだろう。省エネ性からすれば大変に好ましいと思う。そもそもハードディスクなんてものはクラッシュとの戦いであって、そんなものが大容量化して情報を保管する代表的デバイスであり続けたことがおかしいのだ。紙テープ以来の情報の落下破壊からの脱却である。約30年も掛かった。全てのものが安心安全の方向に行っていることは望ましい。技術の有り様を感じる。

最初に戻るが、大学人を「完全な暇人」と捉えていらっしゃる方々が多すぎる。そりゃぁ、確かに目に見える生産物が無いわけだからそう思われるのも仕方が無いかもしれない。公人でもありその時間を奪っても罪は無さそうだ。しかしそうでも無いのだ。そんなことなので、組織のルールに則ってお願い致します。


2010年04月28日

居室の二十年来の反古を廃棄し続けているのだが、これがなかなか遅々として進まない。いや、進んでいるのだが、書庫に空間を創生することが出来ないのは一体、どういうことなのだろう。その昔、身の回りの書類で3年間、省みることのない書類は、その後、一生、必要ないと聞いた事を思い出しその条件を満たした書類、書物等を廃棄し始めた。なんとなく気になるものは書類スキャンの機械で電子的にファイリングして、最悪、見返すことが出来る状況にはしている。身の丈よりも高くなる書類を投げ出しても、一向に状況は好転してこない。

会議から帰ってくると、その手には書類が握られていることが殆どだ。電子化が進めば進むほど、紙の書類が増えてくるのはどういう事だ。特に鶴舞大学では専用の電子ペーパー端末まで導入しているにも関わらずだ。可搬可能なPCが消耗品価格で購入できるようになっている今、更に、ネットワークで書類の共有を可能にして頂けている環境にあって、紙の書類を後生大事に扱い続けるのは極めてナンセンスであり怠惰である。ペンタブレット型PCなどはまさに有効に活かされるべきであろう。少なくとも書類は回覧で済ませてしまえば良い。議事録と回覧書類は別途、オフィスに戻ってから電子的に閲覧できるようにさえなっていれば問題なかろう。

それをしてこなかった20年の蓄積があるのだ。深い書庫に二段重ねになった書類の全段を崩しても、重石を失った書類達が準静的膨張によって、その体積を一定に保ち続ける。一人でこうなのだから、そこに関わった職員全員にこれだけの書類が配布されているかと思うとぞっとする。そりゃぁ、世界中の森が消えて無くなるわけだと、人間の行動の愚かさを知る。知的生産の陰で廃棄物生産を延々と続けてきているわけだ。更に、廃棄物の方が知的生産結果よりも恐らく大きい現状を思うと、更に情けなくなる。

書類を廃棄し続けていると、企業や大学でのリストラの根幹はこんなところの積み重ねにあるのではと痛感する。捨てても良い無尽の書類と、数ヶ月に一度見返す書物とを見比べると、自ら成してきた、そして関わってきた出来事の軽薄さと、そこに投資してきた時間との比率に涙が出てくる思いだ。今日も必ず何かの書類の一角を崩そうと思ってはいるが、なかなかどうして、敵は手強い。何処までシンプルに仕事に打ち込めるのか。その実証実験を今年はやってみたいと思っている私であります。


2010年04月27日

特徴から共創のビジョンまでを俯瞰し、事業の価値をより高く、深くしていくツールがバリューツリーではないのか。ないのかという表現は、まだまだ完成しているものではなく、成長段階の生き物だからである。その生き物の骨格とも言える思想が定量化にある。簡明な表現を実現し、現在の問題点を可視化する上でも重要である。産業的、工業的には電子顕微鏡などに代表される微細領域の可視化や、高分子の組成分析など精密測定機器を用いることになる。その精密測定機器を製造販売している関東の某企業において、激しい人員整理が開始されたそうだ。一企業のこと、小生が何を言うことではないが、気になるのはものづくり企業の新規開発等、活力の減退と直結しているのではないかという事。

分析機器など毎年購入するものでは決してない。それと同様に施設・設備もメンテナンスはあっても丸ごと交換にはならないから、景気は一時で次第にしぼみ、定常状態となる。それが何処に収まるかは経営者の手腕に委ねられることになる。一つ言えることは、極めて高い技術や能力を持った人材でも、その場を退いてしまうと、もう他にはその能力を活かす場は残されていないと言うことだ。それがエンジニアの悲哀であろう。身銭を切って必死に勉強したエンジニアが報われるとは限らない。誤った指導者を頂く民には必ず悲劇が訪れる。世の中、そんなもんだ。

少ない時間で最大の効果を上げていくのが、工業製品を生産する者の使命だし、出来上がった製品が成す仕事においても同様のことが求められる。国内需要などたかがしれている日本のこと、為替相場という生き物が立ちはだかる。少ない時間で最大の効果を上げる仕組みは、ロボットには太刀打ちできない。検査も組立も全てロボット任せで、そして全ての工場が無人化されていくのだろう。その昔、人間機械論の哲学という講義を聴講したが、金銭の前に心は不要であり、何かを成すために学ぶ者も居なくなるし、学ぶことも要求され無くなるであろう。食べて寝ているだけの無駄なタンパク質の固まりとなる。それが人の末路であろう。

ホタルイカの目玉を抜き取るロボットの開発をテレビで見た。目玉の硬さが嫌だからホタルイカを食べないそうだ。生命への冒涜極まれり。命を頂かないと生きていけない生命のくせに、他の生命のあり方にけちを付けるようになっているとは。またそれをNHKなる税金を投入した放送局が繰り返し放送するとはなんと浅ましくおぞましいことか。そのうち、テレビなんか見ないなどと言うと、目玉をくり貫かれて谷底に投げ捨てられるようになるのかもしれない。そんな気がする。


2010/04/26

あっという間に新学期、最初の月の最後の週に突入だ。例年以上にばたばたしていて、業務以外の一切のことを無視させて頂いているにもかかわらず、それでもにっちもさっちも首が回らない。個人経営の店主よろしく、自転車操業も限界を超え、経営破綻状態とも言える現状に苦笑も出ない。こぎ続けないと倒れて大けがをするから自転車操業ということなのだろうが、もう既に大けがをして気力のみで自転車を引きずっている姿は間抜けである。更に気合いを入れて時間貯金をしていこうかと、そんなところで連休がやってくるのは本当に助かる。ひたすら溜まった仕事をやっつけることに明け暮れよう。

今朝の新聞に「河村市長は劇場型で、経営能力も気力もない愚人だ」との東山大学教授の総評が出ていた。経営というものはきちんと機能があってアウトプットがある組織を取り纏め、更に次の段階へ進んでいくことだろうが、自分勝手のノー天気軍団の議会を経営してどうなるのかと言いたい。河村市長を応援するわけではないが、現状の名古屋市、愛知県の自動車だけに頼り切った姿こそ異常で、自転車を引きずる小生より間抜けに見える。

現代社会のものづくりは、自動車にしろ電車にしろ航空機にしろ、大略、新規概念が無い。断言出来る。どういう意味かと言えば、例えば自動車王フォードは、自動車による社会変革のため量産手法から検討し、生産に携わる人、開発に携わる人を育て産業に発展させた。即ち、自動車産業一世である。トヨタがどんなに逆立ちしても、国産と言うだけで自動車産業としては二世である。真似るものがあったわけだ。その点、自動織機を立ち上げた佐吉翁、電気機器の標準化に挑んだ幸之助翁はフォード同様一世であり、偉大である。二世までは一世の目が届くところにいるので、何となく背筋が伸びているような気がする。それがバブル期の三世、現代の四世になれば、新規立ち上げの楽しさが仕事に無くなっているものだから、今の職場を解雇されたら自分には何も無いという気持ちに満ち溢れ(実際にそうだろうが)、お互いの傷を嘗めあって世のため人のために働く気力など残っていないだろう。その中心がまさに愛知県名古屋市であって、そんな市議会を経営する気になれるのは、机上の空論に酔いしれる東山大学教授様くらいのものだろう。

温暖化でらいちょうが住む高山にまで鹿やイノシシが登坂し、らいちょうが「それしか食べられない」植物を食べ尽くしてしまっているそうで、日本らいちょうの絶滅ももうすぐだ。自然界の成せる技だからほっとけば良いのだろうが、鹿やイノシシが増殖し放題なのは、それらを捕食するはずのオオカミを人間が絶滅させたからだ。やはり自然の流転を破壊するのは人間だけだと実感する。産業革命を起こした破壊一世から見たら現代人は破壊四世であり、自然破壊は他人事である。どんなに考え口に出そうが、何か行動を起こさなければ所詮は自然破壊、地球温暖化賛同者である。ちょっとした旅に公共交通機関を利用するとか、自転車通勤をするとか、何か行動を起こしているか?連休にそんなことを考えてみるかと、仕事の息抜きを見つけて漸く苦笑している私であります。


2010年04月23日

一週間、何をやってきたのかと首を傾げたくなるような毎日だ。まぁ、懸案であった去年までの報告書の作成がようやく終わったことだけはほっとしている。そんなことくらいでほっとするのかと言われてしまうかもしれないが、大学の教員なんぞそんなところだ。土日も講義の準備に明け暮れているから、節目の見あたらない日常を送らせていただいている。それでも言ってみれば仕事があるわけで、昨今のものづくりに携わっていらっしゃる方々の、気がつけばロボットがその座席を占めていたということにはなっていないことには感謝しないといけないのかもしれない。

国策として年金受給を後ろにもっていかないとえらいことになりますよと、大学にまで定年延長の風が吹いてきている。教職員と学生の定員がしっかりと管理されている現状で、どうして定年延長なんてことが出来るのか?鶴舞大学は過去のなぁなぁ人事によって、特に教員の定員なんぞ埋めきってしまっている。余剰ポストを有し、その分を上手に操作して、あたかも雇っているような顔をして給付金を入れて、それを定年延長資金に回すという芸当をすれば、何とかなるのだろうけれど、実際の所、それは大犯罪で、そんなことをすれば「仕分け大学」として消滅していくことだろう。大学院学生の定員だって総数どんぶりの中で動かすから、大学院進学者が少ない文学部を有するところであれば、理系学生を大勢確保できることであろう。単科大学の悲哀はこんなところにもある。

毎日毎日教壇に立っていると、あぁ、この学生は将来、国家のために働くだろうと見えてくる。数人だが存在はしている。全国の大学で同じだけ存在しているとすれば、毎年数千人の学生は、必ずや税収に寄与する。企業はそのパイを取り合うわけだから求人は大変だ。来年の求人数が2割減となっていることが報じられているが、働きそうな学生が8割減の中、よくもまぁ、そんな高率で求人して頂けるものだと感心する。日本の企業にはまだまだ体力があるのだなと目を見張る。

水力、蒸気力、内燃機関となってモーターとなるらしい。工業がどんどんコンパクトになって従事者も減っていく。エネルギーを使って自分達が楽をする社会を作ってきたのだから、今の不況は当然だ。そうではない、元気なものづくり社会を目指さなければならない。果てさて、いったい、何を作りますか?


2010年04月22日

国乱れ百余国に別れ争いあう。スサノヲノミコトの跡目争い以来の国家混乱状態にあるなと感じる。戦国時代もにたようなものに見えるが、あの時は自分が国のてっぺんになるんだという、言ってみればおやまの大勝、別の見方をすれば、器がどうあれ国を動かしてみようと言う気合いがあったということだろう。今はその器が育っていないし、居たとしても誰かの下に収まるのはイヤだという小者ばかりで、これからの100年の国家を語る政治家が居ないのはおぞましい。税金を払う気持ちになどさっぱりなれない。

来春の大学生への求人が2割減少するという。2割である。数万人の2割減である。国家の税収は明確に減少し、更にGDPもぐんと減るのも見えている。無策な当時の自民党政権が進めた留学生を日本に導入してそのまま勤務させれば国民減少を補えるという売国政策も、求人が無くなっては元の木阿弥である。勿論、国内に仕事が無くなっていることも事実だから、日本を知って国に戻って、将来、日本人と仲良く頑張っていただける方が一人でも国外にいらっしゃるというのは心強いのだが、果たしてそんなに簡単にいくことなのだろうか?子会社の社長に親会社が自己破産しろなぁんて命令を下す冷たい時代だ。残った求人枠に夢を抱いてエントリーする大学卒業予定者がどれだけ居るのか甚だ疑問である。

人間が自らの命を自ら放棄する事無く、どんな状況にあったにせよ生きていかないといけないとするならば、その命がある場所は、その命にとって安心・安全であって、お互いに尊重しあい助け合える場である方が良い。いきなり斜め後方からはね飛ばされる現代社会はおかしいし、そんな凶器を作って数千万人が食べている社会は更におかしい。ニュースを見れば無法者を注意した正義の民が殴られ蹴られ命を落とすなど、義務教育期間が存在する国家とは思えない状況にある。

勿論、不安だけではない。必死に明るく頑張る人も少なくないし、きちんと挨拶が出来る若者も居る。捨てたものではない。捨てたものでは無いのだが、税金がどっかに行ってしまう世の中では、その国家において籍を置き、必死に頑張り続けようとする分けがない。分けがなければ明日はちっとも待ち遠しく無い。国家が見えなければ仕方がない、身近ローカルで明るくなってひとまず頑張るしか無かろう。微妙に逃げ道ではあるが、卑弥呼が出てくるまでそう凌ぐしかあるまいなぁと、釈然としないけれどもまぁ生きていくかと思う私であります。


2010年04月21日

曰く、人間五十年。小生はその壁を越えてはいないが、その感覚は極めて強い。大それた事を始めるなら、確かに齢五十というのは正解であろう。そこそこの知恵の蓄積があり、体力の貯金が無くなりつつも、しかし、無くなってはいない。ぎりぎり限界の面白さ。それを見いだせる限界。どん!と足を踏みならしてみたい。それが出来る限界がそんな年齢ではなかろうか。気の持ちようだとは思うが、気を持たなくても突っ走れる事こそ、上手なれ。

人が見えるようになる。それもこの辺りの年齢であろう。いけいけどんどんから深呼吸して睨みを利かす。この辺りの年齢からであろう。もののことわり、電子・原子が見えてきて、いろいろさせて頂けるようになるのもこのあたりの年齢だ。「やたらへいたら」という方言があるが、やたらへいたらなもんではないと言われるようにならないといかん。

毎日の気候変動で体調がぼろぼろである。こんなふうになってくるのもこんな年齢からなのだろう。やはり人間五十年なんだなと思う。それ以上現役でいることなど困難極まり無い。経験、実績と叫び天下り、定年延長などが社会の活力を奪い、老齢化社会を作り上げてきたのは間違いなかろう。成人から五十まで30年である。その30年をどう生きたかが命の価値では無かろうか。

個性や特徴ではなく価値を生む生き方。やり続けることは勿論大切だが、事を成しそして放逐することが生きることでは無かろうか。そう思う。


2010年04月19日

八重桜が満開となった。京橋に通っていた頃は桜の通り抜けなる造幣局のイベントを覗いたりもしたものだが、京橋にも縁遠くなり最近はさっぱりである。中部国際空港も出来て関空とも縁遠くなり、難波あたりにもちっとも行っていない。梅田にすら出掛けていない状況を振り返ると、随分とお仕事をサボっているなぁと情けなくなる。中部圏にはまり込んでしまった感もなきにしもあらず。そろそろ脱出の時期である。

しかし、脱出するにせよ、身の回りに残った仕事が多すぎるし、取りかかり始めたものもあって、にっちもさっちもいかない。こうやってずるずるだらだらと時が過ぎてしまうのだなと、人生の儚さと虚しさを感じるのである。人の夢と書いて「はかない」とは随分と厳しい漢字を先人が当てたものだと、皮肉の一つも言いたくなるが、世の中の流れを見ると、確かにそうかなとも感じる。

しかし、車だらけ、アスファルトの道路だらけの今の世の中って、夢見た結果なのか?海に囲まれた日本の護岸をコンクリートで固めてしまって、馬鹿丸出しではないか。無能無策が人の夢なら、そんなものは儚くて大いに結構だ。マクドナルドの包装紙が路面いっぱいにぶちまけられて、カラスがつついているような汚物にまみれた国家など霧散して当然。

マグロもうなぎも養殖。そのうち、鯨も養殖。なんでもかんでも養殖。昨今のがきんちょも教育から養殖に変化している。自立せず社会環境に放たれた途端、脳内が真っ白になって活動を停止する。明治開闢時にメリケン人種が日本国土を蹂躙する為にトリキニーネだったかなんだったか忘れたが毒餌を撒きまくった。その結果、日本からオオカミが絶滅してしまった。今度はアジア諸国がものづくりを取り去ってしまった結果、バーチャルだけが日本に残った。お笑いもここまでくれば立派なものだ。花を美しいと、新緑が清々しいと感じる者が日本にどれだけいるのか?人口減少が止まらない日本の10年後が恐ろしい。そう感じる。


2010年04月14日

経団連が消費税を10%に上げるべきだとの提言を出してきた。欧米が10%を越える消費税を取っているから、日本も直接税を同様に上げれば、西欧並に将来が明るくなると言う図式だ。大陸であったり、国境を他国と接していたりと、生産財が他国に消費財として出入りしやすい環境において、貨幣は新しい財産を入手して生活を変換する糧となるが、日本においては徳川幕府による締め付けと鎖国の政策によって、排他と保身の国家になっており、貨幣が自分の国の僅かな生産財を分捕りあうための銃弾となっている。そんな国家で、物の値段が見た目に5%増になったら、購買者はインフレ感覚で、製品の質の低さが目について将来を暗く見るだろうし、生産者は実力が無くなっていることに気がつかないまま質の低い商品が突然売れなくなって、負のスパイラルに突入するだろう。

10%の直接税ということは、価格の90%だけが商品の価値が生み出す価格と言うことだ。英国などは凄まじい消費税であるが、妙な考え方だとも思うのだが、働けなくなるまで働いた人は、それを貯金として国から引き出せる仕組みがある。一方、日本の場合、それすら約束されたものではなく、将来、遙かに低レベルの物品を高い価格で買わされると思うと、消費税が安い今、価値あると感じられる物品を仕入れておかなければと、へんちくりんな考え方をしてしまう。電化製品などには何の価値もなく、日本で価値があるとすれば、飛騨の家具とか、輪島塗のお椀だとか、そんなものしか思いつかない。和歌山のワッパというのもあるが、そこまで山に籠もって仕事をするわけでもないので、宝の持ち腐れになるから買わない。野菜等、健康維持の為に必要なものは毎日の物だから少しでも安い方が有り難いし、毎日、どうせ買うのだから直接税は安くても良いように感じる。そうでないとあっと言う間に不健康になって医療費が増え、消費税は国家の蓄えにはならず将来への憂いは変わらない。

最近、自らの生き方を振り返ることが多くなった。人間、死期が迫るとそうなるそうだが、若い世代を目にすることが多い商売故に、目に映る姿と自らがその世代であった頃とのあまりに生様が異なるが故に、迷うとか悩むとかのレベルではなく、違う生命体と接していて、言語も何もかもが違う世界に放り出された感覚に陥っている。若者がぐうたらだから世の中に覇気が無いのか、世の中に活力が無いから若者が怠惰なのか、鶏と卵だが、工学屋が持っていて嬉しくなる、使って楽しくなる物を作ることを辞めてしまった責任は大いにあると感じている。良い製品は高額に決まっているのだ。その良さの価値を下げたのは、島国であるが故の気弱さだろう。

ロボットが作れば安くなる。ロボットに出来る程度のものにしかならないから。手を汚して出来上がった物には価値がなければならない。そうでなければ人間はロボット以下だということだ。そんな物を消費税10%で購入する気には全くなれない。価値という言葉をもう一度日本人はかみしめねばならぬ。馬鹿な国だ。


平成22年4月13日

組織にインフレはつき物なのかとがっかりさせられた。気合い十分で望んだ産業戦略工学専攻の講義であったが、単に単位を取ればいいやという、眠気たっぷりの「ぷにょ族」がこっくりこっくり。まぁ、それでも甲斐のある学生も存在しているのでそちらをターゲットに話をしていくことになるわけだが、それにしても教員の思惑とは違う方向に組織が進んで行っているなと脱力してしまう。何とかせねばと思いつつも、8年目に入った組織故に大手術も必要になるのだろうなと、悩みたくないところで悩まされてしまう組織にげんなりする。

小生はエンジニアであるから、要素技術とそれが生み出す価値に傾注している。学会発表なども当然、それが軸となっているわけで、単に教養を身に着けたいという社会人学生希望者はお断りすることにした。智慧作りはものづくりを基軸にして成し遂げたいという小生のビジョンを貫くことにした。残りの人生、極めて短いし、日本にはまだまだとんがった企業、とんがったエンジニアがいらっしゃることを肌で感じたので、小生もとんがることにした。そう思った矢先に上述の「ぷにょ族」の登場だ。

「ぷにょ族」と呼ぶほどだから、やはり見た目は重要である。肌に弾力が無く、目は無気力。(どうしてそんな奴らが入試を突破出来たのかは不明である。入試までは元気だったのか?)動作は緩慢、言語不鮮明。こう書いているだけで腹が立ってくる。日本という国家が沈没し続けているというのに、なんとか地固めをしていこうという気力はないのか!少し前は、自分勝手族に腹を立てていたが、自分のことも考えない輩と一体どうやって対峙すれば良いのか。

ヨーロッパの家具は長持ちが価値であると、知ったかぶりの馬鹿者は言う。だから良い物は高いのだと。昨日、根性のある者の質問は「情緒価値を要素技術開発からシーズとして生み出すことは可能か?」であった。ヨーロッパの家具を事例として返答した。もしも開発者が、300年壊れないために頑丈な家具を作ったとする。300年間使いづらく重いだけの家具では、長持ちするだけでゴミだからそこには機能価値も無い。使い勝手が良く壊れる使い方をしないから機能価値が評価される。しかし、もしもエンジニアが、その家具に集う家族を想い、4世代後の子孫が、先祖の暖かさをその家具から感じ取れることを意識して作ったとするならば、それは情緒価値を盛り込んだ事となろう。それを支えるのはエンジニア、そして企業であるならば企業そのもののビジョンであろう。ではそのビジョンをどのようにして確立するのか。その定式化に着手はしているが小生とて答えを持って居るわけではない。そんな問答は楽しい。ものづくりエンジニアにそんな思考をして欲しい。切に願う今日この頃である。


平成22年4月12日

自転車通勤を続けるには、走行領域に山も谷も無いことが条件になるだろう。走行距離は10kmくらいが、まぁ、いいところなのかもしれない。昨日、とある理由から春日井方面まで行くことになり、天気も良くお花見がてら自転車で走行してみた。ペットボトルのお茶を持ってえっちらほっちら、片道19km強で、しかも名古屋の山谷を含むコースで大略片道1時間強であった。同様のコースを平日に自動車で移動しても同じくらいの時間が掛かったこともあり、街中では、もしも平日に走るのであれば、このくらいまで自転車による通勤圏内なのだろうなと感じた次第である。

日曜日の午後3時頃にスタートし、工事が続く302号線沿いをしばらく走った。これが当たり前だが自動車だけを考えた道路で、歩道を走行しようとすると、工事途中と言うこともありあっちにいったりこっちにいったり。153号とクロスするところなど歩道が無くなってしまう。ぐるっと迂回して行くことになる。巨大な空間が目の前に広がり「どうすんだ、これ」とそれこそ路頭に迷ってしまった。しかしそれでも徒歩や自転車であればなんとかなるものだ。これも気楽な自転車の旅故の楽しさだろう。

平日でもそうなのかしらないが、信号に連なる自動車の帯の横を、渋滞知らずですいすいと、いや、えっちらほっちらの部分も多いのだが、自転車で通過していくのは愉快である。昨日は心拍モニターを付けて走ってみたのだが、120以上の心拍をずっとキープしていて、事故以来、サボりにサボったトレーニングも兼ねて、丁度良い自転車旅行となった。

しかしである。延々と続く自動車の帯の横を走るのは、煤煙を吸い込み続けることになって極めて気持ちが悪い。やはり運動は山に限るのである。自転車は距離を稼ぐには大変に良い道具であるのだが、日本の街中においては厳しい道具だなとも感じるのだ。サイクリングロードも無いし、名古屋は自動車大国だなと実感する。それと、信号が赤になっても突っ込んでくる車のなんと多いことか。撥ねられるわけである。自転車に乗り、車の運転も気をつけねばと体感した私であります。


2010年04月09日

愛知県における中小企業の倒産件数がぐんぐんと上昇しているという。政府がテコ入れして銀行に貸してやれと言ったとて、金を借りても買ってくれる製品が無ければ、作っても借金が嵩むだけで向かうところは倒産か首吊りだ。世の中に無駄な物品が溢れている現状を見れば、バブルの頃に捨て金を持った人達が如何に多く、そしてその無駄な物品が流れていたことが世の中を潤わせていたことに気付く。確かに、質素倹約、華美厳禁の世の中になれば、静かに寂しい世の中になるのかもしれないが、突然の倒産も減っていくであろう。尤も、企業の数も増えていかないが。人口の減少とも関係があろう。今の日本が何処に墜落(軟着陸などあり得ない)するのかは、BRICsを始め新興国の行く末の鏡であり反面教師でもあろう。その墜落課程で自らは何を成したのかが現代人の価値になるであろう。

5時代、6時代前半の公共交通機関に毎日乗っていると判るのだが(自転車通勤時ですら判る)、地を這うように頑張っている人達も大勢居るが、2月頃、少し増えた乗客も4月になったら激減。先頭車両から最後部を見渡せる凄まじい状況となっている。それはそうだと思う。ユニクロのヒートテックが5000万着売れたと言っても、製造現場では自動機械が動き続けるだけで人はいらないのだ。中空糸を作ろうとアイデアを出す人は数人だ。少数の精鋭とロボットが勝利する時代だ。人が存在する余地はない。しかしこれをネガティブに見るかポジティブに見るかだ。ロボットに職種を奪われたと泣く者は、所詮、誰かに取って代わられたのだ。むしろ殺生しなくて済んだことに感謝するべきだ。ロボットを使う現場を作る側に回ろうと努力をするのではなく、ロボットには出来ないことを作り出そうと努力することが重要だ。まだ何か出来るということだ。だが、それは残念ながら相当に少ない人数にしか許されない。厳しい時代である。

今、存在している工業製品に関わる人員は、我が国においては確実に減少していく。当たり前である。それが技術立国の真の姿だ。弱者切り捨てとは全く違う。だから、明日を作らねばならないと言うことだ。安くなければ買ってくれないから、粗悪な原料で粗悪な商品を売れば喜ばれると勘違いをし続ける企業は、今日の夕刻時には無くなっているかもしれない。今の日本はそこまで行き着いているのだ。土木・建築関連への巨額な投資が物語っている。使える物を破壊して、あるいは、定期的に壊れる物を作って、そして同じ物を作り続ける産廃製造関連企業のみが生き残り発展し続けるのが日本なのだ。知恵も何も無い。破壊と略奪である。それで食っていける世の中の仕組みには脱帽する。

無意識で、しかし、意識した時には心地良く、ほったらかすと大地に戻る。そんな製品製造に関わりたいものだが、そんじょそこらに転がってはいない。ウルトラ高度な技術の世界もあるのだが、高度というのは今を低い所と見立てて、それより高いというだけで、絶対値表現ではない。平穏無事でしかし英知の結集と近寄り難いが優しい製品。そんなものに携わる人を育てることが出来れば本望だが、はてさて、どうしたものか。新時代自動車の普及などとトヨタは言うが、5年後には三千台を普及させたいと言う戯言には、この戯言も真っ青になる。お笑いもここまで地に墜ちたかと笑えない私であります。


2010年04月07日

iPadを見ていると、その昔アランケイが提唱したダイナブックを思い出す。というか、そのものが出てきたなと感慨深い。今、ダイナブックというと、その個人計算機世界の概念を自社製品に名付けた厚顔無恥の東芝を思い出すが、心ある人は東芝のそれをダイナブックとは思っていない。iPadの登場を昔話のきっかけにしようなどとは全く考えていない。その中身に散りゆく桜をイメージするのだ。

iPhoneもそうだが、ハードウエアには特に最先端技術が盛り込まれているわけではない。最低限のハードウエアにサービスを乗せているのだ。ソフトウエアでもなくサービス搭載型という概念が重要だ。手先が器用で目に見える物にしか価値を見いだせない黄色い猿には想像出来なかったビジネススタイルだ。iPadも同様に陳腐なハードウエアが列を成す。その中身を見れば、日本製部品は僅かに4点と言われる。売れている商品には日本製部品は使われないのだ。ここに散りゆく桜が映るのだ。

日経各紙、インターネット上の評論は口をそろえて「iPadなんて全く売れないだろう、何故ならば・・」と黄色い猿ぶりを全力で発揮していた。ダイナブックを回顧するまでもなく、小生は馬鹿売れするだろうと思っていた。日本というサイロの中で貯まった藁を食いつぶす鈍牛には、未だに黒船の意味が分かっていない。最終顧客である一般ユーザーが、知的思索にふけり智慧を研鑽することこそ先進諸国民のあり方であろうに、利益の食いつぶし、乾いた雑巾を絞りきろうと自らの汗も乾いていることに気がつかない国賊の論調に振り回される哀れ国民の2年後は真っ暗闇だ。

サービスとは共に成長するツールである。誰かが一人勝ちする必要は無いし、足を引っ張り合う必要も無い。成熟した人間社会のツールだから、もの真似による後追い、出し抜きは忌み嫌われるが、鈍牛には解るまい。うっかりすると鈍牛の檻に入れられているかもしれないので、常にアンテナは高く、されど自らは地に足を付けて進む。所詮、徳川300年分の遅れがある日本だ。焦っても仕方がない。ゆっくりと行くが、もの真似、安売りはしない。散りゆく桜の下を走ってそう思った。


2010年04月06日

桜の入学式である。新年度の決起集会などもあろう。様々なステップがあると思う。そこに桜が満開で祝うところが愉快ではないか。ぱっと祝ってぱっと散る。次のステップまでどう過ごすか。ステップに価値はない。次のステップまでのテラスの歩き方、どう歩こうかと考えることにこそ価値がある。鶴舞大学も執行部が代替わりし、自ら学ぶ学生の育成を旗頭とした。某E研では外したことがない看板だが、そんなことを旗頭にしないといけない現状にある。危機的国家と言えよう。

例えば、顧客目線の企業、営業などという聞こえの良い言葉も、「値引きする営業」となりがちだ。上からしてみれば前回より3割値引きしろという、トヨタ流とも言える。それで中小企業の親父さん達がみんな首吊ったのはご存じの通り。大学で顧客目線なんて言うと、単位を出す先生、理科実験以下のレベルで卒業させてくれる教員が求められ、そのような研究室は大入り満員。これなどはテラスの歩き方を間違えている好例?であろう。ステップを降り続けるだけで、上るステップがイメージされない。

ご大層なことを書き散らすと勝手にそれを利用する輩が出てくるのでこのあたりにしておくが、人の話を聞くだけで自らが磨かれると勘違いをしている輩は、身を削らないと何も身に付かないよとだけ言っておきたい。死んだときはプラスマイナスゼロだ。太り続けて死ねる奴は居ない。削った分だけ身に付くだけだ。識者の講演を聴き歩いて、自ら何かを成した者は居ない。格好付けのおっかけ野郎だ。授業に出れば大学レベルの知識が身に付くと勘違いしてはいけない。

冬がくれば春がくる。それはたまたま日本の位置する場所がそうだからであって、赤道直下に居たら、そんな季節感は無い。当たり前の事など何もない。永遠なども無い。だから新しく作るのだ。自ら学ぶのはその為だ。与えられた課題をこなすことではない。新人への手向けの句はこのくらいにしておく。以上である。


2010年 4月 5日

様々なことが重くのしかかり、眠りが極めて浅い日々が続く。いよいよ胃のあたりが痛くなり、老い先短いなぁと感じる日々である。後何回桜を見る事が出来るかと、花の潔さに脱帽する日々である。世に桜の名所は数々あるが、今の桜の名所と呼ばれる殆どが、人工交配によって生まれたソメイヨシノであり、なんだか、有り難くもあり、情けなくもありである。100足らずの寿命というのは人工的で宜しいが、自然に任せず、何でも人手に頼って強引に突き進む所など、実に日本人らしい。

自転車通勤によって、桜山の一角にあった古い蕎麦屋さんが無くなって更地になっていることに気がついた。更に、御器所八幡の近くの古い民家も無くなって更地になっていた。先につぶれたコンビニはヘアサロンなるものに変身を遂げた。ソメイヨシノと一緒で、全てのものに寿命があり、形ある物は必ず滅びる万物の法則通りで悪いことではない。

街からちっとも自動車は減らないが、自転車の数が徐々に増えてきているように感じている。30年以上、サイクル野郎で過ごしているが、そこそこ速く、そして、体力次第で遠くに行ける乗り物でなかなかにしてよろしい。徒歩も良いが自転車も良い。しかし、今の街は自転車用には出来ていないので、危険を感じることが多い。また、自転車が危険を引き起こしていることが極めて多い。一時停止無視がその代表だろうが、一瞬の用心が一生を左右することを、人間、撥ねられないと理解しない。生き残っても凄まじく痛く、後悔することになる。

桜の垂れた枝がヘルメットに当たった。勿論、避けつつ、そっと触れただけだ。なんと艶っぽく、そして春めいた気分にさせてくれることか。桜に限らず春は次の世代を生み出す様子が目に見える。これで、夜に眠ることが出来れば素晴らしいのだが、どうもそれは許されないらしい。仕方なく今日を過ごすことにする。



2010年04月01日

春一番が吹くらしい。そろそろ極端な冷え込みは無くなってくるのだろう。雨ではあるが今日は暖かいらしい。天気のことになると途端に歯切れが悪くなる。大型計算機や地球物理学者の皆様の理屈は、巨大な地球の活動をまだまだ暴いていないと言うことだろう。尤も、天気なんてものは当たらない方が艶っぽい。そんなもので良いのだと思う。世の中には農業など自然業の方々に農薬散布日や撒種日はこの日が良いと占って金を取る商売もあるが、そんな連中に頼らない生活がよろしい。今日の天気も訳が分からない雰囲気だ。四月らしいではないか。

四月らしいと言えば、小生が利用するやたらと早い時刻の地下鉄に、「いかにも」と感じるお若い方々が大勢見受けられた。しかし、化粧をその場でしている若い方々が増えたお陰で、はっきり言って「臭い」のだ。化学臭に敏感になっているので、かなり厳しい。会社の指導でなんとかならないものか?早朝であり、混雑しているわけではないから臭いが車両中に拡散していくのだ。せめて微香性にしていたきたい。昨今の軟弱な男共は、強烈な臭いの化粧にひっくり返るのではないか?まぁ、春らしい馬鹿馬鹿しい景色の一つであろう。

新しい科目の担当も始まり、金曜日は夜中の9時まで講義が入ったから、夜のお付き合いを袖にする口実が出来て好ましい。毎日、講義があるというのもどうかと思うが、鶴舞大学は東工大に比べて教員一人当たりの学生数が2倍という凄まじい比率となっており、どうしようもないのかもしれない。鶴舞大学はこの春から新政権が発足する。それによる改革が始まるのだろうが、次世代の若手を育てることを真剣に考えていただきたいものだ。教員の為に大学はあるのではない。

春だからどうってことはないのだが、桜が咲いているのはなんとも嬉しいものだ。曇天ではあるが、楽しみたい。


2010年03月30日

山崎川の桜が満開とのことで自転車で通勤。山崎川の辺に限らず、百花繚乱の街並み。3度の気温は厳しいものがあったが、花を愛でれば寒さを忘れる。実に心地良い。瑞穂陸上競技場の近くを通るコースは決して近道ではないが、万葉人も歩いた大地を進むのは愉快である。城跡などもあり、歴史散策としても素敵なコースである。起伏が比較的少なく、自転車で走るには丁度良い。

山崎川は車道と歩道が中途半端な分離状態にあって、歩行者が我が物顔で車道に飛び出しているものだから、自転車で走行するには極めて危険なエリアではある。しかし、年に一度のお花見であり、のんびりと走行した。冴え渡る空に桜が映える。実に愉快である。

遠回りの序でに白鳳時代から続く旧街道に入る。名古屋に引っ越してきた際、ものの本を調べて知ったのその路地は、小生が名古屋にやってきてから殆ど変化がない。それで良いのである。これまた自転車通勤ならではの楽しみ方である。通ったことのない道を進む楽しさがある。

平時の走行に比べて10分余計に掛かったが実りは多い。実りを得るための遠回りはつまらぬが、遠回りをしてみたら実りが多かったとなればこれこそ愉快である。考えてみれば自らの愉快だけを求める者の何と多いことか。少しは桜を見習ってみよ。皆を愉快にさせそしてぱっと散る潔さよ。自分さえ愉快であれば良いという気になったら桜を思いだそう。そう思った花見の朝である。


2010年03月29日

水俣病訴訟の和解との話がテレビ、新聞に見られる。科学技術の在り方を考え直すべき事実であったと思うのだが、水俣病が世に出て以来、食料の保存材だとか、電子機器から放出される電磁波問題とか、全く省みられることなく数十年が経過している、この情けなさだ。金型製造一つとっても、騒音、粉塵はもちろんの事、蒸発した切削油による肺炎等、ものづくり環境の改善にとどまらず、人間社会はどうあるべきかという生活の根幹が議論されてこなかった。むしろそれを議論しないことで、見せかけの金銭の環流を愚かな国民全てが望み、そしてその挙げ句が自動車こけたら皆こけたという情けない状況に陥った。半導体関連の景気が向上していると言われているが、テレビを高画質で録画するとか、三次元になるとか、それこそ見せかけの道具に金を投じる仕組みを作りだし、それによって労働賃金を吸い上げていくだけだ。散歩して空を見上げた方がなんぼか良い。

中国の餃子問題が再び世間を賑わしている。中国の報道の横流し的日本のニュースを見ていると、中国人の方々の日本への信用の無さが強調され、これまた情けなくなるのである。日本の狂言だとか、でっち上げで許しがたいなどの思いが、中国全土に蔓延している。他国の足を引っ張って自国が良い目を見るという考えを持ったことは無いが、どうもそう思われているらしい。水俣病やイタイイタイ病を政府主導でやっておいて、隠し続けた日本だから、毒物を撒いて人の責任にしているのだという隣国の怒りは、大戦時の悪事を引っ張っているだけのこととは違うだろう。

先日、出張からの帰りに名古屋の河川を新幹線から眺めた時、余りの汚さに目を覆った。人間環境になんと無頓着な連中が多いことかと、農薬餃子どころの騒ぎではないと実感した。毒物を川に流せば、水蒸気となって大気中に漂い、そして人体に入る。自然界から見たら、人体に蓄積されて自然に出てこない毒物があることは、とても有り難い事だろうが、いずれ火葬の際、空気に放出されるのでろくなものではないのだ。人間が作った物で自然に還らないものに、人間生活に良い物は何も無いのだ。街中を散歩して実感する。窒息する。

今年も桜の咲く季節になった。新しいテーマも日の下に出せる気がする。電気に頼ることなく生活できる智慧を、残った人生で積み重ねてみたい。結局の所江戸時代に戻るだけかもしれないが、それでは能がない。平成元禄と後に言われるような、文化華咲く世界を作ってみたいではないか。水俣病を作り出した世代の償いである。そう思う。


2010年03月26日

もの凄く久しぶりに晴れた朝だ。もう青空を見ることが無いのではないかと思ってしまうほどにやたらと雨が降り続いた。もう桜には十分でしょうと言いたい。

そこかしこのソメイヨシノがいよいよ開きだした。この週末はまだ満開とはいかないが、寒かった冬はもうおしまいにして、満開の春といきたい。

お仕事のほうはと言えば春はまだまだ遠く、慢性疲労に辟易している。疲弊しているが寝たきりになるわけにもいかず、気分だけでも春を待つ。

週末ではあるが休んでいるわけにもいかず、疲労を蓄積し続ける私であります。


2010年 3月25日

早朝、地下鉄のコンコースいっぱいに広がって、大声を反響させながら元気いっぱいのお年寄りグループに出会った。出会ったと言っても小生が後ろから接近し、そして追い抜いただけのことだ。殆ど人が居ない時刻だからこそ出きる芸当なのだが、人生の達人の有様に笑顔を頂ける。意識しての事かどうかは判らないが、ちゃんと通路の脇が空いている。若造はそこを通れとのご配慮だろう。有り難く通らせて頂く。追い抜く際に話題が耳に入るが、全員の主語が違っているように感じ、これまた達人だなと思わず微笑んでしまった。春である。

ただ、このような軍団には、男性は居ない。仲間外れなのか、死に別れなのかは知らないが、猛烈に底抜けの笑い声の中には「男」は不在の場合が多いような気がする。外敵と戦う遺伝子を持つ男共は、身を潜め自らを閉ざす仕組みを備えているのかもしれない。なかなかもって明け透けに女性と笑い会うことは出来まい。自分に置き換えるとすると、黙って通路の隅を歩くのだろうなと、女性陣の強烈なパワーに改めて頭を垂れる次第である。

時々見かけるゲートボールの風景には、男女混合というか、むしろ、単色のチームプレーというものに出会ったことがない。ここにおいても女性が参加していることで、一体感というか、チームプレーが生まれてきているように見える。じっと観戦し続けたことがないのであるが、男性のみのチームと混合チームが戦ったら、恐らく、混合チームには勝てないのではないか?

本年度の入試が全て終了し、教務の仕事も残り僅かになった。退学、休学届けに印を求める学生諸君から受ける覇気の無さ。いびつな男女比も問題ではないのか?工科系大学における女子学生の少なさが、そのまま日本のものづくりの覇気の無さに直結しているような気が、最近強くするのである。受験生そのものが少ない。男性だから工学部、女性だから文学部みたいな思考が親や初等、中等教育における指導者にあるのであれば、まず、そこから変えていかねばなるまい。世の中半々とするならば、女性から見たエンジニアリングがあってもよろしかろう。長生きで元気な女性陣にものづくり立国日本のキーがあるのではないかと感じる今日この頃である。


2010年03月23日

某所に車で出掛けた。地球温暖化に猛烈に貢献しているなと後悔しつつ、四角形の3辺を使わないといけない公共交通機関を利用するのが面倒だなと感じ、仕方無しにステアリングを握った。町中には信号という関所が五万とあって、赤信号の度に停止、加速を繰り返す。目の前のセダンは青に変わる度に、欲求不満を吹き飛ばすかの如くカタパルト発進を繰り返す。後ろのエスティマは小生のふんわりスタートに苛つきながら、やたらと車間を詰めてくる。1トンを越える重量物を停止状態から動的状態に移行させる為に、最もエネルギーを使いそして地球温暖化に貢献することに気がつかない愚か者がエスティマ乗りにはとても多いように思う。赤信号の度に同じ3台が前後に停止し、そしてそれぞれのスタイルで加速していく様は愉快である。

ふと遙か前方に旋回するパトライトの明かりが目に入った。渋滞中である。苛つく前方の車は手前の交差点で右折。どこかに消えてしまった。接近していくとパトカーの後ろにバスが停止し、そのバスの後部にでかい赤い旗が掲げられていた。そしてパトカーの前には牽引車と呼ぶにはあまりにも巨大なクレーン車。要するに公共交通機関車両がエンコ、乗客が退出して警察が先導で牽引するところ。公共交通機関がこの有様では、やっぱり自動車が便利と言うことになってしまう。これがもしも市長の減税の結果であればとんでもないことだ。歩道に降ろされた多くの乗客の恨めしそうな顔は忘れられない。

鉄道の駅から離れたエリアではお年寄りはバスに頼った生活にならざるを得ない。自転車で山越え谷越えとはいくまい。お年寄りの電動自転車購入に、子供手当並のアシストがあれば良いだろう。三輪自転車で電動アシストなら多くのお年寄りが乗車可能ではなかろうか。敬老パスにRFIDを組み込んで、一般用以上のパワーアシストを実現できるようにして、坂道でも楽に乗り出せるように自転車業界は頑張っては如何か。盗難だけではなく、取り間違い防止にもなる。お年寄りが精神的にも肉体的にも元気になってこその福祉社会だ。医療費も減ってみんなが元気。誰かが儲からなくなって、困る政治家も居るのだろうが、そんな輩は市民が賢くなって駆逐していくしかない。狭い国土の大半を占めていそうな道路を少しは減らしていく方向にならないものか。

大規模開発が一部の政治家を肥やす為のものであり続ける限り、普通の人が平穏な生活を得る世の中にはならない。結局、巨額の消費財である自動車を買わされ、そして廃棄させられる低俗な貨幣循環社会から脱却できない。ステアリングを握ると、その便利さの代償が浮き彫りになる。年に一度の春である。日本人にとっては節目の季節。各人が「今、利用しているガソリンや電気を使って得ている便利を一つ減らそう」とほんの少し頑張ってみれば、案外、優しい世の中になるのではないか?人は人に頼って生きる生き物なのだから、頼られる許容範囲を広げてみては如何か。まず、自分からと思ってみたものの、思わず苦笑いの私であります。



2010年03月16日

思い切りが無さ過ぎる。国家の舵取りだからおっかなびっくりだというのなら、それは大間違い。優柔不断で利己主義な国民だからこそ、強烈な牽引者が良い。省庁に何かを言わせるから予算が無くなる。強烈な牽引者が圧倒的指示を与えればよい。民主主義国家である。小泉政権的運営を云々する者が居るが、内容は三流だったが、運営は「それで良いでしょう」と小生は感じた。今こそそれをして、「米軍基地はグアムに引っ越し」、「国立大学は20年後の生徒数を見越して半減」くらいのことを天下に宣言すればよろしい。国民の背筋が伸びるようなびっくりをなすことこそ、今の世の閉息感を払拭できるのではないか。

閉息感という単語を耳にする。小生も使っているかもしれない。ビジョンが無ければ閉息するのは当然である。東に進んだら何かあるかもしれないと、先人達は日本までやってきた。そしてこれ以上東に行けないと気づいたとき、やっぱり閉息している。人間の何と弱いことか。近代国家は食べるための仕事が人の数だけ必要とされない。弥生時代に栄えた稲作は、人の数以上に仕事があった。寿命も短かったから生めよ増やせよの時代であった。あたかも仕事が無限にあるような錯覚をつい最近までしてきたのではないか。国民の人工減は仕事の数から考えれば必然と感じる。それが良いとか悪いとか置いておいて。

半導体や薬の製造現場には人が居ない。全く居ないわけではないが、ゴミしか生まない人間は邪魔。限りなくロボットで製品を生みだしていく仕組みを作り上げた。自動車のラインは人が山ほど居ると感じる。それでも単純作業と呼ばれる部分はロボットへの置き換えが加速しつつある。ロボットを作る現場もロボット化していくと、ロボットで作れる程度の製品製造現場には人が居なくなる。ますます仕事がなくなる。大学における改善改良だけの研究は、社会から人を追放し閉息させることへの貢献度は極めて大きい。いったい、どうするのだと更に閉息する。

最初に戻るが、ぐいっと杭を飲まされたような気分になる、背筋が限りなく延びる衝撃が必要なのだ。そうでないと目が覚めないのだ。窓際族と呼ばれる族が存在していた頃、その族は生きられたのだ。今、その族は確実にロボットに置き換えられ、族の居場所は無くなった。若者に職が無いと叫ばれるが、10年後の社会の中における自らの居場所をイメージできないような新人の居場所が今の社会にあるはずがないのだ。思考を続けるべきである。それは自らがどのような社会貢献を成すことができるのかを思考し、次の世代にも我が国が存続している状況をイメージできるようにすることだ。誰も何も与えてくれないと嘆く前に、自ら創造し与えよ。そこに成熟した国家があり、未来がある。

どうでも良いですが、今週は学会に行くのでこれでおしまい。


2010年03月15日

平針の免許センターに行ってきた。月曜の朝だと言うのに長蛇の列。これ以上威張ることは不可能だろうとふんぞり返る窓口に、黙っていても客が集まる縮図は、江戸時代の八九三の胴元と変わらない。無限の収入を自動車会社、土木会社とともに吸い上げ続ける凄まじい仕組みを構築している。免許があったとて人を跳ねるわけで、自動車会社は絶対に人身事故を発生させない自動車を製造するとも宣言しないし、免許交付所だって、人身事故にまで責任を取らない仕組みである。自動車は確かに便利な代物だが、どれだけ必要なものか?宿舎から歩いて30分の位置なので、てくてく歩いてみたが、徒歩5分の距離でも自動車で移動する者も居るのではないか?そこに問題があると感じている。

歩いてみるとよく見えるのだが、大型車に一人で乗っている人の何と多いことか。狭い日本、そんなに急いで何処に行くとは言わないけれど、例えば名古屋の「区部」において、徒歩10分圏内にバス停が無い箇所がどれだけあろうか?バスと地下鉄を乗り継げば大抵のところに行ける仕組みを税金で作っている。より活用するべきだろう。少なくとも自分自身が人身事故を発生させる確率はかなり減少する。酔っぱらってホームから線路に落ちたり、赤信号を無視して渡って跳ねられる可能性が無いわけではないが、春夏秋冬の空気を肌で感じることが出来、健康も増進されるというものだろう。不便だから自動車を利用するというのは言い訳に過ぎない。

自動車によって産業は発展し、景気と呼ばれるお金の環流が出来、良いことばかりに見えた昭和の時代。自動車が一つのステータスであり、憧れであった時代だ。小生もそうであった。都会では自動車保有率が減っていると報道されている。それはそうだろう。東京の都心部で自動車を維持しようとしたら駐車場代だけでも大変なものだ。殆ど動かない環状8号線を突破する為にどれだけ無駄な時間を使うか。立体となっている線路を使って、都外に脱出し、駅前のレンタカーでも借りた方がよっぽど賢い。月に一度のドライブなんぞ、それで十分だ。しかし免許証は要る訳で、政治の側の警察が一番儲かる仕組みになっている事に、免許交付所に来る度に感じながらも、免許を捨てる気にはなれない。そこが弱い。

講習のビデオは悲惨だが、実際に跳ねられた痛みを知る者は殆ど居ないのだろうなと微妙な気分だ。紙一重で人の往き死にが決まるのだ。免許証はそれ程に重いのだ。それをより多くの人に感じてもらいたいし、一層気をつけてハンドルを握りたいと思う私であります。



2010年03月12日

今日、鶴舞大学では後期入学試験が行われる。ぼけっと突っ立っている仕事は結構辛いものがあるが、受験生のほうが、今日に限っては緊張しているだろうし、その邪魔をしないよう心掛けたい。試験監督という不可思議な仕事はこの先、何処まで続くのだろう。高等学校までの生徒達個々の努力と実力は、3年生終了間際で明らかになっているだろうし、そんな定量的な積み重ねをもって大学に入学でき、更に研鑽を積むことが出来るという、努力主義の世の中になっていけば、ぼけっと突っ立っている仕事は排除できる。その結果、鶴舞大学には誰も来なくなるなんてことも有り得るのかもしれないが、まぁ、そんなところで良いのではとも思っている。どうしてもと言うのであれば共通テストがあるわけだから、それで判定すればよろしい。

共通テストも喰わせもので、共通テストが良かった者が二次試験の点数が高いという訳ではない。しかし、もっと情けないことに、二次試験の点数が高かった者が、大学卒業時に好成績で銀時計ということに繋がっていない場合が多い。下らない追跡調査ではあるが、そんなもんなのだ。それ故に、大学入試に全てを燃やし尽くして、ベニヤ板のような学生を育てる今のシステムは根本から変わって良い。子供手当なんてものに関わっている暇があるのなら、教育の在り方に熱を上げていただきたいものだ。国大協あたりに次期学長にはねじ込んでいただきたい。

理系離れが進み、電気、機械科などは崩壊寸前。トヨタの販売が落ちただけでそれだけの影響力がある。自動車が電気化されていく中で電気科が不人気になっていく背景には、自動車だけではなく、身の回りのエレクトロニクスの無駄さにあろう。予備校の入試指導に文句を付けたくなるところだが、単にそれだけではあるまい。そんなことも含めて、初等教育の段階から、日本、将来かくあるべきとの教育がなされ、その結果、高等教育があるという当たり前の姿で良いのではないか。

入試の想い出と言えば、上野駅に行ったら常磐線が動かなくて、5分程遅刻して入場したくらいだ。まぁ、その程度の遅刻はどうってことは無いわけだが、今日は中央線や地下鉄など公共交通機関にトラブルがないことを望む。今の時代、大学を卒業したからと言って職があるわけではない。望む職などではなく、お米のために働きたいと思っても、働くところがないのが今の日本だ。そうならない世の中の構築のために何かをせねばならぬ。教育者が教育をするのが当たり前の世の中だが、教育に携わる者全てが国とはどうあるべきかを想い、次の一手を打たねばならぬと悩みは尽きぬ私であります。


2010/03/11

今朝、新聞紙上に電子ブックの文字があった。先日、戯言で日本に根付くのは難しいのではと書いたが、突然思い出したことがあって再び書く。今は既に入手不能の絶版だが、どっかの誰かさんがちゃんと流通できる形で電子本を発刊したことがあったのだ。それこそ冷や汗ものだから、絶版で、あぁ良かったというところだ。しかし、絶版とは言え、版元があるわけだから再版は容易。このあたりを見直して、電子ブックのあり方を問い直しては如何か。

電子本を発刊した際、写真から構成まで全部自分でやることに楽しみがあった。論文を作るよりずっと面白くて、出来上がったものへの感想など頂くと感激したものだ。何故、今、それをしないかと言えば、時間が全く無いからだ。テーマが浮かんで原稿を起こすのだが、時間の無さに呆れ帰る。寝る暇もない人間が起稿も無かろう。やってみたいけれど、それは不可能である。

そこで更にふと思う。今年度、小生は史上最大の休暇を取った。通勤途上ではね飛ばされて取っただけだが、正門を出たら直ちに他人という言葉だけが残って、有給休暇が減った。それはどうでも良いのだが、読書をして知性を磨く休暇などがあっても良さそうなのに、それは全く考えられない環境にある。思い切って休めば良いだろうと思う庶子もいらっしゃるだろうが、「毎日講義があると休めない」という至極当たり前の状態にある。今の日本、読書など自己啓発は遙かに遠いところにある。

それを補う仕組みが電子本にあると有り難い。小生のイメージはNewton Bookで、書き込みが出来たり必要なところを切り出せて、二次活用出来る仕組みなどがあると、便利に活用できるかもしれないと思っている。これまた仕事に活用することしか考えないところが悲しい日本人だなと思う。優しい国づくりは知性づくりからだと思う。精進しなければと思う。電子ブックシステムが単に流通業者の金儲けに終わらなければ良いのにと思う私であります。


2010/03/10

小生の通学途上の駅に新瑞橋という駅がある。その駅から歩いて3分くらいの所に新しくイオンが出来た。土地の貸し借り、売買でしばぁらく更地だったところに、あれよあれよと言う間に軍艦のような巨大構造物が出来た。万葉の頃、歌にも詠まれたあゆち潟を望む風光明媚な土地であったことが、地元の白毫寺に残るが、県名の由来の景勝地も巨大戦艦イオンにはかなわないというところか。

しかし否定をしているわけではない。新瑞橋は確かに栄や名駅からは遠いが、住宅密集地であり、都市型且つ公共交通機関を利用して訪れることが出来る点で、郊外型の車専用マーケットばかりが目立った昨今のマーケット戦略が少し変わったのかなと嬉しく思う。地元商店街はたまったものではないかもしれないが、街のどまんなかに巨大工場が横たわっていた頃から比べれば、少しは街に元気が出るかもしれない。

地下鉄から便利と言えば栄をイメージするわけだが、あそこまでの歓楽街ではなく、マーケットだけがどかんと出来上がる景色は、見ていて愉快である。自転車で通うこともあり、ふらりと立ち寄るには程良い中間点だ。地下鉄の乗り換え駅でもあるから、ドニチエコ切符などと併せた販売戦略を立てて欲しい。車というゆりかごから出ようとしない稚拙な市民に意識改革を呼びかけるには丁度良い。

つい「車」となりがちな生活から脱却する為には都市の中にちょっと眺める場所があれば良いと思う。あゆち潟景勝地の散歩コースなども整備して、歩く人のマーケットとして頑張って欲しいものだと、密かに期待している。


2010年03月08日

今朝の新聞に鶴舞大学でペーパーレスを促進させる為に、会議においてブラザー社製電子ペーパーを採用した旨の記事が掲載された。恐ろしい程の分厚い資料から解放されるのは望ましく、好ましく、それ自体、賛成するところである。速度云々かんぬんは、機械の走りの時期だから何も言わない。更に積極的に会議そのものを無くす方向が望ましいのだと感じる。小さな組織に無数の会議は必要ない。無駄な委員を増やしているだけのこと。無役の年があっても良い。人の数だけ委員を作って時間を捨てることを排除するのが先で、電子化などは後でも良かったのではと思うが、それが出来ないのであれば、電子化から先はそれで良い。多くの構成員が日頃からペーパーレスに励んで欲しい。

その電子ペーパーだが、アマゾンのキンドルでとりあえず認知度は高まったとは思うのだが、日本でどれだけの人が買うか、まったくもって未知数だろう。早朝、夜中の地下鉄では文庫本を開いている人を多数見かける。あれが電子ペーパーに置き換わると言うことなのだが、満員電車で座れないことが殆どの時刻に移動する人や、反社会的自動車通勤の皆さんには関係のない機械に見える。殺人的に高価な大学のテキストなどは電子ペーパーで格安にしても良さそうだが、メモを書き入れることも出来ないから、ますます勉強をしなくなりそうだ。とすると、誰が買うのだろう。

頭が古いし紙の時代に育ってしまっているから、活字は紙という頭がある。紙の上でないとじっくり読めないとか、集中できないとか、言い訳ばかりする人を見かける。小生はどっちかと言えば画面で大丈夫な人種だから、絶対に紙でなければ嫌だという程ではない。これから生まれ育ってくる世代にとっては、紙なんかどうでも良いということになるだろう。新聞も月額315円で読めるそうだから、小生などはそんなコンテンツ利用のために電子ペーパーを購入してしまうかもしれない。

それにしても隙間グッズである。どうしても必要だということではないし、目新しいものでもない。エレクトロニクスの社会進出として少々目新しいとは思うが、ほんの数分の為に、電子ペーパーを持ち歩くかと言えば、それは面倒だ。会議だってノートPCで事足りるし、決して安価とは言えない電子ペーパーを会議活用として大量購入する予算が、成果と結びつくのか疑問である。これだ!というキラーアプリというか、なにかきっかけがないとなかなか購入できない電子ペーパーである。エレクトロニクスは情けない。そう、感じるこの頃である。



2010年03月05日

社会にとって学問とは何か、教養とは何か?真面目に議論の中に入ったことは無い。こんなものかなという議論にはしばしば出会うが、学問を通じて国家をこうしようというお話は聞いたことがない。大学には学科改組という仕組みがあって、何年か経つともうぼちぼち先生も10人近く入れ替わったので、講義の体系も変えましょうみたいな感覚で、その実、ほとんど変化を感じられない改組なることをする。閉じた社会の中で、自己防衛的に行う改組だから、新聞の間違い探しよろしく、変更点が見あたらない改組になる。世の中が動いていても変わらない。それが大学の改組である。

ただ、目に見えて変わって良いものばかりではない。それが教養教育によって到達する精神的高みというものである。ここが難しいところで、精神的高みと、社会的に求められる工業レベルなどがリンクしていないといけない。あるいは、精神的高みを更に高いレベルに持ち上げるような、工学的に社会をリードするものを大学から発信し、自らの人間教育のレベルを高揚させる必要と考えることも出来る。今より退化してはいけないが、そう簡単にころころと学問基盤が変化するような、改組・改革をしないのはその為だ。

社会から何をやっているのか解らないと言われるようでも若干困る。社会に理解されないのは、社会がおたんこなすだからだという可能性もあり、このあたりは線引きが極めて難しいところだろう。電気電子工学科と言えば、ここ50年来変わっていないから、受けることが出来る教育メニューは複雑化していても、社会から見たらコンセント絡みの学問だなと想像できる。もっと広げて地球生活空間工学くらいの大風呂敷を広げても良さそうだが、「何やってんの?」と聞かれるのが面倒だから、電気電子工学科として置いておくことになる。でもこれをやり続けると鶴舞大学、気が付くと無くなっている。

行政改革などと同様、明治開闢以来続いている官僚機構がなかなか壊れないのと同様に、そのお友達とも言える大学の改革というものも実現が極めて困難である。それは今、社会が本当に学問を必要としているのか、教養を必要としているのか、それは何故かときちんと議論してこなかったからでもある。何かを発明、発見するとまるで芸能人化の如くにマスコミが取り上げるが、極めて馬鹿馬鹿しい事である。当局は受験生が増えるからと言うが、情けなくなる発想である。この情けなくなるという考え方そのものが古くて、どうしようもないものだと昨今感じ始めている。学生が好き勝手やるなら教員だって好き勝手やるぞと百余国に分かれ国乱れる時代と同様の景色だ。吐き気がする。


2010年03月04日

どんどん地に墜ちていく日本のものづくり技術の信頼感。新幹線よ、お前もかとなった。外から異物が当たった可能性が高いと、外部起因としたいらしいが、時速250km以上で突っ走る化け物だ、石が当たった可能性があり、それが原因らしいとは何事だ。飛行機だったら鳩が当たったから墜落したと同意だ。もっともエンジンに鳥がつっこんでエンジン停止に陥ることはままあるが。しかも壊れた車種が最新型の車両と言うところに「がっかりさ」は高い。老朽化の点検時見落としというものではない。設計・製造段階での欠陥だ。

大阪万博の前、日本鉄道人の知と技の結集として、飛んでく様に走ると唄われた新幹線「ひかり」号。無破損で走りきり、「のぞみ」にバトンタッチして、その神話は崩壊した。崩壊するような気がしていた。妙に安っぽいのだ。相当に無理をしてコストダウンを重ねた結果、加工も材料も粗悪となり続けているのだろう。日本のものづくりそのものだ。技術イコールコスト低減という方程式を描いてきた結果、答えは破損となる見事な結論。どれだけ大勢の人の命を運ぶのか、経営陣は再考せねばならぬ。天下り行政法人など問答無用で全て切り捨て、日本として壊れないものづくりを支援すると声高らかに宣言するべし。派遣労働者云々などという議論が沸き上がってくるようではいかんのだ。

ギアボックスの破損だそうで、新聞で読んだだけだから真偽の程は全く不明だが、恐らくは窒化処理を施したアルミのようだ。新聞にはアルミとしか書いて無かったが、どんな高速回転になるのか知らないが、素のアルミバルクを削りだして作っただけのものではなかろう。計量化を目指した結果なのだろうが、粉塵が出やすく、しかも応力劣化が激しいアルミ部材を動的な部分に活用しようという発送がそもそも恐ろしい。軽いと言えばアルミになってしまうのだろう。軽いだけが求められた価値では無かろう。それを選択しなければならなかった製造業のプロの方々に同情する。コストと納期。選択肢はアルミとなったのだろうが、その結果が取り返しのつかない信用失墜。奇跡的に死傷者が出なかったが、それは本当に偶然だ。今まで頑張ってきたエンジニアの執念が、神の踵を掴んだのだろう。次はもう無い。大惨事への道だ。

自動車などの大量消費財ではない。自動車が消費財と考えられていること自体が異様だが、それに右へ習えで他の生産品までが消耗品品質と成り下がっていっている。現場から人を消すように作業用ロボットが動き続ける。24時間働くことが出来るロボットは、人員削減によるコスト削減対策としてはベストの選択でこれからもどんどん現場から人が消えていくだろう。すると愚かな経営陣は大喜び。思考する人間を自社から追い出していることに気が付かない。普段から思考する社員を育てていない、いや、育てることが出来ない無能さ故に、もの言わぬロボットに頼るのだろう。ロボットは万能ではない。ロボットにしか出来ぬものづくりをするようになる。気づけば他社も同じものをつくることが出来、価格競争に陥り更にロボット化。そして誰も居なくなる。日本からものづくりの火が消える。その日は極めて近い。


2010年03月03日

ひな祭りの日である。日本は女性の国だから、盛大に祝うがよろしい。昨今、男子はだらしない。責任を取ることができないから、人の指示を無視し、自らの意志で動いているように見せかけ、その実、何もしない。何も出来ない。これを世は無能と呼ぶべきなのに、自立という美辞麗句の賛を与える。世もだらしない。

それはいかん、生きてきた者の指示に耳を傾けよと諭しても、無能者は言を咀嚼せず、わがまま勝手しほうだい、巧言令色、無能な上司はあざわられるが、筋のある上司は呆れ放逐するのみである。しかしそれは無責任のそしりを免れまい。駄目な者に取り憑かれる隙があったと言うことだろう。

雛祭りは婦女子の祭りである。源平の頃を思い出すわけだが、政に婦女子はあらず、館の中で学問に勤しむ婦女子の元に男子が通う、そんな時代であった。世は代わり、婦女子が男子を選別する時代となっている。それで良い。

歯を食いしばり血を滲ませる時代はとうに去った。マンモスが出たと言ったら、多くの男子が逃げ去るだろう。それが今の日本だ。ひな祭りをやったとて、婦女子の盾となる男子はいるまい。情けないひな祭りである。馬鹿馬鹿しい。


2010年03月02日

政治献金問題が後を絶たない。そんなにまでして政治家になりたいのかと不思議でしかたがない。献金する側からすれば、おこぼれ頂戴、お主も悪よのと言ったところか。有史以前の生まれた家で全てが決まる流も未だにあるから、「なんとかして相続だけの奴をひっくり返そう」と頑張っちゃうのかもしれないが、それが銭金の利権も絡めてしまうとややこしい。しかし、国民の側にだって問題は大有りだと思う。マスコミは都会人しか見ていないが、JRの駅から離れたエリアは、1票1万円は当たり前だし、冠婚葬祭に名前が出なければ次は落選は当然の事と考えるのが代々の習わしくらいのものだ。汚い国民に献金問題を云々する資格は無いのだ。

オリンピックの惨敗ぶりとて献金問題と別では無い。解りにくい選手の選定や税金の投入振りなど、一体、何がどうなっているのかと首を傾げたくなる。競技中に靴紐が切れてしまう選手など話しにならない。投入した税金は返還されてしかるべし。スポーツ振興の名のもとに、多くの企業の利権が絡み合う。それが為に政治献金も活発かして、更に得体の知れない選手の選抜が行われるようになる。金メダルなどあるはずもなし。

お布施の理論というのがあって、坊主になれなくて、しかし、人のための来世を願うのであれば、お寺に献金せよというものだ。現世で生きていくのに十分なお金を越える収入分は、税金ではなくお寺にお布施するというものだ。現世より来世ということだ。地方に行くとこのお布施は半ば義務化されていて、城の様な社務所に城主ならぬ坊主が住んでいることが多い。よくある話だ。そんな街で利害抜きの選挙などあり得るはずは無かろう。これが日本の国民性だ。

諦めているわけではない。春の田植えには、人の田圃も自分の田圃も無く、みんなで手伝い助け合いながら稲穂を植えていく様は美しい。己の為を思う者への布施など吐き気がするが、人の為、将来の為を思う者への手助けはしていきたい。そう思わないとやっていられない。そんな気分の今日であります。


2010年03月01日

「津波がチリから来た」とその昔、親から聞いたことがある。そんなこともあるのだなと、実際に見ていないものだからピンと来なかった。ニュースで知ったが50年前の出来事だそうだ。50年周期で濃尾地震みたいな巨大地震が発生するチリとは凄まじい場所だなと驚いた。太平洋の日本の反対側の縁が動くのだから、そろそろ日本も大地震が発生するのだろうと、これまた朧気ながら感じる。実際に津波が到着してみると、利根川を16kmも遡上したとか、その影響の範囲の広さに驚かされる。

根尾谷のように、数百年周期で必ず巨大地震が発生するところに何故人が住むのかと首をひねってしまうが、単純には、1度発生すると、その後、数百年は大地震が発生しないからということになろうか。それが50年周期のチリとなると、これはどうだろう。生涯で2度は巨大地震に出会いそうな勢いだ。マーケットに行くとチリ産の鮭などを見かけるから、第一次産業的に豊かな土地なのかなと感じる。新聞によればモリブデンや銅などの鉱物資源にも恵まれているらしい。それ故に人が集積するのだろうか。

先日、カリブ海エリアで巨大地震が発生したばかりだ。こう、太平洋の反対側で発生していると、その反対側に歪みが蓄積されてきていると考えるのが普通だろう。地震が人の住むところで起こるのではなく、地震が起こるところに人が住んでいるのだから仕方がない。プレートの移動は、海洋体積物を陸地に運び、植物を繁殖させ野生動物を育てる。生命の大循環に乗っていない人間があたふたしても全く無駄である。強いて言えば、地球が大地震と津波で、自らに取り付いた人間という「ダニ」を掃除していると感じるのだ。やりたい放題、好き勝手に動き回る生命をふるい落とそうと地球が鳴動するのではないか。

旧約聖書を読むと、人間の堕落と神の鉄槌の繰り返しではないか。そこから逃げ出して余所に住んで、そこでまた鉄槌を受けることの繰り返し。ここまで愚かだと一掃されてしまいそうだが、馬鹿な人類は核兵器なんてものを作って自ら崩壊する方向を選ぶのだから愚かしい。そんなことを考えながら津波の一日を過ごした。50年前の津波の映像を初めてテレビで見た。これこそ、小学校あたりの教育教材として取り上げ、災害のもの凄さ、避難の重要さの学習教材として用いるべきではないかと思った。今からでも遅くはないから、どんどん活用するべきだ。明日は津波発生国になる日本だ。対岸の火事では済まない。



2010年02月25日

三回転半よりも三回転2回、トータル戦略が勝つ。このあたり、如何にも西洋的で、一撃必殺の日本武道と、長時間のなぶり殺しと民意誘導が得意な西洋人との違いを見るようだ。見るようだと言ってはみたが、小生、ニュースで一齣を見ただけだから、約5点差が付いていて金メダルは絶望的であることしか知らない。審査員に「こっちが上」という意識がある以上、まぁ、判定は絶対に覆らない。そんなもんだろう。それこそ一撃必殺の四回転でもしたら情勢は変わるかもしれないが。

情勢とは周辺意識の流れ込みであって、一人の力でどうにかなるものではない。しかし、ちょっとしたことで一気に傾く。昨日、ネットでダム建設に関わる四千万円超えの献金が自民党議員にあったと報道されていたのを見たが、今朝の新聞には一行もなかった。見落としかもしれないが、だらだらと小沢某をなぶり殺しにしようとしている民意誘導での情勢維持とはえらい違いだ。中日新聞はえらく自民党よりであるなぁと感じる次第。ローカル情報を眺めるつもりで眺めてはいるが、これほど公正さに欠ける都市部の新聞は他に無いだろう。名古屋は偉大なる田舎であると、指さされるのも無理はない。

豊田社長が米国において言い訳をしているのをテレビで見た。何となく疲れていて悪人に見える。黄色い物まね猿が米国民の労働を奪ったことに腹を立て、技術を積み上げて利益を得るという商売の「当たり前」さを妬んだ結果なのだろうが、トヨタ自動車が叩かれる波及効果は計り知れない。日本の電子制御技術への不信感を世界中に塗り込め、日本のものづくり技術そのものを地上から抹殺しようとしているそのやり方は、アングロサクソンのなぶり殺し戦略そのものだ。

ほんの少しの景気回復の兆しもかなり交代するだろう。エレクトロニクス産業とて、韓国、中国の勢いに対抗できない。近い将来、日本からものづくりが消えてしまいそうだ。特にマスコミがそれを願っているように見えてならない。日本のマスコミのレベルの低さには嘔吐する。


2010/02/24

春風が太平洋から流れ込んできそうな日、まだ暗い中に自転車にまたがった。3ヶ月間の空白を埋めるように静かに走った。流石に八事越えはきついので、新瑞橋経由という、まるで地下鉄みたいな経路を取った。取りたくてとったのではなく、勝手にハンドルがそっちに向いたというのが正解。

気がつくと世界が白んでくる。もの凄く久しぶりの感覚だ。一漕ぎ一漕ぎ、着実に進む自転車は、人生より確実で愉快である。世間は梅が満開でこれまた愉快だ。

それにしても街が変わっている。たったの3ヶ月であったのに、軍艦の如くにイオンが聳えたり、貸店舗が並ぶゴーストタウンになっていたり。街にゴミも落ちていない寂しい景色も目にした。

いずれにせよ、激痛に襲われることは無い。どうやら大丈夫。ご心配をお掛け致しました。復活の日でございます。


2010年2月22日

叫ぶサイレン、ライトは回る、事件だジョーカー、空飛ぶパトカー・・ロボット刑事の主題歌だ。何気なく走っていたら目の前に「それっぽい」車。なんだか接近しすぎて失敗したなと思って右手を見たら白バイ2台。ポリ君達が「それっぽい」車の運転席にガンを飛ばしているなぁと思っていたら、突然ライトが回り出す!左手をこちらに上げて協力の合図。「それっぽい」車は前後を白バイに挟まれてそのまま連行。う~む、凄いもん見た。お巡りさんも真面目に仕事をしているんだと、妙に納得した瞬間。真っ当に生きようと、思った次第。なぁんにも悪いことはしていなくても、何となく微妙に感じるお巡りさん。跳ねられて以来、なんだか身近になっているなぁと、目に付くようになってしまった。

千葉の例に見られるように、盗んで殺して火を着けてなんてことが平然と行われる世界。子が親を、親が子を殺傷することが日常的に行われ、報道されている。犯罪レベルが上がってきてしまったなと感じる。初めてアメリカに渡ったとき、夜中に「パンパン」と乾いた音がした後にサイレンが響きわたり、怖い国に来てしまったなと思ったことを思い出す。日本もそんな国になってしまったと言うことなのか、それともずっとそんな国で、それが表に出てくるようになっただけなのか?いずれにせよ、地下鉄に乗るときはホームの縁には立たないし、暗闇には入り込まないように気をつけるようになった。自分の命は自分で守るという基本的な事を実践しないと生きていけない世の中だ。

働かざる者喰うべからずと、遠い時代に教わった気がするのだ。欲しがりません勝つまではとは戦時中のスローガンだが、何も戦時中に限らず、欲しいなら何とか働いてお金を貯めて手に入れようとする基本的ルールもすっとんでしまっている。働いている内に考えが変わるようなら、本当に大切に出来るものではなかったと苦笑いすることも出来る。時間という全ての人に平等な道具を自らを律する事に使うという教育は、全く為されていないようだ。

街で普通にお巡りさんの出番が来るようではいかん。お巡りさんが暇な世の中が正しい世の中なのだと思う。しかし、働きたくても職がない、作りたくても作るものが無いと多くの人が路頭に迷う世の中になった。自動車という高額消費財に頼って動いてきた日本社会は、間違い無く分岐点に立っている。モーターと電池という、電気屋と材料屋のみが元気になる電気自動車の時代は、旋盤、フライスがあれば生きていけた機械屋の時代とは明らかに異なる。内燃機関時代の崩壊は、戦後のドヤ街の時代を日本に復活させる。お巡りさんが活躍する時代になる。運転席でふとそう思った。



2010年02月18日

ふと地下鉄の床に目を落とすと、樹脂の床が悲劇的に汚れているのが目に付く。汚れは靴によって深く刻まれ、二度と元の清潔さを表現できない状況に落とし込まれている。床とは本来そうあるべきなのかもしれないが、人を運ぶ機器がそんな状態で良いのか、そんな状態になることが認められるのか。そんなものづくりで良いのかと、自問自答してしまう。高価なエアフィルターを顔に装着した人達で満ちた世の中だ。工学が行ってきたことは、人類の健康を阻害してきただけではないのか。

地下鉄の床は、まぁ、くたびれた目線が見つけた代物だが、その他にも「こんなもの無いほうが良い」というものが沢山ある。この戯言はその代表格だが、電信柱など、極めていい加減で、危険で、見るもおぞましい。先日、何か気持ちが悪いなと思ったら、近くに停車していたバスがアイドリングをしていて、その排気ガスが漂ってきていることが解った。路上には肺炎やガンを誘発するシステムが多数導入されている。油断なら無い世の中だ。

航空機などもその一例で、地球規模で大気を汚染させる。地球はそんなにでかくはない。飛行機ごときが出す煤煙は地球全体に拡散して、殆ど無害になるだろう、などとお粗末な思考を持ってはいけない。気中のナノ粒子は、恐らく、これは本当に恐らくだが、肺炎だけではなく、その一部は表面の反応性の強さから体内に取り込まれ、精神異常などを引き起こすに違いない。多くの大学生の知的好奇心が失われ、やる気喪失、知的レベルが小学生以下に落ち込むという我が国未曾有の危機を生み出している元凶の一つに、目に見えない大気汚染があると認識している。

作られた物を解消するなどと言うことは馬鹿みたいだが、それを浄化し、生命が海から立ち上がった頃の清純さを世に取り戻したいと考える。何をしたら良いのか、何をなすべきなのか。そこから考えて、何が出来るのか、脳味噌がでんぐりがえっている。小脳が大脳と入れ替わるくらいまで悩み抜いたら何か見えるかもしれない。それくらい考える時間が欲しいと願う私であります。


2010年02月17日

ネガティブな言い方かもしれないが、ストレススタイルを考えて日々を送ろうかと思う。ライフスタイルという言葉は定型的で雑駁で、社会に背を向けた感があるが、ストレススタイルは、社会に向かっていく、社会に自分を開いている意味を含んでおり日々の苦しさ、葛藤も去ることながら、自らを鼓舞し高揚する実際の行為や精神的活動も含む。小生の造語だから極めていい加減だが、今日、「毎日毎日、ろくなことがない、どっかに逃げ込んで消えてしまうか」と考えていたらポッと浮かんだ。自分で思いついて自分で納得してしまうところが悪い癖だが、実際のところ、生きているときに喜びを認識することは無いが、厳しさ、辛さ、苦しさは日程表に刻み込まれる。日程表以外にこそ多く存在している。それをコントロールしている毎日に過ぎないと悟ったとき、それから逃げられない、何をやっても解放されないと追いつめられたとき、ストレススタイルという単語が頭に浮かんだ。

明治開闢に挑んだ方々からすれば、ストレスなど内向きであり、疲労は無気力の現れだと罵声を浴びせられるのだろうが、どうぞご自由に。環境も技術も生き物であり、時事刻々と変化するのだから、意見が合わないのは当然のこと。小生とて昨今の独善的個人主義は到底理解できないし、理解するつもりもない。凄まじいストレスである。小生の個人主義は自分の足下にこそ地球があり、その地をしっかりと踏みしめて地球を回す一員になって、社会貢献に到達できる力を、まず、自らに蓄えるために必死に頑張る主義であり、他人を全く無視して、組織を堕落させ、自らの気分次第でわがまま勝手し放題の現代の個人主義とは全く異なる。そんな独善的個人主義とは戦う個人主義である。

しかし、確実に疲れてきていることは事実である。と、言うか、最初から現代社会とはどうも水と油っぽいなとは感じていて、何をやっても、何を思っても、どうも平成の世とは隔世の人間だなと体感している。この時点でストレススタイルという考え方を持ち込まないと生きていけないことになる。時間の流れがあるのだから、当然のことながら、全ての人は社会から取り残されて漂流することになる。個人主義者で無ければ、その流れに沿って生き抜くことは容易であるし、その時代時代の三つ子を作る人達が作り上げる時代感覚に主義主張をあわせることが出来るのだろう。ところが個人主義者は生き方そのものを時代と切り離してしまっているから、生きることそのものがストレスとなり、生きることの足かせとなって、そしてストレスは自らの魂を喰いちぎって去っていくものだから、残るのはほんの僅かな、朽ち果てた肉体を支える精神力だけだ。抜け殻人間を具現化した形となる。

とてもでは無いが真面目に自分を貫くことなど出来そうもない世の中になってきたと感じる。それだけ自分自身の魂の碇を降ろした時代と今の時代との隔たりを感じることが出来て幸せでもあるのだ。独善的個人主義者に迎合出来るはずもなく、小生は霧散していくのだと確信するが、残念ながら個人主義者の肉体は無駄に強靱である。そうであれば生きていかねばならず、時代が生み出す無限のストレスを自らの人生にジグソーパズルの如くに充て填めて、精神の崩壊から個人主義を守らねばならぬ。マスコミによれば厳しい社会だが、個人主義者には苦しい世の中だ。独善的個人主義者に堕落すれば仕方がないと諦められるのだろうが、個人主義者にはその選択肢は最初から無いので、ストレススタイルの鎧で精神を守るしか無い。気がついたらそんな時代に生きていた。そのことが恐ろしくもあり悲しくもある、今日この頃である。


2010年02月16日

オリンピック関連放送を眺めると、常に過剰な期待と過大な評価がたれ流される。確かに世界選手権での優勝者などが出てくると、少しは期待しないわけではないが、ここ一番で力を発揮できるのは、上っ調子の若者であり、常日頃、人前で自らをアピールすることの教育が出来ている諸外国の皆さんだ。それに普通以上に生活できている日本人選手のハングリーさの無さは、画面を通しても解るではないか。それで勝てると思う方がおかしい。応援団には悪いが、是が非でもというオーラのない選手が勝てる可能性はゼロである。当たり前のことだ。それと、日本選手の多くは、片手間スポーツであり、それで喰っている連中と比較しては可哀想だ。ということで、現在、メダルゼロは当然の結果だと私は感じている。想定内だ。

二十数年前、大学の寮の隣室の剣道家が、日本の最後の砦は剣道だ、これだけは外人は日本人に勝てんと豪語していたことを思い出す。最近では剣道の世界選手権があるらしく、昨年、久しぶりに日本が勝ったとの報道を見た。と、言うことは剣道でさえ日本は世界に勝てなくなっているということだ。相撲はとうの昔に外国籍者の軍門に下っているし、柔道とて同様だ。武道と呼ばれるものが体力勝負で挑んでくる者に勝てなくなっては、加納先生の柔よく剛を制する技の伝承が途絶えているということと信じたいが、それをも上回る技術と体力を備えた選手を、海外において育成されているということだろう。

教育の現場においても同じことを感じる。何を言っても傍観者には通じない。如何なる愛情も届かない。そうであれば、何を言っても無駄となる。それでも語ってしまう。空しさは言語に絶する。そんな者はこれからどんどん増えてくるのだろう。文科省はポスドクを増やしたり大学を統合したりと何やら得体の知れない見せかけだけの改革を断行しているが、東大といえども卒業生が「東大として保つべき質」を維持できていないのではないか?先日お会いした某先生などは、明らかに企業人であり、開発競争という名の研究に没頭しておられた。真理の探究より金利の計上である。

オリンピックが近づきそして始まり、そして終わった時のマスコミの対応は極めて愉快だ。自ら浮かれ国民を欺き鼓舞し、そしてお涙頂戴の浪花節。国民性そのものだが、もはや絵空事では国家は成り立たぬ。今、必要なのは三つ子と智慧を持ったお年寄りとの一方的な対話である。真に国を憂うお年寄りと未来しかない三つ子の対話だ。大人に何を言っても無駄だ。そう醒めつつある今日この頃である。


2010年02月15日

朝から大雨である。雨音で目覚めるのは久しぶりな気がする。濡れていける春雨のレベルではない。気温も低く風邪には気をつけたい。雨は汚れた町のシャワーでもあり、自動車による煤煙を街からは押し流してくれるのだが、川に入り海に浮遊する。浮遊した煤煙は魚が取り込み、結局人間に返ってくる。因果応報。そのあたりの議論は地球温暖化の音頭に消されてしまっている。CO2削減よりも煤煙削減を声高に宣言して頂きたいところだが、自動車の罪をこれ以上増やしてはならないと言う世界中の為政者と自動車業界の癒着がそれをさせないのか?花粉症とて煤煙との相乗効果が問題とされているところがあり、徹底的に調査してほしい。電気自動車になれば良いと言うことも無いが、おぞましい煤煙が減ると思うと少しはましかもしれない。

街は随分と汚いところだなと実感したのは、宿舎に設置している天水桶の底に、大量に貯まる真っ黒な物質を見てからだ。当然のことながらそれ以前から煤けた街を感じてきたが、目の前の桶の底から、まっくろなヘドロが吐き出されるのを見ると、誰もが都市港湾の底も同じ状況であると認識できるはずだ。便利の代償は汚染となって生命の根元である海を破壊していく。海が壊れれば人間も壊れる。当然のしっぺ返しだが、そんな議論は石原都知事がディーゼルの煤煙を問題にして以来、とんと聞こえない。便利であることはそれだけ生命の存続を怪しくするのだ。

自動車ばかりではない。携帯電話にしろパソコンにしろ、それを作り出して利用して維持し続けるのにどれだけのエネルギーが必要か。そのバカバカしい程のエネルギー消費が生み出す負の効果をもっと真面目に議論するべきだ。この戯言とて凄まじい無駄の一つではあるが、まぁ、このあたりのところは棚に置いてしまおう。いずれにせよ、自動車にせよその他の便利にせよ、一見、とても便利で有効なものと考えがちであるが、トータルで生命としての人間をより良い状況に置いたとは思えない。寿命は延びたけれども、薬漬けの毎日では、自ら生命を維持しているとは言えないし、便利で得た不健康を、更に便利な機械で回復させようという循環型は如何なものか。

雨が降れば傘をさす。傘くらいが丁度良い。日本足で歩いて、自然の声を聞きながら人の作った傘の有り難さを感じることができる。傘一本に感謝できる心が必要だ。便利は感謝を忘れさせ、向上心を失わせる。更には不健康まで頂いたとあっては仕方がない。身の回りの不便に感謝しよう。そんな一日にしてみたい。



2010年2月12日

価値観に障られるとカチンとくる。カチンと来たからなんだと言えば、何故、自らの価値観とその人の価値観が「全く異なる」のかを考えることが大切と言うこと。世の中、一人で生きているわけではないし、たかが数十年の経験だけで成立している自己の価値観なんぞ、偉く狭いと認識できれば、他の価値観を解釈して自らの栄養に出来る可能性が出てくる。それが人の広さだし、常にえへらえへらしていられて暢気に毎日を過ごすことが出来る。かっかくると疲れる。疲れるのだが、自らの価値観を崩壊させられるような出来事に出会ったら戦わないといけないし、戦わないとお互いの理解を得られない。理解し合わないで済むならそれで良いが、理解し合った方が、例え握手できない関係で収束したとしても極めて前向きである。

政党なんかは価値観のあった人達の集団なんだろうけれど、細かいことばかりが議論されて、「大略、あなた方はなにをしたいの」と聞きたくなるような、そんなところばかりが報道されている。おバカなマスコミが悪いのかもしれないが、政党のビジョンを全く見せない政治家の姿勢も劣悪だ。何をしたいのか解らない連中に投票などは出来ない。ここにも価値観というものが現れているように感じる。車のブレーキは自動車会社のものなのか、ユーザーのものなのかを売る側の価値観に持っていってしまう世間のあり用は、国民なんざ知ったこっちゃ無いという政治家の価値観にだぶる。

昨今、如何なる組織も評価、評価で業績が点数化され一見、解りやすい存在理由の証拠固めが成されている。評価が厳しければ厳しいほど、更にそれを評価する外部の評価機関の覚えめでたく、構成員にとっては呼吸が出来なくなる負のスパイラルとなってくる。転げ落ち出したらとことん落ちる仕組みは、価値観などと言う人間の尊厳など議論する余地は微塵もない。段々麻痺してきて凄まじく冷たい世の中になっていくのかなと、朧気な不安を抱く。割り切ってしまって「世の中こうなんだ」と点数を取りにいける人種には住みやすい世の中だろう。価値観の押しつけに遭うことなく、自分勝手に生きていけば良いのだ。

しかし、世の中、おたんこなすの大人だけではない。先日、K君がやってきたが、彼の仕事は未来作りである。創造の可能性が少しは残っている児童相手のお仕事である。指導には絶対は無いが柱はなければならない。それは教師の価値観でなければならない。教師の価値観はぶれず、成長するものでなければならない。根っこは心の御柱の如く地中深くから天に届くほどのものでなければならない。価値観とはそれ程のものであって、押しつけあうものではない。お互いに理解し合うものである。そんな価値観を君は持っているか?


2010年02月10日

定まらない天気は春の入り口らしい。気温も三寒四温と、梅の開花を加速させる。文明開化との文言を習ったのは完璧に忘れ去ったが、文明って何だとか、開花とは何かとまじめに考えてみると、恐らくそんなものは何にも無いように感じるし、年がら年中開花しているとも思える。結局のところ人の世であるから、人そのものが開花するというか、文明そのものなのだから、人がどうなったのかが文明開化というキーワードの答えなのだろう。そんなものが、数日で変化するほど、日本の風土は機械的ではない。稲作が発展したのは気候風土がそれにマッチしていたからだが、それを維持し続けるには、村社会の運命共同体という考え方が必須だった。水の分配に象徴される稲作は同じ水源を活用する全ての住民が共に生きる点で、特に田舎と呼ばれるエリアの人の繋がりの根幹を成す。小生の母の実家がまさにこれであり、山間地に住む人達の強い絆を今も覚えている。

小沢某を新聞などが検察に代わって民意操作で裁こうとしているが、その村社会的日本の文明を度外視している点で的外れだ。都会人の事なかれ排他主義者の綺麗事では稲は育たない。「そんなもん、育ててないよ」と言われそうだが、壁に囲まれた都会では、人間社会の善悪など、明確に出来ないのではないか。一人主義の中で善も悪もない。たばこのポイ捨て、缶の投げ捨てなど当たり前。そんなバカ共が闊歩する都会人とそれが読む新聞に村社会の運命共同体を端にする日本の文明の夜明けの流れを止める力はないし、止める必要もない。政治と金と言ったって、たかだか数億円の問題ではないか。全く使われない山間の高速道路路はじめ、謎のコンクリート建造物など、最低でも10億円単位だ。数億円が個人にとって多いか少ないかは村のリーダーにならないと判断出来ないだろうし、それこそ人がどんな金を何に使おうとも勝手であるはずだし、政治家だけが清廉潔白などと思うのは絵空事だ。自らは本当に清廉潔白か?

プリウスを筆頭に、本当にお金を稼いで何とか生き抜こうとする人達が小馬鹿にされる時代である。自らを価値化し、自らのビジョンを社会のビジョンより高い位置に定め、日々精進する姿こそ文明であり、そこに気がつくことが開花である。小沢某が政治家を突然辞めると宣言したとしても、この国は何も変わらない。世界の属国である以上、何も変わらないのだ。遙かアフリカから知恵を使って生き延びて到達した東の端の民族が、数千年の知恵が刻まれた遺伝子を無理矢理捨てようとして、本来有るべき遺伝子に刻まれた文明すら破壊しようとしている。破壊された文明は魂の癌となる。

散切り頭を叩いてみたって、空っぽの頭では文明開化の音など聞こえやしない。からんからんとひからびた脳みそが転がる音しかしない。それすらとっくに耳の穴から飛び出して、ネズミに喰われてしまっているかもしれない。自然は季節の変わり目を演出してくれる。暖かい風が吹き草木は芽吹き花の香を漂わせる。しかし、人間は見た目に踊らされ、自らも見られるままに思考してしまう。必死の真理探究と実証。それに裏打ちされたものづくりが今こそ見直され社会に広まっていかねばならぬ。その時、文明開化の音が聞こえやしないかと、耳を澄ませて待っていようかと暢気に日々を送る私であります。


2010年02月08日

今日から暖かくなるらしい。本当かいなと疑いたくなるような夜中の寒さであった。3時少し前に目が覚めるともう眠れない。日中はさぞかし眠くなるのだろうが、今日は某所に出かけて行かねばならぬ。寝ているわけにはいかない。そうはそうなのだが、生理的にそれを跳ね返せる自信は無い。無いので、やるべき事をさっさとやって、午前中は静かにしていようかなどと不届きなことを考えている。夜中に起きていろいろ考える。何故、一気に眠気が覚めるのか。こんなに便利に眠気がふっとぶなら、体のどこかを冷やすことによって、居眠り運転をしないようになれるのではないか?講義中に熟睡している学生諸君に伝えて上げたい等々、「こうすれば絶対に覚醒する」って案外、役に立つ場面が多いのではないかと、下らないことを考えていたら、起き出す時間になってしまった。今宵はさっさと寝てやると朝から夜中の事を思う。

先週末のこと、H君が宇宙を連れてやってきてくれた。相も変わらず素晴らしい仕事をして頂ける。感謝申し上げる。いきなり装置トラブルの復旧現場で活躍して頂いて、これまた感謝している。Tさんとのコンビは久しぶりだったが、タイムスリップしているようで、ある意味楽しいイベントだ。これからも度々こんな場面があるのではないかと、思わずニタニタしてしまう。エレクトロニクスの行く先には、省エネと新エネの2通りがあるが、その両方に関わっていく方向にSiCを持っていきたいと、眠れない時間に思った。何もSiCに限ったことではないが、自分のエネルギーは自分で責任を持つという、縦穴式住居での火種守からちっとも変わらない世界が直ぐそこまで来ている。例によって日本は完全に世界から取り残されてしまっているが、猛然と勉強をして世界に追いつけ追い越せである。

ではどうやってモチベーションを高めるのか。別に地べたに這い蹲っていたって食べていければ良いという考え方だって悪くない。生きると言うことは厳しいことだから何もそんなに一所懸命にならなくとも良いのだ。のんべんだらりで良いのである。でも、それでは息苦しくなる人種も居るのだ。ちょっと前から言い出したことだが、それがビジョンなのだと思う。精神社会というか生命の根元というか、そんなものに触れるようなレベルの高みでないといけないのが、それをイメージすることを難しくしている。しかし、今、自分が置かれた環境があって、能力があって価値観があって、さらにその上と下から上がっていくともやもやとしながらも、何かを掴めるのではないか?大切なのは人の価値観ならまだしも、人の能力の手助け程度を自分の目標やビジョンに置いて仕事をしている人がとても多く、そこから脱却することだ。まずは自分の実力から発展できる価値観を持つことだ。

情報反乱の世の中である。それが悪いとは言わない。しかし、情報に溺れてしまって、五感に訴えることのみを目標化してしまって、その環境が何故できあがったのか、その向こうに何があるのかを何も考えずに、人が言ったことだけを暗記して自分は絶対者だと信じ込む愚か者を、情報の氾濫は生み出したのではないか?こつこつと積み上げる事無く、情報のトレースという、答えが解っている問題で、答えを見ながら数式を解くことが魂に染み着いてしまっている人間は哀れだ。これからますます増えてくる。その時、周りの人間、全てがそうなっていたら君はどうする?それでも解の無い世界に住んでいられるか?私は住み続ける。それだけのことだ。



2010年02月05日

小生も強く感じることがあって、新しいことをやろうとすると、まずは様々な妨害がある。小生の歴史は被妨害の歴史と言っても過言ではない。妨害など無視してこつこつと続けていると、いつかは妨害者が飽きるのか、妨害しきれないと悟るのか、誰も相手をしてくれなくなる。ここまで5、6年は掛かる。そんなもんだ。しかし、新しいことが車のブレーキだったらどうだろう。初めて車に乗る人から変えていくと言っても、既に運転慣れしている人が消えて無くなるには、5、60年が掛かる。5、6年どころではない。言いたいことは「異常と感じるのは使い方が悪いからだ」と居直っては、ものづくり屋として失格だと言うこと。小生もものづくりをさせていただいているが、従来の使い方はこうだから、こう使えないと絶対にダメ!となる。まぁ、そんなお作法が許されるなら、人類に進歩は無いなと、進歩と調和を旗頭にした1970年の万博の精神など、高度経済成長期の日本人には響かなかったということだ。

今日からブレーキは踏み増して下さいと言われて、それを実行できる人がどれだけいるのか。ましてや様々な車種があって、選択できる時代に、何度、どれだけの圧力に逆らってブレーキペダルを踏めば、時速40kmで走行中には乾燥路面で○メートルで停止しますと言う規格が無いことに驚かされる。他社との競争などあり得ない部分だと思う。標準化されていて不思議がなさそうなところに規制が無いのは、自動車業界が政官と結びついて法律操作をしていたとしか思えない。規格に入れないと売れない商品が一般民間人向け工業製品には多いが、道路交通法という法律の元で走らなければならない機械に規格がないとは驚いた。ましてや、変な機械を売りつけて「おかしいぞ」とユーザーが声を上げると、「使い方が悪いんだ」と居直る姿勢は朝青龍より始末が悪い。

しかしこれは反面教師にする事例なのかもしれないと思う。何かをし続けていると、そこそこの事は出来るようになる。それで飯が食えるようになると、なんだか偉くなったように思えて、自らのお作法に反するものが違反行為だと感じるようになってしまう。そうであるはずはないのだ。自分以外は全て異なる個性だ。経験を問われてそれを答えることは許されるが、それが正しいと押しつけることは許されない。どんなに洗練されたものであっても、人の活動に進歩があるならば、極めて長い目で見れば、形あるものも無いものも、変わっていって良いのだ。「これはこうなんだ」と決定付けたら、その人間はその時代のその一瞬で停止した者というだけなので、何て言うこともないのだが、自分はそうは成りたくはない。成りたくはないので、常に学問するのだ。

毎日、特定企業の悪口を言うのは気が滅入るのでトヨタを小馬鹿にするのは今日で止めたい。あくまでも反面教師としての記録と考えたい。自分が同じ事を隅から隅までやっていないかと言われれば、そんな自信があるはずはない。人に示すことが出来る再現性を重視するなら、事柄のお作法化が必然の場合もある。それが転じて万人の作法で同じ結果が出る事柄が、生き残って行くのだろう。ユニクロの暖か下着が好例かもしれない。自らの活動範囲において、どうやってそれを実践するのか。それこそ永遠のテーマであり、立ち止まることは許されない。自らにプレッシャーを掛けて楽しむこととしよう。


2010年02月04日

ものづくりにおいて重視するべきは、作り手も購買者も品質であるべきだ。購買者の多くは機能を買い求めるのであって、みてくれの役立たずを求めるものではない。組織がどんなに大きくなっても、売り上げがどんなに伸びても、守るべきは品質だ。品質を守り続けるからこそ明日がある。今、認められている品質が当たり前まで到達しているならば、奢ることなくより改善を続けなければならない。作り手は大変だが、その継続する品質を購買者は自らの向上に無意識か意識的かは置くとしても、結びつけていくはずだ。たゆまぬ努力が社会のどこかで実を結ぶ。そして次に繋がる。その中心が品質であり、製造者と購買者の尾契約関係の根幹である。

止まらない車。それをABSの仕様だと言い切れるのか。最も重視するべき止まるという機能を、止まらないという機能に置き換えて、ユーザーの声と発表する企業の姿勢は如何なものか。自動車を購入する時の一番の決め手はブレーキである。ブレーキが利かない車を買いはしない。省エネなど二の次三の次である。そもそも車そのものがエコでは無いのだ。見せかけのエコに作り手も購買者も振り回されていないか。エコは重要で、人が歩き回ることはもっと重要だ。しかしそれは自動車を社会に溢れさせ、車中心の街作りをするという事とは切り離して考えるべきだ。一見、正しそうな考え方であっても、微妙な焦点のずれが、長い年月、目標とえらくずれているということを生み出す。

昨日、某所の企業の開発現場を拝見した。装置の多くはアジア圏に向けて輸出され続けているとのこと。その中に見事に磨き抜かれた古い旋盤があり、それを一分の隙もなく操作するベテランの姿があった。そこにこそもの作りの真髄を見た思いがした。作り手の汗が購買者に届けられるのだ。ナノ精度云々の装置で、無人工場で作られましたと言ったって、人の心が込められていないものなど、何の役に立つものか。半導体デバイス関連で、莫大な投資に見合う回収が無いのは、所詮はバーチャルのためのものを機械任せに安価に大量にをスローガンに進んできたからに相違ない。エレクトロニクスに携わる者としては反省する点は多々あるのだが、一つ一つ真実を積み重ねたものづくりを、自らの原点に立ち戻ってし始めたいと思う。

日々是精進とはどっかの予備校のスローガンだが、親身の集金、日々是決算となっている大企業は、その利益が人の笑顔の上に成り立っているのだと再認識するべきだ。数千万、数億円の設備投資をしても、そこから生み出される機器が1個30円の利益では話にならない。精密化は人の性なのだろう。限りなく進化していく技術をひっぱる人の欲望が、気温の変動によってもたらされる物の元気の姿である熱膨張を越えている。ガタがあるから長持ちする。ガタをガタと感じさせない神の妙は人には真似できない。真似できないのだが、何とかそこを見てみたい。これまた欲望だが、全てをとんがらせた世界ではない、何か神社の森のようなものづくりをしてみたいと思う。そんなことを思わせて頂けた、新聞の一面でありました。


平成22年2月2日(火)

極限まで切羽詰まってくると不思議と出張が飛び込んでくる。面白いものだ。国内移動だからたいしたことはないのだが、何故かこれが飛び込んでくる。しかも逃げられない、どうしようもない「壺」を突いてくるのだから不思議なものだ。尤も、よっぽどの「壺」でないとお断りするのがこの時期の小生の通例だから、その隙を突かれた形になった。まぁ、大丈夫だろうと思っている時が一番危ない時だという教育にはなるのだろう。世の中そんなもんだと学んで頂ければ幸いだ。

先日、新聞で見た「3000万人の人が一冊の本を読まない日本人」という下りがどうも引っかかっている。漫画だって立派な本だし、それまで含めて3000万人ということであれば、よっぽどの活字離れだ。漫画を活字と捉えて良いのか分からないが、「どかぁん」とか「ばばぁん」とか、そんな文字だって出てくるからきっと活字に違いない。逆絵本としてそれらの文字だけで情景を思い浮かべるトレーニングでもすれば更に素晴らしいとは思うのだが、まぁ、そうでは無いだろう。冗談は置いておくとしても、活字離れは激しいと感じる。

小生、高等学校で唯一まともな想い出が、アボガドロの肖像画にそっくりな担任の先生に「生涯読み続けることが出来る文学作品に出会うことが大切だ」と言われたこと。それ以来、トルストイだのドストエフスキーだのを読み漁ったが、結局のところ夏目漱石に行き着いたのは皆様、ご存じの通り。そのシーンが眼前に描けるくらいに読み込んではいるが、まだまだ足りない。ページを開くたびに感じ方が変わるのはその活字によって成長させて頂いている証拠であろう。ベートーベンやバッハの音楽も同様に思う。

どれだけ絵本を見るか。そして心で読み解くか。もしも誰かに何かを聞かれたらそう答えるだろう。今も絵本を時々購入するのだ。そして読む、絵を読む、空気を読む。絵本の側から自分を見つめて心の有り様を表現できるようになれば上出来だ。実験結果を定量的に読み取ることなど容易となる。高尚な趣味だと思うが如何だろうか。一枚の絵、博物館、寺院建築、庭園、皆、作者の思いが籠もっている。その思いを読み取るのではなく、思いになって自らを見つめ直すことが肝心だ。先人の智慧を頂くとはそういうことだ。そして自らの道が見える。物まねではない自分が見える。そうなるまで絵本を読み続けよ。活字はそれからでも遅くはない。


平成22年2月1日(月)

三寒四温。突然というわけではないが、この季節、暖かさは続かない。午後から雨になるようで、乾燥の季節を脱するのは喜ばしいが、朝晩、薄ら寒いのは適わない。特に暖かかった翌朝、首筋が痛いように冷えるのは頂けない。今朝などは湿り気の多い空気がまとわりついてきて、かき氷を食べた時の様な痛みが、外から襲ってくる気がした。

昨日、BGMとしてカザルスの演奏を一日中、書斎に流していた。先日、英国から1枚700円くらいの価格でSP時代の録音の復刻版を8枚程買い込んだのだが、聴く時間が無く、机上の楽曲となっていたものを哀れんで、小さな音量でBGMとして流し続けた。うっかり聴き入ってしまうことがあったが、実に暖かい演奏なのである。他に類を見ないその演奏のダイレクトカッティングで何枚か持ってはいるが、クレデンザで針を落とす時間はそれこそ無く、CDとは音は絶望的だが便利なものだと感じた。そして、音楽とは心で感じ描くものだなと納得した。音波が流れるその空気を吸い込めば、そのまま染みいってくる演奏に出会うことが大切であり、自らの気持ちを伝えるとはそういう事なのだなと、自らの無能力さが浮き彫りになったようで寂しい思いもする。

新聞で奈良県のどこぞから卑弥呼の鏡と呼ばれるものが多量に出土して、それが邪馬台国派とそうでない派とに分かれてうだうだ言い合っているとの記事を読んだ。馬鹿馬鹿しい論争であるが、お互いの根拠、論拠を徹底的に並べて精査し合い、何が明らかで何が想像であるかをきっちりと分け合うところからやり直せば良いのにと思う。たった二千年の間の歴史を明快に語れない国家など国家と言えまい。紀元は二千六百年とか妄想を抱いて歌ったって、うそっぱちでは国家は立ちゆかない。歴史は大切である。そしてそれを明快に後世に伝えることはもっと大切である。

今、何が必要で、何を成すべきか。大切なのは「それは何故ですか」の問いかけに「何故ならば、それはあなたの現状をこれこれに改善でき、あなたが幸せになるから」と言い切り、そしてそれが相手に伝わる事だ。人は言葉を持って勝手になった。異なる言葉を持たされて戦が起こった。旧約聖書によるところだが、今こそ言語を一つにする時だろう。そう思う。



平成22年1月29日(金)

売った機械よりリコールのほうが多くなったら、普通はそんな企業は解体だろう。JALなみの酷さだ。トップを目指すとろくな事がない。気がついたらトップだった企業と、トップを目指してひた走る企業との自力の差だろうと思う。数ではなく質が大切。質を切って量を求めると、そこには油断が生じ一穴が生まれる。一穴は崩壊の証。一穴があったら崩壊していると思った方が宜しい。一穴が開いた後の埋め戻しは極めて難しい。

自らにおける一穴を塞ぐことも、これまた難しい。一旦、怠惰が目覚めると、それを抑え込むには数年かかる。だからそうならないように気を張っていると、反動で過労と成る。過労と成ると怠惰にならざるを得ない。平々凡々、人間平らが一番である。平らであるから山も谷も感じることが出来る。感じれば動ずる。動じている間は怠惰にならない。従って、平々凡々であることが肝要である。

平々凡々であるつもりが、世間並みよりも低い水位で平らになってしまう場合がある。所謂水面下というやつで、表からは全く見えないのだが、当人は土左衛門になっていることには気付かず、平常心を保っている。これこそが一穴である。土左衛門は水面下に、木は森にある。平凡な木も大勢になれば森になり、神も宿る。土左衛門は朽ち果てていくだけである。トヨタは土左衛門だ。水面が干上がると願っている土左衛門だ。

人がものを作る。人に作られた物を利用させて頂き、人は幸せになれる。人を不幸にするものの作り手は土左衛門だ。信頼を失う努力をする作り手は土左衛門だ。トヨタを指さすなかれ。自らが土左衛門であるかどうか、胸を張れるか?それが大切だ。


平成22年1月28日(木)

一人が走り出すと全員が走り出す。一人が転ぶと阿鼻叫喚、怒号飛び交い、足を引っ張り合う。暢気にその脇を通る。地下鉄の改札から乗車までにしばしば見られる、恐らく、日本的不可思議な図だ。毎日というわけではない。多くの利用者は早朝のダイヤが頭に入っているから、誰が走ろうと「ごくろうさん」と見送っている。早朝から朝のダイヤに切り替わる頃が上述の通り、雪崩の如く人が動く。誰かが動けばそれにつられる。極めて日本的で醜い。足の引っ張り合い、タケノコのつぶし合い。楽しいのだろうか?

しかし、思い出すと、小生も、特急に向かって走ったり、乗り換え電車に向かって走った記憶がある。と、すると、今の小生は昔と何処が違うのか。何かの能力が積算的に高くなったのか、それとも除算的に小さくなったのか。何かが伸びると同時に何かが鈍感になったに違いない。明確な時間計画を持って行動しようと思っても、割り込み処理をしてくる周囲の圧力に脱力し、綿密計算的思考と行動が無駄であると知った時、「これだけ」主義者となった。

「これだけ」主義を貫こうと思うと、案外、それでも厳しいのだ。一つのことだけ、それだけは今日中にやっつけようと思って朝、机に向かうのだが、6時後半から電話が鳴って、うっかり出てしまうと割り込みが開始される。ドアが開く、出掛ける、そして夜の9時だ。「これだけ」と思っていたことすら「今日出来ることは明日に延ばす」ことになって、「これだけ」がどんどん後日にストックされていく。でも順延したとて身の回りの社会はずるく出来ているから、命令者の余裕に遅延は吸収され、結局の所、兵隊だけがきゅうきゅうと生かされているとしることになる。

こんな繰り返しが今の暢気さを生んでいる。しかし世の中には他人を顧みず、かき回す人が多数いらっしゃる。正義は狭い自分の視野だけと押しつけてくる人が少なからずいらっしゃる。関わらないようにしていても、その中に押し込められる。地下鉄に向かって突っ走っている時代は、その人にとって幸せな時代なのかもしれない。ドアの閉まりかけた電車を悠然と見送ることが出来ている人達は、それでも地球は回るのだと知っている人達だろう。時々はホームに滑り込んでくる電車に向かって走ってみるか、と、そんな馬鹿なことを真剣に考えた、雨の朝であります。


平成22年1月26日(火)

寒いなと感じて目が覚めた。明け方4時ちょっと前。部屋の寒暖計は10度を示す。床近傍はそれ以下だろう。寒いわけだ。根室では最高気温がマイナス9度だそうで、室内が10度程度で寒いなんて言ったら怒られてしまいそうだ。夏は名古屋のほうが厳しいんだと威張ったところでどうにもならない。寒くて眠れないのは栄養不足か体調不良だ。最近、調子が上がらない。暢気に過ごすことにする。

暢気に過ごしたいのだが、何故か机上に雑事が貯まっていく。一切合切を床にたたき落として、のんびり洋書でも眺めていたいのだがそうもいかない。電話は鳴り続けるし飛び込みの営業も何故か勝手に校舎に入ってきて、そして教員室まで襲ってくる。これは泥棒に近い不法侵入ではないのかと思うのだが、当局は取り締まり能力の限界を超えているものだから対処しない。まともには請け合わず追い返す。時間泥棒である。エンデのモモを思い出す。

今朝、TVで萩市で人力車を引いて街を案内する方の活動が報道されていた。エコである。漱石の小説などには「車」と出てくるが、それが萩の街中を走り回る様は絵になる。人力という所は極めてエコである。床下に豆炭を入れてお客さんを暖めていたので、CO2は案外出しているが、それでも乗用車に比べれば圧倒的にエコだし、車夫の方の食い扶持も上がる。人間と街の共存共栄の姿に感動した。感動したのだが、小生が住まっているところは急坂の途中だから、人力車は来てくれそうにない。そもそも近所には居ない。

良く考えられていると思う。乗客の視線的には乗馬した視線の高さよりちょっとだけ低い程度だ。昔の塀なら、中がぎりぎり見えない程度のところに設定されているように画面では感じた。エレクトロニクスなど何にもないのだが、妙に良い雰囲気ではないか。活動範囲は人力車の動き回れる範囲。その中で人的交流があって、街に文化が芽生える。インターネットで世界中で覗きっこをするもの良いが、時間を止めた生活はなお宜しい。そんな文化を近代に作る事は出来ないものか?そう感じた。


平成22年1月25日(月)

その昔、井上陽水さんが「昼寝をすれば夜中に眠れない」という、至極自然な文言を唄っていた。小生もその質で、ぐぅと昼寝をしてしまうと、その夜はまず眠れない。しかし、3週間ぶりの休日であったので、仕事をおしなければという精神的命令を体が受け付けず、苦しみながらも昼寝をしてしまった。夢の中で目を開けねば、仕事をせねばと気合いを入れるものの、目が全く開かない。もがき苦しむ馬鹿馬鹿しい昼寝をしてしまった。

寝たのか寝ていないのかさっぱり分からず、精神的重圧だけが増えただけで、気持ちは全く変わらない。単に時間が経過したにすぎない。結局、仕事はほっぽらかしてケーブルテレビで海外情報を見ていた。チェコに滞在する写真家による街の紹介で、なかなかにして痛快で、チェコに永住というのも良いなと、たかが数億円のことで、一人の政治家をよってたかっていびり倒そうとする、腐りきった日本国に愛想を尽かしている小生は感じた。ああやっていびり倒す相手が居なくなったら、こいつら何をするんだろうと、政治屋もマスコミも昼寝でもし続けるのかと馬鹿馬鹿しく思っている。

予想の通り夜は眠れず、書庫から夢窓疎石に関する文献や、海上の森の自然に関する文献などを読んでいたら、幸いにして眠くなってきた。うとうととしていたら、突然、頭に隕石がぶつかって、首がぐきっとなる夢を見て飛び起きた。本当に首がぐきっとなっていて、一瞬、折れたのかと思ったが、車に撥ねられても折れなかった首が隕石ごときで折れるはずはないと、妙に納得した。横を向いて寝ていたのだが、枕の高さが微妙に足りず、頭の重さに筋肉が耐えかねた結果と分析したが、そんなことをしている自分が馬鹿馬鹿しくなった。

結局、再び目が覚め、一晩中海上の森の文献と戦っていた。はげ山だった海上の森の土壌はやせており、酸性の強い土壌だそうで、まさにこれからの森らしいのだが、万博で踏み固められた土地が里山として復活できるのかどうか、極めて疑問である。スピードと利便性を求めた結果、人は里山から離れていったわけだが、たき火をすればダイオキシンがどうのこうのと騒ぎ立てる昨今、森が、人と里山の関係に戻ることなど無かろうと感じている。特に都会ではそうであろう。欧米人が守ってくれた京都の町並みですら、ぶっこわし続ける日本人だ。スピードと利便性は人の脳を退化させる。何も考えずに眠ることすら出来ない毎日に呆れている。

平成22年1月21日(木)

もしも明日から朝日が昇らないと、太陽は地球を照らさないと聞いたらどうするか?流石に太陽を宇宙空間に作ろうという気にはなれず、さりとて、全ての動植物が死に絶える絶対零度の世界に向かっていく地球というものに希望など持てず、地震で全てが破壊され、いてもたってもいられない世界になっていくのだろう。何故、突然、こんな前振りをするのかと言えば、今のところ太陽は何処かに行ってしまうこともなく、朝日は昇ってくるのですよと言いたいのだ。どんな絶望も、昇りくる太陽を眺めていれば消し飛んでしまいますよと言いたいのだ。

自分自身に言い聞かせていることでもあるし、経験を積んできたことでもある。何事も思ったようにいくはずがないのだ。欲望と絶望を繰り返し、アフリカで誕生した人類が多くの変貌、変遷を遂げて今に至っている。当然、今も進化の過程にあって、突然、新人類が現れたっておかしくない。既に身の回りに存在している可能性だってある。そんな中で、あれが出来ない、これが出来ないと絶望する必要は無い。無いのだが絶望する。一秒先がやってこなければ良いと願ってしまう。

悪しきことは他人の責任にしたいし、良い事は自分が関わっていたことにしたい。親に叩かれれば痛さを覚え、親に褒められれば頑張った気になれる。褒めて育てよとは言うが、痛さの向こうに安堵の世界があるから価値がある。所詮はプラスマイナスゼロが神様が人類に与えたものだろうから、多くの絶望を与えられている時こそ幸せと思えば宜しい。絶望と感じられる程に、今まで頑張ってきたのだから。絶望に陥ることが出来る程に、全力で頑張ってきたのだから。

こんなことを書くと、今、小生が絶望的な何かに陥っているのかと思われてしまいそうだが、全くそんなことはない。地球は太陽の周りを回っているし、自転もしているから、必ず朝日は顔を出す。雲の向こうだろうが何処だろうが出てきてくれる。だから絶望はしない。大事なのは努力である。努力をし続けることである。努力できる今、絶望はしない。する必要はない。そう、言いたいだけなのだ。


平成22年1月20日(水)

車に撥ねられて二ヶ月。良く生き抜いたと思う。ぼろぞうきんみたいにアスファルトに横たわる自分を忘れまい。道路を渡るときには十分に気をつけるようになったし、普通に歩いて活動できる事の有り難さを知った。いろいろな検査によって実態を把握した。血圧だけではなく体内の水分量やら骨の量やら、何か妙に気になって、継続して健康おたくになっていられる機器は無いかと探したら、国内メーカーでその分野では第一人者のTANITAに行き着いた。行き着いたのだが、TANITAアメリカというところが如何にもアメリカの健康個人主義らしいと笑ってしまった。

この機械、所謂、体脂肪計付き体重計みたいなものなのだが、強烈なスキャンで何の役に立つのか知らないが9項目の情報をはじき出してくれる。パソコンによって情報を無線管理出来、グラフで状態変化が分かるようになっている他、それこそ何の役に立つのか分からない数値同士の比較もしてくれる。そのあたりの勉強は徐々にしていくとして、素足で乗っかるだけでデータが蓄積され、グラフ化してくれるのは科学者として極めて面白く、三日坊主にならないでいる。

上記の機械はGarmin社の健康管理腕時計と連携が取れて、歩いた距離だの、走行で消費したカロリーなどをため込んで、上記のメーターとリンクして、なんだかやってくれる。何がどうだからどうなんだと言われても、機械を買って無線で繋がっているところを喜んでいる段階なので、心拍計も無線で繋がってどれだけの運動負荷があるかまで見えてくると、アメリカの健康個人主義とは凄いものだなと感心するのだ。

日本では2兆三千億も負債を出しても、国が生かしてくれるような状況だから、国民もそんなに健康おたくにになる必要はあるまい。上記のTANITAの機械は日本では販売していない。レコードを買うついでに海の外から購入した。古き良き保守の国だから、新規性の高い、とんがった商品は出てこない。出てこない間に陳腐化するころに、漸く、ちっとも役に立たない形で出てくる。携帯電話がその例だ。日本人が西洋風の食事を初めてかなり経過している。癌が死亡率ナンバー1では無くなった。車に撥ねられたら仕方がないが、日々の不摂生で折角の命を失うことほど、命に失礼なことはない。命に優しい人は物にも優しい。そんな人で世の中が満たされればみんな笑顔。そんな世の中笑顔化計画のスタートとして購入した、透明なガラス板状のTANITAの機械とGarminの腕時計。実に愉快である。


平成22年1月19日(火)

最近、コンビニエンスストアが閉店し、真っ白い看板状態になっているところを見かけるようになった。見かけると言っても数件なので、衣料品店や食堂などの閉店舗を見かける度合いよりも極めて少ない。極めて少ないのだが、妙に時代を感じるのだ。「24時間の便利を捨てた」住民の選択は、何を意味するのだろうかと、その裏で単に店長さんが高齢だとか、もっと儲かる店を始めたとかそんな理由があるのかもしれないのに、真面目に考えてしまう自分がおかしい。

地下鉄野並駅から歩いて十分ほどのところに、ローソンとセブンイレブンが並び立っていた。郵政事業が肩入れするローソンとサークルKは何となく強く、老舗のセブンイレブンは最近、何処に行っても元気がないように見受ける。そんなことを思っていたら、駐車場もそこそこに広いセブンイレブンがいきなり閉店し、食料品企業の事務所件倉庫に化けてしまった。勝ち残ったのはローソンで、この世の春を謳歌している。そもそも並び立てるところがおかしいとは思うのだが、信号を隔てているから、それぞれの地区にしてみれば信号を渡る手間が省けて、どうせ似たり寄ったりの価格でそれなりのものを販売している「24時間の便利」を選択する必要も無いと考えられる状況にあった。小生は駅からの帰り道、当然、信号を渡らないで済むほうを利用していた。ところがそっちが閉店に追い込まれた。

今朝、御器所駅7番出口の目の前、要するに昭和区役所から大通りを挟んだ反対側にあった、確かローソンであったと思うのだが、それが閉店していることを確認できた。妙な言い方なのは、正月過ぎにその当たりを通過した際、視線にコンビニが入ってこなかったという記憶があり、今朝、意識して確認したのだ。隣の飯場(どかちんのバイトをした人がある人は分かるでしょう・・)は元気が良いが、駅の出口にあるコンビニが閉店となってしまった。駅の直ぐ出口であり、それこそ便利なので時々利用していたのだが、あえなく撃沈してしまった。さて、これをどう捉えるのか。その先に進むと、どう考えても誰が利用し続けているのか分からない、小綺麗な酒まんじゅう屋さんがあるのだが、都会でどうやって営業できるのかと不思議に思い続けているのだが、未だに健在だ。それに対して「24時間の便利」が閉店に追いやられるのだ。一時の快楽が常時の便利に勝つと言うことだ。もの凄い極端な言い方だが。

しかし、それで良いのだと思う。元日から初売りを仕掛けるデパートやスーパーマーケットが、小生、正しい国のあり方であるとは思えない。貯蔵食品が多く、冷蔵庫をどうせ動かし続けるのだから、店舗展開してしまえということなのなのかもしれないが、襟を正し、年を越せた感謝と来る年への期待感を共有せずに、一時の快楽を求める可能性を広げている。仕事中毒の日本の権化だ。決して人のことを言えない小生ではあるが、コンビニエンスストアが閉店に追い込まれる現状は、経済状況云々は置いておくとして、それで正しいだろうと感じている。月給が下がり続け、土日も労働に駆り立てられる状況において、割高感のあるコンビニエンスストアが生き残っていられる方がおかしいのだ。そして、日が暮れてからも活動を続けている人間を前提とした商売が成立すること自体が奇妙なのだ。人が生き、生産しそして糧を得る。単純な生命の営みで全ての生命に共通の活動だ。太陽を必要としている生命体が太陽を放棄することに違和感を覚えない社会は人間に厳しい。いつか滅びると思っていたら、もう滅びていた。昨今、そう感じる。


平成22年1月18日(月)

国家的統一テストに立ち会った。暖房は壊れるわチャイムはおかしくなるわで、監督として極めて緊張を強いられる二日間であった。天下り機関を守るために実施され続ける国家的統一テストのレベルが年々下がり続け、小学校から高等学校までで受ける学問の質、教師の質低下を加速させる。全部の問題を眺めてみたが、物理に関して難しさは置いておくとして問題の数が多く、小さな問題を繰り返しトレーニングされている様が見て取れた。小生がといても40分程度掛かってしまったのだが、あれをさっさと解くトレーニングは相当の物だなと感心して会場を回ったら、皆、半分程度しか出来ていなかった。おいおい・・・現場を全く知らない教員による問題策定だなと感じる。

今年、強く感じたのが「お客さん姿勢」。毎年毎年、その傾向が強くなって、大学においてもそうなのだが、大学に入ってくる前の若者層全体がお客さん姿勢であり、背筋ゼロ人間だらけなのには悲しくなった。歓呼は高く天を突くと言われた日本男児は何処に行ったのだ。生きている活力は何処に行ったのだ。監督なので問題をとっかえひっかえ、部屋を出たり入ったりするのだが、入った瞬間に、マイケル・ジャクソン氏の「スリラー」のビデオにおける墓場のシーンを思い出すのだ。いや、墓場の亡者のほうがよっぽど活力がある。死人である。死人が並んでいる。例によって小生、おたんこなすだから、声のトーンを上げてみんながんばれよという気持ちでいたが、「解いてやってんだよ」という気持ちがひしひしと伝わってきてからは、だんだんとしらけてきた。しらけてくるとくたびれる。報酬無き強制労働で土日がふっとぶのだ。死人を相手にさせられたらたまらない。

何処まで遡ると死人が生きた人になっていくのかこの目で確かめたいところだ。思い出せば昨年、某豊田にある高等学校に出張講義に出掛けて、学生の元気さと校長殿の踏ん張りに感動させて頂いた。小生の担当した部屋がたまたま墓場であって、他の部屋はどうであったのだろうか?自分の試験でない時間で、試験会場の表で大騒ぎするような思いやりの無さ、自分勝手さも強く感じた。床には使い捨てのカイロやマスクが投げ捨てられており、家庭での人間指導もゼロなのだなと嗚呼とため息をつく気力すら失う。

教育などほったらかして研究に没頭するのが最も簡単で、門戸の広い逃げ道だ。しかし人間とは不思議なもので、逃げ道を王道とすり替えて突っ走る利口者と、退路を断って逆走する馬鹿者が居る。馬鹿者組で育ってしまうと、どう逆立ちしても逃げ道に入れない。口では何と言っていようが、ストレスをめいっぱい充電しつつ、逆走を止めない。しかし、逆走するにも道がない。道を造ろうにも空間に浮かんでいるようで大地も見あたらない。教うるは学ぶの半ばなり。昭和初期はそうだったのかもしれないが、今は半ばどころか入り口にも入れない。自らの無力さに情けなくなる。社会の根幹は人間である。時代なのだと投げ捨てられた馬鹿者組は窒息死するしかないのか。迷える一週間の始まりである。宇宙などどうでもよろしい。

平成22年1月15日(金)

TVを見ていたら就職内定率が昨年から比べてマイナス4%だと出ていた。率直な感想はマイナス4%で済んでいるのかということだ。全体の20%が就職出来る可能性があるくらいの数字が出ても不思議ではないと思う。

鶴舞大学では大略、1年生から2年生に進級する段階で、自分が進みたいと願う系に分属する。○学科○分野における分野を、系と呼んでいる。成績に点数が付いて、各系の定員に対して成績上位者から希望が叶う仕組みにしている。努力が報われる仕組みである。もっとも、1年生が自分の分野を決めてしまうのは早いという意見もあるが、専門教育に進んでいく関係で、早い段階で分属しないと専門性が無くなってしまうことから、やむを得ない。

その将来を決める分属の説明会で、8割の学生が寝ているのだ。起きている学生の半数は、内職をしている。学生実験のレポートやらなにやら。携帯電話を眺め続ける者も多い。そんな「死人」を見た直後だったので、大学生の約7割が就職の内定を頂いていて、昨年に比べてマイナス4%で済んでいるということに驚いた。

社会がどんどん無力化していくのは、無気力な人間が企業に入り社会を堕落させるからだ。その責任を大学におっかぶせようとしていると感じるが、気力のある教員がどんなに頑張っても、お客さん気分の馬鹿共は、何を言っても駄目なのだ。自堕落主義で育った者に何を言っても駄目だ。最近、漸くそれが分かった。駄目な者は駄目なのだ。育たない者。溢れかえっている。何処に溢れるかと言えば企業に溢れていく。恐ろしい話だ。


平成22年1月13日(水)

寒い。馬鹿馬鹿しく寒い朝だ。暴風が拍車をかける。何だこの朝はと思う。しかしこれが冬の姿だ。凍り付いていないだけ、まだましなのだ。こんなに寒くても人は仕事をする。こんなことを書くと北国の人々にひっぱたかれそうだが、名古屋は夏と冬の温度差が、これまた馬鹿馬鹿しく大きいから、自分の苦手な方は本当にきついと感じる。確かに昔から比べれば冷え込みはきつくはないのだが、それでもやっぱり寒いものは寒い。暖冬とは感じられない。

この寒さがやってきて、どかっと雪が降ると共通テストの頃だなと感じるのだ。小生が受験したときは鈍色の空であったことは覚えているが、雪は降ってはいなかった。しかしやはりやたらと寒い時期であるのは間違いない。大雪で試験開始が遅れるなど、様々な問題が発生する。天下り団体を生かす為の大学入試センターが、何故に仕分け・廃止の対象にならないのか理解不可能だが、この不可思議な試験の仕組みのお陰で、監督演習なども行わないといけない。全国の教員がそこに削く知的時間がどれだけ無駄になっているか。そろそろ大昔の入試制度に戻しても良かろうと思う。日本は、画一化して喜んでいる場合ではない。

名古屋における寒さと暑さは、極めて明快である。合格・不合格くらいのメリハリがある。出来るのか、出来ないのか。「だいたい」、「およそ」などの表現は捨ててしまうのが良い。小数点以下、何処までが正しいのか。主観と客観を取り混ぜて話す、所謂日本流のお付き合いは、少なくともお仕事の場では捨ててしまってよろしかろう。福沢桃介すら知らない大学生に出会うと目眩がする。日本は一体、何を教育してきているのか?国家の荒廃極まれりである。

寒い。兎に角寒い。寒いのだが、生きている。生きている以上、寒さを感じねばならぬ。毎年寒さを乗り越えてきている。今年もそう乗り越えるに違いない。みんなそうだ。純粋に凄いと感じる。それでも生き続けることができた。君はそう思わないか?


平成22年1月12日(火)

宿舎の書斎で物書きを使用と思ってツバメノートを開いた。薄黄色いフルース紙は万年筆のペン先を引っかけることなく滑るようにインクが乗っていく。思考を途切られる事無く、考具として優れている。しかし戯言の主役はツバメノートではなく、小生が博士課程4年(蝦蟇の油売り大学は、博士前期課程・後期課程という区切りではなく、最初から5年一環博士課程であった。その4年目の意味)の時、就職の面接をして頂いた際、「あんたはうちではやることはない、もっと勉強して社会の役に立ちなさい」と、面接の後にお送り頂いたbio-liteなる製品だ。

何に驚いたって、もうすぐ20年にもなろうかと言うのに現役ばりばり。インターネットで検索してみると、今でも後継機種が製造されている息の長い商品となっている。有り難い頂き物でもあり丁寧に使わせて頂いていることもあって、スイッチや間接部などもへたりが来ない。立派な物作りである。こんな立派な物を作っているから次が売れない・・ではなくて、日本人のものづくりはかくあるべしだと思うし、誇りに感じる。ただ、製品の「時代背景」がシリカ電球の時代であったから、利用している電球が凄まじく熱を出す40Wの大量エネルギー消費の電球であることが悲しい。

これは頂けない。省エネの研究をやっていると威張っている割には、実際の活動においてちっとも省エネではないのだ。シリカ電球だけではない。小生のオーディオなど真空管システムだ。ミッドレンジのドライバーなど、直流励磁の電気食いだ。乾燥と火事が嫌だからとオイルヒーターだ。ちっとも省エネではない。bio-liteは冬場には有り難いのだが夏場は大変に厳しいのだ。昨年まではあまり意識してこなかったのだが、LEDを活用した製品に転換しないとそろそろいかんのかなとしみじみ眺めてしまった。LED電球も、少々安くなってきたようだし、試しに一つ、買ってみようかなと思う。

話をするよりもメールで事を為してしまうと若者に難癖を付ける大人が多い。しかし時代は進んでいるのである。config.sysと格闘した時代はとっくに過ぎ去り、生まれながらにWindowsシステムとネットワーク、携帯電話と慣れ親しんでいる世代である。シリカ電球なんて知らない世代が次の世代だ。懐古が悪いとは言わないが、恐ろしい程に世界が変わっていくことに追従しないといけない部分もある。もしもエレクトロニクスからの恩恵を遮断することなく地球温暖化ガス排出低減を達成するためには、省エネ機器に出来るところから置き換えることが必須であろう。bio-liteは小生の書斎のシンボルであり、これからも活躍して欲しい。電子回路がLED電球とマッチングするのかどうか分からないが、一度は交換してみようと思う。駄目なら駄目で仕方が無い。その時はその時、何か対応策を考えることとしよう。希少金属のタングステンを使うシリカ電球もこの後、生産され続けるとは思えない。その時代、時代を作った製品も工業製品であるが故に滅んでいくのだ。画一化された人間も同様。そうならないように常に新人類であり続けたいと考える私であります。


平成22年1月8日(金)

正月明けから一週間が過ぎ、松も開けていよいよ正月気分を抜かねばならぬ。尤も抜きたくなる程の正月気分に浸ることは無かったが。新年度に鶴舞大学では学長殿が代わる。いわゆる代替わりという奴で、任期満了による円満交代であってめでたいことである。小生が名古屋に着任した時の学長以来のことで、その間、ずっとどろどろした政変が続いていた、なんだか中央政界の縮図みたいな大学だなと感じていた。大門学長になってからなんだかんだあったわけだが、個の時代に入って自ら研鑽する方針によって集団の突き上げ力が減った結果、不満の大膨張が少なくなった様に想う。ある意味、良いことだと想う。

ある意味というのは、まとまって何かをしようとする力は減退してしまった等、全てが良くなったと感じている訳ではないということだ。しかし、個の時代が進んでとんがった人達がぐんぐんと育ってくると、大政奉還後の日本の状況に転換するやもしれぬ。江戸時代と聞くと400年も前にスタートした時代であって、随分と昔だなと錯覚してしまうが、人間の時代にとってはほんの少し前に過ぎない。宇宙の時代から見たらゴミみたいなもんだ。その間ですら世の中はごろんごろんと音を立てて変わってきた。これからもどんどんと変わるのである。

折れた箇所を少しずつ動かし始めたリハビリ当初、こんな痛みが永遠に続いたらげんなりしてどうでもいいやと投げやりになりそうだと想った。しかし少しでも痛みが和らいでくると、一気にここを突破してやると俄然元気になった。ほんの少しでも変化すると、それが良かろうが悪かろうが人間頑張るもので、本当は人生の積分に価値があるはずなのに、微分を歓迎してしまうところがある。お盆や正月などの、所謂年中行事を有り難がるのはこの人間本来の微分好きにあるのではなかろうか。そういう意味では任期満了によるトップの交代というのも微分であって、何かを期待しないわけにはいかない。

小生もあちらこちらの組織に居候させて頂き、多くのトップの政を見せて頂いてきたわけだが、トップというのは疲れるだろうなぁと、平民の分際で疲労を感じている自分を恥じるのである。下を見ると頑張っていると錯覚してしまうが、トップを見れば何もしていないことが分かる。そう感じた時にそれじゃぁ頑張るかと思うか、まぁ、あの人はトップだしと思うか、そしてトップに居る時にそう思われてしまうかどうか。リーダーは死ぬほど働いて当たり前。しかし、平民がそう単純に思ってしまうか、あのリーダーが頑張っているんだから働き蟻も頑張るべぇと白い息を吐くか。どんな小さな組織の存在意義もそこに見られるのかなと、自分の足下を見て微妙に不安になる私であります。


平成22年1月7日(木)

室内温度が10度を下回ると、顔が冷たくなって起きてしまう。山道具で目だけ出してあとは覆ってしまって寝るというのも手だが、宿舎の中でホームレスみたいな気分になってやるせない。とは言うものの、寝たり起きたりの繰り返しで熟睡できないと、昼間、いかんせん辛い。

学生時代、段ボールで出来ているようなアパート暮らしであった。室内は氷点下。布団の表面に霜が降りる恐ろしい程の寒さであった。それとどう戦うかが当時の思案のしどころであった。結局、布団の上に櫓ごたつを組んで、一晩中着けっぱなしという、ちっともエコでは無い手法によって生き延びた。こたつに寝ると暑くていけないが、掛け布団越に伝わってくるこたつの暖かさは、何とも有り難かった。四畳半でもあったので、空間の熱容量が小さかったのも幸いしていたと想う。結露で窓やドアが凍り付いたのはご愛敬だ。

疲れた、くたびれたという言い訳は、一体、何歳から使えるのだろうとその頃から想っていた記憶がある。当時の日記はどっかに言ってしまったから不明だが、財務大臣が体調が悪いからと仕事を投げ出してしまえるというのも、きっと年齢が許す技なのだなと微妙な気分だ。大役を引き受けたのだから全うせねばならぬ。当たり前のことだ。尤も、我が国は首相がやる気がなくなったら辞めても良い国だから、突然、仕事をしなくなっても誰も攻められない、責任を取らなくても良いという不可思議さが罷り通る。

夏の眠れなさと冬のそれとは質が違うように思える。桜でぱぁっとした後にやってくる夏は、精神的にリセットが掛かっているから肉体の疲れだけだ。冬は精神的ストレスが十分に蓄積され、それに加えての睡眠不足になるから心的疲労に直結する。低次元の相談事などが持ち込まれると益々やる気がなくなってしまう。一体、周りの人々はどうなってんのかなとくだらないことに悩んでいる私であります。


平成22年1月6日(水)

日本では自動車の売り上げ総数が伸びない状況にある。当然のことながら、自動車関連企業の目先は国外に向けられる。自動車関連企業の内、器用な企業は医療用ロボットなど、モーターとその制御技術を必要とする、謂わば副次的な製品開発を展開している。そこには炭素繊維材も必要になるだろうし、その加工技術も求められる。やってみると分かるが、CFRPに代表される炭素繊維に穴を開けただけで凄まじい粉塵が舞い上がる。その危険性はアスベストの比ではない。第二、第三の産業公害に発展しかねない。目先の利益にとらわれることなく、安心安全な技術で、笑顔で生きていける世の中になっていってほしいものだ。

そんなこんなを考えていると、今の教育の枠組み、体制で本当に良いのかと疑問を抱く。義務教育機関の人間教育の取り組み、その上に載せる高等学校での基礎知識と学問の広さ、そしてそれを言葉のレベルまで持ち上げる大学と大学院。それぞれが好き勝手やっている現状は、とてもこれからの国家の教育機関の姿とは思えない。産業界がどんなに逆立ちしたって、物品を購入して生活を安定・向上させていこうという意欲が国民から欠落していたら、経済活動など全く成り立たない。人間力が低く、経済も貧弱、資源無しで物作りも出来ない国家など、世界から忘れ去られる運命にある。背筋が寒くなる。

来週、共通テストがあるのだが、その監督のトレーニングなるものが会場となる各大学で実施されている。試験を受ける側はとてつもなく大変だが、それを全国一律に実施しようとする体制作りも、これまた大変なのである。特に英語のヒアリング試験においてはデジタル音源を利用するのだが、その機器の品質が、10個に1個、異常が見つかるような次元の代物なのだ。日本の量産技術なども地に落ちた物だと呆れかえる。更に、そんな機器が自分が監督をしている部屋に出現した時の、その対応マニュアルの厚さに卒倒するのだ。受験する方がずっと楽だと想ってしまう。と、同時に、こんな試験に大学教員がかり出される理由が何処にあるのかと腹立たしくなる。

高等学校で本来成すべき学問の広がりと若者との接続を、単に入試対応の3年間に置き換えてごまかしてしまっている。そりゃぁ大学入試の形態が変わらない限り高等学校の有り様を変えようがないという意見にも頷けるところはあるが、現在の社会情勢を見れば分かるように、帝大レベルの大学院を出たとて就職出来ない為体で、大学のレーベルを自分に張って胸を張る時代は、世界の中の日本として何の意味を持たない。小学生低学年で好奇心を持つことの楽しさを知って、高等学校までその謎解きの訓練をし、大学以降で学問として掘り下げるような、そんな当たり前の形態にならないものか?死体を前に講義をするのはもうまっぴらだ。


平成22年1月5日(火)

今日から会議だ。毎日会議だ。会議会議、何をそんなに議論するのか知らないが、馬鹿が集まると会議が増えるのは間違いない。民主主義とは選べるリーダーに託せる社会のはずだ。選ばれておいてなんでもかんでも投げてくるな。任せたんだから勝手にやれ。死ぬ程考えたら「これが方向」と指し示せ。さすれば多くの時間が沸いてくる。沸いた時間をしゃぶり尽くすのが平民の成すべき事。明白なはずだ。

草食系だかなんだか知らないが、自らの判断を放棄しているくせに、他人からの指示にも従わない輩に溢れている。いや、自らに判断能力が無く、他からの指示を理解できない馬鹿者か。どっちでも同じだが、全くの存在悪である。時間を無駄にもてあまし、靴も減らさない。大学、大学院を卒業ても定職に就けない者が3万人以上居るとTVで救済を求めていたが、定職に就かなくても生きていける社会を褒めるべきで、定職に就けてしまったら企業が倒れてしまう程のとんちんかんの人間とそんな程度の大学が世に溢れていることを嘆くべきだ。学問の無き世は哀れである。

工業生産物が道路に溢れ、食料を生むべき空間を占拠している。殆ど動かない自動車が主体であり、動かない工業製品のために狭い国土を切り裂いて無駄にしている。無駄は豊かさの象徴とも言われるが、そんなもの豊かさでもなんでもないことにいい加減に気付け。電気エネルギーを輸送するために醜い電柱を立てる。これとても国土の無駄遣いだ。一体、どれだけの面積が電力輸送に利用されているのか。恐ろしい限りだ。

一心不乱に学ばねばならぬ。それは社会の為に使える自らの時間を増やすことに繋がる。皆がその気持ちと実力を備えれば、智慧が育つ。生命の本質を見つめ、人を活かす興業、命を育む工学を目指したい。そう感じた朝であった。


平成22年1月4日(月)

一身独立。誰を越えるとか何を目指すとか、そんな事を想い願っている輩は生涯、何も成せずに世に出ない。心身共に健康とは、強い肉体に強い精神力を宿させ、大望を達成すると言うことだ。大望と精神力を取り違える指導者が多い。気をつけなければならない。

正月、例によってごろごろしていたが、米国の我が国に対する内政干渉には腹が立つし、政府の弱腰には情けなくなる。いや、これが今の国民の有り様だと泣きたくなる。米国への工業製品輸出が無くなれば滅びてしまう現状において、生命の首根っこを米国に握られている情けなさ。農業生産品とて、農薬付けの毒物を買うことを、国民に強要する愚かさ。官僚の売国奴たるや糾弾するべし。

さりとて、自ららを振り返るに年初における自らへの啓発が何かあったかと言えば、風姿花伝を読み返したことくらいで、特に何をすることはないし、想うこともない。常に想っていることを日々実行するだけのこと。一瞬一瞬に厳しくあれば、正月などその一瞬の一つに過ぎない。尤も、一日中、天井を見ながら無意識でいられるのは正月くらいのものかもしれないが。

体があって命がある。明快なことである。二者が揃っている間は頑張らねばならない。それだけのことだ。今年も繊細にそして単純と堂々と進んでいく。


平成21年12月25日(金)

微妙に寒い朝が続いている。札幌では氷点下続きだが、流石に名古屋ではそんなことはない。3度程度の気温を保っている。雪が降った朝は流石に0度であったが(小生が保有する室外の温度計では)それ以外は0度となったことはない。ここ数年、正月前後はやけに暖かいと感じていたが、今年に限っては少し寒いクリスマスである。しかし日中は気温が上がるらしい。有り難いことではある。

小生は陸の孤島と呼べる地で学生時代を過ごした。それもあって、正月も帰らずに論文を書いたり読んだりしたこともあった。土曜日は休日ではなかったということもあり、土曜日も普通に研究室に行き、論文を読み書物に触れた。機械にも当然触れた。他に夢中になれることが無かったのかもしれない。研究に熱中していた。それが今は懐かしい。物事の探求とは際限のないものである。探求心は何時育つのか?

都会には何でも揃っている。アルバイト先も遊び場も何でもある。なんでもあるから学問のみに熱中する必要がない。必要に迫られて研究をするのかと言われればそうではないと答えざるを得ないが、誘惑に充ちた都会で、自制し続けることが出来る人間が、今、どれだけ居るのか?常に客観的に自らを眺めて追い詰める者がどれだけ居るのか?居ない以上、日本の学術は深化しない、進化も当然無い。

研究したくても電話が鳴りメールがやってきて、会うのが当然の如くのアポを強要され、無意味な会議が連発してくる。その分、暇人が無数にいるはずだが、立派な研究成果を発信する若手にはとんと出会えなくなった。はてさて、どうしたものか?何も出来ぬ自分が情けない。なんとかせねば。


平成21年12月24日(木)

地下鉄に乗ってみると分かるが、蚊だのショウジョウバエだのが越冬に利用している。もの凄く古くて馬鹿馬鹿しいお話で恐縮だが、学生時代、生命工学の教授が「役職会議で馬鹿馬鹿しい議題の際、本部棟の日当たりの良い窓枠を見つめていたらショウジョウバエが越冬していた。コロニーを作っていて極めて興味深かった」と仰っていたことを思い出した。その時は、教授という人種は何と暢気で学際的だと思ったものだが、実際になってみると、会議だの出張だの電話だのメールだの・・・極めて抑圧された人種であることが分かった。その中でもショウジョウバエに集中できる程にならないといけないのだなと、今年の反省の一つである。

地下鉄の蚊に話を戻す。地下鉄は不特定多数、そして、新型インフルエンザやその他の伝染病保持者も乗車する。防ぎようのない事実である。早朝のがらがらの車両であれば蚊の存在にも気付くし、追い払うことも可能である。満員時はどうであろうか。ぶんぶんと飛び回る蚊を追い払うことなど出来ず、蚊を媒介とした病原菌を受け止めるしかない。案外、都会などと言うものはこんなところから崩壊するのではなかろうかと、ショウジョウバエの教授の如く、蚊の教授は考えるのである。

今朝、駅の近くで暗闇にうごめく猫より大型の生物を見た。タヌキがゴミをあさっている。緑区は里山の雰囲気を多く残しており、駅の近くは丘陵区域で宅地になっていない部分が多い。その辺りを根城にしているのだろうが、冬のこの時期、都会の食糧倉庫に気付いたのか、ゴミが出される時刻にあわせて出てくるところは大した嗅覚だ。これまた野生生物から新たな病原菌が広がる可能性をしめすものではないか。

国の予算案の大枠が決まった。政権公約がどうのこうのと騒いでいるが、公約は確かに果たせないと嘘つきではあるが、そこまで近づけようとする努力を見せたことは大きかったと思う。そもそも今の日本の惨劇は国民が生んだ病魔にあるのだし、投薬を開始して直ぐに効果が出る物ではあるまい。そんなことも理解出来ないほどに国家国民が腐敗している鏡が日本の政治であるとするならば、国民も心底、気持ちを切り替え、腐敗したどろどろした大地を踏みかめる努力をせねばなるまい。サンタなんぞ来ない。今日も飛び込みの会議だし、切羽詰まっている。無理が祟ってなんだかぼろぼろだが、寝正月を目指して匍匐前進、気合いだけで足踏みする私であります。


平成21年12月21日(月)

通院生活が続いている。何とも情けない結果であるが、先日、蝦蟇の油売り大学時代の先輩から頭蓋骨が粉砕しなかっただけ良かったと言われたが、正にその通りだと納得するしかない。通院できると言うことは頭蓋骨が粉砕しなかった結果であることは間違いない。小生が通院している先の、鎌倉街道が残るやたらとでかい病院の待合室での風景をご紹介。

救急病棟や入院病棟とは異なり、外来の待合室というのは基本的に通院できる人達のたまり場だ。整形外科を除くと極めて健常な方々の集まりで、何でここに居るのか分からない様に見える。勿論小生とて、他人からはそう見えているのだ。小生の場合は腕を吊ったりギブスをはめていたりしながら耳鼻科だの脳神経外科だのを巡回しているものだから、微妙に病人っぽいわけだが、整形外科に関わっていないと、保険金詐欺者に映る事だろう。そんな点でも病院の待合室は苦手である。

外来のシステムには予約と飛び込みの二種類がある。予約者と飛び込み者は待合番号札の色も違うという、猛烈な差別を受けることになる。何時診察を受けることが出来るのか不安になる程に、時計の長針が回っていく。短針も追従していく。カウンターでは元気の良い飛び込み者が看護婦殿に「何時なんだよぉ」と食って掛かる風景が10分に一度は発生する。小生などのように完全に無視して計算機に向かってプレゼン資料を作っているような人間には却って親切で、「今、○○のデータを集約できて、△先生の閲覧して頂き、最適な対応者を決定するので、時間として□くらい掛かります。×時くらいまでお待ち下さい」と仰って頂ける。見渡すとパソコンを持ち込んで待合室でパワーポイントファイルを作っているのは小生だけで、妙に目立つのかもしれない。

診察室から出てもう一度待合室を見渡すと、当たり前であるが不安に満ちている。何処か調子が悪い者は追い詰められた状態であり、医師という裁判官からの無罪放免の一言を待っているようだ。いきなり「入院の手続きをして下さい」とカウンターにて言われている人などが現れると、全員が同様の気持ちになり、悪い方向にしか意識が向かない。悲惨な年も残り二週間を切った。年末などと言う気持ちにはさっぱりなれない。病院の待合室には年の瀬も何もない。精神的抑圧に充ちた過酷な裁きの場だ。やはり病院は苦手である。もう二度と通院などという目には遭いたくない。そう思う。


平成21年12月16日(水)

当意即妙を得ることこそ、激動の世界情勢に対応する一つの手段。待ちの姿勢、攻めの姿勢、共に大切である。待ちの姿勢は優柔不断と捉えられないよう、待った挙げ句の落としどころがおぼろげながら見える状態にしつつも、急転直下、こんな落としどころがあったのかと驚きを伴う喜びで迎えられることが望ましい。攻めの姿勢を喜ぶ多くは、私利私欲に走る輩が殆どであって、平民の頭上を嵐が過ぎるが如くの「まつりごと」となる。自民党時代の補助金ばらまきなどはこの事例であろう。国家の借金は増えるわ、汲々としていれば遊んでいても国が助けてくれるなどという、自堕落的企業を多く生んだ。飴しか欲しがらない国民が集まる島国は沈没してしかるべし。もう沈没しているのかもしれないが。

攻めの姿勢を悪く言っているように捉えられると困る。常に攻めねばならぬ。しかし攻めとは熟考を土台とし成されるべきものであって、何かをやったから悪くなった、ならこうしようなどのどたばた惨劇の繰り返しは攻めとは呼ばないということだ。リーマンショック対策などと叫ばれた税金ばらまきだが、アメリカ経済の流れを見ていたら金融危機が発生するだろうということは、素人にですら1年前から見当付いていた。銭に絡む当事者だけが盲目になるということだろう。

もう一つ重要なことは、時間の流れは人に依るという天地開闢以来の原則に反することが実際に生じることだ。肉体的流れは普遍なのだが、精神的、思考的流れは人に依って全く異なる。早い物同士が何か事を進めれば確実に事は成就するが、それに巻き込まれる暢気な輩には拙攻に見え不快を抱き、自らの無能を有能者の暴挙と訴える。ここに国民のクオリティが表出する。日本の政治や企業内でのやりとりは、急転直下を遠くから予見し余力を持って対応できる輩と、その場しのぎの無能者との衝突と軋轢に満ちていて、愚かな事に、無能者が常に優先される。無能者は無能で無くなるよう、知識を積み重ね知恵と転じなければならぬ。智慧の段階までは要求はされない。検索エンジンだけに頼って靴を減らさぬ輩に智慧など要求されるはずがない。

人は原始の時代から太陽の暖かさに従って生きてきた。特に農耕中心の我が国は、村の生活において春夏秋冬に従って生きてきた。誰もが次を予見でき、安心して日々を送ってきた。無意識にそこに割り込んできた機械産業に予見能力を蝕まれ、気がついたら土壇場を通り越して墜落段階に至る。太陽は巡るのだ。天空を見よ。自らの愚かさに気がつく。行動という鏡に自らを写し、次に振り仰ぐ勇気を涵養せよ。当意即妙。重い言葉だ。


平成21年12月15日

気がついたら残り3週間を切ってしまった今年だが、やらなければならないことが山ほど残ってしまっている。そんなものかもしれない。得体の知れないアポが手帳に蔓延っている。来年はこのような事がないようにする。

考えてみればまだ「全治○ヶ月」の間である。くたびれきっても無理はない。他人本願の相手をしている余裕はない。他力本願なら理解できるが、昨今、他人本願の依頼仕事が多すぎる。突然やってきて、あんたの技術で我が社も金儲けをして、この苦境を乗り越えたいとのたまる。どっか行け!

小生だけではなくて、本来、自らが切り開かなければならない事象を、他人本願になりすぎる。力など付かない。

年末は事故が多い。近所で小学生がはねられて死んだ。他人事では全くない。自動車などなくなってしまえば良い。本気でそう考える。皆、歩け歩け!

平成21年12月10日(木)

今日は安穏としたお話。日本古来、冬は寒い。平安朝の最も温暖期にあっても夜は冷え込んだものと思う。湯たんぽなど、夜に布団だけでも暖かくしようという代物が出現している。昨今、ホームセンターなどに出掛けると、湯たんぽ類が増殖しているのが目に付く。無知な消費者が取り扱い説明書を無視して使ったために、爆発事故などを起こして販売停止、工場閉鎖、一家総首吊なんてことから若干減ったように思えるが、その分、普通のお湯の湯たんぽが蔓延っているように見える。湯たんぽの方が巻いたタオルから飛び出して、とんでもない火傷を負ったことがある小生にとっては普通の湯たんぽの方が余程凶器に見えるのだが、古来から認めらた商品として販売が許されるのは納得いかない。まぁ、そんなむきになるために書いているのではない。

小生は「エコポカ」という商品を利用している。1000W の電子レンジパワーで3分熱すると、大略35度くらいを朝までキープしてくれる。体温を奪わずさりとてその上に足を乗せても火傷をしない心地よさだ。3年ほど利用しているが、ちゃんとマニュアルを守り、急速加熱などの電子レンジ機能は用いず、規定の時間で温めて、加熱しすぎないように心掛けている。そもそもハイドロゲルが密閉されている商品だから過加熱させれば爆発するのは当然のことで、更に、己の無知と怠惰の責任を商品と企業に添加しようという国民のズルさには吐き気がする。また、ヒートアップしてしまったが、エコポカは大変に具合が良い。

骨折しているからかどうか知らないが、足先が妙に冷たくなる。そこでエコポカを温めて、就寝前に布団の足元に忍ばせておく。机で読書や物書きの後、読書のため(更に読書だ・・)布団に足を入れると極めて心地よい。そのまま活字を眺めていると眠気が襲ってきてくれるので、有り難く寝かせて頂く。過労気味も手伝って朝まで寝ていられる。足先を温めていると骨折幹部がギシギシと痛み起きてしまうことがない。人体の複雑怪奇さに感動するが、この場はエコポカに感謝することにする。

スーパーコンピュータなどの科学技術がどれだけ人に安らぎと睡眠を与えてくれるのか?幸せの根源は雨風をしのぎ睡眠によって活力を復活させてくれるところにある。電子レンジとエコポカのあまりの偉大さの前に、どんな科学技術も荒んで見えるではないか!首に巻くゲルもあり、肩こりが酷い時に利用している。真冬に物書きをしている時に大変重宝する。エネループを使うカイロなども販売されており、近代技術を単に「発熱」という一見エコとは逆行する機能に用いて、火傷をしない製品に仕立てているところは科学技術の優れた応用事例であると思う。もっと応用範囲があるに違いない。探してみたい。


平成21年12月9日(水)

沖縄米軍はグアムへ総移転、ダムは10年完全凍結、及び撤去。それで良い。国家百年の計を考えることが出来る戦後初めての機会を失するのか?所詮は官僚個人の為の国家であって、メディチ家ならぬ官僚家国家のまま崩壊し米国の属国であり続けるのか、例え泥を食らおうとも精神的、肉体的独立を勝ち取るのか、この期を失すれば国民としての希望など永遠に得られず、経済的崩壊は目に見えている。

軍事的占領を止めさせると、最大の輸出国たる米国との関係は悪化し、更に自動車、家電製品関連品等々が販売できなくなると経団連は叫ぶが、他国本願の経済でなければ生きられないことを異常で強姦状態と感じないのか。売国奴に荷担するマスコミも一掃し、国家独立を勝ち取ることを目指すべきだ。精神の身の丈以上の生活を送り続け、借金を背負い続ける先にあるものは、一億総破滅であろう。愚かしい。

連立政権でもめ事云々で、マスコミは大喜び、対岸の面を決め込む自民党も喝采しそれを褒め称える馬鹿新聞やTVに踊らされる国民の無知蒙昧振りに、失望を禁じ得ない。テロを起こす程の元気のない国民だから暴力的な活動が発生していないが、他国であればえらいことになっているだろう。青信号で跳ね飛ばされるなんてのはまだまだ甘いと感じる。爆発的惨劇が直ぐそこまで来ている感じがする。

日本を国家と思って生きていける、そんな当たり前の事を考えにくくなってきている。国民の半数はそんな気持ちでは無かろうか?もやもやの漠然とした不安。拾った命のやり場に困っている私であります。


平成21年12月8日(火)

人から聞いたことがなかったのでちょっと言っておこうかなと思った。骨折しているとやたらとくたびれる。体力を骨の接合に使うわけだから、それは当たり前なのだろう。カルシウムを患部に沈着させるために、体中のミネラルがそちらに動員されて、本来活躍するべき部位において欠乏しているわけだ。必然、疲労物質が随所に蓄積され、疲労速度が上がってくる。くたびれたなどと言うとだらしがない、やる気がないということを平気で言われる職場だったり、国だったりするわけなので、骨を折った人からくたびれるという話を聞いたことがないのだが、ここではっきり言っておく。くたびれる。全治○ヶ月は伊達ではない。それがカバーされない国家はやっぱり冷たい。

冷たくされる理由はちゃんとある。職場というのは一人でやっているわけではない。誰かが欠けたら仕事が止まるようでは組織ではない。仕事が止まらないように日頃からシェアしておくべきなのだが、個人商店の親爺の集合体である鶴舞大学で、そんな都合の良い事が出来ているわけがない。一極集中、鬱で退職というのが自然の流れの職場において、骨を折ろうが神経をやられようが、そんなことはおかまいなしだ。精神的にもくたびれる。まぁ、これは怪我とは関係無い。

最近、世間が大不況で仕事がないということもあるのだろう、沢山の企業の方々にアポを頂いている。外からみると1対1だが、内から勘定すると多対1だ。大学は駆け込み寺でもなければ辞書でも無い。何か落ちているだろうとすがって頂けるのは光栄だが、こちらの時間が限りなく削られていくのだ。小生を最大限に活用できる権利は学生にしかない。それを教員も社会も強く認識したら、国家も少しはましになろう。

師走である。走れなくても師走である。きつい師走である。誰も言わないから代弁した。それだけである。


平成21年12月7日(月)

忌まわしい事故から3週間が過ぎた。最初の2週間は学園祭と講義日の他は殆ど昏睡状態であったから、本当に3週間も経ったのかと驚いてしまう。今日から外部の仕事をスタートするが、こんなふうに育ってしまったことに微妙な悲しさもある。もっとへなちょこで根性なしであれば寝ていられるのにと、過ごしてきた日々を振り返って苦笑いをしてしまう。自らの意志を通り越した巨大な力がここまでの小生を作り上げてきたのは間違いなかろう。

心身の健康に関する書物が小生の書庫にはいくつかあって、それを引っ張り出して眺めてみた。遠い昔に読んだものだが、社会的、精神的、肉体的な健康の他に、自らが活動して食を得ることが土台であると書かれているのに目がとまった。書物を購入したら斜め読みであっても目を通すから、一度は見ていたはずだ。不自由になって読み返すと、実に実感できる。仰るとおりだ。それが健康だ。社会的に見ても健康という主張にも頷けるところがあった。きちんと読み返してみようと思った。

社会全体が暗くなってくると、直ぐに「友愛の精神があるならば助けよ」となる。それでは助けよと叫んでいる側は、景気の良いときは他に友愛の心で手を差し伸べてきたのか?決してそうではなかろう。競争だなんだと叫んでいた輩に限って、自分の具合が悪くなると下手に出て腹が痛いと叫び出す。助けてくれない奴は人間ではないと叫ぶ。社会的に不健康な状態であるとはこのことであろう。日本に社会的に健康な企業や人間がどれだけ居るのか?それを増やすことが学者・教育者の勤めであるならば、頭蓋骨が見えていようが臓器不全であろうが立ち上がらねばならない。そうやって生きてきた以上、人生、急には止められない。社会に活かして頂いているという気持ちがあれば、無限に大きな理念理想を抱くことが出来る。それを持っていれば例え地球が消し飛ぼうと、自らの人生にとってそれは単なる摂動でしかなかろう。大騒ぎをすることではない。

一週間の始まりである。今週も長い。きっと長い。長く感じることは幸せだ。人より沢山仕事を頂いていると言うことだ。感謝せねば。


平成21年12月3日(木)

ちょっと考えると分かりそうなものだが、ダムの維持費に年間1000億円掛かっているとニュースにしている。自民党が頑張って言論統制をしていたものが綻びてきているのは、米国との密約問題にしても正しい方向に向かっているという点では喜ばしい。しかし、一般の家庭だって維持費は相当に掛かるのだから、ダムみたいな自然の最中にある巨大人工物に維持費が掛かっていないと考えているマスコミや国民が居たとするならば、その知能指数は限りなく低いと言わざるを得ない。造ったら維持しないと崩壊するのは世の習い。大きさに見合うとするならば1000億円くらいは当たり前だろう。

多くの村や町でダムを欲しがるのは、一旦造った後にも僅かだが雇用が生まれるし、ダムの底から土砂を抜く作業などによる臨時雇用などが見込まれると、お役所に吹き込まれてきたからだろう。天下り先が出来るわけだから、一心同体の自民党としてはダムを造りたくて仕方なく、国土を蝕む行政を続けたかったのだろうが、ご時世により政権が転覆したものだから、出てくる出てくる、いろんなお話。尤も、知っている人は知ってはいたが・・

中国において日本企業を始め世界中の企業が自動車や工作機械を売りまくっている。世の中には自動車しか売れるものが無いのだなとお寒くなる。原料を造る鉄鋼業にしろ、凄まじい電気エネルギーを消費する産業だ。その先に加工があって、これまた電気の固まり。最後には化石燃料を直接燃焼させ続けるプロセスが待ち受けるわけだから、エネルギーの固まりであって、だからこそ、人間を食わせる産業になっているのかもしれない。造り出すときに利用したエネルギー分と人間が食べる分が釣り合うとするならば、一見、正しそうな産業だが、ちっとも省エネでは無い事は明白だ。重い鉄の塊を生活空間で動かし続ける世の中は異様だ。

どこの社会もそうかもしれないが、肉体はぼろぼろであろうが無かろうが、会議に出てこい、講義をやれと締め付けられる。死んでも代替はなんぼでもあるから気にならないのだろう。しかし、自動車事故で死ななくて労働災害で殺されてはしゃれにならなない。ダムで食っていこうとする輩の気持ちが若干分かるようになった私であります。


平成21年12月2日(水)

リハビリのために病院に出掛けた。近代的な機械の中に埋没するように、どっから見ても小生よりも動きが良く健康そうな顔色の高齢者の方々が張り切って運動していらっしゃる。高価なフィットネスクラブに通うより、医療費補助が出る病院での器械体操と言うことか。毎日、同じ顔が揃っていらっしゃるらしく、「おお、やっと全員揃ったな、健康そうで何よりだ」という、訳の分からない会話が待合室で成されている。確かに病になるよりは予防は極めて大切で正しい利用方法かとも思う。しかし、切実に治療を受けたいと願っている納税者がないがしろというか、治療が極めて遅くなると言うのはどうしたものだろう。

作業療法士の方の人数は、設置された機械よりも圧倒的に少なく、医療関係者不足の様相だが、しかし、人数を増やしてしまうと人件費的に病院経営が苦しくなることの裏腹だから、近所にお医者さんが存在してくれていることに感謝して待つことにする。機械室を覗いてみると、首にタオルを巻いて汗だくになりながら高齢者の方々が激しい運動をしていらっしゃる。どう見ても妙な光景だ。自分から進んで動ける方々が、医療指導を受けないと動けない人の治療を阻害している。こんな状況では高齢者医療費負担は極めて低すぎると言わざるを得ない。本当に治療が必要な高齢者の方も同様に見られてしまう。細かい制度にすると事務作業が嵩んでしまうが、病院単位で精査できる訳だから、健康な高齢者がフィットネス仲良しクラブとして医療器具を利用した場合には相当の料金を取っても宜しかろう。小生の前で支払いを済ませた方の金額は180円だった。どうなってんだと思う。

国が疲弊して公共に活用できるお金が殆ど無い。いや、大借金状態なのだから本質的にはゼロ以下だ。税金以上の公共投資を重ね、それを食い物に出来る仕組みを作ってきた自民党とそれを支持してきた国民には呆れかえる。平日の朝から病院に出掛けることなど無かったわけだが、実際に漫才ネタにもなっている病院の実態に触れると怒りがこみ上げてくる。

国の制度設計の難しさを実感する。撥ねられると痛いが、平日早朝に病院に出掛けてみると心底分かる。ただ、病院から職場に移動する際に乗車したバス、地下鉄において、若者の部類の連中が我先に着座し高齢者が立ちっぱなしという状況に出会った。小生は通常は着座しないが、今はひっくり返ると偉いことになりそうなので、肩身の狭い思い出着座させて頂いている。この肩身の狭い思いをさせられる雰囲気があることが我が国の病理である。税金を投入するところは医療機関ではなく人材育成である。100年先の世界を作るべく、和の心を持った人間教育機関を立ち上げるべきだ。そこに有名無実の法人大学から数名ずつ教育者を引っ張ってきて数人の学生を育てるような環境を作り上げ、人間力によって世界を震撼させる仕組みを作るが宜しい。そうすれば100年先も日本人は日本の国土で食っていける。それ以外に道はない。


平成21年12月1日(火)

政治家が何かをやっているなとその様子を眺めるのではなく、国民の代表が作業をしているのだと自らを律することが正しい姿勢だ。国民の代表同士の話し合いに対して審議拒否をするような団体は、法を持って解散させてしまうが宜しい。政治家の意見は一人の意見ではなく、そこに投じた数万、数十万の意見であることを忘れてはならない。事業仕分けで廃止とか見直しとかなったものにたいして、国民側から云々言うのでは直接民主主義であり馬鹿馬鹿しい。国民の代表が決めたものには潔く従わねば民主主義は成立しない。

昨日、とある会議にて、俗に言うオーバードクターに対する仕分けの考え方を聞いた。様々な施策がオーバードクターをオーバードクターとして養う為に使われていて、博士号を取得した者が研究を趣味として生きるための生活保護は止めるべきだと。ごもっともである。勿論、それだけの施策のみではなく、専門分野の知識を会得しているからこそ就ける仕事もあるが、そのような職種・分野は極めて希であるし、学問など分かってしまえば誰にでも理解できるものだから、パーマネントにオーバードクターとして就く仕事など有り得ないのは事実だ。自分自身、博士号を取ったから何か役に立ったかというと、それを実感した経験は無い。それを取る過程において経験したことのみが役に立っていて、それで十分だと思っている。自分で自分の未来を決められない博士など、社会的に見て不要である。自分を律し、人のために智慧を成す者こそ博士に相応しい。

小中学校で暴力行為がはびこって、問題となっている件数が史上最大と成っているらしい。直ぐに教師のせいにされるわけだが、今から20年前の世の中とがらっと変わっていることにマスコミ、政治家はそろそろ気付よと言いたい。教師の言うことを鵜呑みにして、勉強して偏差値の高い学校に行けば将来はなんとかなるぞとそそのかされて、それを実行した結果、そこそこの企業に就職できたのは事実である。度重なるバブル崩壊を経て、そんな価値観は完全に吹っ飛んでしまっている。教師の言いなりになっても将来に職は無く、また、教師の側も国家百年の計が自らにあると自負できない弱腰では、青年の無限に発散する力を未来に向けることは出来ないだろう。しかし、裏を返せば、暴力という手段を取るだけの、ある意味の元気があるということは、まだまだ日本には希望があるのかもしれない。青っちょろい優等生や口先だけの似非人間だけということでも無さそうだ。これまた政治家の役目は重大であって、単に教師の数を増やすのではなく、国家の本質をどちらに向けていくのか明確にし、その為の人材育成をしっかりと議論して頂きたいものだ。年寄りが集まって気勢を上げても何も変わらない。世の中を変えることが出来るのは20歳以下の青少年だけだ。

高度な政治的判断などと、烏合の国民に迎合する必要は全くなく、国民の代表である議員が結審した仕分け結果を尊重するべきである。更に、政治判断というならば、仕分けしきれなかった多くの申請予算をばったばったと切り捨てるが良い。赤字国債ゼロ予算で揺るがぬ国家とはどんな姿か。いっぺん、見てみたいものだ。


平成21年11月30日(月)

頭も腕も足ももげることなくくっついているというのは、なかなかにして愉快なことだなと感じた次第。あの瞬間から2週間が経過し、暴E氏らしく猛烈かつ強烈な回復ぶりで、外見上はリハビリモードに入りました。たったの500gの錘が重いこと重いこと。笑っちゃいますよ。それに、リハビリっていうものの「痛い」ことと言ったら・・救急病棟で割れている肩胛骨を掴まれて「はい、そのままにして動かないで」とレントゲン撮影をされた時より痛い!もっとも、あの時は意識が朦朧としていたということもありましたが、意識は明瞭、気合い十分で挑んだ訳ですが、一気に気力が萎える程に「痛い」・・多くの方がこの試練を乗り越えていらっしゃるかと思うと頭が下がります。兎に角凄まじく痛い!馬鹿みたいに痛い!殴ってやりたいくらいに痛い!・・もっとも殴れないけど・・

寝込んでいる間に例の仕分け作業が終了しましたな。学者とおぼしき人達がTVに出てきてなんだかんだ言っていましたが、巨額の投資が無ければ全ての研究が成立しないわけでは無いのです。勿論、貧すりゃ鈍するという面もあることは否定はしませんが、どかんと巨額な予算を貰った方々がすべからく素晴らしい成果をお出しになっているとは、小生、思えないのです。例の計算機だって、現在存在している地球シミュレータでどれだけのことが出来たかと言えば、3時間後の天気予報が五割くらい当たるくらいでしょ。そもそもシミュレーションする内容を考えることが先決であって、計算することは実験的検証の添え物でなければならない。ネットワークとか、シミュレーションだとか、以前から言っていますが、バーチャル空間はあくまでもバーチャルなんですよ。バーチャルご飯では生きていけない。リアルだからこそ尊い命なんです。一度、幽体離脱してみると良く判る。ぼろぞうきんみたいにアスファルトに転がっている、真っ黒な物体が自分だと分かった時の記憶が鮮明になったとき、リアルの尊さが良く判る。

病院に出掛けてみて驚くことに、ワークシェアというか患者シェアというか、毎回、異なるお医者さんが見立てをするんですね。「それは先に見立てた先生が、伝えるのを忘れていたんですね」なぁんて事を平気で仰る。その他にも怖いことを平気で仰るお医者さんも居て、やっぱり病院は嫌いだと思うわけですよ。「レントゲン撮影結果からでは、あなたの運動可能な状況は全く説明できません、理解できません」とかね、お医者さんが患者に面と向かって言うことか?それなりの立場の人の発言は重いと感じ、自らもちょっとは気をつけようかなと思ったりもしましたが、まぁ、変身する自信は全くありませんね。

頭の先からつま先までぼろぼろになったわけだから、完全に元に戻るというわけにはいかないみたいですな。尤も、元の状態も妙な状態だったわけだから、別の状態になったとしても、それが定常状態だと思い込めばよいわけです。本当に不幸中の幸いというか、ボンネットが直撃した右手の指の骨には全く異常が無かったので、こうしてキーボードをたたけるわけです。人差し指が変になっちゃったけど常人並みには動いているような気がします。と、言うことで今日からのんびり活動を定常状態に戻していきます。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。


平成21年11月24日(火)

皆様におかれましては、多大なるご心配を頂戴し感謝致しております。拾った命にて皆様にご恩返しを果たすべく、いっそう奮励努力致します。ご指導ご鞭撻の程、また、ご支援の程、何卒、よろしくお願い申し上げます。

野生に近い生き物程、寝れば寝るだけ怪我が治ると言われていますが、野生そのものの小生故に、猛烈な勢いで修復が適っているように思われます(あくまでも自己評価)。一週目の検査においては特に注意点は無かったものの、公知の如く無茶が祟って、右半身のダメージが深化して、日曜日は痛いの痛いの・・体は正直ですな。次回は完璧なコーヒーをご提供申し上げますので、来年もご来場の程、よろしくお願い申し上げます(来年もやる気だ!)

休暇を取って寝ているという、暴E氏的には初体験の日々でありました。これがですね、いろいろ考えちゃうんですよ。その中で、水と空気という生命の根源とエンジニアリングとの関わりについて突き進むべきだろうという、拾った命のベクトルが定まったような気がします。スーパーコンピュータが云々言われていますが、そこから出てくるものって所詮は絵空事でしょ?そんなものが無い時代に、正確な暦を作った文化や、ダビンチのデッサンがあったことを真剣に考えるべきですな。計算機シミュレーションなんぞ、無能の言い訳に過ぎない。一回、撥ねられてみると良く判る。

まだ若干の問題が御座いますが、兎に角、生きています。皆様におかれましては、青信号だからとて一歩を踏み出す際にはもう一度、背後のご確認を怠りませんよう。人生においても同じ事が言えるかもしれません。しかし、見えない程の早さで不幸という奴は突き進んできますからね。ご用心を。

平成21年11月16日(月)

私事を少々。先週の土曜日、オープンキャンパスで大学代表で高校生相手にお話をさせて頂きました。大学連携をさせて頂いている大同大学、愛知工業大学からも面白い先生にお越し頂き、三校連合で特別講義を行いました。面倒だなぁと思いながらも始まると面白がって頑張ってしまうのはいつもの通り。楽しく終了して16時過ぎに帰路につきました。地下鉄、バス。ここまでは予定通り。

平手交差点を東から西へ向かって横断。目の前にマクドナルド。突然、左後方から左折車がノーブレーキで「どかん、ぐしゃん、ぼ~ん」と撥ねられました、ほんとに。前方不注意の車によって、横断中に後方からの攻撃をうけたわけですが、身構えることも何も出来ず、右膝がバンパー、右腰がボンネット角、その衝撃でフロントグラスへ後頭部からぐしゃん、そしてぼ~ん。気がついたら既に救急車が来ていて、ふっとんで轢かれためがねの残骸や、携帯等を回収して頂いて救急車に搬送。「お名前は?」と聞かれて出てこないんですよ。おしりポケットに身分証明書がありますからと取り出して頂いて、名前を教えて頂いた状態。

病院に到着するまで意識は朦朧、CTスキャン等々、人間ドッグに行かないで自慢していた状態だったのに、ウルトラ細部まで検査されて、動脈から採血までされてしまって健康状態丸裸。で、右肩胛骨分割という痛い状況、右足膝下の靱帯を支える部分に亀裂が入り、これもかなり痛い。腰は強烈な衝撃であったにもかかわらず骨折せず。後頭部は二張り縫う損傷。左顔面はアスファルトと仲良しになったお陰で、まぁ、そんな状態。痛い痛い、笑えるくらい痛い。今、キーボードに向かっていますが、これで精一杯。

で、今日のお題はこれでは無いんです。リュックにあった電脳の内、デジカメは液晶粉砕で廃棄処分。ところが愛用のDELL Inspiron910 SSDモデルはへっちゃら。これを宣伝しようと思ったんですよ。モバイルの宿命であるハードディスクのクラッシュから逃れているだけではなく、厚めに出来ている筐体がしっかりと液晶パネルを保護し、今、無事、右腕を吊りながらこれを打っています。ナイスな装置ですよ!で、皆さん、横断歩道では気をつけましょうね!まぁ、医者も警察も「どうして生きてるんでしょうねぇ」と言ってました。小生に破壊された車を見た警官がびっくりしていたのが印象的でしたと。言うことで皆様、今週の戯言はこれでおしまい。


平成21年11月13日(金)

申請予算の査定が行われている。何が良くて何が悪いか、これは相当に難しい。単純に言うと、申請された予算は、どれもこれも、必ず誰かが喜ぶようにはなっているからだ。それは政治家や官僚だけが喜ぶだけではなく、一般国民が有形無形の形で喜びが得られるような仕組みになっているということだ。自民党の悪政だなんだかんだ言ったって、私腹を肥やしていた人々は居るわけだ。言い方は悪いが、陸の孤島に橋を架ければ、陸の孤島に住む人達は救急車は来てくれる、消防車は来てくれる・・たとえ陸の孤島の住民が一人であってもだ。これを絶対に無駄だと誰が言えるのか?

予算が申請される裏には大きな政治的背景がある。この次も自民党みたいなやつ。国民も完全に麻痺していて、自分に都合が良くないと悪政、都合が良ければ善政。マスコミも官僚や政治家に操られて、アリの一穴を探し回って、反対派を賛成派に変えてしまう工作をしてきた。ダムなんてその象徴で、正面突破を図ろうとした前原大臣は最初は猛反発で跳ね返されたけど、利権集団がごまんと居るとすっぱぬかれるようになってくると静かになってしまう。コンクリートが流れているところには札束が流れ、汗が流れているところには寒風が吹きすさぶ。それが日本だ。

小生は共産主義でもなければ社会主義でもなければ民主主義者でもない。なんでもないのだ。日本という大地に生まれた単なる人間なのだ。それは誰しもがその筈なのである。その筈なのに他の土地で生まれた人をそっちのけにして、自分が歩いて回れる範囲の土地の利益には血眼になる。先日、やや長い時間を過ごした土地を29年ぶりに散策した。1割5分位が想い出の中にある風景であった。人波に押し流されて生きてきたが、その土地に戻ればやはり、荒んだよりは明るい街になっていて欲しいと願ってしまう。自分の尺度で。これが重要だ。

小生の尺度が重要というのではない。国家国民がこの国がどうあって欲しいのかという尺度が長ければ長い程、みんなが元気に暮らせる国家になるはずなのだが、明日は資源ゴミ回収日か燃えるゴミ回収日だったか程度にあくせくして、長期展望など見えない、身の丈の尺度で生活空間を眺めてしまう。これでは申請する予算はエゴと利権のみに固められてしまう。いっそ、一旦、来年は公共工事はゼロという申請をしては如何か。本当に国民全体が首を吊るのか?国、大いに乱れるのか?卑弥呼前の百余国が鬩ぎ合うようになるのか?そうならそうで地方分権で良いではないか。国家には憲法がある。それだけで良いと思う。査定なんて人間の感情が入る行為は即刻辞めて、公共事業はゼロと決めうちして例外なく切ってしまえば、国家の本質が見えてくる。やってみるのも面白かろう。


平成21年11月12日(木)

予算見直しでニート支援が削減されるという。当然である。義務教育終了後、自らの意志でニートなる分類に身を置いたわけだから、支援する理由は何処にもない。定常的な税収の減少に繋がるニートの存在は大問題ということなのだが、そうであれば、小学校、中学校という義務教育機関に、より多くの教育時間を取り職業とは何かの教育をすることだ。当然、そこに税金を投入することになるが、それはニート支援よりも遙かに有意義だし本質的だ。より根っこを見つめる民族にならねばならぬ。日本人の生きる道はそこにしかない。

しかし、それは大変に難しい。大学だけに限定するとして、国公立、私立を問わず、卒業生が職に定職に就かず、アルバイトで生計を立てるニートになっていく数は年々増加している。それはリーマンショックの前ですらそうであった。大学というところを「卒業」しても定職に就く意識を強く持てないのだ。同級生達が職を見いだしそれに進んでいくことを目の当たりにしてもだ。教師の言葉など聞くまい。事実、何を言っても馬耳東風という学生は極めて近くに存在している。基本的に教育は親の責任であると思う。義務教育にどんなエキスパートを送り込んで土曜日まで授業をやったとして、それが将来のニート減少にどれだけ効果があるのか?

JALの救済などを見ていると、国は一体何を考えているのかと思う。バブルの決済で懲りたのではなかったのか?民間企業が潰れようとしているのだ。潰せば良かろう。あるいは国策企業であったとしても、更に、半官半民の組織であったとしても、今の時代においては潰せばよろしい。ほったらかせばよろしい。義務教育期間を過ぎた連中が巻き起こした愚かしい経営に対し、国が支援するとは言語道断。将来設計も出来ないような指導者を持った奴等には悲劇と喜劇しか訪れないことを、天下国家に知らしめるべきだ。4,5万人が路頭に迷う?迷わせたらよかろう。そうならないように必死に駆け回る人間がどれだけ多いことか。

一体、何のためにいろいろとやっているのか解らなくなる事は多い。日に日に増えてきているように感じる。無理と無茶の区別も着かないような状態で、義務教育を終えさせる事が間違っているのだ。そして、そんなことも教育できないような教員しか生めない、親も含むトータルの教育体制が腐りきっているのだ。大学にばかりしわ寄せが来るが、もう、好い加減にして頂きたい。駄目なものは駄目、何をやっても駄目。三つ子の魂百まで。全部親の責任だし、そんな親を作った学校組織の責任だ。責任転嫁は止めて本質的な議論をするべきだ。ニート支援は今日から止めて、すぐさま、真の人間づくりに向かうべきだ。国家の大系はそこにこそある。


平成21年11月11日(水)

東京に出掛けて「これは嫌だな」と感じるのが満員電車。大略30年前に東京を離れたわけだが、高校生時代には山手線を使って通学していたこともあり、殺人的満員電車がトラウマ的に精神を支配していることもあって、満員電車アレルギーは強い。しかも昨今のインフルエンザ騒ぎも手伝って、脳内がぐるんぐるん、目眩を覚えた。

吊革につかまらなくても、どんな衝撃があってもお互いがお互いを支持し合っている様は、あたかも平和の象徴であるが、その実、触れ合いたくない気持ちの裏腹であって、ドアが開く度に減員を願うのだが、願い適わず更に圧力が増すのである。阿鼻叫喚。各自の心の悲鳴が脳をつんざく。もうだめだ、と無我の境地に陥ると下車駅に着くのだ。それが東京の姿だし、それが働き蜂の日本人が作り上げた首都の有り様だ。

一方、道路は随分と車が減っていたように思う。新幹線の車窓から見えた道路のアスファルトが見えるようになっている。霞ヶ関周辺の自動車も普通に動いていた。案外、環境に優しい街なのかとも思ってしまった。戦争で丸焼けになって昔ながらの風景は無くなっているわけだが、ビルの陰には神社仏閣が残っていたり、都市型公園が活用されていたりと、名古屋に比べて街が呼吸をしているように感じた。あくせく一方の名古屋の街(人ではない)よりも、東京は街そのものはどことなくのんびりしているように思えた。

日本にその教育者も殆ど無く重要さも与えられてこなかったMOTだが、MOTをエンジニアリングデザイン教育として考えるならば、正に日本人の働き蜂が身につけなければならない思考プロセスであると思う。それを受けるチャンスを得ながら身につけないで平気でいる学生諸君を見るにつけ、諦めと苛立ちを感じる。自らに苛立っているわけだが、これまた小学生から教育をするべき事であって、大学生に手ほどきしても無駄なのかなと、いまいち、元気が出てこない私であります。


平成21年11月9日(月)

11月に入って例によって例の如く、動き回っているくせに身動きがとれなくなってきた。何をやっているのかさっぱり判らないような、急激なギアチェンジに着いて行けていないなと自分でも感じる。いろいろご迷惑をおかけしますがお許しの程を。

世の中を歩いてみると、象牙の塔では見えないいろんなものが見えてくる。研究だなんだかんだ言っても、ノーベル賞の対象でも無い限り、何の役に立たないことを趣味で続けて良いわけでは無かろう。そんな時間は昨今の地方大学では与えられるはずもない。はずもないのだが、居室でじっくりと論文を書いたり勉強したりする時間すら与えられないのは如何なものか。すると出張ばっかりのほうが時間が取れて有り難いと言うことになる。何となくおかしい。

カレンダーを見ると、今年は後8週間しかない。最終週は正月気分で浮かれるから、必然、7週間が残されている勘定である。7週間が7日くらいにしか見えない。師走が段々早くやってくるように感じる。ちょっと深呼吸でもして落ち着きたいところだが、なかなかそれが許されないでいる。日本中が暗い雰囲気にあるのは、ご同輩が六千万人くらい居るからではないかと想像している。忙しい者同士が「忙しい忙しい」と走り回れば更に忙しい世になる。

税収が増えない国家は沈没していくしかない。外国に活路を見いだそうったってそうはいかない。そうはいかないから国家のために尽くすことになる。尽くしがいのある国家にしていかなければならぬ。なんとかしなければ。

平成21年11月6日(金)

エネルギー関連記事を見ない日が無くなってきた。NECが電池事業に乗り出す為に増資するだとか、シャープが薄膜太陽電池を増産するとか、何が何でも電気エネルギーを使うんだという生活から維持でも脱却しないぞと、いや、企業が生き延びるためには国民に電気を押しつけて使わせるぞと言う脅迫めいた姿勢が伝わってくるようでうざったい。エネルギー問題って、CO2削減問題と重ね合わされて、化石燃料を使わないというベクトルがいつの間にか他の手法で作り出した電気をどんどん使え、省エネ製品だからさぁ使えと、ますます電気に依存した生活に追い込まれていくような気がしてならない。電気なんて本当に必要か?

化石燃料や原子力など、様々な形態のエネルギーを自主的に作り出している人類であるが、これが無くなったとすると、恐らく、戦前戦後に見られたように野山は丸裸にされて、森林は燃料に化けるだろう。特に日本人にモラルなど無く、際限なく伐採され尽くされるだろう。究極のエコロジー文化を誇っていた江戸時代、電気なんぞ無く、更に、野山はお役所がほぼ管理していたから丸裸になる事もなかった。里山との共生と言われるが、智慧によって自然と共存し、努力によって次の日の糧を手に入れた。その時代がどんなに厳しかったのか想像出来ないが、元禄の頃は気候も温暖で今よりも平穏、幸せな時代だったのではなかろうか。

電気工学と威張っても、フランクリンの凧の時代からちっとも変わっていない。基本は静電気であり、元素本来が持つ電子を、とったりやったりして暮らしているわけだ。バンデグラフという高電圧発生器があるが、あれなどは、努力の結果が電圧となり、そして電流を取り出せる姿が見えて、努力があるから電気の恵みがあると理解できる。しかし、今は如何に苦しまずに電気を生み出し、そしてそれを様々な機器に使えるかということのみが豊かさの象徴であるかの如く、錯覚させられている。

太陽電池研究が悪いとは言わない。しかし、この議論のスタートには必ずと言って良いくらい、太陽は一日当たりこんだけの電力に相当するエネルギーを地球に与えているから、それを全部利用するんだと説明される。地球の生態系ってのは、太陽エネルギーを適度に跳ね返しているからなりたっているということを忘れきっている。要は、人は歩き、そして夜になったら眠る動物だと言うことだ。夜明けと共に動き出し、日没と共に「今日もお疲れ様でした」とひっこんで寝てしまうのが宜しい。そんな生活に陥りたいと願ってはいるものの、今日も講演、来週も講演、出張・・・何か間違っている。そんな気がしている毎日である。


平成21年11月5日(木)

「五」「十」日という言葉通り、今朝の街は忙しかった。10月決算を越えて最初の決算日、なんだか妙に街は暗かった。そう感じるのだ。その意識で見ているからかどうかは解らないが、黒い背広を着た人に後ろから抱きつかれたような、そんな気分になった朝であった。何でだろうと思うと、日本が無くなってしまうと世界が困るような真の実力、期待感が無いからだと気づく。世界中で活躍していらっしゃる大勢の方々。しかしその方々は海の向こうにいてその場で評価されているだけで、国内にとどまって世界に認知されているわけではないことに日本人は気がつかなければならない。「日本語しかだめだがや」とノーベル賞を取られた先生のどれだけ偉いことか。そんな方が零細企業にも現れてくるようにならないと日本が本当の元気を得ることは無かろう。

昨日、某所で「方法が存在することが望まれる世の中だ」と説明を受けた。その世界でトップの方からのコメントだから間違いない。感じるところもある。昨今の学生さんのレポートを見ると、一見、良く出来ている。知られた情報に化粧をして、あたかも自らが発見・発案しそれを提案しているかの如くに見せかける技術に極めて長けている。カットアンドペーストでレポートが出来上がっているから、100人の提出物を概観すると大略3種類くらいに分類できてしまう。しかし極々、本当に極々僅かではあるが、明らかにオリジナルが存在する。こんな子がこれからの世の中をリードしてくれるのだろうなと、まだまだ世の中捨てたものではないと感じる。しかしその子の将来の同僚がカットアンドペースト人間だらけなのだから、やっぱり世の中相当に暗い。

小生、MOTを学ばせて頂いて実感していることは、自らの思考プロセスが単にMOTで学ぶ方法論に合致していたというか、それを飛び越えていたというか、そんなこんなで、後から「へぇ、そうだったんだ」となったこと。それを逆に「こんなふうに考えれば良いでしょう」と方法を伝授されないと何も生み出せないエンジニアってどうなのだろうと思うわけだ。しかし、世の中をリードしている企業のお偉いさんは、そんな方法論の無い技術談義を右から左に受け流すそうで、「技術なんて売れなきゃ意味ねぇよ」と自社のコア技術すら生い立ちすら興味が無い方が多いそうな。街が暗くなるわけである。

世界初が偉いわけではないが、学者は発信源であって、探査者では無い。小生を探査者と呼ぶ偉い方もいらっしゃるが、余程、技術に長けて現在においても大黒字で世界をリードする企業に成長を遂げていることだろうと推察する。そんな方には五十日は関係なかろうし、常に世の中、明るいだろう。しかし、多くの日本人は暗く、忙しい。自らが存在しなくても世の中、何の変化もないという日本ではなく、個人個人が存在感を持って働けるような世の中であって欲しいと、何故か突然、頭の中に浮かんできた、今朝の八事交差点でありました。


平成21年11月4日(水)

圧倒的勝利者のマックとユニクロ。貧困率が話題になっているが、手取り15万円の初任給で、行ける所はマックとユニクロのみか。恐らく、多くの勤め人がそんな状況になるだろう。そんな日は極めて近いような気がする。自分たちが作り出す物の価値がその程度だと認識するのか、諸外国との戦いの結果、地球人類総貧困化した結果と考えるのか。どんなに頑張っても給料は上がらず行ける店はマックとユニクロのみとなったらどうだろう。それ以上、頑張ろうと思うだろうか?その時、自分の精神高揚と知性向上にお金を使おうと思う人がどれだけ現れるか。

地下鉄やバスの乗客の方々を見ている限り、ゲーム機か携帯電話をほとんどの人がいじっていて、読書派は少数派になりつつある。振動する車内で本を読むのは目の疲れ的にはどうかとは思うが、お金が無くても知性を磨くことが出来ると割り切るよりも、享楽・快楽に走ってしまう人が多いのではないかと勝手に想像している。贅沢をしたいとは思わないが、一冊の本を買えなくなったらと、ハラハラドキドキする毎日である。年々、月給が確実に下降してきていてそのうちゼロになるどころか、講義をしたかったら授業料を払えなんて言われかねない毎日である。

ここ数年、奨学金を返済できない大卒生が増えているそうだが、手取り15万円から毎月3万円を支払って、家賃、光熱費を捻出するとして、その会社に生涯を捧げようという奇特な人がどれだけいるか?必死?に勉強して大学を出て、デフレ状況にある現状物価で手取り15万は微妙に厳しくなかろうか?しかしそれが現実であるから、学生は、在学中から爪に火を灯す生活を送り、将来の「アリ」の生活に備えなければならない。ビールはおろか、発泡酒だって飲めなくなるような将来がすぐそこに来ていると、卒業を迎える学生は覚悟しておかなければならない。

どんなにくたびれようが死にそうになろうが誰も助けてはくれないし、じっと手を見ても月給が増えるわけではない。30歳台前半の方々に申し上げたい。寸刻を惜しんで活字に触れること。本物に出会うこと。そして自らの将来は自らにしか責任を負える者はいないのだと悟ること。自らを研鑽する事にお金をかけることを惜しまないこと。そうしておけば道は開ける。必ず開ける。そう信じて進もうではないか。それしか出来ない。


平成21年11月2日(月)

すでに11月である。HIRO YAMAGATAのカレンダーも残り一枚と成った。今年もいろいろあったのだが、凄まじく重い仕事もあり、ここまでは妙に長かった。残り2ヶ月。有意義に過ごすこととする。一つ一つ事を為し、冥土までの旅を過ごすとする。

新聞に愛知大学が都市系の学部?だか専攻?だかを立ち上げることがニュースと成って出ていた。そんなものは鶴舞大学にはとっくの昔から有り、更にMOT専攻もとっくにある。何が言いたいのかと言えば、新聞とニュースネタとの関連。どかんと一面に出たからと言って、それは「全く新しい出来事」ということでは無いこと。まさに学生集めの宣伝に新聞を使うことが多くなってきていて、老舗としては何が言いたいのか解らないということになる。しかし、読者は他を探そうとはしないから、それだけが全く新しいということになって、新規の勢いに老舗が倒されることになる。新聞、恐るべしである。

新聞恐るべしと言えば、鶴舞大学のMOTシンポジウムは当初250人のつもりが400人の予定となって、簡単に突破して500を上回ってしまった。逃げ出したい気分である。これなどは日経紙のパワー炸裂で、広島などからも大挙して押し寄せて頂ける由、有り難いことである。役不足の誰かさんは本気で逃げだそうと考えているのだが、なかなかそうもいかないらしい。新聞広告は強烈であり、下手に打つととんでもないことになるなと恐れ入った次第。

久しぶりに自転車で通勤したのだが、街の活気は全く見られない。トヨタさんは黒字らしいが、それを支える裾野は焼け野原だ。インカ帝国よろしく、人口爆発で国が滅びるのは歴史が知るところ。六千万が適正な人口と言われる日本。一社一人勝ちでこのまま進むのか?まじめに考えようと、新聞には訴えて頂きたい物だが、強い物に媚びるだけが得意のマスコミには、それは期待できない。国民自らの智慧に期待するとしよう。


平成21年10月30日(金)

凄まじく巨大で長期に亘る仕事を終える直前の期待は、きっとほっと出来るのだろうなと言うことだ。だが、実際にはストレスはちっとも減らないし、新しく巨大な仕事が明らかな輪郭を持って突然空間から出現する。不幸は列を成してやってくると言うが、正にその通りだろう。手帳を眺めるにつけ、ため息しか出ない。

日経紙を賑わせてしまったMOTシンポジウムだが、お陰様でと言うべきだろう、大変な盛況だ。お客様各位におかれましては、バッグにマイカップにお好きな温かいお茶を忍ばせてご参加頂きたい。築50年の講堂は、満員でも下手をすると寒い。厚手の靴下とマイカップの暖かい飲み物が必須かもしれない。今、その対応に憂鬱になっている。自らの役不足に呆れかえる。

各大学、あるいは専攻、学科で生き残りをかけていろいろな仕掛けをしている。MOTセミナーは正にその一環で、是非、多くの社会人学生に入学に挑戦して頂こうというところもある。純粋に面白い企てだと思ってはいるが、面白いだけでは仕掛けは打てない。不況の今こそ勉強のチャンスと捉えて下さる企業は多い。演じる側はストレスリッチだが、来て頂いた方々に何かプラスがあれば幸いと準備をさせて頂いている。

今宵は久しぶりにほっとさせて頂けそうで、H君には愚痴の聞き役になって貰おうかと、既ににたにたしている。そんな日もあって良かろうと思う。もっともっと学問を研鑽しなければならぬ。今日はしんどいななどと思っているようでは学問が身についていないことは明らかだ。足りないから隙が出来る。鈍した時こそ学問である。頑張らねば。


平成21年10月27日(火)

レクサスのアクセルがフロアマットに引っかかって暴走。専用のフロアマットではなく、別の車のフロアマットを販売店が勝手に敷いて、それをユーザーに貸し出したという。車の現状がここにあると思う。精密部材の類に入ってきてしまっていると言うことだ。

そもそも不特定多数の人間が選択し、不特定の路面を走る機械である。電子制御された機械ではない人間が操作するのだ。ミクロン単位の精度など求める方が以上だし、提供する側もどうかしていると思う。レクサスはモーターの固まりだし、ほんの少しの静電気でも誤動作しそうな気がする。これは気がするだけだが、ステアリングシャフトが、ミッションまでダイレクトに伝わっておらず、途中でモーターが挟まってヨーコントロールなどをしていると考えると、恐ろしくて乗れない。そこまでに車を持って行ってしまったトヨタは凄いと思うが、本当にそれは安心・安全を売っていると言えるのか?

機械であって良い所はそれで良いと思う。重いというのであれば炭素繊維でもチタンでも活用すれば良かろう。どうせ高価なんだから確実な安心安全を選ぶユーザーを育てれば宜しい。人間と技術の関わりはそのレベルに達して、初めて人間のための技術と言えるのではないか。レクサスは技術主導で人間が支配されるターミネーターの世界にあるというだけだろう。

自動車産業の停滞、衰退で、ものづくり産業が死に体となった。しかしそれはその産業が、技術主導で人間を支配する側に立っていたからだろう。勿論、そうしなければ食っていけなかったという理屈も判る。レクサスのアクセルとフロアマットの関係はそこかしこに見られるような気がする。人間が活動する生活空間で、数ミリの事で死んでしまうような機械はあってはならない。人間が係わる余地があるところでそうであってはならない。それを忘れたトヨタの奢りだろうし、それに関わった技術者のうぬぼれだ。倫理観の欠如に尽きる。人間力の欠落に尽きる。情けない。


平成21年10月26日(月)

不可思議なことが多々あって、その一つがプロ野球のチャンピオンシリーズなる後出しジャンケンシステムであろう。ただでさえ滅多に見ることのないプロ野球だが、このシステムが発生したことによって、まるで興味が無くなってしまった。観客動員のためには有り難いシステムらしいが、必死に半年頑張っても「さぁ、ご破算、後数試合で日本一決定戦の切符を上げますよ」なんてルールが許される社会が何処にある?努力を認めない、日本の悪癖の象徴だ。

セパ両リーグ共にまっとうな優勝チームが勝ち残ったらしい。新聞にはそう書いてある。当たり前の結果だ。そもそも今年に限って言えばセリーグにおいては1位と2位とのゲーム差は10程度あったそうではないか。10000試合の後の10ゲーム差ではない。試合数のほぼ1割も差を付けられて、決定戦に出場しようという厚顔無恥にも呆れかえる。馬鹿馬鹿しい。

ましてやその2位のチームは年初の世界選手権に「リーグ戦に差し支えるから一人も選手は出せません、協力できません」と調整に励んだ。本当に偶然に新聞の隅に載っていた井端選手の談が目に入った。「初頭の調整を失敗して破れてしまった」と。初頭の調整が出来なかったチームが優勝して、それに専念したチームの良いわけとしてあまりにもみっともない。二流以下のプレーヤーの証明だ。

仕事が忙しすぎて残念ながらサッカーもプロ野球もじっくり参観する時間がない。ナゴヤドームには一度だけ行ったことがあるが、やはりプロのプレーは素晴らしいし、接戦で優勝を目指す試合を見てみたいと思う。しかし、根底に「リーグ戦に勝ったら優勝」ということが無ければ応援する気にはなれないし、ナショナリズムの欠落したチームの試合など見たいとも思わない。結果、言い訳が出て見苦しいことこの上ない。静脈へのニンニク注射も医療行為と認められたとは言え、世界的には違反行為だ。不況時代の愛知県そのものを見るような情けない姿は金輪際、御免被る。


平成21年10月22日(木)

世界で最も売れている商品として知られるWindowsシリーズの、久しぶりのメジャーアップデートが行われる。DOSと言ってもDisk Operating Systemと直ぐに出てくる人はかなり古い方だろう。DOSからWindowsに変わったときにも、ある意味、大騒ぎがあったが、今回の7は見てくれが変わって速度が変わって、伝え聞くところによればVistaよりもかなり練られた商品になっているらしい。らしいというだけで、サンプル品を持ちながら試しもしなかった小生としては、ある意味、どうでもよろしい。

どうでも宜しいの中身にはいろいろある。基本的にUnixユーザーの小生としては、仕事で要求されるからWindowsを利用しているだけで、可能であれば使いたくないものの代表格がWindowsなのだ。更に、小生がWindwosでメインに利用させて頂いているのは、DOS時代にVZエディタと呼ばれたものが、WindowsになってWZエディタとなった、まさにエディタであるからだ。極悪非道のワードなどは最も使いたくない代物で、国が公文書作成用のツールとして指定していることが理解できない。まだまだWindowsを利用したくない理由は沢山あるが、仕方なしに利用している。

たまたま目にしたWindwos7の価格であるが、恐ろしい程にその利用料金は高額である。これ程までに高額なOSを、一体、誰が使うのかと、PC万能主義(小生はそうは思っていない)の世の中、ちょっと儲けすぎではないかとへそが曲がっていくのを感じる。こんなもん、使ってやるものかと思う。

この12月までは微妙な景気の上向きがあるが、1月からはどかんと下降線を辿る。そんな中、OSだけを入れ替えても生産性が上がるものではない。計算機が一体何をもたらしてくれたのかをじっくりと考える時期に来ているだろう。同様に、自動車や家電製品が何をもたらしたのか反省もするべきだ。いろんな意味で画期的と言われるWindows7ではあるが、今しばらくはほったらかすとする。新製品だからといって飛びつくと痛い目を見る。そろそろそんな世の中になるべきである。皆さんも気をつけるように。


平成21年10月21日(水)

地下鉄の中吊り広告を見ていると、北海道と京都の文字が目立つ。松坂屋や丸栄の企画だが、何故かその接頭語として「大」が着く。北海道は元来大きいものだと思っているが、恐らくその意味では無かろう。その実施している内容が、平常の名古屋での生活から比べれば偉大なものであって、これを体験することで異次元体験が出来ますよと言うかけ声だろう。そう思って眺めていたら「大」という文字が急にほほえましくなった。

何となく出掛けてみようとは思うのだけれども、散在する懐も無し。雪の中にぽっと佇むかまくらの様に見えてきた。かまくらがあってその中に北海道があったり、京都があったり、要するにそこに行くと人が居そうなのだけれど、そこに入るには何かの仲間にならないといけないようで、しかしそれを期待しているようで、妙にじれったく、また、照れくさくなる。そんな気持ちに「大」はさせるなと。

「大」京都は本物の京都ではないが、京都に出掛けたことがない人にとっては本物の京都以上になじみ深いものだろうし、あこがれが深まるものだろう。名物ばっかりを集めているわけだから、リュックサックに金閣から東寺までを詰め込んで、清水寺で飾り付けしたみたいなものだろう。実際に歩いてみれば近代化は進み、街並みは日々変わり、面白いと感じた路地は、新しい民家が軒を連ねる通路に様変わりを続けている。特に名古屋あたりに済んでいる方なら大京都などには行かずに、そこで散在するお金を新幹線に投入して、実際にぶらっと歩きに行くことがよい。大京都よりは京都が良い。

北海道となると何処に済んでいても遠いから、仕方なく大北海道に出掛けることになる。また、北海道は自然が豊かすぎて目に入らなくなってしまう事もあり、必然、北海道に行っている時も食べることに集中するから、大北海道の食べ物展イコール北海道となってしまうから、大北海道が我が国国民にとっては北海道なのかもしれない。「大」が頭についただけでこれだけ愉快な気持ちにさせてくれる北海道と京都。やっぱり本物に出掛けたいとは思う。そんな一服できる時間が欲しいものだと時々思う。


平成21年10月20日(火)

ローカル線の定義は不明だ。世界から見たら日本全国、津々浦々、何処もローカルだ。新幹線だって全線ローカル線みたいなもんだ。強いて言うなら「単線運行」が境界線だろうか。島式ホームで、駅に亘るのに遮断機があるところ。先週利用した飯田線や名鉄三河線なんてのがそうだろう。2時間電車が来ないとか、明らかにローカル線の範囲だろう。世の中、ローカル線指数なんてのがあって、一日2往復のみの停車なんて駅もあるくらいで、2時間に1本は贅沢なのかもしれない。しかし、鉄道があるだけで豊かである。

電車沿いに町が発展すれば良かったのだが、自民党の土建屋利権主義によって鉄道沿線の地価が高騰した結果、如何なるローカル線であろうとも、駅から普通に歩いて生活できる県内に家屋を求める事は一部の高額納税者のみに可能となり、一般民間人はそれこそローカルに生きるしか無くなった。それが日本の現状だろう。

鉄道は圧倒的に便利で、故障さえなければ、日本らしく時間通りに動き続けるし、寝ていても目的地に運んでくれる。終着駅であれば、寝過ごす心配すらない。こんなに有り難い鉄道を利用しない手はない。職場も宿舎も駅から遠ければ遠い程、そこまでは何とか自転車なり、徒歩なりで接近するとすれば、それだけでトレーニングとなり、健康維持にもってこいだ。

高速道路の無料化なんかどうでも良いから、鉄道網のあり方を見直して、運賃の低減に繋がる施策はないものか?CO2排出量は、適度に利用客が見込めれば自動車より圧倒的に低い。鉄道を山をくりぬいて作る事が環境に良いとは思わないが、出来てしまった鉄道を有効に活用しない手はない。土砂で埋まったダムの如く、鉄道を埋もれさせてはならないと思う。鉄道とバス。日本人はもっともっと利用するべきだ。歩き、そして鉄道やバスを利用できる生活時間で生き、仕事とプライベートを明確に区切って社会を活性化するべきだ。ローカル線はそんな思いにさせてくれる。活用するべし。


平成21年10月19日(月)

出張講義というものがある。大学の教員がそれを希望する高等学校に出向いて講義をすると言うものだ。大学の講義を模擬体験して、進学の一助とするらしい。なんでも希望してそれが叶えられる時代らしい。判っていないと先に進めない世代だ。挑戦など死語である。馬鹿馬鹿しい。

その昔はそんな講義など無かったし、やって欲しいとも思わなかった。そもそも高等学校の授業に付いていくだけで精一杯だった記憶がある。それ程にどんどこ詰め込まれた気がする。今、それをとても有り難いと思えるようになっている。将来、どんな大学でどんなことを学ぶのかなど、考える余裕など無かった。ひたすら学んだ。学んだらどうなるなんて思う余裕はなかった。

高等学校にしてみれば、サービスの一環として、こんなに熱心に進路指導をしていますよと、親や中学校にアピールして学生の確保の一助とするのだろうが、安直すぎやしないか?そんな時間があるのなら、もっと自前の講義を深めたら如何か?大学に入って勉強を手取り足取り教えてくれないと、泣き出してしまう学生を送り出すのは止めて欲しい。偏差値で学生を切って、内容を問わず送り込んでくるのは迷惑だ。

官僚主義が批判され、政治家が政治を行う当たり前の世の中が望まれるようになってきた。予備校任せの高等学校ばかりと見受ける。大学の教員が出掛けて行って本当に何かの役に立つのか?大学もそんな宣伝手法を取らずとも、研究、教育の場として成り立つようにしていかねばならぬが、少子化故に仕方がないか。なんだかがっかりする世の中である。


平成21年10月16日(金)

新しい製品作りには、ダーウィンの海と死の谷があると言われる。ごもっともである。大組織の中でしょっちゅう聴かれるが、それは経営者が優柔不断だったり、上司に先見の明がないからとも思える。ゲリラ的な小さな組織ではそれは有り得ないので、直面する海をひたすら泳ぎ切り、谷を降り、登るだけである。できあがってしまえば「何だ」となるのだろうが、それは結構、難攻不落である。

石の上にも三年とはよく言ったもので、三年経って目鼻が見えなければ諦めるべきだろうし、三年、歯を食いしばれないのであれば最初からやらない方が良い。いけそうだと思っても予想外の困難さが現れる。もう駄目かとも思う。それでもやり続ける。思考が収束し、突如、前進を始める。やり続けないと判らない。人のせいには出来ない。やるべき人間がやるべき事をきっちりとやり続けることが大切だ。他には何も要らない。

本当に新しいことが世の中に出てくると、三様の対応が現れて面白い。知ったかぶりをして見下して取り込もうとする者、現状の困難を直ちに解決してくれると藁にすがる者、全く無視する者。製品開発・販売とは何と複雑怪奇で困難な事柄であることかと思う。理解し、指導してくれるものなど何処にも居ない。尤も、世界初の出来事は常にそんなものだが。

まだまだ困難は多い。解決するべき問題は多々ある。社会的経済状況も極めて厳しい。自動車に依存しすぎた社会の末路なのだが、本当に良いものを作る気持ちが人にある限り、人は歯を食いしばり続けることが出来る。どんな研究も製品開発も人と世の為である。その当たり前さを見失わなければ、こつこつ進めば結果は出る。そんなもんだ。


平成21年10月15日(木)

学長選挙というイベントがある。投票される側に立つか、する側に立つかで、気分は随分と違う。鶴舞大学は、妙なことが発生していたので、まっとうな学長候補推薦選挙は法人化後、初めてのことであった。学長選挙という言葉は正しくなくて、構成員の意向調査であって、選挙でトップ当選というわけにはいかない。しかし、トップ当選にならないと後がいろいろ面倒だから、次を目指す方々は、トップ当選を目指すことになる。

学長は猛烈活強烈な牽引力を持つべきであるが、鶴舞大学では豆腐に鉄のわっかをはめて引きずり回すみたいなもんで、室伏ばりにぐるぐる振り回すというわけにはいかない。民意保全というやんわりとしたベクトルを維持することが必要だ。それをぶちこわすのでは、世の中、動いていかない。選挙に勝つには、その勝ち方が極めて重要になる。民主党張りに、ただ勝てば良いというものではない。しかし勝ちは勝ちなのだから、どうどうと引っ張って頂かないことには、経営は成り立たない。

大学法人における学長は、まさに社長様であって、「あんたのせいで潰れちゃった」ということもあり得る。民主党政権になり無駄金の支出制限が厳しくなってきているので、ますます有り得る。教育の府とは言え、その質が低次元であればぺっちゃんこにだってなり得る。しかし、そうなっては国家もぺっちゃんこになる。そう思うかどうかは難しいところだが、教育の府である以上、気合いを入れて次世代を育てることに命をかけるわけだ。その当たりまえのことを実行できる雰囲気を作っていく責務が、学長にはある。

教科書に載っていることを理解すれば良いのではない。そうであるならば、鶴舞大学なんぞ不要だ。東山大学にお任せしておけば宜しい。世界初の出来事でこれから学ぶ者の心を猛烈に、強烈に揺さぶり意識を失わせるくらいのパワーが教員にはなければならぬ。研究において世界初、世界一を生み続けることが必要だ。そんな連中が鶴舞大学を支えるし、学長はその長であるからこそ、皆がその指さす方向に走り出す。そんな当たり前の結果が欲しい。


平成21年10月14日(水)

メカトロテックジャパンという工作に係わる展示会がポートメッセ名古屋で開催される。大型の工作機械は前年度受注の8割減というところを推移しており、最先端技術を導入した機械が世に出て行かない状況となっている。出て行く先は中国だったり東南アジアだったりするわけで、工作物の品質の相対低下が国内で顕在化してくるだろう。工作機械と工作物の両輪的進化が停止しつつある日本。正確、精密、丈夫で長持ちというこれからの生きていく道を自ら絶っている日本。お先真っ暗である。

ある時点からゆとり教育なる、円周率3のおちゃらけ教育が始まった。複雑怪奇な内容は削除して基本をしっかりと教育しようというのが趣旨だ。それで良い様に感じる。しかし、教える側が、例えば3次元構造物の体積を積分で求めることが要求された中での解析学の教授をするのか、解析だけを教えるのかで、緊張感も違えば迫力も違う。勿論、低下する方に振られる。教師の精神的怠慢が子供に蔓延し、ものづくりがイメージできない大人が輩出される。工作物の展開図を作る能力なんて、自分自身でも小学生以降進化していないように感じる。逆に言えば、その頃に教育しないと後は身につかないということだ。

優秀な工作機械があったとて、結局はそれを使いこなし形を生み出すのは人間だ。決まり切った図面を転送して、それを動かせばよいと言うのでは、省エネで安心安全な機械など生まれやしない。知的な技術者が人に優しいものづくりをするわけで、肝心要の「知」が欠けていたのでは、地球温暖化防止はもちろんのこと、安心安全な社会など絶対に生み出されない。人が人の世を創るのだ。その為の道具の開発であり、それを使いこなすのはあくまでも人間だ。知的な人間だ。

難しく複雑なものを避けるのは本性だろう。しかし、厳しく困難なことにも立ち向かっていくのも人間であると思う。それが知的な作用が働くのであって、意識的進化を生み出す原動力となる。チタンを高速に削ることが偉いのではなくて、求められる性能を発揮する部品を正確無比に削り出すことが出来る事が価値なのだ。その価値を生み出す為には、単に数学や物理の能力だけがあればよいのではなく、歴史、文化、を理解し、倫理観を持って事に当たる智慧が備わっていることが必要だ。それこそが原点であり、そんな方向に日本がこれから進んでいくことに助力できれば幸いと思っている。


平成21年10月13日(火)

この40年近く、みんなが言いたくて、でも言わなかった「もう成田は止めた」。政権が変わると言えないことが言えるようになる。理解できることを言えるようになっている間が政府として旬ということなのかもしれない。勿論、現政権は旬であり、言えなかったけれども言いたかったことを、どんどん言えば宜しい。日本中に無節操に作られ続ける飛行場。それが本当に必要なのか、長期的展望に立って考える時期に来ていると言うことだ。特に赤字まみれの飛行場など、存続する理由など何処にもない。そんな所に突っ込み続ける税金など不要である。

成田空港を利用したことがある人は誰でも思う。東京駅からなんて遠いのだろうと。政治機能の中枢に近いのは、間違いなく羽田である。政府要人だって海外に出掛けるときは羽田からである。それだけを見ても、羽田は国内線、成田は国際線という区分は死に体だ。新幹線が品川に停車するようになり、京浜急行で羽田まで直通で行けるようになった。公共交通機関でこれだけ利便性が上がった今、そして、うるさいと言われた(実際にうるさかった)滑走路は沖合へ移設されていった。もう、宜しかろう。羽田のハブ化、結構である。

するとハブを目指した成田や関西空港の立場はどうなるのか?どうもならない。過去の政権の無策を恨めば宜しい。それに乗っかった自らの愚かさを呪うのが宜しい。リーダー選択を誤ったのは有権者であって、その意見が目の前の負債となっているのであれば、その負債を買ったのは自分達だ。自らに得失があるのであって、失の部分だけを人の責任に仕立てようと思ってもそうはいかない。因果応報、気に入らない、腹が立つことは全て身から出ていることを受け入れるべきだ。そこから前進が始まる。

国際化という単語が一人歩きしている。自国の食料をまかなえない農政だったり、付加価値の高い物作りに挑戦しなくなってきている工業だったりと、とてもではないが国際化などほど遠い。しかし、日本には羽田という出入り口がしっかりあって、山紫水明の国であると世界の憧れになるような、そんな国家になったとき、それが国際化である。国民の知質を向上させ、国民が胸を張って世界と渡り合えるようになった時、改めて複数の国際空港を建てる議論をすれば宜しい。そこに向かう議論は常にやってよろしい。そうでなければならない。



見事な星空である。台風一過の楽しみの一つはこれであろう。しかし、見事な月夜でもあり、もう少し静かにしていて欲しいと、饒舌な月にお願いしたくなる。自然の営みに逆らわないよう、生命体は活動するべきだ。台風災害の多くは、愚かな生命体の行動から出てきている。そのような行為の結果、治水のためのダムが必要だとなるならば、それほど愚かな事はない。

昨夜、自転車で戻りながら街を眺めた。枝の折れた木々、根こそぎ倒れた木、その殆どが街路樹や家屋の庭木である。里山エリアの木々は、お互いが助け合って大きな被害が無いように見受けられた。飛ばされた落ち葉も里山の栄養になっていくのだろう。街のゴミと成り果てる街の木々とは大違いだ。アスファルトに囲まれ、自動車の排気ガスを受けた結果だとするならば、人間の体も同様の状況になっていると言うことだろう。そんな連中のためにはダムなど要らない。厳しい自然にさらされ、自らを鍛えるべきだ。

葉っぱが吹き飛ばされたお陰で、柿など、秋の実りがよく目立つ。農家的には大被害というものなのだろうが、家々に植えられている趣味の果樹のレベルでは、被害甚大でも無さそうだ。自然の子孫を残そうとする力強さを感じる。一体、どんなメカニズムなのだろうと、家庭の屋根瓦へ応用できないものかと、当たりを見渡してしまう。小生の宿舎の周辺では、屋根への大きなダメージは無さそうで、既に自然から学んだ仕組みになっているらしい。

梅雨明けが遅れ、台風は十月に来た。季節が後ろにシフトしているという事なのかもしれない。自然の営みの繰り返しからすれば、人間が生きていて、しかも、何かを生み出す働きが出来る期間の余りにも短いことを実感する。よく見、よく聴き、深く人生を全うしたいものだと感じる、自然の猛威でありました。


平成21年10月8日(木)

久しぶりの台風である。上陸とすると2年ぶりだそうで、鶴舞公園の大木が倒れていたことを思い出す。台風が朝方上陸することが分かっていたので、鶴舞大学に滞在していた。真夜中に、本当に真夜中に突然ノックの音がして目が覚めた。静まりかえった真っ暗な中、首筋が冷たくなってくるのが分かった。警備員さんの巡回はとっくに終わっている。まぁ、取り憑かれたらその時はその時と、自分も生き霊みたいなもんだから、共鳴したのだろうと、無視していたら気が楽になった。見えない恐怖とはそんなものだろう。

四時半頃から雷も光だし風雨が激しくなった。いよいよだなと思ってシュラフから抜け出す。夜が明けたのでベランダから外を眺めてみたのだが、ねずみ色の網をかぶせられたような校舎が揺れて見える。名古屋大豪雨の時とは違って、縦横無尽に水分が飛び回っている。7時を過ぎたら静かな世界である。極めて強かったが短時間の豪雨であって、台風を感じさせてもらった。停電が生じている地域もあるらしいが、少なくとも鶴舞大学は大丈夫っぽい。安心した。

気象庁ホームページの、台風情報を見ている。観測地域を日本、カラー画像にして、カテゴリを水蒸気にしてみると、6時半には最も雲の厚い部分が岐阜の山奥に抜けていっていることが分かる。上陸して加速したのだろう。この分だと午後からの講義は行われそうだ。今宵の台風一過の星空が楽しみだ。台風は悪いことばかりではない。

7階の窓から円弧状の、明確な雲の縁が名市医大の上に見える。極端な円弧であり、台風の渦の一部であろう。冷静に観察すると地球の営みに触れたようで心地よい。そんな朝だ。


平成21年10月7日(水)

大切なのは2兆5千億円を浮かせたことではない。毎年、毎年、それ以上の無駄遣いが数十年に亘って繰り返されてきたことを国民が認め続けたことだ。受注詐欺みたいなことと新聞はたたいているが、そんな間抜けなマスコミが赤字を増やし国を堕落させた重宝人であることをまだ判っていない。公共とは「それがなければなんともならない」ものであり、その為に、税金が投入されてもやむを得ない。そんなものがどれだけあるのか探してみるが良い。鉄道とてどうして駅がここに出来たのか?と首をかしげたくなるような場所さえある。そんなものは不要なのだ。

補正予算を削っただけだから、本来ならば年度予算から手を付けるべきで、次年度の予算がどのように組まれるのか実に楽しみである。愛知県の万博跡地の箱物である知の拠点構想にもメスが入るらしい。各県に研究拠点など不要であるとの国の見方は全くもって正しい。正しいが、国としての高度な研究機関の保持は必要ではあるので、道州制というのであれば、各州に目的を明確にして整備して、そこを使いやすくするだけではなく、そこに到達するまでの鉄道やバスの本数を増やすなど、周辺のソフトウエアまでのケアが必要だ。各県に作ることを思えば、ずっと安上がりだし、集積の強みで情報交換や人的交流が生まれるだろう。大型の分析装置など、そんなやり方で十分だ。自分の手元に置こうというエゴ、お金があるから買えというエゴが今の日本の現状を生んだ。

みんなが元気であることが本質的に重要なことだ。それを実現するために様々な手当が為されてきたはずなのだが、これも無駄、あれも無駄などという予算の投入が為されてきたわけで、いつまで経っても不平不満だけが残り続けている現状の根本を見た思いだ。勿論、それは判りきっていたことで、例えば徳山ダムからの木曽川への導水など、そんな事業があったことを知っていた愛知県民がどれだけ居たのか?その必要性を訴えた人がどれだけ居たのか?いつの間にか工事が決定され、それが実行されようとしていたのだ。あんなものは即刻中止で政界で、その問題を明確化しただけでも、河村知事の功績は大であると太鼓判を押してあげたい。

ゲーム機を抱きかかえた大人や子供を見るにつけ、吐き気がする。蹴倒してやろうかと思う。国家の税金で生きている人間が、ゲーム脳となって国家を破壊していく。学問せんか!と怒鳴り散らしたい、そんな思いだ。


平成21年10月6日(火)

8日に大型の台風が上陸してくる。ここ数年、台風が来ていなかったから、暴風雨というものを忘れてしまった。台風が屋財貨材を破壊していくことには辟易し、憤慨もするが、自然界においては病害虫駆除や自然力による「まびき」効果が働いている。まさに、自然の摂理の一つの軸であり、地震と共に東西の横綱ではないかと思う。巨大台風が来て河川が氾濫するから、巨大なダムを造ろうというのではなくて、災害が発生するようなところに住んでいる自らを呪うのが正解だ。地球にいる限り、自然災害は必ずやってくる。人間の数万年の歴史など、数十億年の地球の歴史から見たら「ゴミくず」にもならない。でかい面するなというところだろう。

ネットワークの有り難さを感じるのは気象庁の情報にアクセスできることだ。その昔は、気象通報などで自ら天気図を書くしか無かったが、今は3時間毎の情報が更新されアップされており、台風の進路予測や現在位置などを把握することが出来る。これは素晴らしいことで、台風被害を最小限に食い止めることに利用したい。現在であれば台風18号の進路予測が気になるところだが、名古屋上空に一直線に伸びる進路を眺めていると、あきらめの境地に達してくる。

台風が来れば国道151号線や152号線は寸断されるだろう。152号線に至っては台風が来なくても寸断されているわけだが、迂回路も遮断され、南アルプスを歩いて越えるくらいしか経路が無くなってしまうところがすさまじい。それでも原始の時代から人々が暮らしているのだ。それを思えば都会に暮らして巨大ダムも無いものだ。人造建造物が都会の暮らしを守るなんてまやかしに踊らされるのはもうまっぴらだ。傷だらけの自然の姿を巨大台風と破壊的大地震で綺麗さっぱり洗い流して頂きたいものだ。その時、税金搾取に気がつくだろうし、巨大土木工事こそ正義であるという日本の流れも変化を始めるのでは無かろうか。

天皇陛下がシーラカンスの解剖に立ち会われたそうで、実に豊かで平穏なニュースではないか。国民はそのようなニュースにこそ感動し、自らの閉塞感の異常さに気づくべきだ。自然力になんの罪もない。罪は人の心にある。


平成21年10月5日(月)

急性心筋梗塞という恐ろしい病名の病で元財務大臣が急死した。死んでは何にもならないなと感じる。大臣の子は大臣という厳しいものを背負っていらっしゃったのだとは思うが、それを心労に積み重ねるようでは政治家は務まらないだろう。国民すべての重荷を背負ってなお立っていられるのが政治家だ。一人一人の重さを感じることが出来るのが政治家だ。国民の痛みを自らの苦しみに置き換えそれを癒し、そして国民に返すのが政治家だ。酒を飲んでベッドで嘔吐し、急性心筋梗塞ではその責務にあたわずと言うことだ。厳しい表現だがその通りだろう。本懐遂げずに死んでいく政治家の何と多いことか。情けない。

数百人の政治家が国民を代弁して将来の方向を議論しあっている。あくまでも代弁である。代弁であるのだが、国民の無責任さも手伝って、勝手気ままに政治家と官僚が国家を食い物にして、無限に墜落を続ける国家にしてしまった。要するに代弁者ではなく勝手気ままに振る舞っている、税金泥棒と言っても過言ではない。過言であると威張れる政治家が居るならお目に掛かってみたいものだ。また、国民の側も自らの快楽だけを求める生き方をいい加減に捨ててはどうか?大切なのは突然心臓が止まるような、そんな日々であっては困ると言うことだ。死を迎えるに当たり泰然自若でありたいものだ。

その昔、ずっとずっと山奥でのことだ。いくつかの谷が合わさった場所にある、いわば田舎だけど人が多く住む場所か、それとも最も山奥深い住居とその人工集積地との中間に学校を作るべきか争いが起き、時の政治家が、子供にとって平等な地に学校を建てるべきだとして、そこに建てた。町の連中は、所謂暴力者をその政治家に差し向け、某橋の袂で斬りかかった。「たわけ」と一括、跳ね返し、今もその地に学校が建つ。某政治家は祖父である。そんな生き様をしてみたいものだと常々思う。

交通事故にしろ急病にしろ、突然、その者の人生がストップし、周りの人間からその分が瞬間的に空白になる。それはそれで辛いことだし悲しいことだ。しかし、あの者は存分に生きたと思って頂けたらそれで良いと思っている。存分に生きると言うことは結構大変なことで、疲れに満ちた毎日を送っているようではだめだ。要するに一歩一歩、こつこつときちんとまじめに前進し続けること。容易で安易だが厳しく辛い日々を積み重ねることが価値であると気がつくところから始まる。そんなもんだ。


平成21年10月2日(金)

トヨタが自前でリチウムを採掘するという。自動車のために地球をほじくり返して「エコの為の自動車」を作るという。これぞ時代に逆行する本末転倒と言えよう。エネルギーを蓄えることが、単位重さ当たりニッケル系よりも優れていることは周知で、また、大気と激しく反応して、二次災害性も大きいことも周知だ。何よりも地球に大穴を開けてエコという感覚が凄い。将来の電気自動車の為というと聞こえがよいが、そもそも論として自動車は何故必要かということを考える時期に来ている。何かおかしい。

八ッ場ダムにしても「どうしてそれが必要なの?」と訪ねれば都市部の安全という答えが返ってくるだろう。本当か?ダムの効果は今の時代、殆ど無いと言う学者も居る。そう思う。それよりも都市の下水等排水の問題と、大河川への都市排水の問題を深く検討し、都市に水を蓄積することを考えるべきでしょう。走ることが必要だから電池のためのリチウムを採掘することは正しいという理屈は、遙か彼方の街のためのダムは必要という理屈に似ている。自然にメスを入れることなく人間が暮らす方法を考えるのが先決で、エコではなくエゴのために地球を壊し続ける行為を自然は許さないと感じる。

自動車が無くなってご覧なさい。頼んだ荷物が届くのが一週間後になるかもしれない。でもきっと届く。馬鹿みたいに広い道路は街路樹と小川のせせらぎに変わり、皆が集う安心安全な街と変わるだろう。人間はそんなに馬鹿では無いはずだ。権力の象徴たる「お金」の集積に明け暮れるのはもう止めて、そろそろ哲学者に戻ってはどうか。

ちょこちょこと補助金を削減したら、一気に数兆円が浮いてしまった。そんな国に暮らしているのだ。猛烈に、強烈におかしな事が起こっているのだ。自動車は裾野が広い産業故に、これを瞬間的に無くすのはうまくないことは十分に理解できる。代替を見いだしつつ、人の生き方を変える。それが現政権に期待したいところだし、そんな教育をしていきたいと思う私であります。


平成21年10月1日(木)

太平洋プレートの動きが活発化しているようで、プレートの縁にある島国で巨大地震が相次いで発生している。プレート移動の歪みが最大限に蓄積されている東海沖では、過去に類例がない程の歪みであると、10月の地震学会で発表されるらしい。だから何だと言いたくもなるが、地震は地球がまだまだ活発に生きているということで、若い星の証だと考えれば喜ぶべき事だとも言っても良いのではないか。時の運が生き死にを分ける。誰にも平等にその破壊力は襲いかかってくる。おびえても仕方がない。どんな防御も役に立たない。偶然に防衛手段が功を奏することはあるかもしれない。それにすがるしかない。

Google Mapの写真画面を見ていくと、世界中の海嶺なども良く描写されている。それを眺めてみると今回の地震が環太平洋的に展開されていることが判る。マグマの動きを止めるすべはなく、その動きを読み取る力も無い。過去に発生した地震の周期を調べおびえるしかない、なんとも弱い人間であることか。

台風も2個来ているようで、来週の中頃には本州に激突してきそうな勢いだ。ここ数年、台風の直撃を受けていないわけで、確率的に言ってもそろそろ大当たりと成ってもおかしくなかろう。これまた自然の驚異であって、不幸の連鎖反応みたいなものだ。出来れば地震と台風は別々に来て欲しいものだが、こればかりは地球がやりたい放題だ。大いなる力には逆らいようがない。

まだまだ朝顔が満開だが、10月である。地下鉄の車内を見渡すと、長袖、半袖半々だ。地震に怯え台風を待ち構えても、人の心の移ろいなど目もくれず、自然は周期的変化をもたらす。この感覚で日々を過ごしたいと思うのだが、なかなかにして達観できない。静かに一日を過ごしたいものだが、果たして今日はどんな日になるのか。誰にも判らない。


平成21年9月30日(水)

月末である。毎日、一般民間人が寝ている時間に地下鉄に乗車していると、世間の動きが良く判る。上半期の月末を迎える昨日は、5時台の地下鉄であってもほぼ満員。しかし、今現在、即ち、5時台の地下鉄のはがらんがらん。五十日(ごとおび)と呼ばれる集金日前に走り回る姿は、江戸時代から変わりがない。昨日の陰鬱な雰が車中から消え、1車両に3,4人の乗客という、いつにない、ある意味、暗さが漂っている。これが日本の現実だ。

尤も、五時台に起きて働きに出るような人種は、存在しない方が健全だろう。2時台に寝て4時台に起きて5時台には仕事に出る姿は、昭和二十年代後半にはやった姿だ。それが一部に残り、二十時間労働者として今に伝わる。小生の年齢でそれを続けると間違いなく四十代で死ぬわけだが、馬鹿馬鹿しく空しい世の中に存在してもつまらないのでそれでも大いに結構だ。もう十分だと感じる。

自虐的でも何でもなくて、空気に壁があると思って突き進むが如く、その瞬間をがむしゃらに生きて、誰もがあきれる如くに濃密に瞬間を過ごせたら、それで良いのだと思う。マンモスが生きていた頃は、皆、三十代前半でくたばった。極々一部が四十を越えたが、そんな奴は長老と呼ばれた。長く老いるという凄まじい表現だ。老いて生きている時間が長いと言うことだ。今、目の前の地下鉄の車中の状況だ。

炭酸ガス排出を削減する目標なんぞ、自動車の走行量を半減させたら、それだけで達成できる。歩けば自然と血流が激しくなり、体内に蓄積される老廃物や活性酸素が取り除かれる。大いに結構ではないか。小生の周囲の若者の、ほんの一部だけが健全に運動しており、他の者は教員も含めてブロイラーである。歩け歩け!日々、そう思う。


平成21年9月29日(火)

秋の長雨である。はっきりとした夏は来なかったくせに、季節型全線だけはきっちりと出来る。このあたりが日本的というか、取り敢えず、季節の挨拶だけはしておこうかなという、当たらず障らずの雰囲気がお天気にも見られる。ジェット気流の位置が上がったとか下がったとか、いろいろ言うけれども、ちゃんと秋雨前線はやってくるのだなと思う。面白いものだ。地球温暖化など何処吹く風、秋と冬だけはきっちりとやってくる。

はっきりとしなかった太平洋高気圧でありながら、大陸の移動性高気圧とぶつかって、前線を作り出す力だけはあるらしい。これが地球規模の力なのだと感じる。人間如きがちまちまと何をやろうが何も変わらない気がする。だからこそ、世界中の人が同一の意志を持って地球と渡り合おうという気構えが必要だ。現に、世界中の人が楽をしようとして自動車に乗って、見事に地球を暖めたではないか。人類皆が手を合わせれば何かが出来るという証拠だ。立派なものである。人間もなかなかやる。

自民党総裁選挙というものがあったらしい。今朝の新聞で谷垣某が総裁になったと報じていた。最近の新聞は自民党にエールを送る等、やたらと自民党を支持する記事を掲載しているが、本当にそれで良いのか?民主党は未だ、本質的に与党と言える程のパワーは無さそうだし、自民党が今の数を維持できていく保証は何処にもなくて、第三党、第四党が出現してこないとも限らない。本当に国を憂えて結束している政党は、日本には今のところ見あたらない。そのあたりをきっちりと指摘することが先決である。

少子化、産業の空洞化と明るい未来は何処にも見あたらない。日本人の反省下手は世界的に有名だろう。現状に何か不満があるならば、何処かに反省点があるはずで、それを明確にすることから次の一歩がある。迷子になったら元に戻ることが鉄則であるように、明確に「これが間違いであった」と表明し、改善することがこれからのやりかたではないか。アジアの片隅の島国であるが、尊い国土である。忘れずにやってきてくれる秋雨前線を想い、本来、国民が為すべき事をきっちりとこなしていれば安心できるような、そんな国家であって欲しいと願う私であります。


平成21年9月28日(月)

フィリピンのルソン島で1967年以降で最多となる一日当たり降水量を記録した。奇しくも東海地域では伊勢湾台風から50年の節目の警戒的イベントが多数行われている最中であって、台風被害の恐ろしさ、驚異を身近に感じるのである。ここ数年、台風は日本を避けて台湾や東南アジアへ向かうことが多く、台風災害から我が国は免れているが、実際の所、地球上では強烈で猛烈な台風が多くの人名を奪い,生活環境を破壊している。人間だけではないことは言うまでもない。これを例によって、単なる地球温暖化が原因だと決めつけて、他の原因を探さないでよいのか?

南極を含む南半球は、現在、南回帰線の北上に伴って寒冷期に向かっている。そのエリアの氷が過去の地球変動では有り得ない程に溶解しているのだから、地球全体の平均気温が上昇していることは間違いなさそうだ。されば、北回帰線の北上による地球規模の基本的な気候変動と地球温暖化が合体して巨大台風を生み出していると言うことか?伊勢湾台風の頃は北半球はずっと気候が落ち着いていて寒冷な状態であったはずだ。それなのに歴史的に見ても巨大な台風として日本に上陸してきた。台風など、自然現象はまだまだ解明されていないことが多いと言うことだろう。自然には適わない。向き合うのみだ。

すると地球に暮らす側の工夫が必要と言うことだろう。無理、無駄の無い、自然と共生する治水と言えば信玄堤が有名だ。流体力学を経験から割り出し、最大と成る水位においても水で水を制するやり方は、現代においても有効な手法である。それは、今もそれらが現役であることからも明らかだ。そしてその業績に対して今も住民が感謝していることも大切なことだ。

公共工事が単に利権の結果として生まれてくるわけではないことは、国民も承知していることだろう。いつの頃からか利権のための公共工事に変化し、私利私欲工事に走っていった。今、伊勢湾台風並みの台風が、同条件で上陸してきたとして、その惨劇はどのようなものであろうか?過去に貯木場であったところには、海上輸送を待つ無数の自動車が並んでいて、それらが流木の如く周辺居住地になだれ込んでくることは明らかだ。田んぼが減り雨水が一気に小中河川に流れ込み、高潮に押されて容易に堤防を越えるだろう。その先に住居がある。それこそが問題で、都市の変革は本当の安全にあることを理解し合い、100年の後に安全な街にするくらいの気の長い,しかし、明るい計画を為政者はそろそろ立てても良いのではないか?そんな気がする。


平成21年9月25日(金)

朝は秋晴れ、昼は真夏の名古屋地方、漸く名古屋らしい季節の到来だ。振り返ってみると、今年の夏は殆ど夏らしい日は無かった。明確な梅雨明け宣言もなく、ずるずると梅雨が続き、灼熱の名古屋は何処かにいってしまった。これはこれで地域の産物の味が落ちるとか、特に「いきもの」の質に影響が出てこよう。過ごしやすかったと言えばそれまでなのだが、昨今の昼過ぎの暑さが厳しい。やはり夏ばてはあったようである。

くたびれたなと思ったとき、人それぞれ対処法があろう。寝るというのが最も積極的で正解に近いものだとは思うが、更に進化させて思い切って体を適当に動かして寝るというのが良かろう。寝ているだけでは怠惰になるし、インフルエンザにも負けそうだ。猛威をふるっているインフルエンザだが、92歳以上の方は何と50%も免疫があるそうだ。スペイン風邪にインフルエンザの型が似ているそうだ。だとすれば明確なワクチンも出来そうなものだと思う。逆に、スペイン風邪なみの被害と成ってしまうのか。疲れている場合ではない。暗い気持ちになる。

体力が無くなって崩壊してしまうのは企業も同じで、昨今では日航がにっちもさっちもいかなくなったと叫んでいる。JALパックなどと国旗はためかせ農民から金を搾り取り、政府援助の元やりたい放題やってきた結果がこれだ。二十数年前、最初に利用したのが日航だったが、その際のふんぞり返ったアテンダントの雰囲気にあきれ果て、それ以来、一度も利用していない。同様の気持ちになった方は多かったのではと思っている。天狗になれば人心は遠くなる。一度離れた人心は二度と戻らない。

常に向上し続けないといけないと、ものの本は簡単に書いている。「おいおい」と思う。そう、やすやすと向上できたら不況なんてこない。貧して鈍するのか、鈍して貧するのかどちらが先か分からないが、くたびれたら鈍になって、結局貧するような気がしてきた。くたびれたと感じた時の過ごし方が重要なのだと思う。だらだらと寝転がっていると垂直に起立する筋力が弱る。重力に負ける。そうならないためのくたびれへの対抗手段を持たねばならぬ。「遅かった」と感じる前に精神を充足させること。これが月曜からのダッシュの秘訣だ。


平成21年9月24日(木)

ダムなど自然の体系を崩壊させる事業を中止するという。断層の上に集落を作ったり、高潮の危険性がある港に貯木場を作ったり、結局、災害は人間にとっての事である。都市の洪水被害の減少とか、渇水対策だとかきれい事を言うが、所詮は人間のエゴで自然に雌を入れるものだ。戦後の国土愛啓発のための佐久間ダムとか愛知用水とか巨大建造物作製事業には、当時の日本人の職場を創成する以上に、こてんぱんに打ちのめされた国民に光明をもたらす大きな意味があった。今、ダムなど巨大公共事業にそれがあるかと言えば恐らく全く無い。従って中止で宜しい。

都市は都市で責任を取ればよい。利根川下流域には首都圏外郭放水路などの地下建造物が構築された。大型の台風でも浸水家屋が殆ど無くなり、地域の責任は地域で守るこれからのあり方を具体的に示している。ダムで水没するのは家屋だけではない。そこにある自然体系そのものを破壊し死滅させる。それを地域住民の意思を考えろと言う主張と重ね合わせることは、現在では無理があろう。ダムで水没させ死滅させる自然は二度と戻らない。国土が人間によって殺傷されるのだ。どんな時点においても中止の判断は正しい。勿論、ダム建設が国土にとって、自然にとって正しい選択ならばやむを得ないのかもしれない。建造し、後の世の子々孫々に巨大建造物を誇るが良い。

高遠の美和ダムなど、中央構造線という断層の上に作ってしまうとか、判りきっていながらも子孫に危機的状況をもたらして「正しい選択だ」と胸を張る事業が世の中多すぎはしないか?新しいLSIの開発をするから補助金をよこせなど、とんちんかんな補助金申請が横行している。既に崩壊してしまった自公民政権のツケが回っている例だが、これなども思い切って公募があったことそのものを取り消してしまえば宜しい。中小企業を助けるレベルから、超一流と呼ばれる企業にまで税金をばらまく思想に違和感を覚える。工場家屋の全面に太陽電池パネルを敷設して、その電力を地域に還元することに関連する事業申請などなら理解できるが。

みんな必死に生きている。25%の削減目標が与えられたとして、何故、そんなものが必要になってしまったのかを考えるべきであって、どうしてそんなことをしなければならないのかと、愚かな思考方向に振っていくべきではない。山に行けば無残に引きちぎられた高山植物の残骸や、ステッキで掘り起こされたお花畑を目にする。モラルのかけらもない日本人。ダム建設など正にその象徴である。野山を歩き、自然と共存する方々と触れ合えば、ダムなど金輪際建造してはならないと感じる。都会人のエゴなどに振り回されない本当の地方行政に、日本は目覚めるべきだ。寄り合いで自民党から金を巻き上げる地方ではなく、自らの子々孫々に誇れる地方行政に目覚めて欲しい。その方向に進めるのかどうなのか。現政権に期待したい。


平成21年9月17日(木)

富山のとある辻で「電線撤去中」の看板を見た。振り仰ぐと広い空がそこにあった。美しい試みである。それを思い出しながら名古屋の路地を歩いてみると誠に見にくい。汚らしいという表現が的確である。折角掘り出した銅の鉱石をこんな形で頭上に張り巡らして、何と罰当たりなことを人類はするのだろうと腹立たしくなる。そしてじっとそれを眺めていてふと考えた。導線は熱の良導体である。ほんのわずかな入り口出口とはいえ、電線から過程の熱を奪う、あるいは熱を投入する量ってどのくらいなのだろうと。

例えば夏。電線は黒い被服を通して直射日光にあぶられて、どんどん温度の低い方へ熱を運び込む。炎天下の電線から比べれば恐らく家庭の屋根裏のほうが涼しいだろう。電気とともに熱も運び入れる働きをしているわけだ。ほんの少しだからと言って馬鹿に出来ない。温度が上がれば導線の抵抗は上がる。上がれば消費電力も上がって喜ぶのは電力会社だけだ。電気を使えば使うほど更に熱くなって、消費電力は大きくなり省エネから遠くなる。炎天下であぶられているワイヤーとて同じ事で、送電ロスもどんどん大きくなる。地中配線の意味はとても大きい。

省エネ25%という産業界は無知蒙昧をさらけ出して猛反対している数字を達成することは確かに大変だ。しかしほんの少しの省エネも「量の効果」を考えると莫大なことになることを感じ取り、そして実践しなければならない。道路を半分削ってビオトープを作るとか、そんなことを考えていけば人間活動が少しはスローになって、エネルギー消費量そのものが減るのでは無いのか?部屋に閉じこもってエアコンを使うより、風に吹かれて涼んだ方が地球にも精神にも優しい。

温暖化ガス排出量25%削減目標、大いに結構。そこに到達するまでには新しい知恵、古い知恵、オール人類の取り組みが必要となろう。安直に「工場の海外進出がますます加速する」などとほざく無能な財界人はほったらかして、これからの人類は鳥の視野で物事を考え、トータルの価値を生み出す仕事をしなければならない。単純で当たり前のことなのだが、なかなかそうはなっていかない。まず自分からと思うのだが、何を成すべきか。答えはそう簡単には落ちていないところに楽しさもある。取り敢えず、今日を過ごす。


平成21年9月16日(水)

915ヘクトパスカルだそうだ。相当に減圧された環境で、暖められた太平洋からエネルギーを吸収し、更に大型化してきている。大陸からの移動性高気圧に阻まれて太平洋を西に進んでいるが、明後日あたり、高気圧が太平洋に抜けた気圧の底を目がけて北上してくるだろう。偏西風は北を通っているから伊勢湾台風もどきの災害の可能性もありそうだ。地球環境シミュレータなどが無かった時代の予報ならこの程度の「予想」であったろう。

シミュレータに頼りすぎて大型の台風だけれども日本を直撃しそうにないし、備えなどしなくても良いだろうと思いがちだ。そんな油断が世の中に満ちていないだろうか。ありとあらゆる場面で油断しきった結果がバブル経済の破綻だろうし、バブル崩壊なんて関係ないと油断していて無職になった方々は相当に多いのではないか。満足かそれとも悲劇か、そんな世の中を嘲笑うかの如くに、南太平洋上の台風の目がこちらを見つめている。

台風は平面上のイベントではなく、垂直方向に1万メートルも立ち上がった天と地を結ぶ恐怖の大魔王だ。その目の中に飛び込んで台風の状況を直接観察する部隊もいるわけで、とても人間業ではないし、どうしてそこまでしないといかんのか、不思議に思う。気象コントロールなどという天空の操作は爆発的な災害の後には正しいことのように思われるが、災害は「人間にとっての都合の良い解釈」だということを忘れてはならない。地球誕生以来、地表は時々刻々とその姿を変えていて、地球自身は災害などとは思っていない。大地が変動するところに無理矢理生活している人間が悪いのだ。

いよいよ自民党政権が消滅する。政権担当と言えば自民党であった。それがついに変化する。トップが変わって何かをしてくれるだろうと期待する前に、自らが厳しい現実に身を曝し、厳しい方向に人生の舵を切っていくことが重要だ。遙か彼方の915ヘクトパスカルの台風からの微風も感じないが、しかしそれは必ずやってくる。やってくると思って活動していれば憂いなし。少し楽を仕様かなと思う前に、半歩前に出る。身を守るのはその半歩だ。


平成21年9月14日(月)

近年はネットで何処までも仕事が追いかけてきて、何かの目的のための出張であったとしても割り込みが平気で入ってきて、締め切りがどうだとかこうだとか脅迫してくる。本務として出かけているわけであるから、本来はその業務を完遂すれば良く、追いかけ回されてまで為さねばならぬものは無いはずである。ところが日本の企業らしく、何処までも追いかけてきて気分を害させ本務遂行に支障を来すよう雇用側が努力する。こんな馬鹿なことを繰り返すから日本企業は崩壊の一途をたどる。

書類の山は諦めるとしても、ストーカー行為は極めて気分が悪い。出先で解決できないことは明々白々で、何のための出張届けかと呆れかえる。誰かが代わりが出来るという状況が組織の当たり前の姿であり、それが為されないことが、雑務の一極集中を生み、トータルとして組織力減退に繋がっていることにいい加減に気づけよと言いたい。

電気エネルギーを多量に利用するネットという仕組みは、人間に厳しいだけではなく地球にもきつい存在であることは間違いなかろう。即決即断出来る範囲の仕事の配信だけならまだしも、どう考えても一週間は根を詰めてやるべき仕事だろうと言うことでさえ、「月曜の朝までね」なんて日曜の夜にメールが入ってくる。最近は馬鹿馬鹿しくなってそのような依頼は全部断って、月曜の朝に「おまえとは二度と仕事はしないから」と言い放って終わることにしている。極めて気分が良い。

週末は台風が接近してくる。予定していた山行きは中止だ。寝転がって読書をすることにする。読書は秋に限る。


平成21年9月7日(月)

近年、あまりの多忙故に秋の学会に参加できないことが多かった。今年は例年以上に多忙ではあるのだが、まぁ、周りの方々にいろいろお願いして都塵から抜け出すこととした。このまま帰ってこなくて良いというのが最良の選択肢ではあるのだがなかなかそうもいかず。週末には名古屋に戻ることとなる。その間、余程の緊急事態ででも無い限りメール等には返事をしないので悪しからず。携帯電話番号をご存じの方はそのご利用を。それでは。


平成21年9月4日(金)

週末である。最近、突然かつ強引なアポが多い。世の中の状況を実感する。全てに余裕がないのだ。予測不可能性というか、月末になれば激しい倒産か解雇が待っている昨今、長期を見通していつ誰と会って打ち合わせなんて暢気な事は言っていられないのだろう。学会関連も萎んでいるらしく講演者を集めるのに必死らしい。うっかり「仕方ないですね、良いですよ」なんて言おうものなら突然メールで「原稿は明後日までです」なんて無言で送ってくる。全てが締め切り間際、締め切り過ぎで動いている感じを受ける。

鶴舞大学も御同様で、来週の会議の出席依頼もまだ来ない。どうせ来たって応物で不在だからどうでも良いけれど、欠席届くらいは出したいとは思っている。かく言う小生も来週からの出張届けをまだ出していない。出そう出そうと思っているのだが、着座すると直ぐに電話、来客、メール・・何も出来ない。こんな職場辞めてやる!と思うのだが、恐らく何処に行っても同じだろうから諦めている。

人から何かを言われる、指示をされるのを待っているだけなら猫で十分だ。これからの世の中に不要な人材で、直ちに意識改革を求める。指示が正しいかどうか疑わしいし、何かを生み出そうともがき苦しんでいる人間にとっては邪魔でしかない。しかし日本中で暗記の転写こそ「おりこうさん」としてきた教育の中で、西欧型の間違っていても個人志向重視への転換は、多くの指導者と勝手に思っている輩にとっても厳しい状況だろう。こんな時に思考型の仕事を振ってみると、その人間と今後も付き合うべきかどうかが見えてきて面白い。

経済界のお偉いさんにとっては、今、景気は上向き掛けていて、経済発展に空白を作ってはいけないと言うほど上調子の状況なのだそうだ。NHKを見ているとそんなあんぽんたんが出てきて呆然とする。そんな暢気親爺を取材しているNHKの不見識にも吐き気がする。暗い話をすると周りが暗くなるなんて気遣いをする時期はとっくに過ぎている。攻め手企業は確かに上調子だが、それはどんな時期でも上調子だ。それは思考型の企業であり人間だからだ。何をしたら良いですかではなく、「こう考えてこんな選択肢を得て、その中でこうやったらこんな結果がでてしまったのですが、これはこう解釈して、これだけの可能性を見いだしたので、その中でこれが最優先事項と考えたのでこう進めればよいと思うのですがどうですか」という会話のみ有効だ。ほんのわずかな進捗報告など、思考の上に成り立つ計画遂行中には不要だ。新発見があり進路変更が最も相応しい選択肢と成った場合は、同様の思考結果を討論すれば宜しい。それ以外は今後無視していくのでそのつもりで。


平成21年9月3日(木)

電脳に対する欲求が減少してかなりの時間が経つ。シャープがそれっぽい機械を出してくるらしいが、今の時代の電脳にしてはお粗末な感を拭えない。そもそも電脳はメモ帳であり情報収集機器であり、検索機能であり、肌身離さぬが故に電脳である。ここまで無駄に携帯電話の機能が進化してきている今、旧来の延長を今のハードで作りました的な機械では「おたく」は満足しない。だまされない。電脳への失望感は大きい。

今なら、少なくとも健康管理機能は必要だ。機械の両サイドにセンサを搭載し、脂肪率から血圧、運動量まで推定して出してくるとか、持ち歩きの振動から万歩計の機能を有するとか、MEMSセンサ等々、小さく軽くそして安く搭載出来るハードは多々あろう。画像OCRだってCMOSセンサが高精細になってきているが故に実現可能だろう。レシート程度の紙情報を取り込むイメージセンサがあっても良いかもしれないし、レシートのあり方と連動して、QRコード付きのレシートサービスを実現して、青色申告を容易にするとか、いろんな可能性が携帯電脳にはまだまだあるはずだ。生活スタイルを変えていくメカニズムは、エレクトロニクスの得意とするところだろう。当たり前なんだけど、ちょっと不便を解決できてこそ携帯電脳の真骨頂だ。ゲームで時間を消費させるばかりが脳ではない。

今朝、NHKでポメラがプチ流行だと出ていたことから久しぶりに電脳について考えたのだが、勿論、メモに特化することは間違いではないし、おもしろい。しかしその機能だけなら、あの大きなハードは必要ない。大きいというのは厚さ方向のこと。液晶パネル、キーボードの厚さがあれば十分なはずで、電池なら携帯電話のものを流用などして薄さを実現すれば宜しい。単機能が売りの機械に○○の機能が無いから駄目とは言わない。言う奴は無視すればよい。今の機能のままで半分の厚さになったらきっと購入する。ニーズなんてそんなもんだ。ものづくりで「あとちょっと」を妥協すると売れる物も売れない。

いつの頃からかそんなものづくりが日本中にはびこっているのだと感じる。暗記イコール大学合格、イエスイコール上司のお気に入りなんて社会を作り上げてきた日本の末路がここにある。税金の無駄遣いも、適当な仕事に適当な支払いをしておけば一票が入るという仕組みを自民党が作り上げ、それに国民が乗っかってきた結果だ。仕事が無くなったと政治家に責任を押しつける前に、自分がやってきたいい加減な仕事を反省しろ。とことん丁寧に。まず、その心がけから日本が始まる。大変に決まっている。しかしやらないともっと悲惨なことになる。今がどん底ではない。


平成21年9月2日(水)

長所と短所と書けば、人の性質というか自己分析みたいなものを思い浮かべる。短気が短所とすると、裏返せば集中して即断即決が出来るということなのかもしれない。他人のことを考えないということなら、裏返せば自分のことだけは逃げ道作りも含めてしっかりやっているという事なのだろう。俗に人の短所を長所と思えと言われるが、例えば後者の「自分の事はしっかりやっている」他人のことを気にしない人は本当にしっかりやっているのか?やっている気になっているだけだと感じる。だから短所に見えるのだ。自分さえ良ければ周りはどうなっても良いという輩は、所詮は何もやっていないのだ。周囲の成長を伴わない個人の力量増加などたかがしれている。

材料の研究をしていると、疲労というのは構造欠陥の生成を伴うことが判る。鉄線などを繰り返し折り曲げ伸ばし続けると折れてしまう。人の精神構造にも疲労は蓄積されいつかは折れる。これが「切れる」ということなのだと判る。判るから人にストレスを与えないようにするにはどうしたらよいのか考える。考えられない輩と出会うと疲労蓄積の一助となる。そのままだとこちらは折れてしまうから、なんとか気遣いを促すのだが、先にも書いた三つ子の魂百まで論者としてはもの凄い無駄を感じる。精神的無駄はこれまたストレスの発生源であって、『もうどうでもいいや』と逃げ道を探してしまう。直ぐに確認を求める者、抜け駆けリッチな輩に対する小生の対応は確実に『もうどうでもいいや』となっているはずだ。意識してそうしている。そうしないとこちらが折れる。

聖者ならきっと『もうどうでもいいや』などとは思わないはずで、どんな短所と感じるところとも上手に付き合っていけるのだろうが、こちとら聖者でもなんでもないので自分最優先人間さんとはお付き合いは願い下げだ。しかしながら人の世は自分の都合を人に押しつけることによって成立していることを考えると、多少のことならば融通を付ける必要があろう。これは我慢の範疇であって、短所を長所として捉え人と付き合うという事ではない。あくまでも我慢なのであってストレスリッチとなるためのきっかけでしかない。

それにしても積極的自分本位という立場に立てる人間は、どんな育ち方、生き方をしてきたのだろうと少しだけ興味がある。人間が何処から来て何処へ行くのかというエンジニアにとって極めて重要な命題の解決の一つの糸口があるような気がするのだ。ヨーロッパでは平均失業率が10%に届く勢いだという。日本でも似たようなものだろう。精神的満足を得られる仕事を得て、額に汗する為にはそれなりの仕事が必要なのだが、自動車という無限の裾野を持った産業構造が倒れた今ではあるが、その次にくるのも人間という生命体の精神の延長にあるに違いないのだ。(これが違っていたら、それはそれで考える)自分に心地良くないことから学ぶことは多い。単なる便利・不便ではなく、快・不快からものづくりの世を眺めてみるのもあながち間違いではないと感じる今日この頃であります。


2009年8月31日 月曜

イタチの最後ッペではないが、言ったことをやれるもんならやってみろという麻生「現」総理の、22時25分頃のTVインタビューへの返答には呆れかえる。何に呆れかえるのかと言えば、「この人を総理に選んだ人達が居る」ということに呆れかえる。とは言うものの、鳩山さんだって、元々は自民党の人達だったわけだから、自民党の悪い点を知っているのだから、その点をひっくり返して、国民の声が、すなわち、選挙の結果が税金の使い道に直結する政治をして頂きたいものだ。

官僚政治が批判されているわけだが、官僚の皆様そのものが「馬鹿」な訳では決してない。多くのそのポジションの皆さんの優秀さは論を待たない。問題は組織形態であって国民の声を反映していると考えられる衆議院選挙の結果が政治に反映されないことが問題であるのだ。自公民が出来なかったことは、即ち、ちゃんと勉強している人達に太刀打ちできなかったということだ。民主党が勝ったと言っても、日本の政治の形態が、明治政府以来の堅牢な状況から変化するかどうかは全く不明瞭だ。

300議席は厳しかろうなぁと思っていたら、何と何と、単独で308なのだそうだ。逆小泉選挙とでも言いましょうか、最近の日本人の極端に揺れる姿が出たかなといったところか。世襲議員の代表者が小泉さんのところというのも日本人的かな。何を考えているのかさっぱり判らない。競争と言うことが悪いこととは思わないが、スタートラインが異なる人達を競争状況に追い込んではフェアな戦いとは成らない。

これから何がどう変わるのか想像できないが、ものづくりの中心に自動車がある以上、仕事は減るだろうし景気だって現状基調でしょう。インターネットだって必要なものとは限らないし、パソコンだって必須な物ではない。自公が作ってきた政治の現場と国民生活は、結局の所、金のばらまきと国民の堕落だ。そしてそれを求めたのは国民の側にあったということを忘れてはならないし、責任は全部国民にあったことを政治家に転嫁してはいかんのだ。今回、民主党を選択したことで、何が起こってもそれは国民の選択だ。しっかりと見届けなければならない。


2009年8月28日 金曜

一日にが凄まじく長い。その割には一週間があっという間に過ぎてしまう。人間の感覚というものはいい加減なものだ。何を為したかの評価が客観的でなければならないのは、こんな所に理由があろう。機械的になろうとすればする程に多くの物が見えてきてしまって、マルチタスクで進行する結果、肉体を遙かに超えた仕事をこなすことになる。気がつくとふらふらで、終バスに向かって突っ走る自分が居る。多くの日本人がこんな風に、誰かの為に何かを成し遂げようとしているのだろうけれど、それにしては一億総貧乏みたいな国で情けない。どこだかの外人社長が辞任して「日本人